2017年01月17日
密接な関係
この世では、親が存在したから子が誕生したという概念が一般的です。
親がいたのは、その親にも親(祖父母)がいたから。
遡ればそのまた親がいたから…という具合で連綿と続く「種の保存」の営みに感謝の気持ちが向く一方で、自分という存在は生物学的にとても確率の低い偶然の産物に近いものであるという、唯物的価値観を積極的に誘発するようにも感じるため、私は十代の頃から「今肉体で生きていられることをご先祖に感謝しなくては…」というような考えには馴染めないタイプでした。
それは何度も述べているように、直線時間は錯覚であるという非物質からの見地が大きな理由ですが、この世的な金銭名誉欲の強い人が、災難や病、肉体死を怖れている人に言い寄って搾取をする場合の常套句である、というイメージが私個人の中で大きかったからでもあります。
そうは言っても、私を生んで育ててくれた両親には感謝していますし、両親が他界した今でも「ありがとう」の念は送り続けています。
何より、肉体を脱ぎ捨てる日を心待ちにしながらも私が今日までこの物質世界に留まっていられたのは「自殺したり親より先に逝くなんて、親不孝この上ないことだ」という考えが私にもあったからです。そして今でも、非物質の両親は私を見ているのですから(笑)
これまでもお伝えしてきた通り「人の本質は非物質なのであって、肉体が本質であるとの勘違いをしてはならない!」そんな考え方の私ですから、長年、物質肉体人類という種の保存に貢献するつもりなど毛頭ありませんでした。
つまり若いときから結婚や子供や家庭に抵抗こそあっても、憧れることはなかったのです。
しかし、若い頃には経験できなかった種類の壁によく直面する中年になってからも、若い頃とは別種の大きな気づきがありました。
それは「本来、人は物理制約のない意識体だが、肉体という制約だらけの物質環境下でしか経験できない学びが沢山ある」という隠された事実です。
学校通いが苦痛でしかなかった私ですが、子供の頃から自発的に何かを学んで習得することには、確かに大きな喜びを感じていました。そして、物質世界の様々な学びの中での苦難や喜びの変遷そのものが、複数の肉体人生。
非物質の意識体が物質経験から学べるしくみです。
そのことを去年の夏、私は意識不明の重体とされる継続的な昏睡状況下で再認識できました。
自分の視座がこの肉体ではなく、時代も場所も異なる複数の人生を同時に眺められる視点となったのです。
話を戻します。私が救急搬送されて医師に「危篤」とされたその日、息子が誕生しました。
まさに私が今生の肉体という殻を脱ぎ捨てようとした日に!です。
今回、ほぼ脱ぎかけた肉体に再び還ってきた要因に、息子の生誕という印象的な物質次元でのイベントがあったからなのは間違いありません。
生まれたばかりの赤ちゃんなんて泣き喚く以外に何もできない、誰もがそう思うでしょう。
ところがその日、息子は物質肉体として姿を現すことでいきなり大きな仕事をしました。
少なくとも妻や周りの人たちはそう捉えています。
もしも皆さんの身に同じ事が起きたとしたら、この出来事を単なる偶然だとして片付けますか?
すぐにその意味は理解できないとしても、存在するだけで大きな意味をもつのが人というものだと思うのです。
ある人が誰にとってどんな意味があるかなんて、肉体レベルで考えても解るはずがありません。
判るのはせいぜい、その人のエゴを今すぐ充たす役割が相手にあるかどうか…ぐらいのものでしょう。
肉体年齢など全く関係ないのです。縁の濃い意識体だからこそ、親子をはじめとした密接な関係性となって物質界に現れるのです。
どう捉えるのかは各人の自由ですが、お互いが気づきの機会を与え合うために存在するのですね。 そんなお話のあれこれを、今週末にゆっくりしようと思います。
とても考え出せない情報こそが人生を大きく左右するものなのです。