ブログ

2017年 1月
2017年01月23日

楽しくて深い気づきの会となりました。

昨日開催されました【臨死体験・宇宙からのメッセージwithクリスタルボウル瞑想】は、おかげさまで好評のようでした。

 

飛行機でお越しになられた方もいらっしゃったようで、誠にありがとうございます。

生と死は表裏一体、死を語れる人のみが生を語れるのだとの位置に立脚し、限りある肉体物質人生を豊かに送ることへと繋がる世界観・宇宙観・人間観のあれこれを、笑いを交えてお話しました。

 

とても抽象的な単語が並んでしまいますが、死生観に興味のある人は宇宙の話にも深く興味をもっている場合が多く、数時間ではとても語りつくせない領域に話が及びかけたこともあって、「合宿形式でもいいから実際に長時間お話を聴きたい」などの嬉しい声もいただきました。

 

いかんせん現状の私は、お伝えしている通りの低スペック肉体なので、どんな創意工夫で皆さんとの情報共有や波動共鳴を実現させて行くのかがテーマでもあり、楽しみでもあります。

今回の主催「みんなの広場」野村節子さんの演奏されるクリスタルボウルは、会場の皆を本当に瞬く間に精妙な波動へと誘ってくれるため、波動の精妙なお話との相性はバツグンです。

また楽しくて素敵な時間を皆さんと共に過ごせるよう、手はずを整えて行きます。

 

同会場にて似た感じのコラボ、次開催は5/7(日)の予定です。

 

2017年01月17日

密接な関係

この世では、親が存在したから子が誕生したという概念が一般的です。

親がいたのは、その親にも親(祖父母)がいたから。

 

遡ればそのまた親がいたから…という具合で連綿と続く「種の保存」の営みに感謝の気持ちが向く一方で、自分という存在は生物学的にとても確率の低い偶然の産物に近いものであるという、唯物的価値観を積極的に誘発するようにも感じるため、私は十代の頃から「今肉体で生きていられることをご先祖に感謝しなくては…」というような考えには馴染めないタイプでした。

 

それは何度も述べているように、直線時間は錯覚であるという非物質からの見地が大きな理由ですが、この世的な金銭名誉欲の強い人が、災難や病、肉体死を怖れている人に言い寄って搾取をする場合の常套句である、というイメージが私個人の中で大きかったからでもあります。

そうは言っても、私を生んで育ててくれた両親には感謝していますし、両親が他界した今でも「ありがとう」の念は送り続けています。

 

何より、肉体を脱ぎ捨てる日を心待ちにしながらも私が今日までこの物質世界に留まっていられたのは「自殺したり親より先に逝くなんて、親不孝この上ないことだ」という考えが私にもあったからです。そして今でも、非物質の両親は私を見ているのですから(笑)

 

 

これまでもお伝えしてきた通り「人の本質は非物質なのであって、肉体が本質であるとの勘違いをしてはならない!」そんな考え方の私ですから、長年、物質肉体人類という種の保存に貢献するつもりなど毛頭ありませんでした。

 

つまり若いときから結婚や子供や家庭に抵抗こそあっても、憧れることはなかったのです。

しかし、若い頃には経験できなかった種類の壁によく直面する中年になってからも、若い頃とは別種の大きな気づきがありました。

 

それは「本来、人は物理制約のない意識体だが、肉体という制約だらけの物質環境下でしか経験できない学びが沢山ある」という隠された事実です。

 

学校通いが苦痛でしかなかった私ですが、子供の頃から自発的に何かを学んで習得することには、確かに大きな喜びを感じていました。そして、物質世界の様々な学びの中での苦難や喜びの変遷そのものが、複数の肉体人生。

 

非物質の意識体が物質経験から学べるしくみです。

そのことを去年の夏、私は意識不明の重体とされる継続的な昏睡状況下で再認識できました。

 

自分の視座がこの肉体ではなく、時代も場所も異なる複数の人生を同時に眺められる視点となったのです。

 

話を戻します。私が救急搬送されて医師に「危篤」とされたその日、息子が誕生しました。

 

まさに私が今生の肉体という殻を脱ぎ捨てようとした日に!です。

 

今回、ほぼ脱ぎかけた肉体に再び還ってきた要因に、息子の生誕という印象的な物質次元でのイベントがあったからなのは間違いありません。

 

生まれたばかりの赤ちゃんなんて泣き喚く以外に何もできない、誰もがそう思うでしょう。

 

ところがその日、息子は物質肉体として姿を現すことでいきなり大きな仕事をしました。

少なくとも妻や周りの人たちはそう捉えています。

 

もしも皆さんの身に同じ事が起きたとしたら、この出来事を単なる偶然だとして片付けますか? 

 

すぐにその意味は理解できないとしても、存在するだけで大きな意味をもつのが人というものだと思うのです。

 

ある人が誰にとってどんな意味があるかなんて、肉体レベルで考えても解るはずがありません。

 

判るのはせいぜい、その人のエゴを今すぐ充たす役割が相手にあるかどうか…ぐらいのものでしょう。

 

肉体年齢など全く関係ないのです。縁の濃い意識体だからこそ、親子をはじめとした密接な関係性となって物質界に現れるのです。

 

どう捉えるのかは各人の自由ですが、お互いが気づきの機会を与え合うために存在するのですね。 そんなお話のあれこれを、今週末にゆっくりしようと思います。 

 

とても考え出せない情報こそが人生を大きく左右するものなのです。

 

2017年01月06日

知性の在り処

皆さん、正月気分も抜けて平常の生活に戻っていることでしょう。
以前、人間の肉体をハードウェア、意識体をソフトウェアに喩えた話をしました。

 

そして昨年夏、私はハードである肉体の致命的な故障をきっかけに移動もままならぬ足腰となり、瞼を開けるのが辛いほどに視界は常に乱れており、繊細な手先の感覚も失ったため、かつて好んで興じていたような身体を使う趣味はほとんど不可能となりました。

 

ハードのスペックがガタ落ちしたというわけです。

 

それでもかろうじてソフトをインストールし直すことができ、しばらくすると、故障前と変わらず使えるようになったソフトも多くなった、今はそんな状況です。

 

モバイルノートPCが故障してしまい諦めかけたところ、固定デスクトップPCとしてなら、かなり機能が限定されるけどまだ使えると判明した…そんなところでしょうか(笑)。

 

写真は飼育している淡水エイです。

私が入院中、妻では対処しきれずに淘汰されて行く魚たちの中、数ヶ月後にも生き残っていた個体です。

 

いい歳をして珍しいのでしょうが、私は田舎に暮らしていた幼少期に、田んぼの小動物や草むらのテントウ虫などの昆虫を見つけては興奮していた、あの頃の好奇心を失うことなく今でも維持しています。

 

このデザイン!シンプルな色、キュートな模様、幾何学的な形・・・いかにも仲間のデザイナーが創ったもののように感じませんか?

 

私は俗に言う「かみさま」にとても親近感をもって子供時代を過ごしたのです。

 

たまたま同じ家や学校で姿が見えないだけで「かみさま」は身近な仲間。誰かが「美しい」と思えるものを創っても肉体生存の記録がなければ神様。

 

つまり、固有名詞が無い状態の人の本質「意識体」を神と呼んでいるのだと思うのです。

 

肉体で生きる人にとって肉体のない個性は神。

現在の地球人では理解不能な知的存在は神。

自分の子供となる肉体を招致するのにも「子宝に恵まれますように」と神に祈る人が普通にいるくらいですから(笑)。

 

人間は肉体を有して暮らしていながら意識体でもあるのですから、実は誰もが神でもあるんですよね。

 

逆に「物質肉体が機能している間だけが人間だ」と断言して、故人の意識体に全く敬意を払わないような人には神性が宿っていないと言えるわけです。

 

でも大多数の人にとって、意識体(神)は自分と密接な関係なのです。

知性とは、この世もあの世も関係なく遍在する意識体の特性なのだと思うのです。

そしてその知性のことを、人間は神と呼んだりしてきたのではないでしょうか。

 

dav

2017年01月02日

能動的に生きる

さあ、みなさん、陽気の穏やかな新年を迎えましたね。私は先ほど日課のリハビリで合計2時間程の散歩。写真はその時の世田谷公園の様子です。

去年お伝えした、私の瀕死状態から得られた重要メッセージ。「人は物質の肉体であると同時に非物質の意識体である」ということはもうわかったから!という方のためにも、今年から、人の本質である意識体の特性をどのようにして肉体生活に取り込んで実践すればよいのかについて伝えて行きます。本日は、さっき写真にある噴水を眺めていて湧いてきたホヤホヤの内容をお届けします。

時間とは、意識が物質次元に閉じ込められているが故に直線的に流れていると感じるだけで、非物質である本来の意識体にとっては時の経過という概念は存在しない…これは昨年も説明しましたよね。
論より証拠を求めるなら、特に子供の頃は時間概念を忘れてしまうほど夢中になれたことがあったり、大人になった今でも、睡眠をとっている間は時の経過という概念から外れている意識体の状態であるはずです。
では、どうして現代社会には「忙しい」「時間がない」等の言葉を口癖のように発する人が多いのでしょう?

意識体は時間や空間に縛られず、能動的で自由です。それに対して肉体は、昨年説明した通りある意味マシンであり、肉体マシンは受動的にしか動かないことになります。当たり前ですがマシンが創作活動をすることはなく、プログラムがなければ仕事をしません。ですから現代社会には教育システムが組まれているのであり、そこに疑問を感じることなく落ちこぼれることもなければ、優秀なマシンとして各々の組織に好都合な社会人プログラムに書き換えられます。こんな仕組みにすっかり飼い慣らされている人が「常識的な人」とされているのが現代です。つまり、創造性を自由に発揮する能動的な人が増えたら成り立たなくなってしまうのが今の社会のしくみです。そして実際に崩壊が始まっています。

本題に入りますと、指示を受けて動く肉体(物質)としての性質が大きな割合を占めるような生き方をしている大多数の人々は、そうしなければならない(と思い込んでいる)事柄にいつも追われています。それはそうでしょう。「命令は既に遂行したので、何もせずに次の指示を待ちます」などというマシンは非生産的だとみなされますから、常に「させられている」「しなければならない」諸事に優先順位をおくようにプログラムされていて、自分が何を望むかなんて考えたこともない…というくらい能動性を失っている人だって少なくありません。

でも実は優先順位の低い無駄な時間などありません。時間に限らず「失う」というのは錯覚なのです。物質肉体を有していない意識体の状態、つまり生まれる前と死後ならば、失うものは何もなくて当然です。所有や喪失という概念も、物質次元に閉じ込められた状況に特有のものなんですね。
肉体死を待たずとも、肉体人間として生きながらこれら異次元の気づきを得て行くことが、創造的で自由な人生を送る秘訣なのです。誰もがそんな能動的な人生を送ることのできる物質社会の実現に向け、現代地球人の意識変革をもう少し手伝おうと、脱ぎ捨てたかと思われた肉体に再び戻ってきた物好きな私(笑)

時の経過が錯覚ならば、なるほど確かに、何かを始めるのに早すぎるも遅すぎるもないわけです。
したい何かがあってもできない言い訳「時間がない」というセリフが「時の経過は錯覚である」という文字通りの意味ならば、つまり時間が無尽蔵にあるならば、いったいあなたは何をどうしますか?
正解も不正解もありませんが、そこにそれぞれの人生の能動性が顕れてくるのです。

 

2017/ 1/ 2 10:59

過去の投稿

  • 2024年10月 (2)
  • 2024年9月 (1)
  • 2024年8月 (2)
  • 2024年7月 (1)
  • 2024年6月 (2)
  • 2024年5月 (8)
  • 2024年4月 (8)
  • 2024年3月 (1)
  • 2023年6月 (2)
  • 2023年5月 (1)
  • 2023年1月 (2)
  • 2022年12月 (3)
  • 2022年11月 (3)
  • 2022年10月 (20)
  • 2022年9月 (13)
  • 2022年8月 (21)
  • 2022年7月 (12)
  • 2022年6月 (23)
  • 2022年5月 (16)
  • 2022年4月 (26)
  • 2022年3月 (17)
  • 2022年2月 (22)
  • 2022年1月 (14)
  • 2021年12月 (7)
  • 2021年11月 (17)
  • 2021年10月 (16)
  • 2021年9月 (26)
  • 2021年8月 (40)
  • 2021年7月 (37)
  • 2021年6月 (38)
  • 2021年5月 (39)
  • 2021年4月 (38)
  • 2021年3月 (28)
  • 2021年2月 (36)
  • 2021年1月 (32)
  • 2020年12月 (30)
  • 2020年11月 (21)
  • 2020年10月 (10)
  • 2020年9月 (9)
  • 2020年5月 (1)
  • 2020年3月 (8)
  • 2020年2月 (8)
  • 2020年1月 (7)
  • 2019年12月 (8)
  • 2019年11月 (17)
  • 2019年10月 (19)
  • 2019年9月 (30)
  • 2019年8月 (29)
  • 2017年5月 (6)
  • 2017年4月 (5)
  • 2017年3月 (6)
  • 2017年2月 (6)
  • 2017年1月 (4)
  • 2016年12月 (7)
  • 2016年11月 (2)
  • 2016年10月 (1)
  • 2016年7月 (3)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (2)
  • 2016年3月 (1)