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2017年 5月
2017年05月26日

自分の道

「自分の道を歩む人生」なんて類の言葉に憧れやカッコよさを抱く傾向が生れたのは割と最近のことかと思われます…もちろん数ヶ月や数年ではありませんが(笑)。

自分の道を他の誰かがどうこうしてくれるとするならば、それは大人になるまでの「子供」とされている期間が主であって、この文明でのあらゆる時代と場所を平均するならその期間はせいぜい十数年でしょう。現在の日本では全員ではないにせよ、老後とされる年齢になっても「国が・政府が・企業が・自治体が」場合によっては「親が!」道を用意してくれるのか、くれないのかが重要な論点となっているような状況です。

最も普遍的パターンであったはずの「子供」は全くあてにしていないという世帯も多いようですし、私もそれを批判するつもりは毛頭ありません。他ならぬ私の肉体生命も、間違いなく身近な人々の支えがあってこそ今日まで続いているのですから。元々その傾向はありましたが近頃は特に、朝目覚めると「随分と不具合の多い身体となってはいるものの、自分はまだ肉体を維持して生かされているのか・・・」しみじみそう感じて不思議でならない毎日です。

「道」にも色々あります。幹線道路・国道・県道・私道・あぜ道・獣道… 左上の写真は、聞いた話ですと「よく氾濫していた川を工事して歩行者専用の緑道にした」という、近所にある私の散歩道です。日中は猫が挨拶に出てくる以外は歩く人もまばらで、リハビリ歩行訓練には丁度良いのです。

20世紀後半での日本人の人生の選択は、どんなに渋滞していようと幹線道路に人気が集中していたわけです。そのルートに乗ること自体が目的であって、慢性渋滞の太い道に入れることを誇りに思える精神構造をした人が圧倒的に多かったのです。しかし今世紀に入ると、明確で具体的な目的地に向かうのには幹線道路では辿り着けないので裏道を探して見つけたり「どうせ無目的のドライブならば…」と道自体が楽しいコースを選ぶ人が増えてきたのでしょう。

細くてまだ整備されていない道を試行錯誤して進むことが不安で怖い人もいれば、それがワクワク楽しくて仕方がない人もいますから、どの道を行くのも正誤や優劣の問題ではありません。

ところがこれらとは異なる概念があります。それは「道なき道を行く・道を切り拓く」というものです。断念して引き返すリスクたっぷりの選択(笑)。費やす時間もお金も労力もダントツです。良くも悪くも社会が大きく変わる時は、これを成し得た人が絡んだ場合です。人知れずそのように生きた先人も大勢いたことでしょう。この世に名は残らずも功績は遺して他界した方々です。

つまり私が伝えたいのは「自分の道・我が道」などと言っても、その人オリジナルの道などハナから存在しないのです。それを開通した人、そこを後から通った人々がいるから「道」なのです(笑)。そしてどんな道であろうと、選択した道を進んでみないことには何もわかりません。進んでみたらその人にとっては思いのほか快適な道だったのか、あるいは別の道を探したくなるのか、それとも行き止まりで選択の余地なくルート逆行を迫られるのか…

そこまで来てはじめて「どんなに分が悪くても自分で道を切り拓く他はない、道を拓こう!」そう決断する場面が訪れるのです。情報過多時代に生きていると、いきなり自分で簡単に道が拓けるものと勘違いする人も出てくるのです。幹線道路の渋滞情報は簡単に入手できますが、脇道や田舎道の情報は入手困難な上、内容が歪曲されている場合が多い…という背景も後押ししているのでしょう。

 

2017年05月23日

植物に学ぶ

「植物は凄い!」しみじみそう感じるようになったのは、私が高校生になってから。

小学校でアサガオなどの成長を観察記録していた憶えがありますが、小さくて食事をしなくてもちゃんと日々変化して花を咲かせる自然の不思議を実感できたものの、おそらく少年の皆がそうであるように、観察しているその場での動きが速くて面白い昆虫や魚や鳥や動物の方に常に関心が向いていました。

生まれ育ったのが自然の多い田舎でしたから、家の周りにも多少は草木が生い茂っているのが普通です。山も川も湖も海も近く、私はいろんな生物の営みを観察して自然から多くを学んで育ちました。

そして様々な生物を飼育してきて気付いたのです。身近に置いてもほどなく衰弱したり死んでしまう、そもそも人間の身近に置くことすら無理のある生物が多い中、自分が生れた時にはそこにあった植物が最も逞しくて強く、人間をはじめとする周りの生物に恩恵をもたらし続けているという事実に!

人間よりもはるかに偉大であろう…その樹木の繁る森を、人間の頭の毛を剃るようにして次々とハゲ山にしている人類を蔑みたい気持ちにもなりましたが、自分も木造の家に住んでいるし木製の楽器や家具も大好きだったのです。動物愛護で皮や肉を避ける生き方ならまだできますが、植物を一切食べないし活用しないという生き方は叶わないでしょう(笑)。何でも節度の問題なのです。

さて本題は、その植物に関するエネルギーです。動きはとてもゆったりとしているのに、どうしてあんなに大きく太く長く生きて行けて当たり前なんでしょう。人類が手を入れたりとかで環境が激変しなければ、樹齢数百数千年どころか数万年単位だってあるだろう、というのが私の考えです。学校で教わった「光合成・水・地中の養分」だけで説明できるはずもない圧倒的なエネルギー…それは非物質だからです。

工業製品となってからでも長年感じられる木材の生命力に比べたら、平均的現代人に係わるエネルギーの非効率さといったら呆れるのを通り越して感心しちゃうほど(笑)。大量生産大量消費を目的に仕込まれた社会システムだからとはいえ、こんなにエネルギー効率を落としてまで順応できる生命体は人間を除いて他にいないでしょう。良くも悪くも、どのようにでも大きく変われるのが人類なのですね。

しかしそんな現在でもエネルギー量が枯渇寸前ではなく、そのエネルギーを外に向けようがないため内に向けている人たちが「ニート・ひきこもり」として規格外の扱いを受けていることが多いのです。あなたの家庭ではないにしても、周りにそのようなケースを見受けることが多いのではないでしょうか。来月は、そのような「人生におけるエネルギーの使い方」について【ひきもり講演】と題して平日6/14(水)と週末6/25(日)、一回ずつお話します。お問い合わせも、お気軽にどうぞ。

 

 

2017年05月18日

空間自体がエネルギー

皆さんは「エネルギー摂取」と聞いて何を思い浮かべるでしょう。

学校の授業で「たんぱく質・でんぷん・ビタミン・脂肪・酸素・燃焼」等の単語を知ることとなり、きっと多くの人にとって、それらはその後何十年経っても変わらない概念となっているでしょう。

私がこれまでに接してきた人々の中にも「朝飯も食わずに出勤(登校)してくるなんて問題外だ!」やら「もうとっくに昼過ぎだ。早く飯を食いに行かないと体がもたない!」とか「夕飯はもっとモリモリ食べないと力が出ないぞ!」といった類の価値観を半ば押し付けてくる年配の方がどこにでもいました。その度に私は「世の中、そんなすぐにガス欠でエンストしてしまう燃費の悪いマシンや、電池がすぐ空になってしまう電力ロスの大きいオモチャと同じような人ばかりではないんですよ…」と心で呟いていました(笑)。

「飢えを知らない贅沢な時代環境に生まれ育った輩の戯言だ!」そう誤解されるのもイヤですし、若くはなくて肉体を育む必要の全くない私でも、前回の食事から丸一日も経てば実際に思考内容の比率が食べる事で占められはじめます…今がまさにそんな空腹状況(笑)。だからこそ、考えたり文章を作ったりする気力が湧くのです。

人間以外の動物や魚を観察しても疑いようのない事実ですが、食物を大量摂取する行為はそこから少なくとも数時間、頭脳も含めた身体諸機能を著しく低下させます。内臓器官をはじめ肉体負荷を絶やさず大きくし続けて、心身のパフォーマンスを常に落とす努力をしている方が大勢いらっしゃるわけです。

かといって私は、数日・数週間・数ヶ月・数年と長期の不食を薦めているわけでもありません。味覚の備わった肉体を有して生きているのならば、食事が日々の楽しみであるに越したことはありません。適度な運動や睡眠や性の悦びについても似たことが言えるでしょう。

私の持論では、快適な健康生活の秘訣は物質の栄養と非物質の栄養との比率を徐々にシフトさせ、バランスさせることにあります。人間の非物質エネルギー摂取とは、俗に【呼吸】と言われているものです。花や樹木や野菜や果物、つまり植物の生命エネルギーにもヒントがあります。

昨年、脳幹出血による意識不明の重体から意識が戻っても、産まれたての赤ちゃんと同レベルからのリスタートを余儀なくされた私は、医師の「修復されることはない」との言葉通り、今でも脳幹損傷部分の傷跡は物理的にそのまま…なのにもかかわらず、寝たきりのその時から一年未満の今、普通に話したり書いたり、なんとか移動もできる程に肉体機能が回復してきているのは、明らかに物質的な栄養によるものだけではありません。

明後日は「在り方としてのヨガ」を提唱する「カオン」さんとの【呼吸】をテーマとしたコラボイベント。
そこではもう少し詳しく解説いたします。

 

2017年05月08日

昨日イベントのご報告

昨日開催されました、国立市「わとわ」での野村節子さんクリスタルボウル演奏会。

 

ゲスト参加させていただいた私は「人の生死・寿命」などについてお話をさせてもらいました。

 

まるで個人宅のリビングのようなサロンに相応しく、砕けた雰囲気の中で濃密な時間を過ごせたことを感謝します。

 

連休最終日にもかかわらずお集まりいただいた皆さん、誠にありがとうございました。

 

私まですっかりリラックスしてしまったため(笑)終盤はずっと肉体から意識が抜け気味となってしまい、切れが悪かったであろうことをここにお詫びいたします。

 

俗に言う「死後の世界を語る」というよりは「肉体死を怖れて闇雲に避けようとしたりタブー視する必要はなく【人間の生死】は宗教という閉じた世界でだけではなくて元々もっとオープンに扱われるはずのものだ」という主旨が伝わっていたなら幸いです。

 

生死セットでの人生ですから、それが「いかに生きるか」の全てを左右するのは至極当然のことなのです。

 

人と社会のあり様は、すべてこのテーマに集約されます。

これに関するメッセージを私は今後も発信し続ける所存です。

私個人に対してではなくて、この考え方が普遍的となることに賛同される方の数に比例して、物質人間社会は大きな変貌を遂げるでしょう。

 

2017年05月05日

連休はテーマパークなどの行楽地に子連れで出かける人も多いことでしょう。そこに関連して思い出すことがあったので書いてみたくなりました。

 

私が子供の頃、家族連れで賑わう遊園地などの固定施設はもちろん、近所の子供が集まる臨時の催し物などでも「お化け屋敷」が定番でした。

 

後になって考えればまさに「子供だまし」的な設営が多かったわけですが(笑)必ず入るのを楽しみにしていました。

「恐怖」というよりも「面白さ」を感じてワクワクしていた記憶があります。

 

今思えば70年代はそんなブームだったのか、幼稚園や小学校から帰ってTVを付ければ「お化け・妖怪・人造人間・超能力・魔王・魔女・悪魔」などがキーワードとなる番組を毎日のように放送していました。

 

夢での異次元旅行が日常的だったとしても、肉体で通う学校や近所にはごく普通の人間の姿ばかり(笑)。

好奇心を満たしてくれるような何かを物質世界にも大きく期待していたのだと思います。

大人になってから冷静に考えれば、肉眼で視えないはずの何かが常に見えていたり空気が振動していなくても常に音声が聞こえたりする人は、大抵が苦しんだ挙句周りにさとられて「幻視・幻聴」という精神異常のレッテルを貼られてしまうもの。

「平凡な人間しかいなくてつまらないなぁ」なんて感じながら育ったくらいの方が、健全な少年期を送るのには適切な環境だったのです。

そんな経緯から、私は思春期には非物質世界のことを「自分で見たい・聞きたい」という積極的な欲求は皆無になりました。何も慌てて死の世界に憧れなくたって、そこへは遅くとも数十年以内には「体験し放題」となるわけですからね(笑)。

 

ところが「見せられる・聞かされる」ことを拒むことは、なかなかできません。

必ずしも皆さんがイメージする手法が採られるわけではありませんから「気のせい・記憶違い」などで片付けられてしまうケースがほとんどですが、それらは誰にでも起きている事です。典型的な私の実例をひとつ挙げてみましょう。

 

もう十年以上前のことですが、末期ガンで入院していた母はご多分に漏れず放射線を浴びまくって投薬されまくって肉体死を待つばかりでした。元々睡眠中の夢の世界が大の楽しみだった母は、健康だった60歳頃から既に「老いてまでは長生きしたくない」と常々言っていました。そこから数年後、最期は辛かったみたいでしたがある意味願いが叶ったのです。

 

その頃の私は起業でバタバタして事務所兼一人住居の状態となっていたある日、深夜3時頃に人の気配がしたので身体を起こしました。

すると私がいつも座っている事務椅子の前に母がしっかりと二本の足で立ち、心配そうに無言でこちらを覗き込んでいたのです。エントランスオートロックも部屋の鍵も何の役にも立たない(笑)!私は何度もまばたきをしたり首を振ったりしましたが、母の姿は数十秒間そのままでした。

 

物理法則の常識を超えていたとしても、それが幻ではないことを確認した私は再び横になって瞼を閉じ、その現象の意味を考えたのでした。

 

「俗に言う『枕元に立つ』ってヤツかな。だとすると?いずれにせよ明るくなってから連絡を取るしか…」そして日中病院に行くと、相変わらず寝たきりですが母は呼吸をしています。深夜に独り外出できるはずもありません。忍術用語で言ったら「分身の術」を使った(笑)。

 

もう会話も出来ない容態なのに、そうまでして長男に伝えたいメッセージがあったわけです。

 

母が気持ちよく他界することを邪魔しているであろうこの世の気がかりを解消すべく、私はそれまでの人生で最も大きな行動を起こしました。

 

そこには更に数点の大きな変化が伴いました。

 

数ヵ月後、私が実際に目にした母の死に顔はとても穏やかでした。

これが、むかしむかしの物語だとしますと、冒頭の「お化け屋敷」によく出てくるネタにもなりそうですね(笑)。

 

私がこの件で学んだこと。

 

肉体にどんなハンディがあろうと、物理的に何の障害があろうと、もっと言えば肉体があろうとなかろうと、メッセージを送る方法はいろいろあるのです。

 

どんな形であれ伝えられたら無視しないで、できる範囲で対処することが大切です。周りを説得する必要もありません。それを「非科学的」だとか「作り話」だとか「夢」だ「幻」だと、言いたい人には言わせておけばいいのです。

私が昨年、脳幹出血で重体となった後に肉体意識が戻った時点では、視る事も起き上がる事も食べる事も話す事もほとんどできなかったのです。

 

「これで死ななかったのは奇跡です」などと医師に言われても、猛烈なしびれと痛みに襲われている私には何の慰めにもなりません。

 

それでも決して絶望的にはならず、毎日欠かさず健常な肉体に戻す訓練を積んできました。

半年以上を経た今、一見身体に問題のなさそうな人にまでは戻れています。

マニュアル化できるハウツーものではないので説明するのが簡単ではないのですが、それらを可能にしている、根底となる考え方をお伝えしています。

 

2017年05月04日

時間の縛りから抜け出る

世間一般では「死後の世界があるのか?ないのか?」という言い方をしますよね。

 

あるいは「生まれてくる前の記憶」という言い方もします。現代社会に生きればそのように洗脳されてしまうのですから仕方がないのですが、誕生から肉体死を迎えるまで直線時間が絶対だと思い込んで生きている人にとっては、生死も時間の概念でしか捉えられなくなってしまうわけなのです。

 

肉体死が生命の終了である、という前提で様々なビジネスが成り立っているのが医療をはじめとする経済社会のしくみです。肉体死を迎えた後にも何かが存在していることを謳って経済に組み込まれているのが宗教です。

私は「前」とか「後」という概念そのものが錯覚であるとお伝えしています。

氏名で呼ばれて食事排泄をして維持しているその肉体がある今でも、あなたの本質は非物質の存在です。それは肉体があってもなくても無関係に存在するから本質なのです。

私はどんな医療関係者や宗教関係者や各学会の関係者が語ってきたであろう事とも少し異なる話を、わかりやすくお伝えするよう工夫しています。

臨死体験と呼ばれるもの、実は誰にとっても当たり前の経験なのですが、その体験学習の内容を肉体で堂々と発表している人は少ないようです。

なぜなら肉体の健康状態がそこまで回復しない場合が多いのと、このような内容を人前で話す機会を設けることを積極的にする人は元々ほとんどいないから(笑)。

というわけで、連休最終日5/7(日)に「人・意識・宇宙・時間・空間」などについてのお話をします。生きて行く上での「常識」とされているあれこれが腑に落ちないようであれば、初めて納得できる話に出会えることとなるのかもしれませんよ! 

お会いできるのを楽しみにしています。

 

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