ブログ

2016年12月23日

過去や未来は錯覚

皆さんは大抵、現在を基準に過去や未来があるという概念で暮らしています。
誰がというわけでもなく文明自体がその直線時間を絶対視していて、言語とはその概念に則った意思疎通手段であるため「無時間」の概念を言葉で説明するということに私は尋常でない難しさを感じています。ですから少なくともここ数百年、生身の肉体を有していながら無時間を解することができる人は、テレパシーや第六感と言われるようなものを通じてそれを感じ取れる、ごく僅かな人のみに限られたことでしょう。しかももどかしいことに、それを上手く伝える術はなかったと憶測されます。
ところが21世紀に入った今は、その感覚を有する人が結構大勢いるのではないかと私は考えるため、一見は無反応だとしても「そうそう、それ感じる!」と共感する人が出てくるのではないかという予想から、この文章を書いています。

それこそ直線時間に囚われている象徴的な言葉に「歴史」という単語がありますが、長い歴史の中で今メジャーである時間概念がまかり通っている文明はかなり特殊なのではないかと私は考えます。それは幼少期から漠然と感じていたことでしたが、今年の夏、私が意識不明となっている間に複数の自分を認識できたことで確信に至りました。それは、この文明下で肉体を有する立場で表現すると「私は過去にも未来にも様々な場所で肉体をもって同時に存在していた」となります。

少し強引な喩えですが「手元にある映像ソフトで、数百時間収録の映画をいつでも鑑賞可能な状態になった」みたいなことです。それは短編作品集。それら作品の中で自分は様々な役で様々な場所に出演しているのです。

 

ところが役に入り込んで演じていると、その時代や場所や人間関係などの設定状況が全てであるとすっかり勘違いしてしまうのです。1時間後に収録されている自分は来世。

 

3時間前に収録されている自分は前前前世!となります(笑)

 

でも実は、生まれ変わりの歴史は未来の分も含めて全部同時に手元にあります。

 

しかも全作品がリンクしており、過去の分も含めていつでも修正編集可能なんです!

 

自分がネクラにしていたら作品全編で暗~い役回りだろうし、充足感溢れる笑顔を振りまいているなら、勇気や喜びを与える役が多くなることでしょう。

 

 

直線時間が錯覚だということ、この喩えで少しは伝わりましたでしょうか。

 

感想などございましたら、下部クリックで遠慮なくコメントください。

2016年12月18日

肉体の操縦

人の本質が肉体ではなく意識体であるならば、おおざっぱに言えば意識体にとっては肉体人間一人の誕生から肉体死までがその肉体の操縦期間だということになります。

 

ここで現代人の多くが誤解しやすいのが、肉体の有無にかかわらず意識体が存在するのはもちろんのこと、ひとつの肉体に対してひとつの意識体という割り振りではないということです。

 

 

意識体は時空に縛られることなく融通無碍。

 

制限だらけの肉体と比較するのもナンセンスな話ですが、意識体の方がエネルギーとして断然巨大なのです。

 

あなたの本質からしてみたら一人の肉体人間はほんの一部です。

 

部分でありながらも確実に全体へと影響を及ぼす独創的で唯一無二の存在、それが肉体を持つ人間です。

 

意識を大木に喩えるなら肉体は末端の枝葉であり、毎年必ず朽ち落ちてしまう葉が、繁っている間に幹や根を理解することは不可能でしょう。

 

ですから樹齢何千年の幹や根の性質を垣間見ることができた末端の葉、すなわち一肉体人間が意識体の本質を覗いた場合は、どうしても「神・仏・キリスト・菩薩・天使・宇宙人がどう言った…」等々、その人固有のフィルターがかかってしまいますし、非物質世界を説明する上での宿命でもある、抽象的でいか様にも解釈が可能な表現になってしまいがちなのです。

 

私はそれを、ここでは「意識体」と呼んでいます。つまり皆さんがそれぞれの呼び方をする宗教的な固有名詞や宇宙人を、全部ひっくるめて異次元の意識体としています。

 

その意識体が肉体に宿った状態で教えを説いたために、その肉体固有名詞が生き神様として記録に残っているケースも含まれます。

 

その偉大だとされるも誰かも、あなたが忌み嫌う誰かも、もとを辿ればすべてが自分の本質なのです。

 

この辺りは十代の私でも納得できた概念ですが、それだけでは腑に落ちないことがありました。

 

それは、本質が意識体であるはずの肉体生物が、なぜにここまで機械的な性質を有しているのか?です。

食事を一切必要としない人が実在しても、植物の光合成のように非物質を物質化するプロセスを経ています。

 

摂取するのが仮に酸素でなくとも、肉体は必ず呼吸を必要としています。DNAをはじめとして各器官の機能を知るにつけ、肉体にはマシンと思える特性があるのは事実なのです。そして今年、私の肉体は修復不可能だろうとされる大トラブルを起こし、以前よりもかなりの低スペックでかろうじて活動しているのはお伝えしている通りです。

 

そして、そんな非常事態だからこそ、たまたま経験することとなった意識体⇔肉体システムの不具合があったのです!

 

倒れた後の私の肉体が、まるで機能不全のマシンのようで違和感があることは以前にも述べました。

 

それは実際にマシンであると認識したからだ、という意味でもあります。

 

そうです、人間の本質は意識体であることには揺るぎない確信を得ましたが、肉体はある意味マシンだったと捉えられる事象が起きたのです。

 

救急搬送された当日、私は歩行→四股の自由→喋り→聴力の順で機能を失い「よりによって、俺は息子の誕生予定日に他界することになりそう。

 

突然で申し訳ないけど、長期間患うこともなくついに肉体から自由になれる時が来たようだ。感謝…」これは意識が遠のいて行く直前の私の想いでした。話せないながらも、ギリギリまで複合的要素を絡めて思考できていたのです。

 

ところが私の肉体は医師の予想に反して完全な心肺停止状態には陥らず、数日後には意識が戻ったのだそうです。

 

医師に言わせれば「統計上、良い意味ですこぶる確率の低い事が起こった」という話でした。

 

現代の医療現場では、体を揺さぶって話しかけると反応がある等をもって「意識が戻った」としているようです。

 

ところがそこから10日以上もの間、私の記憶には全くないのに私が発したとされる言葉を、後日聞かされることとなります。

マシンのようにYES/NO方式で反応するだけで、思慮に欠けた言葉を命令口調でわめく私の姿を目の当たりにした妻は「あれはあなたではなかった」と今でも話しています。

 

その時の私の肉体はどういう状態だったのでしょうか。

コンピューターでいうなら肉体がハードウェア、意識体はソフトウェアです。

 

今回の私はハードの根幹部分が壊れたので、有無を言わせずソフトも機能しなくなりました。

 

そのハードウェアの様子を診たエンジニア達は経験上からも「これは致命的ダメージだし、残念ながら修理のしようもない」と予測したのだが、しばらくして突然、勝手にリセットがかかったというわけです。

 

そこで「滅多にないことですが、元通りとはいかないまでもまだ使えます」みたいな(笑)

ハードだけ見ると既に復旧したようですが、そこから以前と同じオペレーションシステムなりアプリケーションソフトなりを読み込んでかつてのように機能させるのには、もうひと手間ふた手間要るのです。

 

機能チェックのためのサンプルデータが反応していた状態だっただけで、それは私という個性の意識体ではなかったのです。

 

というわけで、赤ちゃんはもちろんのこと老人施設や精神科病棟なんかにも、肉体がこのような状態の人が結構たくさんいらっしゃると思うんですよね。

 

本人の意識本体がインストールされていない状態とでも言いましょうか…この事を理解できれば、現代医療と霊性の融合が新たな道を開くと感じるのは私だけではないでしょう。

 

2016年12月17日

自分の肉体はいくつあるのか?

皆さんは「輪廻転生」とか「過去生・未来生」などの言葉でイメージするものがあるでしょう。これについては、瞑想や夢見を熟達させると芽生えてくる、時空を超える感覚とでもいうものがあります。私も夢や瞑想を通じて感じてはいましたが、今年、この身体が意識不明の重体に陥ったからこそ奥深く分け入ることができた異次元体験で、確信に至ったそれを説明してみます。

多くの人が絶対的であると信じている肉体。今回の生を授かってから特定の名前で呼ばれているその身体は、非物質である本当の自分自身の一部でしかありません。つまり、霊魂などと言われる『意識体』が法人だとすれば、『肉体』は現場の第一線で活躍している作業員です。会社経営に携わる社長や重役が現場に出ることは稀だからといって、現場作業員を蔑ろにしているような会社はやがて問題が噴出して法人の維持が困難になるのと同じで、精神的な事ばかりを重要視して肉体を軽視していては、物質的身体を通じてしか成り立たない意識体成長システムは維持できなくなります。よって肉体メンテナンスは意識体にとっても必要不可欠な重要事項です。
そして過去でも未来でも様々な現場で仕事をしている作業員ひとりひとりの誰もが会社業績を左右し得る重大な存在なのですが、残念ながら会社全体にまでは想いが及ばない人もいて、そのような人は自分の現場環境や待遇に対する不満等をあれこれ指摘することはあっても、他の現場で努力している人の存在すら知らないのです。

いち肉体が自分の全てだと考えている人と、その何千何万倍の意識体が自分の本体であることを理解している人とでは、想像を絶するような価値観の相違があります。自分が罰せられない範囲で如何に奪い続けて長生きできるのか…そのことだけが人生の目的(経済社会の牽引者)の場合と、人類みな兄弟どころか全ての動植物をはじめ鉱物も細菌も、視えない何かも含めて生命としての表現形態が異なるだけで、みんな自分と同じであり自分の一部である…この宇宙をそう認識している人まで、現文明のあらゆる問題は、このあまりにも個人差の大きい認識ギャップに起因していると私は考えます。

その鍵を握るのは、今の物質文明社会を構成する皆さんが、肉体(物質)と意識体(非物質)との関係性を理解できるかどうか?だと私は思うのです。
その関係性の詳細については、また次回に投稿します。

2016年12月10日

夢と現実

みなさん、「夢」という言葉、とても興味深いと感じませんか? 

睡眠中に見るのも夢ですし、とても叶いそうもない物事などにも夢という言葉が使われたりしますね。後者の場合、どの程度までを夢とするのかは人によって随分と幅があるのだと思います。現代日本人でありながら「一回の人生で5千人の異性と交わって1万人の子を設けたい」というならば誰にとっても夢で終わるでしょうが、「いつか深く解り合える一人の異性と親密になった結果、子宝に恵まれるのかも」という想いならば、それは「既成事実」「当然」「目標」「期待」「予感」「幻想」等々、いろんな捉え方をする人がいますし、それこそ夢見ている人もいますよね。夢は夢でも悪夢と感じている人だっているでしょう(笑)。

 今回、私がこの話題から入ったのは、みなさんが日常的に使っている「夢」という言葉には「現実味がない」「実感がない」というようなニュアンスが多分に含まれているのではないかと思うからです。しかし、今から私が説明を試みる「夢」の話は上述の多数派からすると【夢=現実】もしくは【夢>現実】みたいな、少数派とされてしまうお話です。

 私は幼児の頃からほぼ毎夜、夢を見ていました。当時の私は今のような語彙や表現力を有していませんから、その異世界のことを親にも説明できませんでした。
内容的に説明しづらかったのもあります。例えばそのひとつが、夢の世界の入り際には数パターンの現象が伴っていたことです。瞼を閉じると球体をベースにした幾何学模様のサイズと形状が変化して行く映像が見えてくることや、瞼を開けていた場合には自分が地下深くに沈んで行くみたいに天井の照明器具が徐々に遠ざかって小さくなり、音も遠ざかって行くこと。
そして何よりも夢の内容です。今でも憶えているのですが、仮の家族である肉親ではなく、真の家族が迎えに来てくれ、「バレてしまったのなら仕方がない」とでもいう雰囲気で、まだ幼い自分を実の両親が見送ってくれていたシーンがありました。そのとき両親は、なぜか水の噴出し続けているホースを手にしていました。

何をもって肉親が「仮の家族」で、迎えに来たのが「真の家族」だと感じたのか? その真の家族の風貌はどうしても思い出せないにもかかわらず「夢の世界の人達こそが本当の自分の仲間だ」と確信してしまったのです。小さな子供なので睡眠時間が長い上に内容に連日継続性があったということも大きな要因でしょう。両親を偽者だと考えるくらいですから、幼稚園や小学校の先生や生徒は基本、自分とは別の種類の生命体だと考えていました。

そう考える決定的な材料もありました。私にとって現実世界より真実味のある夢の世界…その夢を、睡眠中に「見ない」「全く憶えていない」「ただ真っ暗」などと語る人が多かったのです。大人になるにつれて唯物主義の刷り込みが進みますから、徐々にそういう人が増えてくるのは致しかたないにしても、そういった人達は、幼児が半日眠っている間、いったい何をしているのかを不思議に思わないのでしょうか。心臓の鼓動も呼吸も休まず続けていて、眠っている間に怪我や病気が回復したり肉体が成長したりするのは、本当に物質的な栄養だけで出来得ることでしょうか。

 人は肉体生物でもありますが、本質は非物質の情報生命体である!というのが私の見解です。「肉体」に対して「霊魂」という位置づけはなんとなくわかる…という方ならば、「夢」の世界との関連性にも注意を向けることの大切さに気付くはずです。今でも肉体死のことを「永眠」と言うではありませんか。

今年の夏、私は今人生で最も深遠な夢を見たのです。一時は危篤だったため連続100時間単位の眠りです。肉体死に至るかどうかなんて、本人にとっては瑣末な事に感じるほどの壮大でリアルな異次元の意識世界…

私は長年「夢」というものについて、敢えて学術的なアプローチは採らず自分なりに探求してきましたが、この経験を機に大きな進展をみたと感じています。
長くなってしまったので、続きはまた後日に試みます。
最後までお読みくださってありがとうございます。

 

2016年12月05日

地球人の起源

私の肉体が生死を彷徨っている間、異次元にて活発な意識活動(その渦中にいる私には疑いようのないリアル体験でしたが)をしていたことを前述しました。

 

複数の時代や地域で同時展開していた私の人生の中のひとつに、21世紀地球文明からしたら未来と感じられる社会にも私は暮らしていました。

 

あくまでも認識できた複数にわたる人生ヴァージョンのひとつでしかないのですが、今回はそのひとつの中の更に一部を説明してみようと思います。

 

そこでは誰も飲食や排泄をしていません。

 

その代わり定期的に、巨大なスーパーにも病院にも見えるような所に行って液体をチャージします。

 

色とりどりのカートリッジのような物を並べて「今回はこれとそれの組み合わせにする」という感じでチョイスします。それぞれの液体には用途や効能らしきことが謳われているのですが、一時的にはどれを選択しても問題ないようでした。

 

今風に言えば各メーカーが競ってその商品?食品?エナジー液?をPRしていて、私が「その組み合わせはよろしくないでしょ」と感じたカートリッジの組み合わせを注入した人が調子良さそうになった様子を見て、その意外さに私が驚いているシーンもありました。口から摂取していないのは確実でしたが点滴や注射をしていた記憶もなく、その注入方法は自然すぎて意識していなかったという感じです。

 

支払いのようなこともしていませんでした。まるでマシンのようですよね?人工知能車が定期的に無料ガソリンスタンドに寄るようなものでしょうか…笑

 

沢山ある異次元記憶の中から、なぜ私がこれについて触れたのかといいますと、今回の後遺症で最も辛いものに複視という症状があり、不便さもさることながらその不思議さに我ながら呆れているからです。

 

左右の眼球(レンズ)が捉えた視覚情報を脳が統合調整できないため、視界が常に二重になっているのです。

つまり制御できないまま右目と左目が同時に独立して機能しているということなのですが、人や車が多い場所ではどれが本物か判らず危険なのです。

 

片目ならば二重映像にはならないのですが、やっと歩けるようになった程度でラジオ体操なんて難しくてとても無理!という赤ちゃん状態である今の私にとって、片目での移動や作業も平衡感や距離感がつかめないためかなり厳しいのです。

 

かといって常時泥酔しているかのような視界は頭痛や嘔吐につながりますから、両眼の瞼を開いたままでもいかに片目ずつの視覚に意識を向けられるか!という変なトレーニングもしています(笑)

 

何が呆れるほど不思議なのかといいますと、私が仮に映画「スターウォーズ」に出てくるC-3POなら、頭部に強い衝撃が加わった結果このような故障を引き起こすという事は解せるのですが、はたして生身の人間の肉体とは何なのでしょう。

このような障害に陥る自然生物が他にもいるのでしょうか?

 
全身のシビレや痛みに加えた肉体諸感覚の鈍さも手伝って、自分の身体が異物のように感じられるのです。

 

運転していた自分の乗物で多箇所同時に不具合が発生し、辛うじて完全停止を免れ最低限の機能が残された…そんな比喩になりましょうか。

 

バイオテクノロジーの暴走は、研究者がその種の誤解に及んでしまうのも仕方がないと思えてしまう機械的数学的特性が肉体生物にはあるからなのでしょう。

 

学校で教えられる「種の起源」や「進化論」に対して、私が直感的に違和感を覚えたのは事実でしたし、今でも疑わしく思っています。

 

だからといって、某神様なり某宇宙人が地球人類を創造したというような特定の説を支持しているわけでもありません。

 

「気にしなくてもきっと死ねばわかることだろう、しかもそう遠くない時期に」なんて考えて気軽に流すようにしていたのですが、突如不便な身体になったのをきっかけに否が応でも生きながら考えさせられているのが近況です(笑)。

 

何者がどのように創造したのかは別にして、「三次元肉体地球人は被創造物であっても、人の本質は非物質(意識)である!」というところまでは確信に至っているのが今の私です。残りの余生で「肉体を創造したのは○○である!」…というところまで探究は進むのでしょうか? 

それにしても、くれぐれも注意しなければならないのは「人の本質が肉体(物質)である」と勘違いしないことです。

 

現状の日本で、その辺りをどう考えるのかは個人の自由なのですけど、「人間は非物質存在などではなく単なる物質である」と定義している人に、「そのように考えて定義しているアナタという存在の本質が脳などの肉片だと、どうして信じられるのですか?」と逆に問うてみたいものです。

 

私にとって、その思想こそが奇抜すぎですから~(笑)。

2016年11月27日

八月中旬、私の肉体は脳幹出血による意識不明の重体に陥っていましたが、その間、非物質の私は言葉では上手く説明できない意識世界を旅していました。

 

そこには時空の制限がないため、複数の自分があらゆる地域に同時存在しており、過去形・現在形・未来形の言語では表すことのできない、時間という概念が通じない世界だったのです。

 

そこでも肉体や物質が実在しているというリアルな感覚があったのですが、時空制限のあるこっちの肉体物質世界に再び意識が戻ってきた後、こちら側の視点からすれば、あちら側は非物質世界です。

 

言語をはじめとするツールでコミュニケーションを取っているこっちの世界に意識の重点を戻した今の状態でも思うところが多々あり、今日はその一部でしかありませんが表現を試みようと思います。

 

「幸せの秘訣は自分と他人とを比較しないこと」というような言葉、よく聞きますよね。

 

これは前提として大切なことです。人の幸せのカタチは実に様々です。

 

競争社会に埋没して生きている人には酷な話ですが、他人との比較が自分の人生に真の幸せをもたらすことなど、ほぼありませんでしょうから。

 

ところが「ありのままの今の自分」に対して「ピーク時の過去の自分」「希望的観測で想定していたはずの今の自分」との比較は、皆さん無意識的に結構やってしまっているものなのです。

 これではせっかく他人との比較をやめてハッピーなるはずの自分が、相変わらず「自分はダメだなぁ…」というようなネガティブ思考に囚われ続けることになってしまいかねません。

 

これを振り切るコツは、直線的時系列に縛られた思考をしないことです。「今を生きる」等の言葉もよく目にすると思いますが、そこには簡単でない時間概念の転換が含まれているのです。

 

 皆さんが「自分」を定義する場合、一般常識的には過去の記憶から引っ張り出してきた材料を総括して「よって自分はこんな人間である」と考えるのが普通でしょう。

つまり「過去の自分」が「今の自分」であると錯覚しているのが一般常識的な自己定義です。実際、社会ではそれを求められ、応じる必要がある場面も多々あることでしょう。

 

いわゆる学歴や資格などの肩書きにはじまり、諸々の成功体験、失敗体験、好き嫌い、得意なこと、苦手なこと、トラウマ、思い込み、勘違い…等々、誰だっていろいろありますが、作用した感情フィルターによってそれぞれの印象に濃淡があって当然でして、故に周りからすれば「それは偏りすぎているのでは?」という具合で、自慢でも自虐でも、過去の特定の何かに囚われた自己像を固持している方がたくさんいらっしゃいます。

 

反対に、明日でも来週でも来月でも来年でも老後でも、未来に起こるかもしれない何かを心配しすぎてはいませんか? 

 

あるいは妄想だけ逞しくしていながら、そこへの到達には必要だと判っているにもかかわらず怠っている何かはありませんか?

 

 常に「今この瞬間に意識をフォーカスする」という生き方を邪魔するのは、他人だけではなく、過去の自分、未来を想定している自分の概念だったりもするということです。

 

即ち直線時間に基づく概念は「今ここ」に意識を集中させることを難しくしています。

 

や猫などのペット、人間でも赤ちゃんを見ていれば解りますが、昨日を悔やむことも明日を心配することもなく、常に今を生きていて無邪気そのものです。

 

だからといって私は「時系列を無視しろ」と言っているわけではありません。それでは社会人一般として生活して行けなくなってしまいます。

今の瞬間だけに生きる… それは時間の存在しない意識世界に足を踏み入れることを意味します。

 

少なくとも子供の頃には誰にでもあったであろう「時の経つのも忘れて…」という状態です。

 

偶然にせよ意図したにせよ、その境地に達した人は「社会不適合者、病人」等の扱いを受けているケースも多いため、社会常識である直線時間概念とのきちんとした使い分けが必須だと思うのです。

私は意識不明状態を彷徨った末に肉体の意識が戻ってからも、痺れてばかりの全身が痛くてほぼ動かせない…にもかかわらず、倒れる前の身体と比較してあれこれ考えることはせず、将来を憂慮するような余裕すらなかったため、常に今の状態から少しでも良くするため目の前のリハビリに全力を尽くすことに集中できました。

 

「かつてはああだったのに…」「今頃はこうしてるはずだったのに…」といった「今ここ」ではない自分に意識を奪われることなく「ありのままの今」に集中してきた数ヶ月の累積結果として、一時はベッドから車椅子までの移動に難儀していた自分の身体であったのが、歩いて新幹線移動して人前で話ができるところまで回復できたのです。

 

どれがホンモノの自分でどれがニセモノの自分というわけでもないのですが、昔から「己自身こそが最大の敵」なんて言われるだけあって、なかなか一筋縄では行かない「今を生きる」の話でした。

 

まだまだお伝えしたいことは沢山ありますので、続きはまた後日に。

 

もし感想などあれば下記【問い合わせ】をクリックでお気軽にメール、またはFacebookにてコメントやメッセージしてくださると嬉しいです。

 

言葉で表現しがたいことを、どのようにすれば伝えられるのかを模索中でして、現時点でどのくらい伝わっているのかの参考になるからです。

 

宜しくお願い致します。

 

2016年11月21日

名古屋講演の簡易レポート

19日(土)、私が監修でお手伝いした真名圭史氏著【非物質ガイドとの探索・三部作】コラボ講演会は、おかげさまで無事に終了しました。

 

名古屋の皆さんはもちろんのこと、大阪、奈良、新潟、東京等からもお集まりいただいた皆さま、誠にありがとうございました。

 

著作内でも、ディープな内容を淡々と異次元から降ろして語る真名氏の言葉に、私、監修である石井や編集の江口さんが補足説明を添える形での展開を試みましたが「それでも、もっと理解を深めたい」とお越しくださった皆様に、より卑近な詳細実例を挙げての解説で「腑に落ちた」との感想もいただけ、感無量でございます。

 

以後も、より深い非物質の智慧をもっとわかりやすく解説できる手法を模索しながら切磋琢磨して行く考えです。

 

恥ずかしながら、私自身の数ヶ月前の致命的状況から諦めずにここまで立ち直れた経緯の中に、皆さんへ勇気や希望を与える材料が含まれていたようで、誰もがそれを可能にする考え方や行動指針を皆さまとシェアできる機会をこれからも積極的に創っていこうと思います。

 

外見からは判らずとも、全身の痺れや痛み、感覚の鈍さ、視界の錯乱等の後遺症はまだ残っているため、医療業界からすれば奇跡とされる植物状態からの完全復活を目指して肉体的にも弛まぬ精進を続ける所存です。

 

2016年10月06日

お詫び

私、ノウイング・イノベーション代表:石井が、息子の誕生した8/11に予期せぬ脳幹出血に倒れて9月末まで入院していたため、9/26に予定していた「第6回・高次元波動体験会」は延期とさせていただきました。

 

申し訳ございませんでした。

只今、復帰に向けてリハビリ中ですので、ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちくださるよう、お願い申し上げます。

 

皆さん物心つく頃には当然のように習得して、無意識でこなしている二足歩行をはじめとする身体諸動作ですが、大人になってからそれを意識的に身につけるのは実に大変で根気の要ることでして、理学療法士等のサポートを受けての熱心な訓練を重ね、やっと独立歩行が可能となりました。

 

まさに「失って初めて解るありがたさ」ですね!

赤ちゃんの気分です。

倒れる前の身体能力にはとても及ばず、現状ではまだまだ運動神経の超鈍くて手先が超不器用な人でして、復調に向けての努力は弛むことなく現在も進行中です。

 

幸い、思考能力には損傷がなかったため、今回得ることができた体験を踏まえ、より高質な講話や執筆活動に邁進して行く所存です

お騒がせして関係者にはご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした。そしてありがとうございます。

これからも改めて宜しくお願い致します。

 

2016年07月28日

いろんな人が存在する意義

「一般的な社会」の枠には収まらない人々と、その捉え方について考えさせられる事件が大々的に報道されています。

 

知的障碍者として生まれてきた二歳下の弟を持つ兄として、私もこのテーマについては小学生の頃から考えざるを得ない環境でした。

 

かく言う私自身も、現在の地球の中の日本という国における多数派の常識や慣習には必ずしも従わない、お上からしたら学校教育洗脳に失敗した規格外の人であり続けています(笑)。

 

自分が成人して母の話をよく聞けるようになってから、私は弟の存在意義の大きさに改めて気付かされました。

 

予想だにしないまさかの次男の誕生に当惑した母は、最初の数年間「この子を殺して私も一緒に死のう…」と何度も真剣に考えたそう。

 

それでもその都度思い留まり、訪れた現実をありのままに受け入れて肯定的に振舞うことで母は更に大きな愛情や寛容性とユーモアを培ったのだと思います。

 

そのような子供を人目につかせぬようコソコソすることも一切なく、常に堂々と連れて外出。

 

「手をつなぐ親の会」とやらの相談員などにも積極的に参画していました。

親がそんな具合ですから、私にとっても全く恥ずかしいことではなく何の躊躇もなしに弟と共に外出し、そんな弟の話をどこでも平気でしてきました。

 

同時に、怖いモノを見るような目で見たり、見ても見ないフリをする人達の存在にも気付きました。

 

経済的な事を含め物理的な負荷があるのは事実ですが、愛・勇気・受容・忍耐…等々の金銭には代えられない宝を与えてくれた家庭環境に、今の私はとても感謝しています。

 

この社会の在りように絶望した若い頃から私に定期的に襲い掛かる強烈な自殺願望を抑止してくれたのも、弟の創造してくれたこの家庭環境でした。

母は60歳を過ぎてから「もう充分に人生を堪能できたから、いつ死んでもいい」などとこぼすようになり、実際に病死という形で66歳で他界しました。母子家庭で生まれ育った母は、自分が母となってからも学びが濃縮された人生でしたから、卒業も少し早かったみたいです。

さて、ここで視野を広げて心身の機能がどうであるかに関わらず、広義でのタイトル「いろんな人が存在する意義」ですが、これはもう「接する人、関わる人に気付きを与えるのが目的」で間違いない! 私はそう結論づけています。

 

人が非物質の意識状態だけで存在する場合には波長共鳴の法則が徹底しているため、自分と異なる性質を有する存在との接触は原則叶わない。

 

しかし誰もが肉体に宿って物質世界に視座を置くことで、本来の非物質世界ではありえないような波長に相違のある存在とも関わる事ができ、それが貴重な経験や学びとなるわけです。

 

これを宗教的に表現するならば「神は、そのままでは神であることを自覚すらできない。

 

例えば人間という物質次元に宿って諸々の相対的な体験を経ることで、はじめて絶対的な神性を認識できるようになる」とでも言ったらよいのでしょうか…

 

弟は何歳になっても純粋そのもの。

 

貨幣経済での取引や損得勘定の概念などを理解できるはずもなく、ただただ、スピリットとして純粋に存在し続けることで「人とは、社会とは、幸せとは、豊かさとは何なのか?」とのテーマを周りに投げかける大きな役割を果たしてくれていたのです。

 

母に遅れて他界した父が生前、弟についてポツリと語った一言がありました。

「アイツは神様だ」・・・  今でも私の心の奥深くに刻まれています。

私の目には、戦後の貧困から高度経済成長をひたすら駆け抜けてきた唯物主義者として映っていた父の言葉だけに、妙に印象深いのです。

 

あなたにとって一見不都合だったり迷惑だったりで「存在しない方がよい」と感じる人物、それにまつわる事象は何ですか?
そこにこそ「神のメッセージ」が込められているのかもしれませんね。

2016年07月21日

今更ながら、三島由紀夫の凄さを知りました。

三島由紀夫といえば、その名を知らない人はいないでしょう。

しかし、これほどまでに読書離れの進んだ21世紀となっては、読んだことのない人も多いのでは。

かくいう私も日本文学には皆目興味がなかったため、まともに読んだのはこれが初めてでした。

 

そのタイトルは「豊饒の海」四部作です。

きっかけは…

近頃よく通っている、40年以上現役で熱帯魚店を経営されている尊敬すべき人生の大先輩に、私が監修した「非物質ガイドとの探索」を読んでもらったのです。

 

すると、「読んでいて興味津々ながらも読み進めるのを躊躇してしまうようなところがあり、昔、三島由紀夫の【豊饒の海・四部作】に手を付けた時のことを思い出す」と言われたのです! 

 

気になって調べると、自分が幼少期頃の作品です。どんな関連性があるのかを確かめたい衝動から、この大作を10時間以上かけて読み込んだというわけです。

すると・・・2004年の小説を元に2012に映画化され、私が大いに感銘を受けて繰り返し鑑賞した「クラウドアトラス」は、この三島作品からヒントを得ているのでは?と思えるほど、感慨深くさせらされる素晴らしい内容でした。

 

直線時間軸に「肉体」を持って生きる人間と、その本質である非物質側面の「霊魂」との関係を描いているのです。

 

ベタな表現では「輪廻転生」ということになりますが、時代で変遷する社会風潮、それらに翻弄される時空に縛られた「三次元肉体人生」と「時空を超えたスピリット」とが、一見別物であるようで綿密にリンクしている様を、日本語という抽象表現に長けた言語を駆使した描写で、その理解度を読み手に委ねながらも見事に表現されているのです。

 

当時にも「映画」はあったにせよ、この壮大な世界観はまず表現できなかったでしょうし、宗教やそれまがいの団体の他には今のようなネット環境もスピリチュアルジャンルの確立もされてないわけで、小説という形で遺されているのですね。発表した時代も早すぎて、正当な評価を得るのはまだまだこれからなのではないでしょうか。

 

魂に刺激を与える作品であることは間違いなし! 霊的覚醒に繋がる刺激がお好きな方にはオススメです。

 

2016年07月02日

多彩なセンスや価値観を養うコツ

2016年も後半に突入! 

その経過スピードに驚かれている方も多いことでしょう。

 

長年、「宗教」「トンデモ話」として邪険に扱われがちであった【意識世界】に重きを置くことで、直線時間軸とは絶対的なものではなく相対的に伸縮して感じられる…つまり、直線時間とは三次元特有の「物質世界観が創出している」という最先端科学の仮説を実感しはじめている人が増えているのでは?

 

『過去も未来も同時進行している』『本来は「今」しか存在しない』等の言葉を聞いたり目にしても、大人になってからではなかなか受け容れられないものです。

 

幼少期にはそれが当たり前だったにもかかわらず、です。

 

そこで今回は、どうしてそうなってしまうのかの説明を試みます。

一般的に、中年以降ともなると皆が「近頃の若者は…」と感じる傾向になるのはナゼなのか?の解説にもなります(笑)

 

人の感性は若い時ほどフラットです。

閉じた物質世界に「赤ちゃん」として生まれてきた直後は、誕生前にいた時空を越えた意識世界での開いた感覚が残っています。

ですから乳児は皆、大人には見えないものや聴こえないものを見て聴いて、笑ったり泣いたり反応しているものです。

話が通じる頃になると大人に不都合な事は否定されはじめ、大人に好都合な事を教え込まれはじめます。

 

そんな刷り込みは「教育」の名の下での進学や、親や教師等の社会人観察を通して加速し、皆さんが成人する頃には既に洗脳がほぼ完了しています。

 

時代や地域によってまちまちですが、家庭環境や学校教育を中心に刷り込まれてきた価値観やセンスを「善し」とし、そうでないモノは「誤り・おかしい・悪」として捉えることが普通になってしまいます。

 

つまり、自分が洗脳されてきた以外の価値観を排除すべく見事な努力を継続するのです。

 

そのくせ洗脳慣れはしているため、大人になってからでも所属組織やマスコミから大量の情報シャワーを継続的に浴びると、すっかりその術中に嵌ってしまいます。

 

良くも悪くも近年の社会システムがこんなに歪んだままでもそれなりに続いてきた最大要因です。

 

それでも、たまには洗脳されない人が出てきます。

「何らかの障がいがある」「貧困で教育を受けられない」「落ちこぼれた」等の理由で規格外と見なされた人達です。

 

そんな人は本来の柔軟性を維持できるため、人生後年で大きな充実を得たり、社会変革の引き金となったりする可能性が高いのです。

 

どうでしょう。お気付きになりましたか?

常識的な大人の多くは、宇宙には無数にある美や悦びの中から、敢えて比較的醜悪な一側面だけを人生の信条とし、究極の閉じた世界観で暮らしているのです。

 

それ以外の価値を否定するためには途轍もない犠牲すら払う…その集大成が戦争です。

 

これらの愚行が肉体死後も永続する意識体を混乱に導き、更なる地上世界の混乱に寄与するという悪循環を成立させてきたのです。

 

でも、結論は至ってシンプルです。「幼心に還ることの大切さ」ですね。

 

直線時間の錯覚における多くの過去生や地球に来る前の星の記憶を思い出し…ではハードルが高すぎるかもしれませんが(笑)、今生の幼い頃の感覚を取り戻すだけでも、だいぶ世界が美しく見えるようになります。

 

誰もが、幼児期には小さな生物や植物を目にするだけでも宇宙の美や神秘を感じていたはずです。

 

常に好奇心いっぱいで一瞬一瞬が魅力に溢れ輝いていた。過去の後悔や将来への不安とは無縁、損得勘定で行動していたはずもありません。

誰かを貶めるなんて、発想すらなかったでしょう。

 

たまたま刷り込まれてしまった今の自分の価値観を否定しなくてもよいのです。

 

もっともっと多様な価値観・世界観・宇宙観、多彩な美的センスが存在することを知り、そしてそれもまた否定しないことです。そんな寛容な姿勢で生活していれば、これまでよりもしっくりくる思考や生き方が自然と見えてくるのではないでしょうか。宇宙や人の意識とは実に精妙で奥深いもの。

 

故に「そうだ、これこそが絶対唯一の真実だ!」と早合点して、短絡的に急旋回しないことも大切なのです。

2016年06月04日

何かを否定したい気持ちの正体

5/14の記事にて、己と向き合って「真に自分を理解すること」の難しさを書きました。

 

先週末のイベント中にも、たまたまこれに通じる質問が来場者から挙がったため、私も改めて感じるところがあって類似の内容で追記します。

 

長らく続いた資本主義的な主流価値観、「勝つためには何をどうする?」といった考えでの「競争」を善しとしてきた社会に適応してきたほとんどの人々は、合法である範囲内で「いかに利益を確保するのか」こそが人生においての最重要課題です。

 

しかしそこには、結果的に「敗者」や「社会的弱者」を輩出し続けるという背景も織り込み済みです。

 

そのような自覚が微かにでもありながら生産性を追い求めることを余儀なくされている大多数の人々は、自分がそのシステムに加担している罪悪感や虚無感を浮上させないため、自己を正当化したり気付かないフリをしなければならない諸々が社会生活を続けるほどに積もっていきます。

 

つまり、自分に蓋をして誤魔化しているものが多いと、そこに抵触する対象は人物であれ言葉であれ事象であれ…対象を否定もしくは回避することで、無意識的に自己の正当性を維持するのです。

 

「興味が無い」というのは全く別の話です。

 

周りに合わせて興味があるフリをすることも、これまた内面に歪みを蓄積させてしまいます。そもそも興味関心のない事柄に、わざわざ「否定」というエネルギーを注ぐ必要はないのです。

 

よって私が皆さんにお伝えしたいことは、否定したい物事が顕れたときこそ自己と向き合うチャンスだということ。

 

自分の内に有しないものは外に見えても反応のしようがないからです。

 

経営コンサルタントとして大勢の人と接してきた経験からも、私はこれに関して確信に近いものを持っています。

 

会社や上司に対し否定的な傾向が強い人ほど、最も活躍する人に豹変する可能性が大きいのです。

 

関心がなければ、否定感情も肯定感情も生まれはしないからです。無関心な人に対してあれこれ試みるという作業は、それこそ「糠に釘」。

 

難易度最上級です(笑)

 

 

アナタが自然と強く否定したくなるのは、どんな事柄や状況でしょう。実は、そこにアナタ自身の変革の鍵があるのですよ!

 

2016年05月31日

5/30 第5回「波動体験会」ご報告

昨日、無事に開催されました「異次元ツアー」の簡易レポートです。

これまでの4回は週末の夜でしたが、今回は「平日ならOKだが夕方には帰宅していたい」との多くのご要望にお応えし、正午のスタート。

 

 

会場も昼らしく、大自然を感じさせるアート空間に変更いたしました。

 

その場の雰囲気に、入場されただけで歓ばれる方も多く、和やかな雰囲気の中「真名圭史」氏の誘導で、今回も1人残らず全員に、高次元領域での体験談を語って頂けました。

 

 

自分のルーツとなる星や宇宙人の姿を目にする人がいる一方、開口一番「何も見えなかった… とても眠かった…」などと話す人がいるのはいつものこと。

 

それは、3次元空間での五感とは全く異なる高次元での体験は抽象的すぎて、慣れないうちはとても言葉で表現できないからです。

 

それでも、あの手この手で引き出せば必ず高次領域体験の証である象徴的な何かが浮き彫りとなってくるのです。

 

まず、視覚認識だけとは限りません。

 

今回も体感や声が聞こえるタイプを含めて様々なパターンがあり、それが何を意味しているのか?の謎解きサポートが私たちの役割です。

 

著しい体調不良が良化した方が今回も複数いらっしゃり、身体と意識の密接な関連を再認識できました。

 

まだまだ外が明るい閉会刻だったので時間の許す方々には残っていただき、更に突っ込んだ座談会を試みました。

 

皆さんが精妙な波動の下で楽しく貴重な体験を得て帰られる姿を目にし、以後も益々の充実を図りたいとの気持ちが募りました。

 

お越しくださった皆様、これを読んでくださる皆様、誠にありがとうございます。

次回の開催日程が決まりましたら、またこちらに告知します。楽しみにお待ちください!

 

2016年05月14日

「自分らしく…」の「自分」について

皆さん、近頃は「ありのままの自分で…」「自分らしい人生を…」などの言葉に触れる機会が多くなっていませんか? 

 

誰もが「そうだったら、とても素晴らしい!」と思える魅力的な言葉であると同時に、「そんなこと自分にはとても許されない」と、単なる「憧れフレーズ」として捉え、実生活への反映においては瞬時に却下している人も多いのではないでしょうか。

 

それが実現できない理由は、ズバリ「変化を望む一方で大きな変化を怖れている」ということ。

 

そして何より「自分という人間が何なのかを真に理解する」という作業は難しいどころか、それがきちんとできている人はごく一握りだからです。

 

むしろ「いかに【自分】を、もっと言うならば【人間】という存在を直視することを避け続けたまま、一生をやり過ごせるかどうか」という姿勢が、現代社会では主流だと思われるのです。

 

生死がセットでの人生なのに「死について深く考えたことがない」ならば、「生きることについて深く考えたことがない!」そうなるのは必然です。

 

肉体死という万人に不可避の現象をタブー視したり、「できるだけ健康で長生きできればそれでよい」などと漠然と考えているようならば、そのような精神態度で送る余生に如何ほどの魂の成長があるでしょう。

 

動物ならば、それでよいのでしょうが・・・

 

私が「意識変革コンサルタント」として貢献できること、それは「自分自身を深く知ること」のお手伝い。

 

キーワードは「記憶」です。

 

現代人の誰もが無意識に封印している「自己の記憶」を呼び戻すだけで、人生は劇的な変化を遂げます。

その手法については、私「石井数俊」が監修させていただいた『非物質ガイドとの探索』三部作にもヒントを盛り込んであります。

人は情報生命体ですから、自己の情報管理術が充実人生の鍵を握るのは当然のことなのです。

普段は潜在意識下に埋もれさせている自己の本質から引き出せる「何か」、それがたとえ僅かでも、大きな進展のきっかけとなる! 

 

その、引き出せる「何か」は人それぞれ。

人の数だけ個別対応が必要となるのが実態というわけなのです。

万人に同じく該当する「何か」が明確にあるならば、情報入手がこれだけ容易な昨今では、皆が「幸福この上ない自分らしい人生」を既に送れているはずです。

あいにく、外部から入手できる情報が真に自分の必要とする情報であることは稀なのです。

そこを錯覚して行動に移すことが、新たな歪みを生じさせてしまいます。

人とは多面性を有するなんとも複雑な生き物で、「自分らしい」と思い込んで選択したものがミスチョイスであるケースが多いという意味です。

事件・事故・病気・経済困窮・死別…等の人生転機の訪れを待たずとも、自発的な意志によって「真の自分を知る」きっかけを創ることは可能です。

そうして逃げることなくきちんと自分自身と向き合い、自分という存在を肯定視できるようになったその時から、他者評価に左右されることのない、ブレのない充実人生が始まるのです。

 

 

2016年03月18日

多次元的自己(過去生・未来生・非物質)活用ワークショップご報告

3/12(土)に開催しましたワークショップのご報告です。

 

会場は空や宇宙をテーマとしたギャラリー。

 

床座や椅子、参加者思い思いの好きな姿勢にてリラックスしていただき、まずは時間や空間などの次元概念の解説を行います。

 

これからやろうとする内容を理性的に解してモヤモヤがとれた後、多次元ナビゲーター「真名圭史」氏が皆さんを瞑想状態に誘います。

 

日常の肉体自己意識のままでは、百年千年単位での自分の過去や未来を認識できないからです。

 

自らの意識の視座を高次元に移行すれば、誰もが自分の過去生や未来生を認識できます。

各参加者それぞれが特定の人生に意識をフォーカスすることを繰り返し、過失を犯した時や死期などに伴うその感情を客観視して受け容れてもらいます。

そのことが今の人生の意識にも大きな変化を生み、今生これからの充実度を向上させることが目的です。

 

普段ならばほぼ誰も認識できない過去と未来の自分の人生を参加者が1人残らず認識でき、その意識が今生に与えている影響や修正ポイントなどをアドバイスさせていただくことで、おかげさまで参加者全員が納得されるとても意義深いワークショップとなりました。ありがとうございます。

この文章をお読みになってのご感想や疑問点、リクエストなど、何かございましたら遠慮なくお問い合わせ下さい。ご返答すると同時に、以後のイベント内容検討の参考にさせていただきます。

 

過去の投稿

  • 2024年10月 (2)
  • 2024年9月 (1)
  • 2024年8月 (2)
  • 2024年7月 (1)
  • 2024年6月 (2)
  • 2024年5月 (8)
  • 2024年4月 (8)
  • 2024年3月 (1)
  • 2023年6月 (2)
  • 2023年5月 (1)
  • 2023年1月 (2)
  • 2022年12月 (3)
  • 2022年11月 (3)
  • 2022年10月 (20)
  • 2022年9月 (13)
  • 2022年8月 (21)
  • 2022年7月 (12)
  • 2022年6月 (23)
  • 2022年5月 (16)
  • 2022年4月 (26)
  • 2022年3月 (17)
  • 2022年2月 (22)
  • 2022年1月 (14)
  • 2021年12月 (7)
  • 2021年11月 (17)
  • 2021年10月 (16)
  • 2021年9月 (26)
  • 2021年8月 (40)
  • 2021年7月 (37)
  • 2021年6月 (38)
  • 2021年5月 (39)
  • 2021年4月 (38)
  • 2021年3月 (28)
  • 2021年2月 (36)
  • 2021年1月 (32)
  • 2020年12月 (30)
  • 2020年11月 (21)
  • 2020年10月 (10)
  • 2020年9月 (9)
  • 2020年5月 (1)
  • 2020年3月 (8)
  • 2020年2月 (8)
  • 2020年1月 (7)
  • 2019年12月 (8)
  • 2019年11月 (17)
  • 2019年10月 (19)
  • 2019年9月 (30)
  • 2019年8月 (29)
  • 2017年5月 (6)
  • 2017年4月 (5)
  • 2017年3月 (6)
  • 2017年2月 (6)
  • 2017年1月 (4)
  • 2016年12月 (7)
  • 2016年11月 (2)
  • 2016年10月 (1)
  • 2016年7月 (3)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (2)
  • 2016年3月 (1)