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2019年08月05日

地球の変動に順応する

私は子供の頃から地球という星の生物の生態にとても興味があったのですが、大人になってからは哺乳類等の臭いに耐えられなくなってしまい、魚の鑑賞をライフスタイルとしています。(魚だって水から出せば臭いますが!)

 

三年前の脳幹出血で一度は視力もほぼ失ってしまったのですが、1~2年かけて徐々に視力が回復してきたので今では小学生のように新鮮な気持ちで水槽を楽しんでいます。身体の感覚も失ってしまったため、事故なく安全にできる小魚やイモリ等が中心です。

 

手間ひまかけて世話をすると、数百円で売られている数cmの魚であっても愛着が湧いてきて大事に育ててしまうのだから不思議なものです。今日その水槽の魚が一匹屍骸となって周りのエサになっていました。一日以上その部屋はクーラーをかけずにいたので、水温も三十何度となって軽く茹で上がってしまったよう(笑)。このような事を、魚ではなくて人で経験しているケースもあるわけですから、本当にシャレにならない気候ですね。

 

私が小学生だった頃には気温35度なんてとても考えられなかったです。熱帯魚さえ暑くて死んでしまう気候に日本がなるなんて…

 

地球は生きています。特定地域の気温だけではなく、数十年しか生きない肉体の人間にはとても考えられないような事がこれからも次々と起こってくるのでしょう。何が起こっても、物質肉体を有していたいのなら順応するしかありませんね!

 

2019年08月04日

変貌の時

何千年も前から語り継がれている「創造の神」「破壊の神」というような話を皆さん目にしたことがあるでしょう。「破壊が無ければ創造もない」というような話も聞いたことがあるでしょう。まさに近年のこの世の展開はその現れなのです。

 

「原子力発電は後世の人にとっても地球環境にとっても危険である」といくら叫ばれていても、日本では今の肉体人生がそれらの利権で潤っている権力者たちが強行的に進めてきました。ついに甚大な被害がこの島国で発生しても隠したり誤魔化したりで、利権者の強硬姿勢は変わらず。

 

政治も経済も文明の全てが、たった数十年の自分の肉体人生を有利に運びたい権力者の欲によってコントロールされてきました。地球はもうそれすら維持できない危機的状況に陥っています。創造の前の破壊が始まっているのです。

 

便宜的に言うのなら、既存のあらゆるしくみが一旦機能しなくなるように「破壊の神」が躍進を始めたということですね。文明として新たな創造の準備を進めると同時に破壊が一足先に実践されるのです。

 

ミクロでは一見悲惨な状況に見える何事も、マクロでは創造の為の破壊が進行しているのだということを皆さん心に留めておきましょう。肉体人生にとっては長期戦となりますから、いちいち一喜一憂していては心も身体も壊れてしまいますよ!

 

2019年08月03日

肉体とは無関係でどうありたいのか

パラレルワールドなのか近い未来なのかは解りませんが、私の別の身体は最近とても強い揺れを体感しているようで、この世界の身体でも揺れを遠隔感知してしまいます。

 

唯物主義者ならば、全ての終わりを意味すると考えている肉体死。だからその引き金となる地震などの天災を怖れて騒ぐことは解るのですが、スピリチュアルな発信を普段していながら「大難を小難に」とか、なだめるような事を言っている人を見かけると「アンタ本当は唯物主義者でしょ!」とか感じてしまいます(笑)。

 

物質肉体で誕生すれば100%肉体死を迎えるのです。そのプロセスを経験するために非物質のアナタはこの物質世界に出てきたのです。死因は病気であろうと事故であろうと自然災害であろうと自殺だろうが他殺だろうが大した問題ではないのです。多くは色んな時代に色んな死に方を経験します。

 

今地震等の災害で死者が多数出た場合、問題となるのは肉体死の心の準備ができていないが故に彷徨う人で溢れかえってしまうことです。溢れた人はこの世の人にイタズラしたりということもあって、あの世もこの世も混乱してしまうわけです。

 

災害に遭わなくても物質肉体は確実に使用済みとなるわけですので、非物質としてどうありたいのかを生きているうちに決めておくことです。

 

2019年08月03日

ヘアーカット

昨日、一年ぶりに知人の美容院でカットしてきました。

 

一年も放置していると、さすがに伸びすぎた髪が口に入ってしまい食事も難しくなります。これではほぼホームレス(笑)。

 

元々髪型など気にしたこともないので、セットもトリートメントもしないしドライヤーも使わないのですが、短くすると寝癖がついたりで手入れが必要になるので、近年はやや長めにしています。

 

昨年末から、3年前の脳幹損傷で内蔵機能がデタラメだった事が原因でフラフラで歩けなくなったので入院したりと、ゴタゴタしていて美容院に行こうとは思いつきもしませんでした。ここ数日のあまりの暑さから思い立って「そういえば、あの超多忙なオーナー兼トップスタイリストは元気かなぁ」と電話したら「休日だけど出勤するよ~」とすぐにアポが入ったのです。

 

彼とは数年前のあるセミナーで初めて一緒になったのですが、顔が私と似ているし話も合うのでその頃から彼の店に何度か通う仲となりました。新しい隠れヘアサロンを半年前に成城に開いたのですが、なんとその場所を「無料の霊的サロンとして石井さんが使ってくれていいよ~」とか嬉しい事を言ってくれるのです。私はペンネームで「セイジョウ石井」と謳っているので出来過ぎた話です!笑

 

なんとか歩けるようになったし手足の感覚も戻ってきたので、やっと人並な事を気にする余裕が出たのかもしれません。身体の不具合を理由に消極的になることからもそろそろ卒業ですね。

 

皆様もこの異常な暑さで体調を崩さぬようご留意ください。

 

2017年05月26日

自分の道

「自分の道を歩む人生」なんて類の言葉に憧れやカッコよさを抱く傾向が生れたのは割と最近のことかと思われます…もちろん数ヶ月や数年ではありませんが(笑)。

自分の道を他の誰かがどうこうしてくれるとするならば、それは大人になるまでの「子供」とされている期間が主であって、この文明でのあらゆる時代と場所を平均するならその期間はせいぜい十数年でしょう。現在の日本では全員ではないにせよ、老後とされる年齢になっても「国が・政府が・企業が・自治体が」場合によっては「親が!」道を用意してくれるのか、くれないのかが重要な論点となっているような状況です。

最も普遍的パターンであったはずの「子供」は全くあてにしていないという世帯も多いようですし、私もそれを批判するつもりは毛頭ありません。他ならぬ私の肉体生命も、間違いなく身近な人々の支えがあってこそ今日まで続いているのですから。元々その傾向はありましたが近頃は特に、朝目覚めると「随分と不具合の多い身体となってはいるものの、自分はまだ肉体を維持して生かされているのか・・・」しみじみそう感じて不思議でならない毎日です。

「道」にも色々あります。幹線道路・国道・県道・私道・あぜ道・獣道… 左上の写真は、聞いた話ですと「よく氾濫していた川を工事して歩行者専用の緑道にした」という、近所にある私の散歩道です。日中は猫が挨拶に出てくる以外は歩く人もまばらで、リハビリ歩行訓練には丁度良いのです。

20世紀後半での日本人の人生の選択は、どんなに渋滞していようと幹線道路に人気が集中していたわけです。そのルートに乗ること自体が目的であって、慢性渋滞の太い道に入れることを誇りに思える精神構造をした人が圧倒的に多かったのです。しかし今世紀に入ると、明確で具体的な目的地に向かうのには幹線道路では辿り着けないので裏道を探して見つけたり「どうせ無目的のドライブならば…」と道自体が楽しいコースを選ぶ人が増えてきたのでしょう。

細くてまだ整備されていない道を試行錯誤して進むことが不安で怖い人もいれば、それがワクワク楽しくて仕方がない人もいますから、どの道を行くのも正誤や優劣の問題ではありません。

ところがこれらとは異なる概念があります。それは「道なき道を行く・道を切り拓く」というものです。断念して引き返すリスクたっぷりの選択(笑)。費やす時間もお金も労力もダントツです。良くも悪くも社会が大きく変わる時は、これを成し得た人が絡んだ場合です。人知れずそのように生きた先人も大勢いたことでしょう。この世に名は残らずも功績は遺して他界した方々です。

つまり私が伝えたいのは「自分の道・我が道」などと言っても、その人オリジナルの道などハナから存在しないのです。それを開通した人、そこを後から通った人々がいるから「道」なのです(笑)。そしてどんな道であろうと、選択した道を進んでみないことには何もわかりません。進んでみたらその人にとっては思いのほか快適な道だったのか、あるいは別の道を探したくなるのか、それとも行き止まりで選択の余地なくルート逆行を迫られるのか…

そこまで来てはじめて「どんなに分が悪くても自分で道を切り拓く他はない、道を拓こう!」そう決断する場面が訪れるのです。情報過多時代に生きていると、いきなり自分で簡単に道が拓けるものと勘違いする人も出てくるのです。幹線道路の渋滞情報は簡単に入手できますが、脇道や田舎道の情報は入手困難な上、内容が歪曲されている場合が多い…という背景も後押ししているのでしょう。

 

2017年05月23日

植物に学ぶ

「植物は凄い!」しみじみそう感じるようになったのは、私が高校生になってから。

小学校でアサガオなどの成長を観察記録していた憶えがありますが、小さくて食事をしなくてもちゃんと日々変化して花を咲かせる自然の不思議を実感できたものの、おそらく少年の皆がそうであるように、観察しているその場での動きが速くて面白い昆虫や魚や鳥や動物の方に常に関心が向いていました。

生まれ育ったのが自然の多い田舎でしたから、家の周りにも多少は草木が生い茂っているのが普通です。山も川も湖も海も近く、私はいろんな生物の営みを観察して自然から多くを学んで育ちました。

そして様々な生物を飼育してきて気付いたのです。身近に置いてもほどなく衰弱したり死んでしまう、そもそも人間の身近に置くことすら無理のある生物が多い中、自分が生れた時にはそこにあった植物が最も逞しくて強く、人間をはじめとする周りの生物に恩恵をもたらし続けているという事実に!

人間よりもはるかに偉大であろう…その樹木の繁る森を、人間の頭の毛を剃るようにして次々とハゲ山にしている人類を蔑みたい気持ちにもなりましたが、自分も木造の家に住んでいるし木製の楽器や家具も大好きだったのです。動物愛護で皮や肉を避ける生き方ならまだできますが、植物を一切食べないし活用しないという生き方は叶わないでしょう(笑)。何でも節度の問題なのです。

さて本題は、その植物に関するエネルギーです。動きはとてもゆったりとしているのに、どうしてあんなに大きく太く長く生きて行けて当たり前なんでしょう。人類が手を入れたりとかで環境が激変しなければ、樹齢数百数千年どころか数万年単位だってあるだろう、というのが私の考えです。学校で教わった「光合成・水・地中の養分」だけで説明できるはずもない圧倒的なエネルギー…それは非物質だからです。

工業製品となってからでも長年感じられる木材の生命力に比べたら、平均的現代人に係わるエネルギーの非効率さといったら呆れるのを通り越して感心しちゃうほど(笑)。大量生産大量消費を目的に仕込まれた社会システムだからとはいえ、こんなにエネルギー効率を落としてまで順応できる生命体は人間を除いて他にいないでしょう。良くも悪くも、どのようにでも大きく変われるのが人類なのですね。

しかしそんな現在でもエネルギー量が枯渇寸前ではなく、そのエネルギーを外に向けようがないため内に向けている人たちが「ニート・ひきこもり」として規格外の扱いを受けていることが多いのです。あなたの家庭ではないにしても、周りにそのようなケースを見受けることが多いのではないでしょうか。来月は、そのような「人生におけるエネルギーの使い方」について【ひきもり講演】と題して平日6/14(水)と週末6/25(日)、一回ずつお話します。お問い合わせも、お気軽にどうぞ。

 

 

2017年05月18日

空間自体がエネルギー

皆さんは「エネルギー摂取」と聞いて何を思い浮かべるでしょう。

学校の授業で「たんぱく質・でんぷん・ビタミン・脂肪・酸素・燃焼」等の単語を知ることとなり、きっと多くの人にとって、それらはその後何十年経っても変わらない概念となっているでしょう。

私がこれまでに接してきた人々の中にも「朝飯も食わずに出勤(登校)してくるなんて問題外だ!」やら「もうとっくに昼過ぎだ。早く飯を食いに行かないと体がもたない!」とか「夕飯はもっとモリモリ食べないと力が出ないぞ!」といった類の価値観を半ば押し付けてくる年配の方がどこにでもいました。その度に私は「世の中、そんなすぐにガス欠でエンストしてしまう燃費の悪いマシンや、電池がすぐ空になってしまう電力ロスの大きいオモチャと同じような人ばかりではないんですよ…」と心で呟いていました(笑)。

「飢えを知らない贅沢な時代環境に生まれ育った輩の戯言だ!」そう誤解されるのもイヤですし、若くはなくて肉体を育む必要の全くない私でも、前回の食事から丸一日も経てば実際に思考内容の比率が食べる事で占められはじめます…今がまさにそんな空腹状況(笑)。だからこそ、考えたり文章を作ったりする気力が湧くのです。

人間以外の動物や魚を観察しても疑いようのない事実ですが、食物を大量摂取する行為はそこから少なくとも数時間、頭脳も含めた身体諸機能を著しく低下させます。内臓器官をはじめ肉体負荷を絶やさず大きくし続けて、心身のパフォーマンスを常に落とす努力をしている方が大勢いらっしゃるわけです。

かといって私は、数日・数週間・数ヶ月・数年と長期の不食を薦めているわけでもありません。味覚の備わった肉体を有して生きているのならば、食事が日々の楽しみであるに越したことはありません。適度な運動や睡眠や性の悦びについても似たことが言えるでしょう。

私の持論では、快適な健康生活の秘訣は物質の栄養と非物質の栄養との比率を徐々にシフトさせ、バランスさせることにあります。人間の非物質エネルギー摂取とは、俗に【呼吸】と言われているものです。花や樹木や野菜や果物、つまり植物の生命エネルギーにもヒントがあります。

昨年、脳幹出血による意識不明の重体から意識が戻っても、産まれたての赤ちゃんと同レベルからのリスタートを余儀なくされた私は、医師の「修復されることはない」との言葉通り、今でも脳幹損傷部分の傷跡は物理的にそのまま…なのにもかかわらず、寝たきりのその時から一年未満の今、普通に話したり書いたり、なんとか移動もできる程に肉体機能が回復してきているのは、明らかに物質的な栄養によるものだけではありません。

明後日は「在り方としてのヨガ」を提唱する「カオン」さんとの【呼吸】をテーマとしたコラボイベント。
そこではもう少し詳しく解説いたします。

 

2017年05月08日

昨日イベントのご報告

昨日開催されました、国立市「わとわ」での野村節子さんクリスタルボウル演奏会。

 

ゲスト参加させていただいた私は「人の生死・寿命」などについてお話をさせてもらいました。

 

まるで個人宅のリビングのようなサロンに相応しく、砕けた雰囲気の中で濃密な時間を過ごせたことを感謝します。

 

連休最終日にもかかわらずお集まりいただいた皆さん、誠にありがとうございました。

 

私まですっかりリラックスしてしまったため(笑)終盤はずっと肉体から意識が抜け気味となってしまい、切れが悪かったであろうことをここにお詫びいたします。

 

俗に言う「死後の世界を語る」というよりは「肉体死を怖れて闇雲に避けようとしたりタブー視する必要はなく【人間の生死】は宗教という閉じた世界でだけではなくて元々もっとオープンに扱われるはずのものだ」という主旨が伝わっていたなら幸いです。

 

生死セットでの人生ですから、それが「いかに生きるか」の全てを左右するのは至極当然のことなのです。

 

人と社会のあり様は、すべてこのテーマに集約されます。

これに関するメッセージを私は今後も発信し続ける所存です。

私個人に対してではなくて、この考え方が普遍的となることに賛同される方の数に比例して、物質人間社会は大きな変貌を遂げるでしょう。

 

2017年05月05日

連休はテーマパークなどの行楽地に子連れで出かける人も多いことでしょう。そこに関連して思い出すことがあったので書いてみたくなりました。

 

私が子供の頃、家族連れで賑わう遊園地などの固定施設はもちろん、近所の子供が集まる臨時の催し物などでも「お化け屋敷」が定番でした。

 

後になって考えればまさに「子供だまし」的な設営が多かったわけですが(笑)必ず入るのを楽しみにしていました。

「恐怖」というよりも「面白さ」を感じてワクワクしていた記憶があります。

 

今思えば70年代はそんなブームだったのか、幼稚園や小学校から帰ってTVを付ければ「お化け・妖怪・人造人間・超能力・魔王・魔女・悪魔」などがキーワードとなる番組を毎日のように放送していました。

 

夢での異次元旅行が日常的だったとしても、肉体で通う学校や近所にはごく普通の人間の姿ばかり(笑)。

好奇心を満たしてくれるような何かを物質世界にも大きく期待していたのだと思います。

大人になってから冷静に考えれば、肉眼で視えないはずの何かが常に見えていたり空気が振動していなくても常に音声が聞こえたりする人は、大抵が苦しんだ挙句周りにさとられて「幻視・幻聴」という精神異常のレッテルを貼られてしまうもの。

「平凡な人間しかいなくてつまらないなぁ」なんて感じながら育ったくらいの方が、健全な少年期を送るのには適切な環境だったのです。

そんな経緯から、私は思春期には非物質世界のことを「自分で見たい・聞きたい」という積極的な欲求は皆無になりました。何も慌てて死の世界に憧れなくたって、そこへは遅くとも数十年以内には「体験し放題」となるわけですからね(笑)。

 

ところが「見せられる・聞かされる」ことを拒むことは、なかなかできません。

必ずしも皆さんがイメージする手法が採られるわけではありませんから「気のせい・記憶違い」などで片付けられてしまうケースがほとんどですが、それらは誰にでも起きている事です。典型的な私の実例をひとつ挙げてみましょう。

 

もう十年以上前のことですが、末期ガンで入院していた母はご多分に漏れず放射線を浴びまくって投薬されまくって肉体死を待つばかりでした。元々睡眠中の夢の世界が大の楽しみだった母は、健康だった60歳頃から既に「老いてまでは長生きしたくない」と常々言っていました。そこから数年後、最期は辛かったみたいでしたがある意味願いが叶ったのです。

 

その頃の私は起業でバタバタして事務所兼一人住居の状態となっていたある日、深夜3時頃に人の気配がしたので身体を起こしました。

すると私がいつも座っている事務椅子の前に母がしっかりと二本の足で立ち、心配そうに無言でこちらを覗き込んでいたのです。エントランスオートロックも部屋の鍵も何の役にも立たない(笑)!私は何度もまばたきをしたり首を振ったりしましたが、母の姿は数十秒間そのままでした。

 

物理法則の常識を超えていたとしても、それが幻ではないことを確認した私は再び横になって瞼を閉じ、その現象の意味を考えたのでした。

 

「俗に言う『枕元に立つ』ってヤツかな。だとすると?いずれにせよ明るくなってから連絡を取るしか…」そして日中病院に行くと、相変わらず寝たきりですが母は呼吸をしています。深夜に独り外出できるはずもありません。忍術用語で言ったら「分身の術」を使った(笑)。

 

もう会話も出来ない容態なのに、そうまでして長男に伝えたいメッセージがあったわけです。

 

母が気持ちよく他界することを邪魔しているであろうこの世の気がかりを解消すべく、私はそれまでの人生で最も大きな行動を起こしました。

 

そこには更に数点の大きな変化が伴いました。

 

数ヵ月後、私が実際に目にした母の死に顔はとても穏やかでした。

これが、むかしむかしの物語だとしますと、冒頭の「お化け屋敷」によく出てくるネタにもなりそうですね(笑)。

 

私がこの件で学んだこと。

 

肉体にどんなハンディがあろうと、物理的に何の障害があろうと、もっと言えば肉体があろうとなかろうと、メッセージを送る方法はいろいろあるのです。

 

どんな形であれ伝えられたら無視しないで、できる範囲で対処することが大切です。周りを説得する必要もありません。それを「非科学的」だとか「作り話」だとか「夢」だ「幻」だと、言いたい人には言わせておけばいいのです。

私が昨年、脳幹出血で重体となった後に肉体意識が戻った時点では、視る事も起き上がる事も食べる事も話す事もほとんどできなかったのです。

 

「これで死ななかったのは奇跡です」などと医師に言われても、猛烈なしびれと痛みに襲われている私には何の慰めにもなりません。

 

それでも決して絶望的にはならず、毎日欠かさず健常な肉体に戻す訓練を積んできました。

半年以上を経た今、一見身体に問題のなさそうな人にまでは戻れています。

マニュアル化できるハウツーものではないので説明するのが簡単ではないのですが、それらを可能にしている、根底となる考え方をお伝えしています。

 

2017年05月04日

時間の縛りから抜け出る

世間一般では「死後の世界があるのか?ないのか?」という言い方をしますよね。

 

あるいは「生まれてくる前の記憶」という言い方もします。現代社会に生きればそのように洗脳されてしまうのですから仕方がないのですが、誕生から肉体死を迎えるまで直線時間が絶対だと思い込んで生きている人にとっては、生死も時間の概念でしか捉えられなくなってしまうわけなのです。

 

肉体死が生命の終了である、という前提で様々なビジネスが成り立っているのが医療をはじめとする経済社会のしくみです。肉体死を迎えた後にも何かが存在していることを謳って経済に組み込まれているのが宗教です。

私は「前」とか「後」という概念そのものが錯覚であるとお伝えしています。

氏名で呼ばれて食事排泄をして維持しているその肉体がある今でも、あなたの本質は非物質の存在です。それは肉体があってもなくても無関係に存在するから本質なのです。

私はどんな医療関係者や宗教関係者や各学会の関係者が語ってきたであろう事とも少し異なる話を、わかりやすくお伝えするよう工夫しています。

臨死体験と呼ばれるもの、実は誰にとっても当たり前の経験なのですが、その体験学習の内容を肉体で堂々と発表している人は少ないようです。

なぜなら肉体の健康状態がそこまで回復しない場合が多いのと、このような内容を人前で話す機会を設けることを積極的にする人は元々ほとんどいないから(笑)。

というわけで、連休最終日5/7(日)に「人・意識・宇宙・時間・空間」などについてのお話をします。生きて行く上での「常識」とされているあれこれが腑に落ちないようであれば、初めて納得できる話に出会えることとなるのかもしれませんよ! 

お会いできるのを楽しみにしています。

 

2017年04月28日

室内にいながら宇宙旅行

一昨日に開催しました【第7回・高次元波動体験会】も、会場ごと高次元に移行できたようでして、おかげさまで参加者の皆さんから感動や喜びの声をいただきました。ありがとうございます。

 

今これをお読みくださっている読者の皆さんも、学校の理科の授業で習った宇宙観や社会で習った人間観から脱することができないかぎり「いったい何の戯言をほざいているんだ?」となってしまうでしょうが(笑)、それでも重ねて申し上げましょう。宇宙や人の本質は物質的な要素ではないのです。

 

東京都心部にあるビルのワンフロアに、ごく普通に電車を乗り継いで集まってくださる参加者自身がそれを体験するのですから、疑いようのない事実なのです。

 

今回も「自分が龍に乗っていた」「とても眩しい明るい光に照らされた」「銀河のような星雲を見た」「羽のある天使が複数いた」「宝の存在を示唆された」…等々、肉体は同室に居合わせているのに参加者それぞれが異なる世界に行って帰ってきました。

打ち合わせでもしてあったかのように、一部内容がリンクしてくる人も必ず出てくるのです。

 

主催である私は会場の様子も観察していますが、肉体が消えて無くなる人や眠り込んで戻ってこない人は誰も居ません。

体調が良くなる人は毎回いますが、悪くなる人は決していません。

つまり、これは休んでいる肉体とは明らかに別の自分が活動しているということを意味します。

非物質としての自分の存在を確信できる最大の利点は「必要以上に肉体死を怖れなくなる」ということでしょう。

 

人生を不安に感じる要因は、ほぼすべてが肉体死を怖れることからきているからです。

それから「物理的な制約と見えるものを克服できる可能性があるのは当然のこと」といった考え方をするのが当たり前の人生となってくるわけです。

「肉体をはじめ物質として存在することだけが、人や社会や宇宙を構成しているわけではない!」ということが、ご自身の体験から腑に落ちるのですから、そりゃそうですよね。

 

5/7野村節子さんの主催イベントでは、この辺のお話を詳しくする予定です。

 

次回で第8回となる【高次元波動体験会】は、また決まり次第おしらせいたします。お楽しみに。

 

2017年04月24日

生と死の意味

先進国であろうと発展途上国であろうと、物質的な豊かさを求めて生きているほとんどの現代人はゴマカシ人生を送らされてきました。

 

「それでも先進国と呼ぶのか?」というツッコミは別の機会にするとして、人生を晩年まで誤魔化すつもりで生まれてくる人はいないでしょう。

 

物質界に生まれてくると親や先生など、既に人生を誤魔化して生きている人々に、大人と同じようなゴマカシ人生を送るよう強要されるのですから、子供にとってこればかりは致しかたありません。

 

このような内容の文章を書いていられる私は「人生に向き合ってはならない」という洗脳から逃れられたほうだったというわけですが、おかげで常に周りから疎まれる子供でした。

社会人であった周りの大人たちは「死ぬとはこういうこと。よってこのように生きる」といった考えに向き合うことなく逃げ続けたゴマカシ人生を送っている…という自覚があるからこそ、私は困ったことを訊ねてくる子供だった(笑)。

 

養鶏所の鶏に大自然での本来の鶏の生き方を教えてもしょうがないし、現実的にその術もないでしょう。

 

養鶏所の鶏は、人間に肉や卵を提供するためだけに生まれて成長させられ…それ以外に目的がないわけですから、子供にでもわかる理屈です。

 

それが鶏でなくても、肉や卵ではなく乳でも内臓でも角でも毛でも皮でも、同じことです。

ところが、人間は死亡しても日本の場合なら骨の粉になるまで強火で焼かれるだけです。

私は冠婚葬祭ビジネスが盛んな地域で育ちました。葬儀と結婚式を同じ会社が扱っているというインパクトも手伝って(笑)それらを生業にしている人々が存在していることもわかっていました。

「毎日それを仕事にしている人もいるくらいなのに、人間の死というものをどうして大人は子供に語ろうとしないのか? それどころか、死に関心を示すだけでも大人が嫌がるのはナゼ…?」

中学生になってから気付いたこと。

それは大人たちが隠していたわけではなかったのです。

「知らない・答えられない」だけだったんですね(笑)。

今になって思えば、どんな大人も自分と同じくそこに疑問に感じていた時期はあったのでしょう。

ただ疑問は疑問のまま放置しておいて、少なくとも現役時代はそこに触れずに誤魔化して生きている人が大多数であることが、良くも悪くも現代の経済社会を成立させているわけです。

同じく中学生になって新たに発見したことがありました。

それは歴史や地理の資料を見ていてわかったことです。

同じ家畜でも「犬・牛・馬・鳩・鷹・鵜」などは、人間が殺して食したり実用品として加工する目的以外でも、きちんと躾ければ生きてるだけで何かと役に立つ存在となる!という事実です。そこで俯瞰してみればわかること…

「とある存在」からしてみたら一般的な「人間」にもまさにそんな一面がある、ということです。

中学生以降の自分にとっては、その「とある存在」が何なのかを突き止めたい!という欲求が最も人生を左右してきました。それが非物質世界探求へとつながってきているのです。

「陰謀論」というジャンル?があります。

人間が馬や鷹を飼育することは、本来は自由に走ったり飛んだりできる馬や鷹にとって、はたして人間の陰謀に嵌ったということになるのか?…これは実に興味深い問題です。

 

犬をはじめとして人間に役立つことが生き甲斐であるかのように思える生物が、実際に存在します。

 

それが人間であった場合でも「あなたは誰にも何の役にも立たなくてよいから、どうぞ好きなように生きてください」という状況が一生続いたとして「これこそが理想の人生だ!」と感じられる人はほぼいないでしょう。

 

どれだけ物資に恵まれていたとしても、長く続くほどにかなり虚しくて辛い生活だと思うのです。

物質的な世のしくみをどんなに知ったところで、心の豊かさや幸せが付随してくるわけではありません。

 

また非物質のしくみだけを探求したところで、肉体物質生活がすぐに向上するわけでもありません。

 

非物質である意識存在でありながら物質肉体を有する人間にとって、どちらも重要なのです。

 

物質と非物質、双方の特性を上手く活かしたこれからの生き方を、臨死体験も通して得てきた私なりの人生論としてお伝えします。

 

2017年04月20日

霊的な力

「スゴ~イ。私、霊能力なんてまるでないんですよぉ」とか、あっさり言う人にかぎって日々が霊的な現象で溢れていたりするもの(笑)…当たり前すぎて、意識もしていないのですね。

 

人とは、自分にはないものに憧れるのです。

短距離でも長距離でも「走るのが苦手」なんて話ができている時点で、階段の昇降を含めて徒歩で移動できるだけの健康な足腰を備えているわけなのです。

 

よくある例ですと、「証拠はなくても、それが嘘だとわかる」「なんとなく、相手が隠し事をしている気がする」「なぜか、そうなるような予感がある」…等々。

 

これらはいわば全部「霊能力」なのですね。一般的に女性のほうが発達しています。

 

唯物主義の現代社会は「万人に同じ結果をもたらす物理法則のみが真実である」という、私からしてみたらカルト宗教に毒された人々(笑)を中心に成り立っています。

 

普通に「生霊」という言葉があるくらいですから、他界した人はもちろん肉体をもって暮らしていても、誰もが霊的な能力を発揮していたり影響を受けていることは火を見るよりも明らかなのです。

 

物質至上主義で言うところの「科学的根拠」などというものを示すことはできないが故、人間にとって本当に大切な事はほとんどがタブー視されていたり、闇に葬られているのです。

 

そんなあって当然の非物質能力を、たとえ僅かであっても物質肉体である手足を動かすように活用できたのなら、現代人の悩みや苦しみの大半は消えてしまうでしょう。

 

重ねて言いますが、私が話しているのは「現代人の誰にでも普通に備わっている自然な非物質能力」のことです。

 

これ見よがしな超能力・霊能力の事ではありません!決して他人を驚かせることが狙いではありません。

 

本人も周りも穏やかに豊かになることで人生をより充実させることが目的。周りの人に詳しく説明しなければ「あの人最近ついてるよねぇ」と言われるくらいの非物質活用術です。

短期的には単なる「ラッキー」で片付けられる範囲の変化であることがポイントなのです!(笑)。

真剣な話、あまり急激な変化を求めた場合、必ず大きな弊害が出てしまいます。

ラッキーは自分で創出できるのです!

 

2017年04月13日

「スピリチュアル」の誤解

もうすぐ4月も後半。

ここ数週間は何が何だかわからないほど慌ただしかったという人でも、生活のリズムのようなものが見えてくる頃でしょう。

 

新たな肩書きなり金銭報酬なりを得るため新生活をスタートした人の中には「こんなはずじゃなかった…本当にこれでよかったのだろうか?」といった想いが湧いてくることもある時期です。

 

「名誉や金銭だけを求めて頑張っていても人生ダメなのではないか?」というような疑問が持ち上がって、俗に「スピリチュアル」と呼ばれているジャンルに興味を示すようになるのかもしれません。

 

 

実は私、だいぶ以前から「スピリチュアル」という言葉を使うことに大きな抵抗を感じている一人なのです。

 

便宜上わざと使うこともありますが、できるだけ「非物質」とか「霊魂」などの言葉を選ぶようにしています。

 

 その最大の理由は、「スピリチュアル=現実的ではない」というようなニュアンスを込めて使われる場合も多い単語だからです。

 

実際に、「スピリチュアル」という言葉を多用している人の話や文章に賛同して集まっている人々の様子を見ていると、物質的な現実生活から逃避している可能性も残念ながら否定できないのですよね。

 それ故に私は長年、霊的な事柄に最大の関心を寄せていながらも、誰にとっても現実的だと思える形でサポートできるような社会との接点の持ち方を模索してきました…「経営コンサルタント」ですとか(笑)…真剣にやってきました。

 

しかしもう、そんな遠回しなことをしなくてもよいから直接的にメッセージを発信しよう!と決心しまして、近年はこんなスタイルなのです。

 

私が再三お伝えしている通り、人の本質は非物質です。

 

すなわち「万人がスピリチュアルな存在」なのであり、それが確固たる現実。全く例外はありません。

 

仮にこれを読んで懐疑的な人であっても、肉体死を迎える時にはそれを知ることとなります。

 

その時が来月なのか来年なのか数十年先なのか…時期に個人差があるだけでいずれにしてもそんなに遠い未来の話ではありませんし、肉体で感じているその「時間」でさえもスピリットには無関係なようである… これも以前からお伝えしていること。

本来の「スピリチュアル」とは、逃避でもまやかしでもなく、とても現実的で日常的な意味合いの言葉なのです。しかし、それと同時に物質である「肉体」を維持するためにも生活しているのが「人間」なのです。どちらともガチな現実!(笑)

 

逆の見方をしましょう。有名無名にかかわらず、大きな仕事を遂行できる人は皆「スピリチュアル」な法則を熟知していて、その特性を巧く活かしているということです。

 

そんな事をおくびにも出さない人がほとんどですし、本当にその自覚がない人も大勢います。

 

つまり、どこの誰から何を教わるでもなく「スピリチュアルな生き方」を実践し続けている人が、今でこそ少数派ですが常にいるということです。

 

数百年前でしたら地球上のほとんどがそういう人であったと私は感じています。

ですから私は皆さんに何も特別な事をお伝えしているつもりは毛頭ございません。

当たり前な事を当たり前に感じて生きてみませんか?とオススメしているだけです。

 

2017年04月06日

ハッキリと分かれているわけではない

新生活が始まった人にも昨年と何も変わらないと思っている人にも季節は廻って、桜が咲く新年度に入りましたね。

時空制約のある物質世界で暮らしていながらも「時間」とは、あってないようなもの。

 

時は絶対的なものだとして時計や暦を用いて生活している我々ですが、一年前がつい先日のことのようだったり遠い過去のようだったり感じるのです。

「空間」についての話をするのならば、ものすごく遠い世界だと思っていたはずが、気付けば日常的に苦もなく移動している範囲になっていたり、いつもは何気なく通っている場所がある日、途轍もなく遠い感じがするわけです。

 

絶対不変だとされている事がいかようにも感じられる、これはいったいどういう事なのでしょう?

 

それは「時間や空間とは絶対的なものではない」からです。

「物質がすべてである」としている家庭や学校と呼ばれるところで「絶対的なものである」とすり込まれただけなのです。

 

実際に、すり込まれる前のみなさんならば過去を悔やんだり未来を心配することはなかったはずです。

 

本来の人間は他の生物と同様に常に今を生きていたのです。

 

失敗も成功も、幸も不幸も、始まりも終わりもない、ただ変化する…それこそが絶対的な命なのです。 

 

 

逆に考えてみましょう。

 

悔やんでいる過去や憂いている未来がありますか?

 

言い方を替えるならば「ああしとけばよかった」とか「できることならこうしたい」といった事柄です。

 

それらは「今どうこうすることはできないから」というのが、みなさんにすり込まれた常識です。

ところが、そんな過去もかつては「今」でしたし、そうありたい未来も必ず「今」となるのです

 

。時間は絶対的な一方通行なのではなくて自由度の高いものだとしたら、過去も未来も全部「今」だということです。

巷にある願望実現系セオリーの多くはこの性質の一部分を誇大に表現したものですが、時間と空間はセットになっているため、一部の特性だけを活かそうとしてもバランスが崩れてしまい、他の部分での弊害が起きやすいのです。

 

そこで私は「物質」に対して「非物質」という区分けをしているのです。

 

しかしそれは便宜上であって、人間は物質の肉体であるかのような錯覚に陥りながらも誰もが非物質の意識をもつ、いわば「半物質」の存在です。

 

可変幅が人によって大きく異なるのです。

肉体を有しながら完全な非物質としての特性を活かす人が現在でも一部いて(それが標準の文明もある)昨今はそんな人たちが少数派なため「異常者・特殊能力者・霊能者」などと呼ばれてしまうのです。本来はそれが普通なのですが…(笑)

 

私は元々書物などの情報にあたるだけでなく、自分の変性意識状態(瞑想・夢)を活用して非物質世界の探求をしていたところ、たまたま臨死体験のように濃厚な異次元体験もが加わったのです。

 

故に実体験として、人や宇宙の本質が非物質であることを確信を持ってお伝えしているのですが、やはり日常生活における「物質と非物質のブレンド具合」とでも言いましょうか…その境界が不明瞭なだけでなく、そもそも人によってまちまちなため、画一的にお伝えする事にはどうしても限界があるのです。

 

ですから私は個別にお伝えすることを重要視しているのですが、不特定多数のみなさんにお話をする場合でも、極力、個別の解釈が可能な融通の利く言葉を選んで語るようにしています。

 

2017年03月31日

原始人

みなさんは「原始人」と聞いて何をイメージしますか?

誰でも、10歳頃までにすり込まれてしまったイメージを未だに持ち続けているのが普通でしょう。

先生、親、大人たちの話や作品や資料などから仕入れる情報を逐一疑うような子供がいたのなら、それはそれで大変ですね(笑)。みなさんは素直に信じられる子供でしたでしょうか。

 

おそらく、一般的には「原始人=まだ物質的に不便な暮らしを強いられている未開の人々」的なイメージが抱かれているのでしょう。「物が溢れて便利になること」が文明の進化だと定義している現代人ならば、当然の考えですよね。

 

歴史についてでも、宇宙に関してでも、私たちは教えてもらったのではなく「すり込まれてしまった」という表現を使うのが妥当なのです。

なぜなら「原始時代の記憶を明確に有している」とか「今回の人生で、その時代に行って確認してきた」という人の情報が元になっているわけではなく、現在は権威あるとされている(後年には悪く言われているであろう)有名人の憶測だったり、遺された物的証拠からの推測に依存しているだけだからです。

 

このサイトの読者なら、もう「物的証拠」という言葉にヒントがあることにお気付きでしょう。

そうなのです。非物質的に発達していれば当然、物質的にはシンプルとなるのです。

完全な非物質生命体ならば、恣意的に何かを残さないかぎり物的証拠はゼロとなります。

 

その場合は、昨年も説明した通り「時代・場所」といった概念すらないので、このような話自体が成立しない世界なのですが…

 

近年、常に戦争のために開発されてきた諸々の最先端テクノロジー。

仮に我々現代人の誰もが瞬間移動や重力制御ができ、テレパシーや遠隔念動力が当たり前だとしたら、今あるコンピューターやマシン類のインフラ全てが無用の長物です。

 

そもそも、大量生産大量消費を促すための金儲けを目的に破壊的愚行を繰り返すこともないでしょう。

 

 

物質肉体があっても希薄、もしくは完全非物質の生命体からしてみれば、波動の粗雑な「物質」ばかりを探求している現在主流の人々こそが「原始人」なのです!(笑)。

 

しかしその反動なのか、電子データという名の非物質が今の社会に凄い勢いで台頭してきているのです。

 

みなさん自覚のないまま…なのかもしれませんが、ここ10年程で社会がかなり非物質化しているのです。

 

これが投稿されているしくみが、まさにそれなんですよね。物質主義を謳歌したまま変化できない人間は化石となってしまう時代に突入したのでしょうか!?

 

2017年03月28日

気分が落ち込む理由

普段から寡黙な人でも、常に元気で明るい印象の人でも、そのそぶりを他人に見せるか見せないかというだけの問題で、生きていれば気分の沈むことはあります。

 

では「気分が落ち込む」とはどういうことなのでしょう。

 

毎回繰り返しのメッセージになります。

 

物質でもある肉体人間ですが、非物質のエネルギー(霊魂)が人の本質です。

それぞれが求める性質についての違いを簡単に述べるならば、肉体は「自我(エゴ)」なのに対して非物質は「慈悲(利他)」というような表現になりますでしょうか。

 

これが、物質としての種の保存を試みる肉体生物でもありながら非物質エネルギーでもある、地上人間の営みの難しさであり醍醐味でもあるのです。

 

物質文明に生きる人間には、それが妥当かどうかは別としまして「生き残るためには自分以外の存在から奪う・殺す・騙す・利用する・壊滅させる等の行為はやむを得ない。積極的にではないにせよ、生きて行く限りは万人がそのような事柄と無関係ではいられない」という考えがあります。

 

一方で、非物質エネルギーとしては「分かち合う・与える・楽しませる・喜ばせる・助ける・美を愛でる・寛大である・醜い生き方を避ける」等の欲求があります。

 

まずは自分の肉体欲求の満喫なり制御なりを経てからでしょうが、それらが自分の喜びでもあるという感性を、綺麗ごとではなくて本当に皆が心の奥底では持っています。

 つまり、現代人は常に二律背反する欲求を抱えているため、社会の在り方や人間の生き方が矛盾に満ちている!というのは誰もが感ずるところであり、仮にどちらかを充たそうとすれば、それが充たされた場合でももう片方の欲求が踏みにじられることになるのです。

よくある例ですと、子供時代に貧乏だったのをバネに、成長にするつれて「アイツは守銭奴だ」などと陰口を言われ続けても、めげずに努力して金銭的には報われたとします。

 

ところが、表面的には派手な人間関係を築いて物質的にどれだけ豪華な暮らしをしようとも、心は充たされない。そんな虚しさを埋めようと、酒や薬物やセックスに依存するようになる…。

逆パターンでは、若気の至りでカッコイイと思って「俺は金儲けのために魂を売ったりはしない」とか豪語していたのがアダとなり、寝床や食事にどうやってありつけるのか?という日々だけを重ね続け、人生を楽しむどころか心のゆとりのカケラもない毎日を送っている…。

 

その善し悪しを言いたいのではありません。

 

どんな選択をするのも各人の自由ですし「それしか選択の余地がなかった」と主張する人もいるでしょう。

 

私自身も今生はその両極端とまでは言いませんが、かなり振り幅の大きい実験的な人生を送ってきました。

 

どちらも物質界で肉体を持つが故に起きる現象です。

 

それらは経験することに意味があるのであって、結論、どちらが正しいのでも間違いでもないのです。

 

善悪や正誤とされる主流価値観が時代や場所によって変わって行くだけです。

 

その時代や地域の価値観に迎合しようが反発しようが脱出しようが無視しようが(笑)、全てが肉体を持って生きるバリエーションの中の一つなのです。

 

大量殺戮に大きく貢献した人が称賛される事もあり、虫一匹殺せない人が冤罪で極刑に処される事もある。

それが人間社会なのです。

んなゲームは「ヒトや宇宙は物質でしかない」という認識の元に非物質世界を蔑ろにするからこそ成立している…私はそう思うのです。

 

物質肉体次元を卒業してしまったらとても叶わない、次元のいくつも重なった複雑で濃密なしくみ。

 

だから謎だらけの壮大なゲームなのですが、ルールは意外とシンプルだったりするのです。

 

2017年03月19日

やればできる

年度の替わるこの時期、別れを惜しんだり出会いに胸躍らせたりと、泣いたり笑ったり忙しくされている方も多いことでしょう。
安定安心を最良だとして暮らしている人にとって、習慣化された既知に決別することは勇気の要ることであり、予想もつかない未知を思い煩うことなく次のステージに向かって積極的に歩を進める!なんて、自分にはハードルが高い…とか弱気になったりもする時期ですよね。

単なる取り越し苦労だったと思える時がすぐに訪れれば笑って済まされますが、実際に日々が「苦しい・辛い・痛い」と感じる状況に陥ってしまった場合、そうなってから「気にするな」「前向きに考えろ」「がんばれ」などと周りにアドバイスをもらったところで、「それができれば苦労しない」というのが多くの場合の実態。

 

やはり誰であっても、何がきっかけであろうと、一度穴に落ちてから抜け出すということは至難の業となってしまうのです。

ではどうすればよいのか?というと、落とし穴を察する力を身に付ければよい、となりますね。

 

誰がどの道を選択しようとも、人生どこかしらには穴が開いているものです。

 

やたらと疑い深くなったり異常に慎重になったりでは、むしろ前進できなくなってしまいますから、そこは勘違いしないで欲しいのですが、スラスラと進んでいるようでも実は一歩一歩を着実に踏みしめていれば「何かがおかしい」とすぐに気付くようになるのです。

 

「鼻がきくようになる」と言ってもよいでしょう。

 

つまりそれは同時に、隠された宝にも気付きやすくなるということです。

 

宝を見過ごしたり落とし穴に嵌ってしまう原因は、結局「浮き足立っている」からなのです。

 

それを上回る愚かな行為で「墓穴を掘る」というものもあります。世の中には、自分が落ちる穴をご丁寧に自らわざわざ掘っている人が少なからずいるのです(笑)。

 

笑っちゃいけないのでしょうが、着実に進む他はないところを一足飛びでどうこうしてやろう、と画策するが故に招く事態なのですね。

昨夏、私が肉体死の淵から何故か抜け出してきて7ヶ月が経ちました。

 

小脳損傷による寝たきりで病衣の着脱すらできなかった容態でも「まだ生きるのなら、せめて歩いて話して文字を書けるところまでは戻そう!」と勝手に決めたのですが、そうなる近道はありません。

身体を起こしてもらって車椅子に移っても数分でギブアップしていた時期。

 

飲み込みや喋りができるようになった時期。

車椅子から無理して立って転倒して大騒ぎとなっていた時期。

トイレで用が足せるようになった時期。

少しだけ歩けるようになった時期。

手すりに捕まれば階段をゆっくり昇れるようになった時期。

最近では激遅ですが降りれるようにもなりました。

自分が他界しそうだった日に生まれた息子には、毎日話しかけて赤ちゃんと一緒に舌や口を動かして発声訓練をする(笑)。

その甲斐あって滑舌はだいぶよくなりました。

まるで泥酔したかのように歪む視界と、しびれる指で打つワープロ。タイプミスだらけなのを後から修正するので何時間もかかりますが、現にこれだけ入力できています。

 

半年前はビー玉とおはじきの形状分別すらつかない皮膚感覚で、医療従事者の皆さんにはかなり厳しい推測をされていた…。

 

やればできる。

それは「今できること」を「やる」ことの積み重ねです。

今できない何かが突然できるようになる、とは考えないことです。

また、まさにその通り「突然できるようにはならないから」という理由で、簡単に諦めて投げてしまわないことです。

奇跡や幸運を祈っているだけではそれは起きませんが、着実に行動している人のところには偶然やラッキーが起こって当たり前になります。

そこには非物質の力が明確にはたらくからです。私は、そのメカニズムをあらゆる立場の人にいろんな形でお伝えしています。

その本質は、相手によって伝え方を変えなければ伝わらないからです。

人間にはそれぞれ、受け入れることのできる話の種類や範囲というものが、その時々で必ずあるからです。

 

2017年03月14日

波動の違い

人とは、多重構造をしています。

 

便宜上、図形やグラフで表すこともありますが、「氷・水・蒸気の違いを、それを知らない人にも一目瞭然の形で示してください」となれば難しいように、「肉体」という物質と「霊魂」などと呼ばれる非物質の違いだけならまだしも、例えばアストラル体・エーテル体・コーザル体などという単語を使って非物質の多重性を説明したところでイメージするものは各々で異なるでしょうし、形状など存在しないにもかかわらず、実際にはまだまだ精妙な方向へと重なりは続いているのです。

 

 ですから私は「肉体は最も粗い波動の形態であって、そこから精妙な波動に向かって連なる非物質の状態こそが人の本質である」というような表現で皆さんにお伝えしていますが、受験のように「この状態の名称を答えよ」などというのはナンセンスの極みである(笑)と考えています。

 

 確かに動物としての人間は物質肉体のスペックで決まる部分があります。

 

喰われずに喰い続けて生き残れるのか、異性の気を引いて種の保存に携われるのか…。

 

しかし人生や社会の「質」となると、非物質の要素が大きくなってきます。

 

故にどれだけ弱者から貪り続けて強大化しても、数えきれないほどの相手と性的欲求を充たしても、それだけで「充実した人生である」とか「社会に貢献できている」などとは誰も感じないわけです。

 それだけ大切なことなのにもかかわらず、多くの人が自覚できていない「非物質の自分自身」というものを、積極的に感じる機会を設けて人生のヒントを得ましょう!との趣旨で開催しているイベントが【高次元波動体験会】なのです。

 

 第7回 高次元波動体験会 4/26(水)開催決定!

次回で7回目となる【高次元波動体験会】は、「週末や夕方に掛かるとどうしても参加できないので…」との強い要望に応えて、平日の昼に開催いたします。

 これまでは、異次元体験と情報解説シェアのひと続きを2セットというプログラムでしたが、次回は1セットにして総時間を短縮、料金もお手頃に、これまで興味はあっても躊躇していたという方でも参加しやすい形態に変更しました。

 

その分1セットを深く丁寧に掘り下げますので、過去の6回と比べても体験や情報の質が劣ることはありません。

 

前回と同じく、ゲスト奏者「野村節子」さんの演奏するクリスタルボウルの波動に身を委ねて、参加者各自に異次元旅行をご堪能いただきます。

 「どういうイベントなのか、それでもまだよくわからない」という方のために更にくだけた説明をするなら、『心地よい音(周波数)の誘導によって短時間で皆さん同時に夢を見ていただき、各々の夢を分析することで、それぞれが得た情報を共有する』みたいな集いでしょうか…。

 

周りの人の非物質体験と自分の非物質体験が互いに刺激し合い、周りが発表する内容に自分が解読したい情報が含まれているため、相乗効果がとても大きいわけです。

 明らかな感動体験をされる方もいらっしゃれば、特別な意味はない単なる夢として片付けられてしまうような内容に、重要な意味が込められている場合もよくあり、私がその解説をいたします。「この夢のような体験は隠しておきたい…」との理由で発言しないでいるのも、もちろん自由ですよ!(笑)。

 

 第7回【高次元波動体験会】
日時:4/26(水)12:00~15:00(受付11:30~)

場所:アトムCSタワー7F  https://www.atomlt.com/cstower/access/
料金:¥3,000(当日受付にて)
予約:knowinginnovation@gmail.com  

会場セッテイングの都合上、人数を把握しておく必要があるため、こちらからの案内文が返信可能なアドレスからお申し込みください。

下部「問い合わせ」クリックでも大丈夫です。

(質問も大歓迎)

 


  

2017年03月05日

3/4(土)高次元波動体験会レポート

昨日3/4に開催された【第6回・高次元波動体験会】は、おかげさまでディープかつ楽しい集いとなりました。

 

会場関係者のみなさん、お集まりくださったみなさん、誠にありがとうございました。

 

野村節子さんのクリスタルボウル演奏の波動に浸ることで肉体をリラックスさせた参加者各々が、高次元波動で包まれている間に非物質状態で体験したことを発表してもらう。

 

その内容を受けて石井が解説を試みたり、疑問に思った事を質疑応答形式でみんなでシェアする…そんな2時間×2セット。

4時間もあっという間の充実のひとときでした。

 

体験をしてもらうためにはもちろん、それを語っていただくためにも、とにかくリラックスが大切。

 

せっかくお越しいただいても、緊張していては深い体験を得そこなったり発言しそびれてしまいますから、笑いをふんだんに交えての和やかな雰囲気で、見事に全参加者の感想を互いに聴くことができました。

まだまだ参加者各々の謎解きは続くでしょうから、日々の生活に張り合いや楽しみが生じてくることでしょう。

 

毎回そうですが、目を閉じているのに「龍・蛇・星・銀河・特定の色や幾何学的図形・正体不明の謎の生物」などを見る人が多く、共通したものを認識する要因を一緒に探るプロセスも楽しいものです。今回は、流れていないはずの「人の声による歌唱」を聴き取った方も多かったですね(笑)。

 

次回の第7回も、日程が決まり次第告知したいと思います。

 

石井も、有意義な時間をみなさんと共に過ごせた事がとても嬉しいです。まだ面識のない方でも、下部をクリックして遠慮なくお問い合わせください。

 

2017年03月01日

天国と地獄

宗教などで定義する天国や地獄はあの世の話です。

 

ところが生きている人間でも、辛くて苦しい状況を「○○地獄」「地獄の○○」などと普通に言います。

 

逆に、まだ生きているのに「○○天国」なんて表現もありますね。

 

さすが、今日でも「お盆」等、死者の霊をもてなすという風習が続いているだけのことはあります。

 

欧米の唯物主義医療・製薬・保険などの業界が浸透した結果、表面的には多くの人が闇雲に肉体死を避けて長生きしたがっている現代日本でも、生まれてくる人と同様に故人を尊ぶ、「あの世」と「この世」を分離させずに重ねたような価値観が根底にあるということでしょう。

 

子供の頃から何でも捕獲して飼育したがっていた私は早くから生物の生死には興味がありましたが、人間社会での死生観を意識しだしたのは中学の頃からでしょうか。

 

そのきっかけは、田舎でも高校受験というものがあったため、そこに価値を認めている人間や社会というものを不自然に感じ、色々と調べるようになったのです。

すると、宗教的概念で「死者はすぐに裁かれて天国行きか地獄行きかを決められる」的なものが多くあったのです。これでは、生きているだけで既に容疑者扱い(笑)。

 

それを象徴するかのように「懺悔」などという言葉があるのです。

これは… 
そこに意義や価値を見出せるかどうかなんて全く関係なく、自分がどんなにくだらないと思う基準でも、相手に合格・不合格を決められる受験システムそのものではないか! 

 

おまけに社会に出る際にも「就職」などと言って、同じように人間が品定めされるのが常識となっているようではありませんか!! 

高校生の頃には、天国地獄について私なりの定義ができはじめました。それは、地上で物質肉体に縛られている状態が「地獄」、肉体から自由になった非物質の状態が「天国」です(笑)。そうして探求を進めるうちにわかってきた重大事。

 

それは、地獄ゲーム(人生)は有志参加制なので、脱獄(自殺)したらルール違反です。

 

自ら望んで参加したゲームなのにもかかわらず、自分の参加経緯など、ゲームを上手く進めるための情報はゲーム終了まで原則隠されている…というのがこのゲームの究極の醍醐味。だから地獄たり得るのですね。

 

どおりで「憎まれっこ世にはばかる」だし「いい人ほど早く死ぬ」わけだ!なんて妙に納得できるじゃありませんか(笑)。

実際には「憎まれて早死にする人」も「長寿の人徳者」もいるでしょうが、「生き地獄」とはよく言ったものです。

 

ゲームを満喫できるようヤル気満々であるほど、人生は地獄絵図さながらにプログラミングされているのです!(笑)

そんな地獄ゲームに没頭している最中には思いもよらないのですが、ゲーム途中でも天国の情報にアクセスすることは反則ではないのですね。

 

しかも、実は回数無制限でヒントを常にもらっているのですが、それに気付けない人が多いだけなのです。

 

なぜなら、非物質の自分が物質肉体の自分をサポートしているから・・・・

人生のヒントをくれるのは誰でもなく、他ならぬ非物質の自分自身なのです。

 

2017年02月27日

音に秘められた力

「音って、なんて面白いんだろう!」

ほとんどを室内で過ごすのが当たり前だった幼児期、世の中のしくみなど何も気にせずに夢中になっていた音の世界。

身の周りで耳にできる自然音はもちろんのこと、ラジオやテレビから流れてくる音楽や効果音にも、私はそれこそかじり付くように興味を示していたようでした。

視覚で捉える鳥や虫の「姿」以上にその存在感を私に与えていたのは、鳥や虫の発する鳴き声や羽ばたきなどの「音」。

 

それが「音楽」ともなれば目を閉じていても様々な世界が展開するわけですから、親が絵本をパラパラめくる行為がもどかしくなるくらいです(笑)。

 

音を聴くことで、どうして映像が浮かんだり感情起伏が促されたり「畏敬の念」(当時はその表現方法が全くわからなかった不思議感覚です)が湧き起こるのだろう… 私はすっかり音楽の魅力にとりつかれてしまったのです。

 

視えないし匂わないし味もしないし掴むこともできない、物質ではない「音」の世界が確実に存在している。

 

そのことを誰もが疑わずに認めているわけです。

 

それなのに、自分の眠っている間の体験をアニメ番組の内容さながらに話しても「それはよかったねぇ」とか言うだけで、まともに取り合ってもらえません。

 

今思えば、非物質世界と物質肉体世界との関係を探求したくなった契機にもなったのでしょう。

しかし、物質ではないのに音楽だけはなぜか否定されない。「そんなに好きならピアノでも習おうか?」などと親の方から勧めてくる始末(笑)。

 

大人になってから判ったのは、生まれ育った地域が製造業の盛んな町だったため、洗濯機・冷蔵庫・テレビ・マイカー等の他に、家に「楽器」があることが唯物主義的価値観での社会ステータスでもあった… 幼児には知りようもないそんな事情もあったわけです(笑)。

 

さて大人になってからの話です。皆さんは音の可聴領域を気にしたことがありますか? 

ここでの話は機能劣化による難聴とかではなく、人間という種として聴こえている音の範囲のことです。

 

「地獄耳」なんて言葉もありますが、実は他の種に比べて人間はけっこう限られた範囲の音を頼りに生活しているのです。

 

逆に言うと、音として認識できていない周波数にも大きく影響を受けているわけです。

 

極端な例を挙げると、音がしていないはずなのにうるさくて鬱陶しいのが「耳鳴り」ですよね。

 

和音だの倍音だの数学的アプローチはさておき、小中学校で習う音楽とは、一部の偏った材料だけを大ざっぱに取り扱うものであると考えてください。

ところで、幼児だった私は見事にすぐピアノ教室をやめました(笑)。

 

練習させられる課題曲が趣味じゃなかったという事が最大の理由ですが、鍵盤で勝手に割り振られている音階を絶対としている楽器自体の特性が気に入らなかったのです。

 

その頃の自分には上手く説明できませんでしたが、例えば「ド」と「ドのシャープ」(=レのフラット)の、そのまた中間にあるはずの音が切り捨てか切り上げ扱いになっている音階のしくみや、調律師がチューニング時に基準値としている周波数にも馴染めなかったのだと、今になって思うのです。

十代になって手にしたギターでは、チューニングを自分で自由に調整できますし、奏法で弦を持ち上げたり引っ張ったりして音階を自由に操れる上、張った弦を支えるブリッジ自体が可動式の物もあるため、その機能の自由度から思春期以降はずっとギターを愛好していました。

 

そして昨年、一旦は全身が植物状態となった私の指先は、今でもゴムとスチール弦の区別がつかない触覚レベル(笑)。よって再び路線変更。

 

音階は固定でも奏者によって豊かな倍音や精妙なゆらぎを醸し出す、水晶で作られた楽器「クリスタルボウル」と、その特性を巧みに引き出す演奏者として活動している「せつこ」さんに出逢ったのです。

 

その素晴らしさは既に先月のコラボで実証済みです。一般的な音楽とは少し異なる不思議な異次元の悦びを一緒に堪能しませんか? 音楽鑑賞会ではなく、異次元体験型イベントです。

 

2017年02月26日

マンダラって何?

下の写真にある大きな野菜をご覧ください。

 

マンダラでなくても、目にして美しいと感じたり思わず目を奪われてしまう形状や色彩というものが、皆さんそれぞれにあるでしょう。

 

私はとりわけ魚・昆虫・植物等々、自然物の造形に心奪われる少年時代を経て、星の軌跡やら肉眼で確認できない雪(水)や鉱物の結晶などにも魅せられたものです。

人工物のデザインも好みは人によっていろいろですが、やはり「イイ!」と感じる物の外観には、自然物と同様の法則性のようなものが巧みに取り込まれていると思うのです。

乗物のボディデザインを生き物の形状として捉えている人も多いのでは?

 

さて、ではどうして初めて見るものであっても、特定の色や形に対して「美しい」とか「バランスが悪い」などの好き嫌いが出てくるのでしょう。

 

私がそんな考えをあれこれ巡らせていた頃に気付いたことがありました。それは例えば魚であれば、全身フォルムだけではなくて部分的なヒレやウロコ、全体でも部分でもバンド・ライン・スポットなどの模様に、その種その個体独特のパターンが認められ、ある意味数学的なその法則性に美を感じているようなのです。

 

しかし生半可に数学的な見方をすると、釣りに出かけて釣れたカレイを眺めて「両目とも常に片側を向いてるとは、なんてふざけたデザインなんだ!」と創造主にケチをつけたくもなるのです(笑)。

 

しかし自分が成長するとわかってくるのですが、数ある魚種の中にはカレイもいればヒラメもエイもいますし、ここでは割愛しますがフィボナッチ数列やら黄金比やらの数学的見地からしてもマクロで見れば何らおかしくはないのです。

 

理屈は抜きにして、傑作とされる庭や盆栽などは入門者にはアンバランスに見えますし、池の鯉も上面から眺めて左右非対称な模様が通好みとされるのです。

私が何を言いたいのか・・・・

常に限られた小さな視野でモノを見ていながら、相手のことを「そりゃおかしい」「そんなんじゃダメだ」「けしからん!」などと決め付けているのが並の人間という生き物なのです。対象のそれがそうなっている意味や理由は自分の非物質的成長に伴ってわかってくるものなのです。

 

それはつまり、歳だけ重ねてわかっているつもりでも、残念ながら一生わからないままでいる事が誰にでも呆れるほど沢山あるということです。

 

そんな実情を知ることが「謙虚」という態度を自然に生むのではないでしょうか。

そして宇宙の真理探究には、万人がもっと「形状」や「色彩」などに興味を向けることが、かなり有効な手段ではないか?ということです。

 

言語には制約が多すぎます。

 

言葉が通じなくても、色や形で直感的に伝えるという手法は時やエリアを限定しませんし、マンダラに限らず、とりわけ幾何学形状は、時空を越えることのできる優れた情報伝達手段なのですね。

皆さんご存知のように、これら色や形と並んで「音」も優れた情報伝達手段ですよね。

音については、語ると長くなるのでまたの機会に譲ろうと思いますが、音量は控え目でも私の企画イベントでは「音」も積極活用しています。

通常の人の声とは異なる周波数も用いたいからです。

「文字を読むだけ」という情報受信行為は、情報伝達が未熟な種に特有の手段だと思うのです。

それらを補おうと発達してきた「テクノロジー」が皮肉にも、種の未熟さを助長してきたのですよね(笑)。

私は科学技術よりも、地球人という種の非物質的変貌に興味があります。

 

2017年02月24日

すべては非物質の波動

人間の身体に過度の負荷がかかると、意図せずとも気付くことがあります。

 

それは「肉体は時空に縛られていても意識体は常に自由である」ということです。

 

戦争、事故、病気等で肉体生命維持の極限状態に達した多くの人がそんな意識体の自由度を認識するわけですが、そのまま肉体死へと移行するのが普通なので、その状態について説明がなされることは稀です。

 

また投薬や手術など、自然の摂理に反した医療処置をされるのが一般的な昨今では、意識体もが最期まで縛り付けられた状態にあるのが標準なのかもしれません。

でも実は、そのような極限状態にまで至らなくても意識体は自由になれますし、肉体負荷を比較的少なくそれらを体験する方法として昔から瞑想やヨガなどがあるのです。

 

しかしそれらが肉体を苛める手法を採らないからといって、意識体の自由を習得するのが容易なわけではありません。

何でもそうですがコツや継続が必要、やはり本当に体得する人は稀なのです。

 

だから現在でも「修験道」のような肉体酷使のアプローチも有効だとされるわけです。

 

意識体の活性化について自分なりに長年探究してきた私は昨年、まったく自慢にはなりませんが脳幹出血による肉体維持ギリギリ体験をしました。

 

意識が戻ってからは後遺症の肉体的不具合と付き合う日々です。

 

現在、仮に意識体と肉体が完全リンクしていたなら何もかもが苦痛でしかなく、肉体死を迎えるのが絶対的な楽しみとなるでしょう。

 

車椅子からは卒業し、のそのそ歩けるようにはなりましたが、数時間も同じ姿勢を固定するとちょっとの移動だけでも全身に激痛が走るので、家では無意識で毎日「ウゥ…イタッ!イタイ~!!」などと口走っていました。

 

すると、倒れたその日に誕生した息子がずっとそれを聴いていたらしく、最近大声で発する日本語らしき言葉が「ウゥゥ~イタイタイタイタ…」とかだったので(爆笑!)切なくなった私は慌てて「ワ~オ!イェ~イ!」などと周りを驚かせない語句に言い換えて悶えています。

つまり、苦痛を笑いに変えるユーモアを以前にも益して身に付けざるを得ないのです。

 

その考え方は人にもよるのでしょうが、居合わせる人と共に波動を明るく軽妙にしたい欲求がより強くなるわけです。

 

いつでも瞬時に深刻になれる状況なので、怒り、攻撃、悲しみ、罪悪感、被害者意識などの重くて暗い波動を取り込む余地は微塵もありません…即、破滅につながってしまうからです。

確実に誰もが順番で迎える肉体死について、人の本質である霊魂について、語るのをタブー視すること自体が異常なのです。

それは人が物質であるとの社会的妄信から生まれた、時代と地域限定の特殊な常識です。

 

肉体物質環境がどうであろうとも、自他の意識体を決して陥れないこと。

 

他人を蔑ろにできる人は自分を蔑ろにしている人です。物質肉体人生もすべては非物質の波動次第なのです。きっかけとなる、そのコツをお伝えしています。

 

2017年02月19日

新たな人生モデル

とても重要な事であると言わんばかりに「これは科学的だ」とか「それは非科学的だ!」という言葉を多用する方がいます。

まだまだ発展途上で未熟な今の科学を絶対視する人も、科学という名の教義に囚われてしまった宗教信者と同様である、というのが私の見解です。

 

科学的、論理的であるように演出し、宗教とは無縁であると思わせ、その実、宗教的洗脳を実践している組織のいかに多いことか。その目的はもちろん支配と搾取です。

では皆さん、ここで問題です。支配する側にとって鍵となるのは、いったい何だと思いますか?
答えを先に言います。それは、支配したい対象に「自分には力がない」と思い込ませることです。

サーカスの猛獣たちはどうして逃げ出さないのか?について、テレビ番組等で観て知っている方も多いことでしょう。残念ながら人間にも動物の一側面がある以上、同じ要領で縛り続けることが可能なのですね。

 

ストレスまみれで病院暮らしになっても、その洗脳から解かれることがないまま最期を迎える人が多いのです。

 

「自由意志で生きるなんてこと、できるわけがない!」との長年の思考回路が金属の檻のように実体化していまい、いとも簡単に出られるはずだった柵の内側から一歩も出ようとしない人がいったいどれだけいることでしょう。

 

そのような人は、本当に一切の束縛もノルマもない状況となって「じゃ、私はどうすればいいの?」となることをむしろ怖れています。

 

また、何かを発案して行動に移すような事を苦手とするため、空白の時間を作らぬよう無意識的にスケジュールを埋め続けている人もよく見かけます。

 

ゆったり過ごすことはなく、常に「忙しい、忙しい!」と言って、一度停まればエンストしてしまうマシンか何かのように動き続けている人です。搾取側にしてみれば、ここまで調教されている人間はオイシイですよね。

 

する事がなくて困るよりは、どんなに愚かしい事であろうと時間が潰れればそれでよい…そんな人々が大勢存在するのです(笑)。

人によって様々な価値観があるのは確かですが、同時代の同地域における価値観となれば大まかに絞られてくるでしょう。

「金銭獲得こそが人生最大の意義だ」と考える人にとっては、「人としての在り様」などに想いを馳せている人こそ「1銭にもならない事に妄想を抱いている愚か者」と映ることでしょうし、その反対で人生に純粋さを求めている人からすれば「世の中、カネのためだけに妥協する人生がこんなにありふれているなんて…」と悲観的にもなるでしょう。

 

ここではその善悪や優劣を問題にしたいわけではありません。ただ、20世紀は前者タイプが標準で圧倒的に優勢、21世紀に入って後者タイプが急増していて、前者タイプにはやりにくい社会となってきているのではないでしょうか。

 

これは人間の本質が変わったわけでなく、いつの時代でも社会全体がそのような価値観に染められる結果でしかない、と私は考えます。

 

ざっくり言ってしまうと、前世紀までは「多くの物質を所有できる=豊かな人生」という宗教が流行っていたというわけです。それを科学的な事だと思っていたのです。

 

ところが、そんな親や大人の生き様を見て育った世代の目には、それが豊かだとは映らなかったのでしょう。

 

「豊かさとは名誉や金銭で賄えるものではない」…若い人になるほど、そんな価値観を有しているように私には感じられます。

 

しかし「では、どのように生きて行けばよいのか?」というモデルが消されることはあっても示されることはなく、あっても極端に少ないため、自分を社会に合わせて歪めることができなければ成人しても路頭に迷う他はない…という実情があります。

 

それを駄目だの無気力だの病気だのと決め付けている、社会システム側に問題があると認めるわけにはいかない!?そりゃそうですよね。

 

これまで何十年もよしとしてきた営みを「これではマズイから大きく変えよう!」と動き出す大人が普通にいたのならば、現在こうはなっていないでしょうから(笑)。

 

とても大切な文明転換期に入っていると思うのです。ここまで読んでくださったあなたもきっと、その勇気ある仲間なのでしょう。

 

最大の力は、戦争でもテロでも抗議デモや論争でもなく、他の誰かが書いたり言ったりすることでもありません。

 

各人が自らの叡智に触れることなのです。そこから得た情報を基に各人が実践して行くことが最大の力なのです。 

 

2017年02月13日

高次元を体験する!

一部の人が「これこそが生命のすべてだ」と思い込んでいる【肉体】の存在を疑う人は少ないでしょう。

 

実際に私も今、まだ後遺症で思い通りに操ることのできないしびれる指先を使ってキーボード入力をしています。

 

皆さんも、顔をモニター画面に向けるよう姿勢を調節し肉眼を動かして読んでいることでしょう。

 

では肉体でない、つまり物質ではない生命の存在を疑う人々が、先進国と呼ばれる所を中心にどうしてこんなに大勢いるのでしょう?

その理由は簡単です。

 

自分自身を含む人間の本質が【非物質生命】であることを体験から認識するのには程遠い、緊張を強いられ続けてリラックスできない暮らしをしているからです。

 

ですから生活インフラが整っていないような大自然の中に浸れば、誰もが精妙な非物質のエネルギーを感じ取りやすくなるのでしょう。

そして、それらを「神・精霊・妖精・天使・菩薩・異星人・寛容・愛・癒し・平和・感謝・謙虚・歓喜・悟り」などと呼んでいるのです。

 

反対に、現代社会の中に埋没して生活していれば誰もが囚われてしまいがちな、物質に近い粗雑な波動の非物質エネルギーだってあります。

 

それらは「不信・疑い・怒り・争奪・支配・憎悪・復讐・蔑視・恨み・嫉妬・無関心・無気力」などと呼ばれるものです。

皮肉にも物質に波動が近いだけに、それらの想念が物質世界に形をとって顕現する場合がとても多くて速い… 繊細な人にはそれだけ闇が深く見えるため、いつだって終末論が絶えないのが物質世界文明なのです。

 

もうおわかりですね。

 

人間社会とは肉体や物質だけで構成されているものだと思い込んで生活していても、お金や力だけではどうすることもできない非物質エネルギーに誰もが大きく影響されて生きているのです。

 

すなわち肉体を有していても、皆さんは確実に非物質生命体なのです!

 

どんな波動を選ぶのかは本人の自由です。

何らかを求め続けて常に疲れている人がいる反面、あてのない旅に出て人生が一変した!なんて話もよく聞くでしょう。

 

しかし旅に興味はあれど、諸々の事情で叶わないという人も多いのでは?

そこで、「そんな大仰なことを企てなくても、都会の真ん中でだって精妙な高次元の波動を気軽に体験できるのですよ~」と開催しているシリーズが【高次元波動体験会】なのです。

 

ちょっとした日帰りのお出かけでも、思い切った長旅を決行した場合と同じような人生の転機になるのかもしれません!

 

実際、これまでにそのような体験をした参加者もいらっしゃいました。

 

大きな『気づき』とは、費やす時間やお金に比例するとも限らないのです。

 

しかし、自分で体験しないでいくら文字で読んだり話を聴いても、残念ながら他人事としか感じられないのですよね。

 

2017年02月07日

見えている通りには実在しない?

何度か触れましたが、ここ半年近く私が抱えている身体の後遺症あれこれの中で最も辛いのが肉眼視界の錯乱です。

左右の眼球が捉える映像を脳がリンクして処理できないため、常に対象が複数重なっているように視えるのです。

 

真っ暗闇に灯りが一点だけという状況でしたら二点に見えるだけですが、日常では背景を必ず伴った状態で右の捉える映像に左の映像が重なり、当然左右逆の現象も同時に起きていて対象物も自分も移動するため、常時まるで万華鏡を覗いているような視界なのです。

 

意識が戻って症状を自覚した初期には、車椅子での移動から立ったり歩いたりする練習の著しい障害になりますし、両目を開けているだけで気持ちが悪いので常に眼帯で片目を塞いでいました。

 

この先もずっと続く症状だとすると、かなり陰鬱になりかねないそんな状況下でも私はそれほど深刻にならず、毎日が不思議アトラクションで冒険しているように楽しんでいるところもあります。

 

「転倒せずにできた!」「ぶつからずに通り抜けられた!」「どれが本物か見当がつくようになった!」といったささやかな楽しみ方ではありますが(笑)眼前の数十センチならなんとか普通に見ることができるようになっただけでも大きな進展です。

そんな気軽な感覚で済ませられている大きな理由に、私は幼少期から元々視覚に関する独自の考え方を持っていたことがあげられます。

 

それは、「肉眼で視えているからといってそれが実在するとは限らない」…反対の言い方をしますと、「視えない」からといって「実在しない」ということにはならない、という持論です。

私はほぼ毎夜夢を見て、結構それらを憶えている子供でした。暗い部屋で肉眼の瞼を閉じていても充分にカラフルで現実的な映像をキャッチできているのだから、肉眼は補助的なものだとしか思えなかったのです。

 

これは聴覚や触覚に当てはめて考えても同様に言えることです。
もうひとつは、魚をはじめとして甲殻類・昆虫・両生類・爬虫類・小型哺乳類など様々な生物を捕獲しては観察するのが大好きな少年であった私にも憶測がついたこと。

それは、あらゆる生物が、同じ対象物を全く別のものとして捉えているであろうということです。

 

それは、外見がほぼ同じ人間同士においても該当する事だと思うのです。

 

自分の視界を他人に説明することも、誰かの視界を自分が真に理解することも、できているようで実はできていない。

 

「見る」という行為をしている「自分」というものの実態はいったい何なのだろう…?子供の頃から常にそう感じていたのです。
錯乱状態だと感じている今の視界が、突然の脳出血からではなく生まれつきの視界だったとしたら、それが私にとっての視覚から自然と認識される世界の在り様なわけで、「視界が変だ!」などとは思わないはずです。

瞳を閉じても映像や画像が浮かぶ事実を、現代の医学や科学では脳機能の産物だとしたがるでしょう。

 

私はその事をとやかく言いたいわけではありません。

「科学的」という言葉を使うのであれば、人や宇宙に関する大切な真理は現代社会で「非科学的」とされていることの中に埋没してしまっているのです。

 

人や時期によって必ず異なっていて当たり前の内容を、第三者が検証するなんてこと自体、ナンセンスの極みですよね(笑)。

 

 

2017年01月23日

楽しくて深い気づきの会となりました。

昨日開催されました【臨死体験・宇宙からのメッセージwithクリスタルボウル瞑想】は、おかげさまで好評のようでした。

 

飛行機でお越しになられた方もいらっしゃったようで、誠にありがとうございます。

生と死は表裏一体、死を語れる人のみが生を語れるのだとの位置に立脚し、限りある肉体物質人生を豊かに送ることへと繋がる世界観・宇宙観・人間観のあれこれを、笑いを交えてお話しました。

 

とても抽象的な単語が並んでしまいますが、死生観に興味のある人は宇宙の話にも深く興味をもっている場合が多く、数時間ではとても語りつくせない領域に話が及びかけたこともあって、「合宿形式でもいいから実際に長時間お話を聴きたい」などの嬉しい声もいただきました。

 

いかんせん現状の私は、お伝えしている通りの低スペック肉体なので、どんな創意工夫で皆さんとの情報共有や波動共鳴を実現させて行くのかがテーマでもあり、楽しみでもあります。

今回の主催「みんなの広場」野村節子さんの演奏されるクリスタルボウルは、会場の皆を本当に瞬く間に精妙な波動へと誘ってくれるため、波動の精妙なお話との相性はバツグンです。

また楽しくて素敵な時間を皆さんと共に過ごせるよう、手はずを整えて行きます。

 

同会場にて似た感じのコラボ、次開催は5/7(日)の予定です。

 

2017年01月17日

密接な関係

この世では、親が存在したから子が誕生したという概念が一般的です。

親がいたのは、その親にも親(祖父母)がいたから。

 

遡ればそのまた親がいたから…という具合で連綿と続く「種の保存」の営みに感謝の気持ちが向く一方で、自分という存在は生物学的にとても確率の低い偶然の産物に近いものであるという、唯物的価値観を積極的に誘発するようにも感じるため、私は十代の頃から「今肉体で生きていられることをご先祖に感謝しなくては…」というような考えには馴染めないタイプでした。

 

それは何度も述べているように、直線時間は錯覚であるという非物質からの見地が大きな理由ですが、この世的な金銭名誉欲の強い人が、災難や病、肉体死を怖れている人に言い寄って搾取をする場合の常套句である、というイメージが私個人の中で大きかったからでもあります。

そうは言っても、私を生んで育ててくれた両親には感謝していますし、両親が他界した今でも「ありがとう」の念は送り続けています。

 

何より、肉体を脱ぎ捨てる日を心待ちにしながらも私が今日までこの物質世界に留まっていられたのは「自殺したり親より先に逝くなんて、親不孝この上ないことだ」という考えが私にもあったからです。そして今でも、非物質の両親は私を見ているのですから(笑)

 

 

これまでもお伝えしてきた通り「人の本質は非物質なのであって、肉体が本質であるとの勘違いをしてはならない!」そんな考え方の私ですから、長年、物質肉体人類という種の保存に貢献するつもりなど毛頭ありませんでした。

 

つまり若いときから結婚や子供や家庭に抵抗こそあっても、憧れることはなかったのです。

しかし、若い頃には経験できなかった種類の壁によく直面する中年になってからも、若い頃とは別種の大きな気づきがありました。

 

それは「本来、人は物理制約のない意識体だが、肉体という制約だらけの物質環境下でしか経験できない学びが沢山ある」という隠された事実です。

 

学校通いが苦痛でしかなかった私ですが、子供の頃から自発的に何かを学んで習得することには、確かに大きな喜びを感じていました。そして、物質世界の様々な学びの中での苦難や喜びの変遷そのものが、複数の肉体人生。

 

非物質の意識体が物質経験から学べるしくみです。

そのことを去年の夏、私は意識不明の重体とされる継続的な昏睡状況下で再認識できました。

 

自分の視座がこの肉体ではなく、時代も場所も異なる複数の人生を同時に眺められる視点となったのです。

 

話を戻します。私が救急搬送されて医師に「危篤」とされたその日、息子が誕生しました。

 

まさに私が今生の肉体という殻を脱ぎ捨てようとした日に!です。

 

今回、ほぼ脱ぎかけた肉体に再び還ってきた要因に、息子の生誕という印象的な物質次元でのイベントがあったからなのは間違いありません。

 

生まれたばかりの赤ちゃんなんて泣き喚く以外に何もできない、誰もがそう思うでしょう。

 

ところがその日、息子は物質肉体として姿を現すことでいきなり大きな仕事をしました。

少なくとも妻や周りの人たちはそう捉えています。

 

もしも皆さんの身に同じ事が起きたとしたら、この出来事を単なる偶然だとして片付けますか? 

 

すぐにその意味は理解できないとしても、存在するだけで大きな意味をもつのが人というものだと思うのです。

 

ある人が誰にとってどんな意味があるかなんて、肉体レベルで考えても解るはずがありません。

 

判るのはせいぜい、その人のエゴを今すぐ充たす役割が相手にあるかどうか…ぐらいのものでしょう。

 

肉体年齢など全く関係ないのです。縁の濃い意識体だからこそ、親子をはじめとした密接な関係性となって物質界に現れるのです。

 

どう捉えるのかは各人の自由ですが、お互いが気づきの機会を与え合うために存在するのですね。 そんなお話のあれこれを、今週末にゆっくりしようと思います。 

 

とても考え出せない情報こそが人生を大きく左右するものなのです。

 

2017年01月06日

知性の在り処

皆さん、正月気分も抜けて平常の生活に戻っていることでしょう。
以前、人間の肉体をハードウェア、意識体をソフトウェアに喩えた話をしました。

 

そして昨年夏、私はハードである肉体の致命的な故障をきっかけに移動もままならぬ足腰となり、瞼を開けるのが辛いほどに視界は常に乱れており、繊細な手先の感覚も失ったため、かつて好んで興じていたような身体を使う趣味はほとんど不可能となりました。

 

ハードのスペックがガタ落ちしたというわけです。

 

それでもかろうじてソフトをインストールし直すことができ、しばらくすると、故障前と変わらず使えるようになったソフトも多くなった、今はそんな状況です。

 

モバイルノートPCが故障してしまい諦めかけたところ、固定デスクトップPCとしてなら、かなり機能が限定されるけどまだ使えると判明した…そんなところでしょうか(笑)。

 

写真は飼育している淡水エイです。

私が入院中、妻では対処しきれずに淘汰されて行く魚たちの中、数ヶ月後にも生き残っていた個体です。

 

いい歳をして珍しいのでしょうが、私は田舎に暮らしていた幼少期に、田んぼの小動物や草むらのテントウ虫などの昆虫を見つけては興奮していた、あの頃の好奇心を失うことなく今でも維持しています。

 

このデザイン!シンプルな色、キュートな模様、幾何学的な形・・・いかにも仲間のデザイナーが創ったもののように感じませんか?

 

私は俗に言う「かみさま」にとても親近感をもって子供時代を過ごしたのです。

 

たまたま同じ家や学校で姿が見えないだけで「かみさま」は身近な仲間。誰かが「美しい」と思えるものを創っても肉体生存の記録がなければ神様。

 

つまり、固有名詞が無い状態の人の本質「意識体」を神と呼んでいるのだと思うのです。

 

肉体で生きる人にとって肉体のない個性は神。

現在の地球人では理解不能な知的存在は神。

自分の子供となる肉体を招致するのにも「子宝に恵まれますように」と神に祈る人が普通にいるくらいですから(笑)。

 

人間は肉体を有して暮らしていながら意識体でもあるのですから、実は誰もが神でもあるんですよね。

 

逆に「物質肉体が機能している間だけが人間だ」と断言して、故人の意識体に全く敬意を払わないような人には神性が宿っていないと言えるわけです。

 

でも大多数の人にとって、意識体(神)は自分と密接な関係なのです。

知性とは、この世もあの世も関係なく遍在する意識体の特性なのだと思うのです。

そしてその知性のことを、人間は神と呼んだりしてきたのではないでしょうか。

 

dav

2017年01月02日

能動的に生きる

さあ、みなさん、陽気の穏やかな新年を迎えましたね。私は先ほど日課のリハビリで合計2時間程の散歩。写真はその時の世田谷公園の様子です。

去年お伝えした、私の瀕死状態から得られた重要メッセージ。「人は物質の肉体であると同時に非物質の意識体である」ということはもうわかったから!という方のためにも、今年から、人の本質である意識体の特性をどのようにして肉体生活に取り込んで実践すればよいのかについて伝えて行きます。本日は、さっき写真にある噴水を眺めていて湧いてきたホヤホヤの内容をお届けします。

時間とは、意識が物質次元に閉じ込められているが故に直線的に流れていると感じるだけで、非物質である本来の意識体にとっては時の経過という概念は存在しない…これは昨年も説明しましたよね。
論より証拠を求めるなら、特に子供の頃は時間概念を忘れてしまうほど夢中になれたことがあったり、大人になった今でも、睡眠をとっている間は時の経過という概念から外れている意識体の状態であるはずです。
では、どうして現代社会には「忙しい」「時間がない」等の言葉を口癖のように発する人が多いのでしょう?

意識体は時間や空間に縛られず、能動的で自由です。それに対して肉体は、昨年説明した通りある意味マシンであり、肉体マシンは受動的にしか動かないことになります。当たり前ですがマシンが創作活動をすることはなく、プログラムがなければ仕事をしません。ですから現代社会には教育システムが組まれているのであり、そこに疑問を感じることなく落ちこぼれることもなければ、優秀なマシンとして各々の組織に好都合な社会人プログラムに書き換えられます。こんな仕組みにすっかり飼い慣らされている人が「常識的な人」とされているのが現代です。つまり、創造性を自由に発揮する能動的な人が増えたら成り立たなくなってしまうのが今の社会のしくみです。そして実際に崩壊が始まっています。

本題に入りますと、指示を受けて動く肉体(物質)としての性質が大きな割合を占めるような生き方をしている大多数の人々は、そうしなければならない(と思い込んでいる)事柄にいつも追われています。それはそうでしょう。「命令は既に遂行したので、何もせずに次の指示を待ちます」などというマシンは非生産的だとみなされますから、常に「させられている」「しなければならない」諸事に優先順位をおくようにプログラムされていて、自分が何を望むかなんて考えたこともない…というくらい能動性を失っている人だって少なくありません。

でも実は優先順位の低い無駄な時間などありません。時間に限らず「失う」というのは錯覚なのです。物質肉体を有していない意識体の状態、つまり生まれる前と死後ならば、失うものは何もなくて当然です。所有や喪失という概念も、物質次元に閉じ込められた状況に特有のものなんですね。
肉体死を待たずとも、肉体人間として生きながらこれら異次元の気づきを得て行くことが、創造的で自由な人生を送る秘訣なのです。誰もがそんな能動的な人生を送ることのできる物質社会の実現に向け、現代地球人の意識変革をもう少し手伝おうと、脱ぎ捨てたかと思われた肉体に再び戻ってきた物好きな私(笑)

時の経過が錯覚ならば、なるほど確かに、何かを始めるのに早すぎるも遅すぎるもないわけです。
したい何かがあってもできない言い訳「時間がない」というセリフが「時の経過は錯覚である」という文字通りの意味ならば、つまり時間が無尽蔵にあるならば、いったいあなたは何をどうしますか?
正解も不正解もありませんが、そこにそれぞれの人生の能動性が顕れてくるのです。

 

2017/ 1/ 2 10:59

2016年12月30日

人生ゲーム

何度もお伝えしていますが、人の本質が肉体ではなく意識体であると確信したのは今年の夏に私が意識不明の重体であった期間中に自分の人生、それも複数人分が全部自分であるという摩訶不思議な長期の生活記憶を鮮明にもって還ってきたからです。

 

これまでも、私は数十年に亘って睡眠中の夢や各種の瞑想、芸術鑑賞、創作活動などを通じて異次元を探究してきました。

 

しかし、常に身体が健康に機能する状態であった割には記憶に欠落部分があったりしたのです。

 

ところが今回は、五感の全てが機能しなくなった上に内臓諸器官も著しく衰弱し、痰の吸引までされている危機的肉体状況下で起きた意識体験であるにもかかわらず、鮮明な記憶を大量に保持できたのです。

 

ただ、それを言語という制限だらけのツールで表現することに難儀しています。

懐疑的な唯物論者に何を思われようが気にしないのは以前からのことですが、何より自分自身での確信の度合いや納得度において段違いの経験だったのです。

 

ですから一日も早く記録や発信ができる身体に戻すぞ!という欲求が、痛くてしびれて動かないほぼ寝たきりだった全身を自宅でPCに向かえるぐらいには回復させるという具体目標にもなり、リハビリ病院にとっても前例のない驚きの回復となったようでした

 

今も残る手足のしびれや滑舌の悪さ、視覚の錯乱などの症状は完治しないにせよ、私に突然襲いかかった脳幹出血という事態は、それくらい厳しいものだというのが世間では通説のようです。

 

個人的な話はさておき、「人間の本質が肉体じゃなくて意識体だとわかったところで、それが何になるの?」と思う人に朗報です(笑)。

 

この世の人が苦しんだり悩んだりする原因のほとんどは、意識体でなくて肉体が自分自身の本質であるとの勘違いから生じることなのです。

 

自分の本質である意識体の特性を理解できれば、これまで苦難と捉えていた物質世界の事象は、全て認識の問題であることに気付きます。

 

ですから来年は、皆さんの肉体での日常生活を豊かにできるような非物質の智慧を中心にお伝えできればと思っています。

 

みなさんにとって2016はどんな一年だったでしょうか。

私に負けず劣らずのビッグイベント(笑)があったという方もいらっしゃるかも?

年越しとは「どんな生き方をしようか」を見つめ直すのに絶好の時ですね。

 

その「暦」とは、そもそも何なのだろう…なんて事を考えていた変な小学生だった頃が懐かしくもあり、ついさっきの事のようでもあります。

 

私がこんなことを書いているオッサンになったのも、なるべくしてなのか、偶然なのか。

 

確実に言えるのは、肉体人生は制限があるからこそ面白いゲームなんですよね。

ルールがなければゲームは成立しません。

でもせっかくルールの範囲内なのに知らない技が多すぎたんじゃ、それはそれでゲームが楽しめませんからね!

2016年12月27日

神性や仏性とは

ここ数回の投稿で、私の体験に基いてお伝えしてきたことをまとめてみます。

1.【人間の本質は肉体(物質)ではなく意識体(非物質)である】

2.【意識体とは、つまり人間である誰もがその本質は時間を超えた存在であり、物質肉体の時間感覚に埋もれた状態では、どの位置から見るのかによって対象が過去や未来に映るだけのことである】

3.【意識体には空間制限がないため、この物質界の言葉で表現すると「意識体はどこにも存在しないけれども、どこにも存在し得る」となってしまい、そんな非物質の意識体を理解する難しさから、神・仏・天使・菩薩・妖精・宇宙人・霊魂等々の呼称やそれに類する固有名詞で括られてしまう傾向にある。大きさに制限がないという意味では人はまさしく宇宙であり、もちろん意識には数の制限もないため、意識体は人間の肉体に限らずあらゆる生物や物質に同時に宿ることとなり、どれも本を辿れば同じ存在であると言えてしまう】

結構シンプルにまとめられたように思います。
上述の性質を利用し、各々の組織の意向に沿って民を操作するのが○○なのでしょう。
ですから、皆さんがそのような事にとりたてて興味がなくても「人間は皆が神の子」とか「万人に仏性が宿っている」とかの言葉を見聞きしたことがあるでしょう。

非物質であるものに対して物質的な証拠を求めるのか? 
物的証拠は求められるはずもないのだから、盲目的に信じる他はないのか…

物質としての肉体は、非物質の本質「意識体」からしたら人間の一部でしかない!
私にはその確証が得られたのです。他人に証明できなくても事実は事実。
本質が意識体なのですから、人によって事実が異なることも当然なのですよね。

 

 

2016年12月23日

過去や未来は錯覚

皆さんは大抵、現在を基準に過去や未来があるという概念で暮らしています。
誰がというわけでもなく文明自体がその直線時間を絶対視していて、言語とはその概念に則った意思疎通手段であるため「無時間」の概念を言葉で説明するということに私は尋常でない難しさを感じています。ですから少なくともここ数百年、生身の肉体を有していながら無時間を解することができる人は、テレパシーや第六感と言われるようなものを通じてそれを感じ取れる、ごく僅かな人のみに限られたことでしょう。しかももどかしいことに、それを上手く伝える術はなかったと憶測されます。
ところが21世紀に入った今は、その感覚を有する人が結構大勢いるのではないかと私は考えるため、一見は無反応だとしても「そうそう、それ感じる!」と共感する人が出てくるのではないかという予想から、この文章を書いています。

それこそ直線時間に囚われている象徴的な言葉に「歴史」という単語がありますが、長い歴史の中で今メジャーである時間概念がまかり通っている文明はかなり特殊なのではないかと私は考えます。それは幼少期から漠然と感じていたことでしたが、今年の夏、私が意識不明となっている間に複数の自分を認識できたことで確信に至りました。それは、この文明下で肉体を有する立場で表現すると「私は過去にも未来にも様々な場所で肉体をもって同時に存在していた」となります。

少し強引な喩えですが「手元にある映像ソフトで、数百時間収録の映画をいつでも鑑賞可能な状態になった」みたいなことです。それは短編作品集。それら作品の中で自分は様々な役で様々な場所に出演しているのです。

 

ところが役に入り込んで演じていると、その時代や場所や人間関係などの設定状況が全てであるとすっかり勘違いしてしまうのです。1時間後に収録されている自分は来世。

 

3時間前に収録されている自分は前前前世!となります(笑)

 

でも実は、生まれ変わりの歴史は未来の分も含めて全部同時に手元にあります。

 

しかも全作品がリンクしており、過去の分も含めていつでも修正編集可能なんです!

 

自分がネクラにしていたら作品全編で暗~い役回りだろうし、充足感溢れる笑顔を振りまいているなら、勇気や喜びを与える役が多くなることでしょう。

 

 

直線時間が錯覚だということ、この喩えで少しは伝わりましたでしょうか。

 

感想などございましたら、下部クリックで遠慮なくコメントください。

2016年12月18日

肉体の操縦

人の本質が肉体ではなく意識体であるならば、おおざっぱに言えば意識体にとっては肉体人間一人の誕生から肉体死までがその肉体の操縦期間だということになります。

 

ここで現代人の多くが誤解しやすいのが、肉体の有無にかかわらず意識体が存在するのはもちろんのこと、ひとつの肉体に対してひとつの意識体という割り振りではないということです。

 

 

意識体は時空に縛られることなく融通無碍。

 

制限だらけの肉体と比較するのもナンセンスな話ですが、意識体の方がエネルギーとして断然巨大なのです。

 

あなたの本質からしてみたら一人の肉体人間はほんの一部です。

 

部分でありながらも確実に全体へと影響を及ぼす独創的で唯一無二の存在、それが肉体を持つ人間です。

 

意識を大木に喩えるなら肉体は末端の枝葉であり、毎年必ず朽ち落ちてしまう葉が、繁っている間に幹や根を理解することは不可能でしょう。

 

ですから樹齢何千年の幹や根の性質を垣間見ることができた末端の葉、すなわち一肉体人間が意識体の本質を覗いた場合は、どうしても「神・仏・キリスト・菩薩・天使・宇宙人がどう言った…」等々、その人固有のフィルターがかかってしまいますし、非物質世界を説明する上での宿命でもある、抽象的でいか様にも解釈が可能な表現になってしまいがちなのです。

 

私はそれを、ここでは「意識体」と呼んでいます。つまり皆さんがそれぞれの呼び方をする宗教的な固有名詞や宇宙人を、全部ひっくるめて異次元の意識体としています。

 

その意識体が肉体に宿った状態で教えを説いたために、その肉体固有名詞が生き神様として記録に残っているケースも含まれます。

 

その偉大だとされるも誰かも、あなたが忌み嫌う誰かも、もとを辿ればすべてが自分の本質なのです。

 

この辺りは十代の私でも納得できた概念ですが、それだけでは腑に落ちないことがありました。

 

それは、本質が意識体であるはずの肉体生物が、なぜにここまで機械的な性質を有しているのか?です。

食事を一切必要としない人が実在しても、植物の光合成のように非物質を物質化するプロセスを経ています。

 

摂取するのが仮に酸素でなくとも、肉体は必ず呼吸を必要としています。DNAをはじめとして各器官の機能を知るにつけ、肉体にはマシンと思える特性があるのは事実なのです。そして今年、私の肉体は修復不可能だろうとされる大トラブルを起こし、以前よりもかなりの低スペックでかろうじて活動しているのはお伝えしている通りです。

 

そして、そんな非常事態だからこそ、たまたま経験することとなった意識体⇔肉体システムの不具合があったのです!

 

倒れた後の私の肉体が、まるで機能不全のマシンのようで違和感があることは以前にも述べました。

 

それは実際にマシンであると認識したからだ、という意味でもあります。

 

そうです、人間の本質は意識体であることには揺るぎない確信を得ましたが、肉体はある意味マシンだったと捉えられる事象が起きたのです。

 

救急搬送された当日、私は歩行→四股の自由→喋り→聴力の順で機能を失い「よりによって、俺は息子の誕生予定日に他界することになりそう。

 

突然で申し訳ないけど、長期間患うこともなくついに肉体から自由になれる時が来たようだ。感謝…」これは意識が遠のいて行く直前の私の想いでした。話せないながらも、ギリギリまで複合的要素を絡めて思考できていたのです。

 

ところが私の肉体は医師の予想に反して完全な心肺停止状態には陥らず、数日後には意識が戻ったのだそうです。

 

医師に言わせれば「統計上、良い意味ですこぶる確率の低い事が起こった」という話でした。

 

現代の医療現場では、体を揺さぶって話しかけると反応がある等をもって「意識が戻った」としているようです。

 

ところがそこから10日以上もの間、私の記憶には全くないのに私が発したとされる言葉を、後日聞かされることとなります。

マシンのようにYES/NO方式で反応するだけで、思慮に欠けた言葉を命令口調でわめく私の姿を目の当たりにした妻は「あれはあなたではなかった」と今でも話しています。

 

その時の私の肉体はどういう状態だったのでしょうか。

コンピューターでいうなら肉体がハードウェア、意識体はソフトウェアです。

 

今回の私はハードの根幹部分が壊れたので、有無を言わせずソフトも機能しなくなりました。

 

そのハードウェアの様子を診たエンジニア達は経験上からも「これは致命的ダメージだし、残念ながら修理のしようもない」と予測したのだが、しばらくして突然、勝手にリセットがかかったというわけです。

 

そこで「滅多にないことですが、元通りとはいかないまでもまだ使えます」みたいな(笑)

ハードだけ見ると既に復旧したようですが、そこから以前と同じオペレーションシステムなりアプリケーションソフトなりを読み込んでかつてのように機能させるのには、もうひと手間ふた手間要るのです。

 

機能チェックのためのサンプルデータが反応していた状態だっただけで、それは私という個性の意識体ではなかったのです。

 

というわけで、赤ちゃんはもちろんのこと老人施設や精神科病棟なんかにも、肉体がこのような状態の人が結構たくさんいらっしゃると思うんですよね。

 

本人の意識本体がインストールされていない状態とでも言いましょうか…この事を理解できれば、現代医療と霊性の融合が新たな道を開くと感じるのは私だけではないでしょう。

 

2016年12月17日

自分の肉体はいくつあるのか?

皆さんは「輪廻転生」とか「過去生・未来生」などの言葉でイメージするものがあるでしょう。これについては、瞑想や夢見を熟達させると芽生えてくる、時空を超える感覚とでもいうものがあります。私も夢や瞑想を通じて感じてはいましたが、今年、この身体が意識不明の重体に陥ったからこそ奥深く分け入ることができた異次元体験で、確信に至ったそれを説明してみます。

多くの人が絶対的であると信じている肉体。今回の生を授かってから特定の名前で呼ばれているその身体は、非物質である本当の自分自身の一部でしかありません。つまり、霊魂などと言われる『意識体』が法人だとすれば、『肉体』は現場の第一線で活躍している作業員です。会社経営に携わる社長や重役が現場に出ることは稀だからといって、現場作業員を蔑ろにしているような会社はやがて問題が噴出して法人の維持が困難になるのと同じで、精神的な事ばかりを重要視して肉体を軽視していては、物質的身体を通じてしか成り立たない意識体成長システムは維持できなくなります。よって肉体メンテナンスは意識体にとっても必要不可欠な重要事項です。
そして過去でも未来でも様々な現場で仕事をしている作業員ひとりひとりの誰もが会社業績を左右し得る重大な存在なのですが、残念ながら会社全体にまでは想いが及ばない人もいて、そのような人は自分の現場環境や待遇に対する不満等をあれこれ指摘することはあっても、他の現場で努力している人の存在すら知らないのです。

いち肉体が自分の全てだと考えている人と、その何千何万倍の意識体が自分の本体であることを理解している人とでは、想像を絶するような価値観の相違があります。自分が罰せられない範囲で如何に奪い続けて長生きできるのか…そのことだけが人生の目的(経済社会の牽引者)の場合と、人類みな兄弟どころか全ての動植物をはじめ鉱物も細菌も、視えない何かも含めて生命としての表現形態が異なるだけで、みんな自分と同じであり自分の一部である…この宇宙をそう認識している人まで、現文明のあらゆる問題は、このあまりにも個人差の大きい認識ギャップに起因していると私は考えます。

その鍵を握るのは、今の物質文明社会を構成する皆さんが、肉体(物質)と意識体(非物質)との関係性を理解できるかどうか?だと私は思うのです。
その関係性の詳細については、また次回に投稿します。

2016年12月10日

夢と現実

みなさん、「夢」という言葉、とても興味深いと感じませんか? 

睡眠中に見るのも夢ですし、とても叶いそうもない物事などにも夢という言葉が使われたりしますね。後者の場合、どの程度までを夢とするのかは人によって随分と幅があるのだと思います。現代日本人でありながら「一回の人生で5千人の異性と交わって1万人の子を設けたい」というならば誰にとっても夢で終わるでしょうが、「いつか深く解り合える一人の異性と親密になった結果、子宝に恵まれるのかも」という想いならば、それは「既成事実」「当然」「目標」「期待」「予感」「幻想」等々、いろんな捉え方をする人がいますし、それこそ夢見ている人もいますよね。夢は夢でも悪夢と感じている人だっているでしょう(笑)。

 今回、私がこの話題から入ったのは、みなさんが日常的に使っている「夢」という言葉には「現実味がない」「実感がない」というようなニュアンスが多分に含まれているのではないかと思うからです。しかし、今から私が説明を試みる「夢」の話は上述の多数派からすると【夢=現実】もしくは【夢>現実】みたいな、少数派とされてしまうお話です。

 私は幼児の頃からほぼ毎夜、夢を見ていました。当時の私は今のような語彙や表現力を有していませんから、その異世界のことを親にも説明できませんでした。
内容的に説明しづらかったのもあります。例えばそのひとつが、夢の世界の入り際には数パターンの現象が伴っていたことです。瞼を閉じると球体をベースにした幾何学模様のサイズと形状が変化して行く映像が見えてくることや、瞼を開けていた場合には自分が地下深くに沈んで行くみたいに天井の照明器具が徐々に遠ざかって小さくなり、音も遠ざかって行くこと。
そして何よりも夢の内容です。今でも憶えているのですが、仮の家族である肉親ではなく、真の家族が迎えに来てくれ、「バレてしまったのなら仕方がない」とでもいう雰囲気で、まだ幼い自分を実の両親が見送ってくれていたシーンがありました。そのとき両親は、なぜか水の噴出し続けているホースを手にしていました。

何をもって肉親が「仮の家族」で、迎えに来たのが「真の家族」だと感じたのか? その真の家族の風貌はどうしても思い出せないにもかかわらず「夢の世界の人達こそが本当の自分の仲間だ」と確信してしまったのです。小さな子供なので睡眠時間が長い上に内容に連日継続性があったということも大きな要因でしょう。両親を偽者だと考えるくらいですから、幼稚園や小学校の先生や生徒は基本、自分とは別の種類の生命体だと考えていました。

そう考える決定的な材料もありました。私にとって現実世界より真実味のある夢の世界…その夢を、睡眠中に「見ない」「全く憶えていない」「ただ真っ暗」などと語る人が多かったのです。大人になるにつれて唯物主義の刷り込みが進みますから、徐々にそういう人が増えてくるのは致しかたないにしても、そういった人達は、幼児が半日眠っている間、いったい何をしているのかを不思議に思わないのでしょうか。心臓の鼓動も呼吸も休まず続けていて、眠っている間に怪我や病気が回復したり肉体が成長したりするのは、本当に物質的な栄養だけで出来得ることでしょうか。

 人は肉体生物でもありますが、本質は非物質の情報生命体である!というのが私の見解です。「肉体」に対して「霊魂」という位置づけはなんとなくわかる…という方ならば、「夢」の世界との関連性にも注意を向けることの大切さに気付くはずです。今でも肉体死のことを「永眠」と言うではありませんか。

今年の夏、私は今人生で最も深遠な夢を見たのです。一時は危篤だったため連続100時間単位の眠りです。肉体死に至るかどうかなんて、本人にとっては瑣末な事に感じるほどの壮大でリアルな異次元の意識世界…

私は長年「夢」というものについて、敢えて学術的なアプローチは採らず自分なりに探求してきましたが、この経験を機に大きな進展をみたと感じています。
長くなってしまったので、続きはまた後日に試みます。
最後までお読みくださってありがとうございます。

 

2016年12月05日

地球人の起源

私の肉体が生死を彷徨っている間、異次元にて活発な意識活動(その渦中にいる私には疑いようのないリアル体験でしたが)をしていたことを前述しました。

 

複数の時代や地域で同時展開していた私の人生の中のひとつに、21世紀地球文明からしたら未来と感じられる社会にも私は暮らしていました。

 

あくまでも認識できた複数にわたる人生ヴァージョンのひとつでしかないのですが、今回はそのひとつの中の更に一部を説明してみようと思います。

 

そこでは誰も飲食や排泄をしていません。

 

その代わり定期的に、巨大なスーパーにも病院にも見えるような所に行って液体をチャージします。

 

色とりどりのカートリッジのような物を並べて「今回はこれとそれの組み合わせにする」という感じでチョイスします。それぞれの液体には用途や効能らしきことが謳われているのですが、一時的にはどれを選択しても問題ないようでした。

 

今風に言えば各メーカーが競ってその商品?食品?エナジー液?をPRしていて、私が「その組み合わせはよろしくないでしょ」と感じたカートリッジの組み合わせを注入した人が調子良さそうになった様子を見て、その意外さに私が驚いているシーンもありました。口から摂取していないのは確実でしたが点滴や注射をしていた記憶もなく、その注入方法は自然すぎて意識していなかったという感じです。

 

支払いのようなこともしていませんでした。まるでマシンのようですよね?人工知能車が定期的に無料ガソリンスタンドに寄るようなものでしょうか…笑

 

沢山ある異次元記憶の中から、なぜ私がこれについて触れたのかといいますと、今回の後遺症で最も辛いものに複視という症状があり、不便さもさることながらその不思議さに我ながら呆れているからです。

 

左右の眼球(レンズ)が捉えた視覚情報を脳が統合調整できないため、視界が常に二重になっているのです。

つまり制御できないまま右目と左目が同時に独立して機能しているということなのですが、人や車が多い場所ではどれが本物か判らず危険なのです。

 

片目ならば二重映像にはならないのですが、やっと歩けるようになった程度でラジオ体操なんて難しくてとても無理!という赤ちゃん状態である今の私にとって、片目での移動や作業も平衡感や距離感がつかめないためかなり厳しいのです。

 

かといって常時泥酔しているかのような視界は頭痛や嘔吐につながりますから、両眼の瞼を開いたままでもいかに片目ずつの視覚に意識を向けられるか!という変なトレーニングもしています(笑)

 

何が呆れるほど不思議なのかといいますと、私が仮に映画「スターウォーズ」に出てくるC-3POなら、頭部に強い衝撃が加わった結果このような故障を引き起こすという事は解せるのですが、はたして生身の人間の肉体とは何なのでしょう。

このような障害に陥る自然生物が他にもいるのでしょうか?

 
全身のシビレや痛みに加えた肉体諸感覚の鈍さも手伝って、自分の身体が異物のように感じられるのです。

 

運転していた自分の乗物で多箇所同時に不具合が発生し、辛うじて完全停止を免れ最低限の機能が残された…そんな比喩になりましょうか。

 

バイオテクノロジーの暴走は、研究者がその種の誤解に及んでしまうのも仕方がないと思えてしまう機械的数学的特性が肉体生物にはあるからなのでしょう。

 

学校で教えられる「種の起源」や「進化論」に対して、私が直感的に違和感を覚えたのは事実でしたし、今でも疑わしく思っています。

 

だからといって、某神様なり某宇宙人が地球人類を創造したというような特定の説を支持しているわけでもありません。

 

「気にしなくてもきっと死ねばわかることだろう、しかもそう遠くない時期に」なんて考えて気軽に流すようにしていたのですが、突如不便な身体になったのをきっかけに否が応でも生きながら考えさせられているのが近況です(笑)。

 

何者がどのように創造したのかは別にして、「三次元肉体地球人は被創造物であっても、人の本質は非物質(意識)である!」というところまでは確信に至っているのが今の私です。残りの余生で「肉体を創造したのは○○である!」…というところまで探究は進むのでしょうか? 

それにしても、くれぐれも注意しなければならないのは「人の本質が肉体(物質)である」と勘違いしないことです。

 

現状の日本で、その辺りをどう考えるのかは個人の自由なのですけど、「人間は非物質存在などではなく単なる物質である」と定義している人に、「そのように考えて定義しているアナタという存在の本質が脳などの肉片だと、どうして信じられるのですか?」と逆に問うてみたいものです。

 

私にとって、その思想こそが奇抜すぎですから~(笑)。

2016年11月27日

八月中旬、私の肉体は脳幹出血による意識不明の重体に陥っていましたが、その間、非物質の私は言葉では上手く説明できない意識世界を旅していました。

 

そこには時空の制限がないため、複数の自分があらゆる地域に同時存在しており、過去形・現在形・未来形の言語では表すことのできない、時間という概念が通じない世界だったのです。

 

そこでも肉体や物質が実在しているというリアルな感覚があったのですが、時空制限のあるこっちの肉体物質世界に再び意識が戻ってきた後、こちら側の視点からすれば、あちら側は非物質世界です。

 

言語をはじめとするツールでコミュニケーションを取っているこっちの世界に意識の重点を戻した今の状態でも思うところが多々あり、今日はその一部でしかありませんが表現を試みようと思います。

 

「幸せの秘訣は自分と他人とを比較しないこと」というような言葉、よく聞きますよね。

 

これは前提として大切なことです。人の幸せのカタチは実に様々です。

 

競争社会に埋没して生きている人には酷な話ですが、他人との比較が自分の人生に真の幸せをもたらすことなど、ほぼありませんでしょうから。

 

ところが「ありのままの今の自分」に対して「ピーク時の過去の自分」「希望的観測で想定していたはずの今の自分」との比較は、皆さん無意識的に結構やってしまっているものなのです。

 これではせっかく他人との比較をやめてハッピーなるはずの自分が、相変わらず「自分はダメだなぁ…」というようなネガティブ思考に囚われ続けることになってしまいかねません。

 

これを振り切るコツは、直線的時系列に縛られた思考をしないことです。「今を生きる」等の言葉もよく目にすると思いますが、そこには簡単でない時間概念の転換が含まれているのです。

 

 皆さんが「自分」を定義する場合、一般常識的には過去の記憶から引っ張り出してきた材料を総括して「よって自分はこんな人間である」と考えるのが普通でしょう。

つまり「過去の自分」が「今の自分」であると錯覚しているのが一般常識的な自己定義です。実際、社会ではそれを求められ、応じる必要がある場面も多々あることでしょう。

 

いわゆる学歴や資格などの肩書きにはじまり、諸々の成功体験、失敗体験、好き嫌い、得意なこと、苦手なこと、トラウマ、思い込み、勘違い…等々、誰だっていろいろありますが、作用した感情フィルターによってそれぞれの印象に濃淡があって当然でして、故に周りからすれば「それは偏りすぎているのでは?」という具合で、自慢でも自虐でも、過去の特定の何かに囚われた自己像を固持している方がたくさんいらっしゃいます。

 

反対に、明日でも来週でも来月でも来年でも老後でも、未来に起こるかもしれない何かを心配しすぎてはいませんか? 

 

あるいは妄想だけ逞しくしていながら、そこへの到達には必要だと判っているにもかかわらず怠っている何かはありませんか?

 

 常に「今この瞬間に意識をフォーカスする」という生き方を邪魔するのは、他人だけではなく、過去の自分、未来を想定している自分の概念だったりもするということです。

 

即ち直線時間に基づく概念は「今ここ」に意識を集中させることを難しくしています。

 

や猫などのペット、人間でも赤ちゃんを見ていれば解りますが、昨日を悔やむことも明日を心配することもなく、常に今を生きていて無邪気そのものです。

 

だからといって私は「時系列を無視しろ」と言っているわけではありません。それでは社会人一般として生活して行けなくなってしまいます。

今の瞬間だけに生きる… それは時間の存在しない意識世界に足を踏み入れることを意味します。

 

少なくとも子供の頃には誰にでもあったであろう「時の経つのも忘れて…」という状態です。

 

偶然にせよ意図したにせよ、その境地に達した人は「社会不適合者、病人」等の扱いを受けているケースも多いため、社会常識である直線時間概念とのきちんとした使い分けが必須だと思うのです。

私は意識不明状態を彷徨った末に肉体の意識が戻ってからも、痺れてばかりの全身が痛くてほぼ動かせない…にもかかわらず、倒れる前の身体と比較してあれこれ考えることはせず、将来を憂慮するような余裕すらなかったため、常に今の状態から少しでも良くするため目の前のリハビリに全力を尽くすことに集中できました。

 

「かつてはああだったのに…」「今頃はこうしてるはずだったのに…」といった「今ここ」ではない自分に意識を奪われることなく「ありのままの今」に集中してきた数ヶ月の累積結果として、一時はベッドから車椅子までの移動に難儀していた自分の身体であったのが、歩いて新幹線移動して人前で話ができるところまで回復できたのです。

 

どれがホンモノの自分でどれがニセモノの自分というわけでもないのですが、昔から「己自身こそが最大の敵」なんて言われるだけあって、なかなか一筋縄では行かない「今を生きる」の話でした。

 

まだまだお伝えしたいことは沢山ありますので、続きはまた後日に。

 

もし感想などあれば下記【問い合わせ】をクリックでお気軽にメール、またはFacebookにてコメントやメッセージしてくださると嬉しいです。

 

言葉で表現しがたいことを、どのようにすれば伝えられるのかを模索中でして、現時点でどのくらい伝わっているのかの参考になるからです。

 

宜しくお願い致します。

 

2016年11月21日

名古屋講演の簡易レポート

19日(土)、私が監修でお手伝いした真名圭史氏著【非物質ガイドとの探索・三部作】コラボ講演会は、おかげさまで無事に終了しました。

 

名古屋の皆さんはもちろんのこと、大阪、奈良、新潟、東京等からもお集まりいただいた皆さま、誠にありがとうございました。

 

著作内でも、ディープな内容を淡々と異次元から降ろして語る真名氏の言葉に、私、監修である石井や編集の江口さんが補足説明を添える形での展開を試みましたが「それでも、もっと理解を深めたい」とお越しくださった皆様に、より卑近な詳細実例を挙げての解説で「腑に落ちた」との感想もいただけ、感無量でございます。

 

以後も、より深い非物質の智慧をもっとわかりやすく解説できる手法を模索しながら切磋琢磨して行く考えです。

 

恥ずかしながら、私自身の数ヶ月前の致命的状況から諦めずにここまで立ち直れた経緯の中に、皆さんへ勇気や希望を与える材料が含まれていたようで、誰もがそれを可能にする考え方や行動指針を皆さまとシェアできる機会をこれからも積極的に創っていこうと思います。

 

外見からは判らずとも、全身の痺れや痛み、感覚の鈍さ、視界の錯乱等の後遺症はまだ残っているため、医療業界からすれば奇跡とされる植物状態からの完全復活を目指して肉体的にも弛まぬ精進を続ける所存です。

 

2016年10月06日

お詫び

私、ノウイング・イノベーション代表:石井が、息子の誕生した8/11に予期せぬ脳幹出血に倒れて9月末まで入院していたため、9/26に予定していた「第6回・高次元波動体験会」は延期とさせていただきました。

 

申し訳ございませんでした。

只今、復帰に向けてリハビリ中ですので、ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちくださるよう、お願い申し上げます。

 

皆さん物心つく頃には当然のように習得して、無意識でこなしている二足歩行をはじめとする身体諸動作ですが、大人になってからそれを意識的に身につけるのは実に大変で根気の要ることでして、理学療法士等のサポートを受けての熱心な訓練を重ね、やっと独立歩行が可能となりました。

 

まさに「失って初めて解るありがたさ」ですね!

赤ちゃんの気分です。

倒れる前の身体能力にはとても及ばず、現状ではまだまだ運動神経の超鈍くて手先が超不器用な人でして、復調に向けての努力は弛むことなく現在も進行中です。

 

幸い、思考能力には損傷がなかったため、今回得ることができた体験を踏まえ、より高質な講話や執筆活動に邁進して行く所存です

お騒がせして関係者にはご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした。そしてありがとうございます。

これからも改めて宜しくお願い致します。

 

2016年07月28日

いろんな人が存在する意義

「一般的な社会」の枠には収まらない人々と、その捉え方について考えさせられる事件が大々的に報道されています。

 

知的障碍者として生まれてきた二歳下の弟を持つ兄として、私もこのテーマについては小学生の頃から考えざるを得ない環境でした。

 

かく言う私自身も、現在の地球の中の日本という国における多数派の常識や慣習には必ずしも従わない、お上からしたら学校教育洗脳に失敗した規格外の人であり続けています(笑)。

 

自分が成人して母の話をよく聞けるようになってから、私は弟の存在意義の大きさに改めて気付かされました。

 

予想だにしないまさかの次男の誕生に当惑した母は、最初の数年間「この子を殺して私も一緒に死のう…」と何度も真剣に考えたそう。

 

それでもその都度思い留まり、訪れた現実をありのままに受け入れて肯定的に振舞うことで母は更に大きな愛情や寛容性とユーモアを培ったのだと思います。

 

そのような子供を人目につかせぬようコソコソすることも一切なく、常に堂々と連れて外出。

 

「手をつなぐ親の会」とやらの相談員などにも積極的に参画していました。

親がそんな具合ですから、私にとっても全く恥ずかしいことではなく何の躊躇もなしに弟と共に外出し、そんな弟の話をどこでも平気でしてきました。

 

同時に、怖いモノを見るような目で見たり、見ても見ないフリをする人達の存在にも気付きました。

 

経済的な事を含め物理的な負荷があるのは事実ですが、愛・勇気・受容・忍耐…等々の金銭には代えられない宝を与えてくれた家庭環境に、今の私はとても感謝しています。

 

この社会の在りように絶望した若い頃から私に定期的に襲い掛かる強烈な自殺願望を抑止してくれたのも、弟の創造してくれたこの家庭環境でした。

母は60歳を過ぎてから「もう充分に人生を堪能できたから、いつ死んでもいい」などとこぼすようになり、実際に病死という形で66歳で他界しました。母子家庭で生まれ育った母は、自分が母となってからも学びが濃縮された人生でしたから、卒業も少し早かったみたいです。

さて、ここで視野を広げて心身の機能がどうであるかに関わらず、広義でのタイトル「いろんな人が存在する意義」ですが、これはもう「接する人、関わる人に気付きを与えるのが目的」で間違いない! 私はそう結論づけています。

 

人が非物質の意識状態だけで存在する場合には波長共鳴の法則が徹底しているため、自分と異なる性質を有する存在との接触は原則叶わない。

 

しかし誰もが肉体に宿って物質世界に視座を置くことで、本来の非物質世界ではありえないような波長に相違のある存在とも関わる事ができ、それが貴重な経験や学びとなるわけです。

 

これを宗教的に表現するならば「神は、そのままでは神であることを自覚すらできない。

 

例えば人間という物質次元に宿って諸々の相対的な体験を経ることで、はじめて絶対的な神性を認識できるようになる」とでも言ったらよいのでしょうか…

 

弟は何歳になっても純粋そのもの。

 

貨幣経済での取引や損得勘定の概念などを理解できるはずもなく、ただただ、スピリットとして純粋に存在し続けることで「人とは、社会とは、幸せとは、豊かさとは何なのか?」とのテーマを周りに投げかける大きな役割を果たしてくれていたのです。

 

母に遅れて他界した父が生前、弟についてポツリと語った一言がありました。

「アイツは神様だ」・・・  今でも私の心の奥深くに刻まれています。

私の目には、戦後の貧困から高度経済成長をひたすら駆け抜けてきた唯物主義者として映っていた父の言葉だけに、妙に印象深いのです。

 

あなたにとって一見不都合だったり迷惑だったりで「存在しない方がよい」と感じる人物、それにまつわる事象は何ですか?
そこにこそ「神のメッセージ」が込められているのかもしれませんね。

2016年07月21日

今更ながら、三島由紀夫の凄さを知りました。

三島由紀夫といえば、その名を知らない人はいないでしょう。

しかし、これほどまでに読書離れの進んだ21世紀となっては、読んだことのない人も多いのでは。

かくいう私も日本文学には皆目興味がなかったため、まともに読んだのはこれが初めてでした。

 

そのタイトルは「豊饒の海」四部作です。

きっかけは…

近頃よく通っている、40年以上現役で熱帯魚店を経営されている尊敬すべき人生の大先輩に、私が監修した「非物質ガイドとの探索」を読んでもらったのです。

 

すると、「読んでいて興味津々ながらも読み進めるのを躊躇してしまうようなところがあり、昔、三島由紀夫の【豊饒の海・四部作】に手を付けた時のことを思い出す」と言われたのです! 

 

気になって調べると、自分が幼少期頃の作品です。どんな関連性があるのかを確かめたい衝動から、この大作を10時間以上かけて読み込んだというわけです。

すると・・・2004年の小説を元に2012に映画化され、私が大いに感銘を受けて繰り返し鑑賞した「クラウドアトラス」は、この三島作品からヒントを得ているのでは?と思えるほど、感慨深くさせらされる素晴らしい内容でした。

 

直線時間軸に「肉体」を持って生きる人間と、その本質である非物質側面の「霊魂」との関係を描いているのです。

 

ベタな表現では「輪廻転生」ということになりますが、時代で変遷する社会風潮、それらに翻弄される時空に縛られた「三次元肉体人生」と「時空を超えたスピリット」とが、一見別物であるようで綿密にリンクしている様を、日本語という抽象表現に長けた言語を駆使した描写で、その理解度を読み手に委ねながらも見事に表現されているのです。

 

当時にも「映画」はあったにせよ、この壮大な世界観はまず表現できなかったでしょうし、宗教やそれまがいの団体の他には今のようなネット環境もスピリチュアルジャンルの確立もされてないわけで、小説という形で遺されているのですね。発表した時代も早すぎて、正当な評価を得るのはまだまだこれからなのではないでしょうか。

 

魂に刺激を与える作品であることは間違いなし! 霊的覚醒に繋がる刺激がお好きな方にはオススメです。

 

2016年07月02日

多彩なセンスや価値観を養うコツ

2016年も後半に突入! 

その経過スピードに驚かれている方も多いことでしょう。

 

長年、「宗教」「トンデモ話」として邪険に扱われがちであった【意識世界】に重きを置くことで、直線時間軸とは絶対的なものではなく相対的に伸縮して感じられる…つまり、直線時間とは三次元特有の「物質世界観が創出している」という最先端科学の仮説を実感しはじめている人が増えているのでは?

 

『過去も未来も同時進行している』『本来は「今」しか存在しない』等の言葉を聞いたり目にしても、大人になってからではなかなか受け容れられないものです。

 

幼少期にはそれが当たり前だったにもかかわらず、です。

 

そこで今回は、どうしてそうなってしまうのかの説明を試みます。

一般的に、中年以降ともなると皆が「近頃の若者は…」と感じる傾向になるのはナゼなのか?の解説にもなります(笑)

 

人の感性は若い時ほどフラットです。

閉じた物質世界に「赤ちゃん」として生まれてきた直後は、誕生前にいた時空を越えた意識世界での開いた感覚が残っています。

ですから乳児は皆、大人には見えないものや聴こえないものを見て聴いて、笑ったり泣いたり反応しているものです。

話が通じる頃になると大人に不都合な事は否定されはじめ、大人に好都合な事を教え込まれはじめます。

 

そんな刷り込みは「教育」の名の下での進学や、親や教師等の社会人観察を通して加速し、皆さんが成人する頃には既に洗脳がほぼ完了しています。

 

時代や地域によってまちまちですが、家庭環境や学校教育を中心に刷り込まれてきた価値観やセンスを「善し」とし、そうでないモノは「誤り・おかしい・悪」として捉えることが普通になってしまいます。

 

つまり、自分が洗脳されてきた以外の価値観を排除すべく見事な努力を継続するのです。

 

そのくせ洗脳慣れはしているため、大人になってからでも所属組織やマスコミから大量の情報シャワーを継続的に浴びると、すっかりその術中に嵌ってしまいます。

 

良くも悪くも近年の社会システムがこんなに歪んだままでもそれなりに続いてきた最大要因です。

 

それでも、たまには洗脳されない人が出てきます。

「何らかの障がいがある」「貧困で教育を受けられない」「落ちこぼれた」等の理由で規格外と見なされた人達です。

 

そんな人は本来の柔軟性を維持できるため、人生後年で大きな充実を得たり、社会変革の引き金となったりする可能性が高いのです。

 

どうでしょう。お気付きになりましたか?

常識的な大人の多くは、宇宙には無数にある美や悦びの中から、敢えて比較的醜悪な一側面だけを人生の信条とし、究極の閉じた世界観で暮らしているのです。

 

それ以外の価値を否定するためには途轍もない犠牲すら払う…その集大成が戦争です。

 

これらの愚行が肉体死後も永続する意識体を混乱に導き、更なる地上世界の混乱に寄与するという悪循環を成立させてきたのです。

 

でも、結論は至ってシンプルです。「幼心に還ることの大切さ」ですね。

 

直線時間の錯覚における多くの過去生や地球に来る前の星の記憶を思い出し…ではハードルが高すぎるかもしれませんが(笑)、今生の幼い頃の感覚を取り戻すだけでも、だいぶ世界が美しく見えるようになります。

 

誰もが、幼児期には小さな生物や植物を目にするだけでも宇宙の美や神秘を感じていたはずです。

 

常に好奇心いっぱいで一瞬一瞬が魅力に溢れ輝いていた。過去の後悔や将来への不安とは無縁、損得勘定で行動していたはずもありません。

誰かを貶めるなんて、発想すらなかったでしょう。

 

たまたま刷り込まれてしまった今の自分の価値観を否定しなくてもよいのです。

 

もっともっと多様な価値観・世界観・宇宙観、多彩な美的センスが存在することを知り、そしてそれもまた否定しないことです。そんな寛容な姿勢で生活していれば、これまでよりもしっくりくる思考や生き方が自然と見えてくるのではないでしょうか。宇宙や人の意識とは実に精妙で奥深いもの。

 

故に「そうだ、これこそが絶対唯一の真実だ!」と早合点して、短絡的に急旋回しないことも大切なのです。

2016年06月04日

何かを否定したい気持ちの正体

5/14の記事にて、己と向き合って「真に自分を理解すること」の難しさを書きました。

 

先週末のイベント中にも、たまたまこれに通じる質問が来場者から挙がったため、私も改めて感じるところがあって類似の内容で追記します。

 

長らく続いた資本主義的な主流価値観、「勝つためには何をどうする?」といった考えでの「競争」を善しとしてきた社会に適応してきたほとんどの人々は、合法である範囲内で「いかに利益を確保するのか」こそが人生においての最重要課題です。

 

しかしそこには、結果的に「敗者」や「社会的弱者」を輩出し続けるという背景も織り込み済みです。

 

そのような自覚が微かにでもありながら生産性を追い求めることを余儀なくされている大多数の人々は、自分がそのシステムに加担している罪悪感や虚無感を浮上させないため、自己を正当化したり気付かないフリをしなければならない諸々が社会生活を続けるほどに積もっていきます。

 

つまり、自分に蓋をして誤魔化しているものが多いと、そこに抵触する対象は人物であれ言葉であれ事象であれ…対象を否定もしくは回避することで、無意識的に自己の正当性を維持するのです。

 

「興味が無い」というのは全く別の話です。

 

周りに合わせて興味があるフリをすることも、これまた内面に歪みを蓄積させてしまいます。そもそも興味関心のない事柄に、わざわざ「否定」というエネルギーを注ぐ必要はないのです。

 

よって私が皆さんにお伝えしたいことは、否定したい物事が顕れたときこそ自己と向き合うチャンスだということ。

 

自分の内に有しないものは外に見えても反応のしようがないからです。

 

経営コンサルタントとして大勢の人と接してきた経験からも、私はこれに関して確信に近いものを持っています。

 

会社や上司に対し否定的な傾向が強い人ほど、最も活躍する人に豹変する可能性が大きいのです。

 

関心がなければ、否定感情も肯定感情も生まれはしないからです。無関心な人に対してあれこれ試みるという作業は、それこそ「糠に釘」。

 

難易度最上級です(笑)

 

 

アナタが自然と強く否定したくなるのは、どんな事柄や状況でしょう。実は、そこにアナタ自身の変革の鍵があるのですよ!

 

2016年05月31日

5/30 第5回「波動体験会」ご報告

昨日、無事に開催されました「異次元ツアー」の簡易レポートです。

これまでの4回は週末の夜でしたが、今回は「平日ならOKだが夕方には帰宅していたい」との多くのご要望にお応えし、正午のスタート。

 

 

会場も昼らしく、大自然を感じさせるアート空間に変更いたしました。

 

その場の雰囲気に、入場されただけで歓ばれる方も多く、和やかな雰囲気の中「真名圭史」氏の誘導で、今回も1人残らず全員に、高次元領域での体験談を語って頂けました。

 

 

自分のルーツとなる星や宇宙人の姿を目にする人がいる一方、開口一番「何も見えなかった… とても眠かった…」などと話す人がいるのはいつものこと。

 

それは、3次元空間での五感とは全く異なる高次元での体験は抽象的すぎて、慣れないうちはとても言葉で表現できないからです。

 

それでも、あの手この手で引き出せば必ず高次領域体験の証である象徴的な何かが浮き彫りとなってくるのです。

 

まず、視覚認識だけとは限りません。

 

今回も体感や声が聞こえるタイプを含めて様々なパターンがあり、それが何を意味しているのか?の謎解きサポートが私たちの役割です。

 

著しい体調不良が良化した方が今回も複数いらっしゃり、身体と意識の密接な関連を再認識できました。

 

まだまだ外が明るい閉会刻だったので時間の許す方々には残っていただき、更に突っ込んだ座談会を試みました。

 

皆さんが精妙な波動の下で楽しく貴重な体験を得て帰られる姿を目にし、以後も益々の充実を図りたいとの気持ちが募りました。

 

お越しくださった皆様、これを読んでくださる皆様、誠にありがとうございます。

次回の開催日程が決まりましたら、またこちらに告知します。楽しみにお待ちください!

 

2016年05月14日

「自分らしく…」の「自分」について

皆さん、近頃は「ありのままの自分で…」「自分らしい人生を…」などの言葉に触れる機会が多くなっていませんか? 

 

誰もが「そうだったら、とても素晴らしい!」と思える魅力的な言葉であると同時に、「そんなこと自分にはとても許されない」と、単なる「憧れフレーズ」として捉え、実生活への反映においては瞬時に却下している人も多いのではないでしょうか。

 

それが実現できない理由は、ズバリ「変化を望む一方で大きな変化を怖れている」ということ。

 

そして何より「自分という人間が何なのかを真に理解する」という作業は難しいどころか、それがきちんとできている人はごく一握りだからです。

 

むしろ「いかに【自分】を、もっと言うならば【人間】という存在を直視することを避け続けたまま、一生をやり過ごせるかどうか」という姿勢が、現代社会では主流だと思われるのです。

 

生死がセットでの人生なのに「死について深く考えたことがない」ならば、「生きることについて深く考えたことがない!」そうなるのは必然です。

 

肉体死という万人に不可避の現象をタブー視したり、「できるだけ健康で長生きできればそれでよい」などと漠然と考えているようならば、そのような精神態度で送る余生に如何ほどの魂の成長があるでしょう。

 

動物ならば、それでよいのでしょうが・・・

 

私が「意識変革コンサルタント」として貢献できること、それは「自分自身を深く知ること」のお手伝い。

 

キーワードは「記憶」です。

 

現代人の誰もが無意識に封印している「自己の記憶」を呼び戻すだけで、人生は劇的な変化を遂げます。

その手法については、私「石井数俊」が監修させていただいた『非物質ガイドとの探索』三部作にもヒントを盛り込んであります。

人は情報生命体ですから、自己の情報管理術が充実人生の鍵を握るのは当然のことなのです。

普段は潜在意識下に埋もれさせている自己の本質から引き出せる「何か」、それがたとえ僅かでも、大きな進展のきっかけとなる! 

 

その、引き出せる「何か」は人それぞれ。

人の数だけ個別対応が必要となるのが実態というわけなのです。

万人に同じく該当する「何か」が明確にあるならば、情報入手がこれだけ容易な昨今では、皆が「幸福この上ない自分らしい人生」を既に送れているはずです。

あいにく、外部から入手できる情報が真に自分の必要とする情報であることは稀なのです。

そこを錯覚して行動に移すことが、新たな歪みを生じさせてしまいます。

人とは多面性を有するなんとも複雑な生き物で、「自分らしい」と思い込んで選択したものがミスチョイスであるケースが多いという意味です。

事件・事故・病気・経済困窮・死別…等の人生転機の訪れを待たずとも、自発的な意志によって「真の自分を知る」きっかけを創ることは可能です。

そうして逃げることなくきちんと自分自身と向き合い、自分という存在を肯定視できるようになったその時から、他者評価に左右されることのない、ブレのない充実人生が始まるのです。

 

 

2016年03月18日

多次元的自己(過去生・未来生・非物質)活用ワークショップご報告

3/12(土)に開催しましたワークショップのご報告です。

 

会場は空や宇宙をテーマとしたギャラリー。

 

床座や椅子、参加者思い思いの好きな姿勢にてリラックスしていただき、まずは時間や空間などの次元概念の解説を行います。

 

これからやろうとする内容を理性的に解してモヤモヤがとれた後、多次元ナビゲーター「真名圭史」氏が皆さんを瞑想状態に誘います。

 

日常の肉体自己意識のままでは、百年千年単位での自分の過去や未来を認識できないからです。

 

自らの意識の視座を高次元に移行すれば、誰もが自分の過去生や未来生を認識できます。

各参加者それぞれが特定の人生に意識をフォーカスすることを繰り返し、過失を犯した時や死期などに伴うその感情を客観視して受け容れてもらいます。

そのことが今の人生の意識にも大きな変化を生み、今生これからの充実度を向上させることが目的です。

 

普段ならばほぼ誰も認識できない過去と未来の自分の人生を参加者が1人残らず認識でき、その意識が今生に与えている影響や修正ポイントなどをアドバイスさせていただくことで、おかげさまで参加者全員が納得されるとても意義深いワークショップとなりました。ありがとうございます。

この文章をお読みになってのご感想や疑問点、リクエストなど、何かございましたら遠慮なくお問い合わせ下さい。ご返答すると同時に、以後のイベント内容検討の参考にさせていただきます。

 

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