自分の道
「自分の道を歩む人生」なんて類の言葉に憧れやカッコよさを抱く傾向が生れたのは割と最近のことかと思われます…もちろん数ヶ月や数年ではありませんが(笑)。
自分の道を他の誰かがどうこうしてくれるとするならば、それは大人になるまでの「子供」とされている期間が主であって、この文明でのあらゆる時代と場所を平均するならその期間はせいぜい十数年でしょう。現在の日本では全員ではないにせよ、老後とされる年齢になっても「国が・政府が・企業が・自治体が」場合によっては「親が!」道を用意してくれるのか、くれないのかが重要な論点となっているような状況です。
最も普遍的パターンであったはずの「子供」は全くあてにしていないという世帯も多いようですし、私もそれを批判するつもりは毛頭ありません。他ならぬ私の肉体生命も、間違いなく身近な人々の支えがあってこそ今日まで続いているのですから。元々その傾向はありましたが近頃は特に、朝目覚めると「随分と不具合の多い身体となってはいるものの、自分はまだ肉体を維持して生かされているのか・・・」しみじみそう感じて不思議でならない毎日です。
「道」にも色々あります。幹線道路・国道・県道・私道・あぜ道・獣道… 左上の写真は、聞いた話ですと「よく氾濫していた川を工事して歩行者専用の緑道にした」という、近所にある私の散歩道です。日中は猫が挨拶に出てくる以外は歩く人もまばらで、リハビリ歩行訓練には丁度良いのです。
20世紀後半での日本人の人生の選択は、どんなに渋滞していようと幹線道路に人気が集中していたわけです。そのルートに乗ること自体が目的であって、慢性渋滞の太い道に入れることを誇りに思える精神構造をした人が圧倒的に多かったのです。しかし今世紀に入ると、明確で具体的な目的地に向かうのには幹線道路では辿り着けないので裏道を探して見つけたり「どうせ無目的のドライブならば…」と道自体が楽しいコースを選ぶ人が増えてきたのでしょう。
細くてまだ整備されていない道を試行錯誤して進むことが不安で怖い人もいれば、それがワクワク楽しくて仕方がない人もいますから、どの道を行くのも正誤や優劣の問題ではありません。
ところがこれらとは異なる概念があります。それは「道なき道を行く・道を切り拓く」というものです。断念して引き返すリスクたっぷりの選択(笑)。費やす時間もお金も労力もダントツです。良くも悪くも社会が大きく変わる時は、これを成し得た人が絡んだ場合です。人知れずそのように生きた先人も大勢いたことでしょう。この世に名は残らずも功績は遺して他界した方々です。
つまり私が伝えたいのは「自分の道・我が道」などと言っても、その人オリジナルの道などハナから存在しないのです。それを開通した人、そこを後から通った人々がいるから「道」なのです(笑)。そしてどんな道であろうと、選択した道を進んでみないことには何もわかりません。進んでみたらその人にとっては思いのほか快適な道だったのか、あるいは別の道を探したくなるのか、それとも行き止まりで選択の余地なくルート逆行を迫られるのか…
そこまで来てはじめて「どんなに分が悪くても自分で道を切り拓く他はない、道を拓こう!」そう決断する場面が訪れるのです。情報過多時代に生きていると、いきなり自分で簡単に道が拓けるものと勘違いする人も出てくるのです。幹線道路の渋滞情報は簡単に入手できますが、脇道や田舎道の情報は入手困難な上、内容が歪曲されている場合が多い…という背景も後押ししているのでしょう。