小学校ではダーウィンの進化論を当然のように教えています。
このように一つの仮説に過ぎなかったものを真実であるかのごとく普及させて洗脳する姿勢は現地球文明の悪しき傾向ですね。
人とは知的生命体です。
その他の生物は確かに惑星地球に順応しながら生き延びることだけを目的に変化してきたのでしょう。
ところが人だけは非物質の霊魂を肉体(今の地球ならば哺乳類)に宿らせるという試みをしているわけです。
ですから猿(動物)と人とでは全く異なる生物。
イルカやクジラでしたら、まだ人に近い知的生命体なのですが…
しかし現代人は、小さな頃から「人も動物の延長である」と教え込まれるのですから、高学歴でスーツを着ていようが実態は食欲や性欲(つまり現代社会システムでは金銭欲)を充たしたいだけの低知性な動物だったりするのです。
これからは、地球の人間という生物として生まれてくる人が激減する時代。
よって、かつてがそうであったようにこの世にいても霊的知性を養える環境を復興させることが急務なのです!
映画「インターステラー」をDVDで5年ぶりに鑑賞しました。
怪奇現象や神の仕業と思われている現象が三次元にはいない人によって起こされている実態とか、立派そうな人物ほど堂々と嘘をつく地球人の傾向とか、不動かと思い込んでいる時間や空間の概念が絶対的なものではない事実が、脚本に上手く盛り込まれています。
上映された当初も「よくできた映画だなぁ」と感じましたが、自分があの世からこの世を眺める経験をした後で改めて観ると、異次元からこの世を窺う絶妙な表現の手法に称賛を送りたくなります。
学校の教材にしてもよいくらいの出来栄え。
しかし、この映画の素晴らしさを理解するような人が教員職に就いていることはまずないか!笑
「ゆるす・ゆるさない」は愛とはほど遠い概念なのですが、世の中ではほぼ勘違いされて使われています。
片方が正しく優れていて、もう片方が悪いとか劣っている。
そんな風に裁いているからこそ使う傲慢な言葉、それが「ゆるす・ゆるさない」なのです。
特にスピリチュアルな場面での「ゆるし」とは、価値判断を一切せずに受け入れるというような意味なのです。
不遇かと思われた事をきっかけに人生が好転したとか、ラッキーかと感じた事が災難の始まりだったなんて話をよく耳にしますね。その前にご自身が経験しているのかもしれません。
何があろうとも「価値判断をしない」という姿勢が尊いのです。
「悟り」が近い言葉かと思いますが、該当する適切な言葉がありませんね。
強いて言うのなら「あるがまま」もしくは「これでいいのだ」でしょうか?
私も幼い頃にテレビの「天才バカボン」を見ていましたが、子供向け番組でこんなに深いことを言っていたのですね(笑)
現在の日本は「少子高齢化」と言われています。
50年もすれば今の高齢者は自然といなくなるわけでして、少子化の傾向は以後も続いて人口は絶対的に減ります。
貨幣経済がいつまで続くのかは不明ですが、生産や供給や消費という人間の基本活動が根本的に大きく変わることは確実です。
前世紀の職業の多くが神話(笑)となるでしょう。
戦争や天変地異で人口が激減する想定は映画でも小説でも色々ありましたが、そんな劇的な何かが起こらなくてもそうなることは必然です。
世界同時ウィルス蔓延でも充分に劇的でしょうが、今すでに免疫のある日本人は相対的に緩やかなシフトで済んでいます。
在宅勤務というスタイルの普及が何気に始まっている事実は、「サラリーマン戦士」なんて言葉を死語にしてしまうくらい画期的なこと。
本当に今は人間社会の在り方が
大きくシフトしているのです!
何もなかった空間に物質を顕現させる能力をご存じですか? かつて「サイババ」という人が得意としていた業ですから、ドキュメント番組を見たことがある人もいるでしょう。
厳密には瞬間移動でしょうから、同時にどこかでは紛失という現象が伴うかと思われます。
やられては困る人も出てくるわけで、あまりこの世で頻発すれば原則この世のルール違反となってしまう現象ですね。
7年くらい前のとある自分の事件を思い出しました。
割と興味深い話かと思われるので、ここに記します。
父が他界した3日後、「無事に葬儀も終わった」との安心感から私は父が独り暮らしで使っていた戸建ての家を確認しに行きました。
割と新築でしたが、他人に貸すなり売るなりする準備の為に数週前にはリフォームやクリーニングを済ませてあった物件で、父との思い出が残っているような予感がしたのです。
玄関を開けると靴箱の上に柿ピーの数パックセットがおもむろに置かれていました。
父は大病で大手術をしてからというもの、酒もタバコも止めてその柿ピーをつまむことを楽しみに余生を過ごしていました。
私は食べませんし買ったこともありません。
扉の鍵はちゃんとかかっていましたし、業者がそんな事をするはずもありません。
数日前には何も置いてなかったことを見ていた私は不思議に思ったので複数人に電話して確認しましたが、ここ数日私以外は誰も入っていなかったのです。
父の生前、私はこの世とあの世の違いについて躊躇なく話していました。
そんな時、父は黙って聴いているだけでしたが「おい、あの世に来れば本当にこんな事もできちゃうんだぞ!」と、私には誇らしげな父の顔が見えてくるようでした。
思っただけで実現する、それが「あの世」の法則。その法則をどのように「この世」に応用させるのかは、個人によってだいぶバラツキがあるようですね。心配や不安を実現させている人も多いのです!(笑)
親と子の愛について考察してみると、「愛」が性交渉の代名詞ともなっているくらいの現代社会において、若い頃に親子の愛について理解することはまずほとんどないはず。
なぜなら自分が親や子供の死を体験していないうちは、親や子供がいても当たり前の感覚が強いから。
世間一般で孫が可愛いとされるのは、誰でも孫ができる頃には親をはじめとする近しい人の肉体死を経験するので、肉体で生存していることのありがたみを感じ、相手がまだ当分は生存することを前提とした将来展望に期待が持てるのです。
とりわけ自分自身が肉体死を迎えることを想像させる病気や事故に遭うことで、その想いにより一層の拍車がかかるのでしょう。
「お互いが生きて関われることは特別に貴重なことである」との認識が芽生えてくるのです。
身近な人の死から学ぶことは非常に大きいのですが、周りの人の肉体死を称賛しているような誤解は誰もが受けたくないでしょうから(笑)、これはあまり語られることのない深い真実。
相手が誰であっても、自分とその人が肉体を有して関わっていられるのは間違いなく期間限定。
それだけでも貴重なのです。
飢えを経験すれば食に感謝し、病を経れば健康に感謝するのと同じように、人の存在も失ってはじめてありがたみを感じる…
それが普通の人間というものなのかもしれません。