いろんな人が存在する意義
「一般的な社会」の枠には収まらない人々と、その捉え方について考えさせられる事件が大々的に報道されています。
知的障碍者として生まれてきた二歳下の弟を持つ兄として、私もこのテーマについては小学生の頃から考えざるを得ない環境でした。
かく言う私自身も、現在の地球の中の日本という国における多数派の常識や慣習には必ずしも従わない、お上からしたら学校教育洗脳に失敗した規格外の人であり続けています(笑)。
自分が成人して母の話をよく聞けるようになってから、私は弟の存在意義の大きさに改めて気付かされました。
予想だにしないまさかの次男の誕生に当惑した母は、最初の数年間「この子を殺して私も一緒に死のう…」と何度も真剣に考えたそう。
それでもその都度思い留まり、訪れた現実をありのままに受け入れて肯定的に振舞うことで母は更に大きな愛情や寛容性とユーモアを培ったのだと思います。
そのような子供を人目につかせぬようコソコソすることも一切なく、常に堂々と連れて外出。
「手をつなぐ親の会」とやらの相談員などにも積極的に参画していました。
親がそんな具合ですから、私にとっても全く恥ずかしいことではなく何の躊躇もなしに弟と共に外出し、そんな弟の話をどこでも平気でしてきました。
同時に、怖いモノを見るような目で見たり、見ても見ないフリをする人達の存在にも気付きました。
経済的な事を含め物理的な負荷があるのは事実ですが、愛・勇気・受容・忍耐…等々の金銭には代えられない宝を与えてくれた家庭環境に、今の私はとても感謝しています。
この社会の在りように絶望した若い頃から私に定期的に襲い掛かる強烈な自殺願望を抑止してくれたのも、弟の創造してくれたこの家庭環境でした。
母は60歳を過ぎてから「もう充分に人生を堪能できたから、いつ死んでもいい」などとこぼすようになり、実際に病死という形で66歳で他界しました。母子家庭で生まれ育った母は、自分が母となってからも学びが濃縮された人生でしたから、卒業も少し早かったみたいです。
さて、ここで視野を広げて心身の機能がどうであるかに関わらず、広義でのタイトル「いろんな人が存在する意義」ですが、これはもう「接する人、関わる人に気付きを与えるのが目的」で間違いない! 私はそう結論づけています。
人が非物質の意識状態だけで存在する場合には波長共鳴の法則が徹底しているため、自分と異なる性質を有する存在との接触は原則叶わない。
しかし誰もが肉体に宿って物質世界に視座を置くことで、本来の非物質世界ではありえないような波長に相違のある存在とも関わる事ができ、それが貴重な経験や学びとなるわけです。
これを宗教的に表現するならば「神は、そのままでは神であることを自覚すらできない。
例えば人間という物質次元に宿って諸々の相対的な体験を経ることで、はじめて絶対的な神性を認識できるようになる」とでも言ったらよいのでしょうか…
弟は何歳になっても純粋そのもの。
貨幣経済での取引や損得勘定の概念などを理解できるはずもなく、ただただ、スピリットとして純粋に存在し続けることで「人とは、社会とは、幸せとは、豊かさとは何なのか?」とのテーマを周りに投げかける大きな役割を果たしてくれていたのです。
母に遅れて他界した父が生前、弟についてポツリと語った一言がありました。
「アイツは神様だ」・・・ 今でも私の心の奥深くに刻まれています。
私の目には、戦後の貧困から高度経済成長をひたすら駆け抜けてきた唯物主義者として映っていた父の言葉だけに、妙に印象深いのです。
あなたにとって一見不都合だったり迷惑だったりで「存在しない方がよい」と感じる人物、それにまつわる事象は何ですか?
そこにこそ「神のメッセージ」が込められているのかもしれませんね。