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2016年 12月
2016年12月30日

人生ゲーム

何度もお伝えしていますが、人の本質が肉体ではなく意識体であると確信したのは今年の夏に私が意識不明の重体であった期間中に自分の人生、それも複数人分が全部自分であるという摩訶不思議な長期の生活記憶を鮮明にもって還ってきたからです。

 

これまでも、私は数十年に亘って睡眠中の夢や各種の瞑想、芸術鑑賞、創作活動などを通じて異次元を探究してきました。

 

しかし、常に身体が健康に機能する状態であった割には記憶に欠落部分があったりしたのです。

 

ところが今回は、五感の全てが機能しなくなった上に内臓諸器官も著しく衰弱し、痰の吸引までされている危機的肉体状況下で起きた意識体験であるにもかかわらず、鮮明な記憶を大量に保持できたのです。

 

ただ、それを言語という制限だらけのツールで表現することに難儀しています。

懐疑的な唯物論者に何を思われようが気にしないのは以前からのことですが、何より自分自身での確信の度合いや納得度において段違いの経験だったのです。

 

ですから一日も早く記録や発信ができる身体に戻すぞ!という欲求が、痛くてしびれて動かないほぼ寝たきりだった全身を自宅でPCに向かえるぐらいには回復させるという具体目標にもなり、リハビリ病院にとっても前例のない驚きの回復となったようでした

 

今も残る手足のしびれや滑舌の悪さ、視覚の錯乱などの症状は完治しないにせよ、私に突然襲いかかった脳幹出血という事態は、それくらい厳しいものだというのが世間では通説のようです。

 

個人的な話はさておき、「人間の本質が肉体じゃなくて意識体だとわかったところで、それが何になるの?」と思う人に朗報です(笑)。

 

この世の人が苦しんだり悩んだりする原因のほとんどは、意識体でなくて肉体が自分自身の本質であるとの勘違いから生じることなのです。

 

自分の本質である意識体の特性を理解できれば、これまで苦難と捉えていた物質世界の事象は、全て認識の問題であることに気付きます。

 

ですから来年は、皆さんの肉体での日常生活を豊かにできるような非物質の智慧を中心にお伝えできればと思っています。

 

みなさんにとって2016はどんな一年だったでしょうか。

私に負けず劣らずのビッグイベント(笑)があったという方もいらっしゃるかも?

年越しとは「どんな生き方をしようか」を見つめ直すのに絶好の時ですね。

 

その「暦」とは、そもそも何なのだろう…なんて事を考えていた変な小学生だった頃が懐かしくもあり、ついさっきの事のようでもあります。

 

私がこんなことを書いているオッサンになったのも、なるべくしてなのか、偶然なのか。

 

確実に言えるのは、肉体人生は制限があるからこそ面白いゲームなんですよね。

ルールがなければゲームは成立しません。

でもせっかくルールの範囲内なのに知らない技が多すぎたんじゃ、それはそれでゲームが楽しめませんからね!

2016年12月27日

神性や仏性とは

ここ数回の投稿で、私の体験に基いてお伝えしてきたことをまとめてみます。

1.【人間の本質は肉体(物質)ではなく意識体(非物質)である】

2.【意識体とは、つまり人間である誰もがその本質は時間を超えた存在であり、物質肉体の時間感覚に埋もれた状態では、どの位置から見るのかによって対象が過去や未来に映るだけのことである】

3.【意識体には空間制限がないため、この物質界の言葉で表現すると「意識体はどこにも存在しないけれども、どこにも存在し得る」となってしまい、そんな非物質の意識体を理解する難しさから、神・仏・天使・菩薩・妖精・宇宙人・霊魂等々の呼称やそれに類する固有名詞で括られてしまう傾向にある。大きさに制限がないという意味では人はまさしく宇宙であり、もちろん意識には数の制限もないため、意識体は人間の肉体に限らずあらゆる生物や物質に同時に宿ることとなり、どれも本を辿れば同じ存在であると言えてしまう】

結構シンプルにまとめられたように思います。
上述の性質を利用し、各々の組織の意向に沿って民を操作するのが○○なのでしょう。
ですから、皆さんがそのような事にとりたてて興味がなくても「人間は皆が神の子」とか「万人に仏性が宿っている」とかの言葉を見聞きしたことがあるでしょう。

非物質であるものに対して物質的な証拠を求めるのか? 
物的証拠は求められるはずもないのだから、盲目的に信じる他はないのか…

物質としての肉体は、非物質の本質「意識体」からしたら人間の一部でしかない!
私にはその確証が得られたのです。他人に証明できなくても事実は事実。
本質が意識体なのですから、人によって事実が異なることも当然なのですよね。

 

 

2016年12月23日

過去や未来は錯覚

皆さんは大抵、現在を基準に過去や未来があるという概念で暮らしています。
誰がというわけでもなく文明自体がその直線時間を絶対視していて、言語とはその概念に則った意思疎通手段であるため「無時間」の概念を言葉で説明するということに私は尋常でない難しさを感じています。ですから少なくともここ数百年、生身の肉体を有していながら無時間を解することができる人は、テレパシーや第六感と言われるようなものを通じてそれを感じ取れる、ごく僅かな人のみに限られたことでしょう。しかももどかしいことに、それを上手く伝える術はなかったと憶測されます。
ところが21世紀に入った今は、その感覚を有する人が結構大勢いるのではないかと私は考えるため、一見は無反応だとしても「そうそう、それ感じる!」と共感する人が出てくるのではないかという予想から、この文章を書いています。

それこそ直線時間に囚われている象徴的な言葉に「歴史」という単語がありますが、長い歴史の中で今メジャーである時間概念がまかり通っている文明はかなり特殊なのではないかと私は考えます。それは幼少期から漠然と感じていたことでしたが、今年の夏、私が意識不明となっている間に複数の自分を認識できたことで確信に至りました。それは、この文明下で肉体を有する立場で表現すると「私は過去にも未来にも様々な場所で肉体をもって同時に存在していた」となります。

少し強引な喩えですが「手元にある映像ソフトで、数百時間収録の映画をいつでも鑑賞可能な状態になった」みたいなことです。それは短編作品集。それら作品の中で自分は様々な役で様々な場所に出演しているのです。

 

ところが役に入り込んで演じていると、その時代や場所や人間関係などの設定状況が全てであるとすっかり勘違いしてしまうのです。1時間後に収録されている自分は来世。

 

3時間前に収録されている自分は前前前世!となります(笑)

 

でも実は、生まれ変わりの歴史は未来の分も含めて全部同時に手元にあります。

 

しかも全作品がリンクしており、過去の分も含めていつでも修正編集可能なんです!

 

自分がネクラにしていたら作品全編で暗~い役回りだろうし、充足感溢れる笑顔を振りまいているなら、勇気や喜びを与える役が多くなることでしょう。

 

 

直線時間が錯覚だということ、この喩えで少しは伝わりましたでしょうか。

 

感想などございましたら、下部クリックで遠慮なくコメントください。

2016年12月18日

肉体の操縦

人の本質が肉体ではなく意識体であるならば、おおざっぱに言えば意識体にとっては肉体人間一人の誕生から肉体死までがその肉体の操縦期間だということになります。

 

ここで現代人の多くが誤解しやすいのが、肉体の有無にかかわらず意識体が存在するのはもちろんのこと、ひとつの肉体に対してひとつの意識体という割り振りではないということです。

 

 

意識体は時空に縛られることなく融通無碍。

 

制限だらけの肉体と比較するのもナンセンスな話ですが、意識体の方がエネルギーとして断然巨大なのです。

 

あなたの本質からしてみたら一人の肉体人間はほんの一部です。

 

部分でありながらも確実に全体へと影響を及ぼす独創的で唯一無二の存在、それが肉体を持つ人間です。

 

意識を大木に喩えるなら肉体は末端の枝葉であり、毎年必ず朽ち落ちてしまう葉が、繁っている間に幹や根を理解することは不可能でしょう。

 

ですから樹齢何千年の幹や根の性質を垣間見ることができた末端の葉、すなわち一肉体人間が意識体の本質を覗いた場合は、どうしても「神・仏・キリスト・菩薩・天使・宇宙人がどう言った…」等々、その人固有のフィルターがかかってしまいますし、非物質世界を説明する上での宿命でもある、抽象的でいか様にも解釈が可能な表現になってしまいがちなのです。

 

私はそれを、ここでは「意識体」と呼んでいます。つまり皆さんがそれぞれの呼び方をする宗教的な固有名詞や宇宙人を、全部ひっくるめて異次元の意識体としています。

 

その意識体が肉体に宿った状態で教えを説いたために、その肉体固有名詞が生き神様として記録に残っているケースも含まれます。

 

その偉大だとされるも誰かも、あなたが忌み嫌う誰かも、もとを辿ればすべてが自分の本質なのです。

 

この辺りは十代の私でも納得できた概念ですが、それだけでは腑に落ちないことがありました。

 

それは、本質が意識体であるはずの肉体生物が、なぜにここまで機械的な性質を有しているのか?です。

食事を一切必要としない人が実在しても、植物の光合成のように非物質を物質化するプロセスを経ています。

 

摂取するのが仮に酸素でなくとも、肉体は必ず呼吸を必要としています。DNAをはじめとして各器官の機能を知るにつけ、肉体にはマシンと思える特性があるのは事実なのです。そして今年、私の肉体は修復不可能だろうとされる大トラブルを起こし、以前よりもかなりの低スペックでかろうじて活動しているのはお伝えしている通りです。

 

そして、そんな非常事態だからこそ、たまたま経験することとなった意識体⇔肉体システムの不具合があったのです!

 

倒れた後の私の肉体が、まるで機能不全のマシンのようで違和感があることは以前にも述べました。

 

それは実際にマシンであると認識したからだ、という意味でもあります。

 

そうです、人間の本質は意識体であることには揺るぎない確信を得ましたが、肉体はある意味マシンだったと捉えられる事象が起きたのです。

 

救急搬送された当日、私は歩行→四股の自由→喋り→聴力の順で機能を失い「よりによって、俺は息子の誕生予定日に他界することになりそう。

 

突然で申し訳ないけど、長期間患うこともなくついに肉体から自由になれる時が来たようだ。感謝…」これは意識が遠のいて行く直前の私の想いでした。話せないながらも、ギリギリまで複合的要素を絡めて思考できていたのです。

 

ところが私の肉体は医師の予想に反して完全な心肺停止状態には陥らず、数日後には意識が戻ったのだそうです。

 

医師に言わせれば「統計上、良い意味ですこぶる確率の低い事が起こった」という話でした。

 

現代の医療現場では、体を揺さぶって話しかけると反応がある等をもって「意識が戻った」としているようです。

 

ところがそこから10日以上もの間、私の記憶には全くないのに私が発したとされる言葉を、後日聞かされることとなります。

マシンのようにYES/NO方式で反応するだけで、思慮に欠けた言葉を命令口調でわめく私の姿を目の当たりにした妻は「あれはあなたではなかった」と今でも話しています。

 

その時の私の肉体はどういう状態だったのでしょうか。

コンピューターでいうなら肉体がハードウェア、意識体はソフトウェアです。

 

今回の私はハードの根幹部分が壊れたので、有無を言わせずソフトも機能しなくなりました。

 

そのハードウェアの様子を診たエンジニア達は経験上からも「これは致命的ダメージだし、残念ながら修理のしようもない」と予測したのだが、しばらくして突然、勝手にリセットがかかったというわけです。

 

そこで「滅多にないことですが、元通りとはいかないまでもまだ使えます」みたいな(笑)

ハードだけ見ると既に復旧したようですが、そこから以前と同じオペレーションシステムなりアプリケーションソフトなりを読み込んでかつてのように機能させるのには、もうひと手間ふた手間要るのです。

 

機能チェックのためのサンプルデータが反応していた状態だっただけで、それは私という個性の意識体ではなかったのです。

 

というわけで、赤ちゃんはもちろんのこと老人施設や精神科病棟なんかにも、肉体がこのような状態の人が結構たくさんいらっしゃると思うんですよね。

 

本人の意識本体がインストールされていない状態とでも言いましょうか…この事を理解できれば、現代医療と霊性の融合が新たな道を開くと感じるのは私だけではないでしょう。

 

2016年12月17日

自分の肉体はいくつあるのか?

皆さんは「輪廻転生」とか「過去生・未来生」などの言葉でイメージするものがあるでしょう。これについては、瞑想や夢見を熟達させると芽生えてくる、時空を超える感覚とでもいうものがあります。私も夢や瞑想を通じて感じてはいましたが、今年、この身体が意識不明の重体に陥ったからこそ奥深く分け入ることができた異次元体験で、確信に至ったそれを説明してみます。

多くの人が絶対的であると信じている肉体。今回の生を授かってから特定の名前で呼ばれているその身体は、非物質である本当の自分自身の一部でしかありません。つまり、霊魂などと言われる『意識体』が法人だとすれば、『肉体』は現場の第一線で活躍している作業員です。会社経営に携わる社長や重役が現場に出ることは稀だからといって、現場作業員を蔑ろにしているような会社はやがて問題が噴出して法人の維持が困難になるのと同じで、精神的な事ばかりを重要視して肉体を軽視していては、物質的身体を通じてしか成り立たない意識体成長システムは維持できなくなります。よって肉体メンテナンスは意識体にとっても必要不可欠な重要事項です。
そして過去でも未来でも様々な現場で仕事をしている作業員ひとりひとりの誰もが会社業績を左右し得る重大な存在なのですが、残念ながら会社全体にまでは想いが及ばない人もいて、そのような人は自分の現場環境や待遇に対する不満等をあれこれ指摘することはあっても、他の現場で努力している人の存在すら知らないのです。

いち肉体が自分の全てだと考えている人と、その何千何万倍の意識体が自分の本体であることを理解している人とでは、想像を絶するような価値観の相違があります。自分が罰せられない範囲で如何に奪い続けて長生きできるのか…そのことだけが人生の目的(経済社会の牽引者)の場合と、人類みな兄弟どころか全ての動植物をはじめ鉱物も細菌も、視えない何かも含めて生命としての表現形態が異なるだけで、みんな自分と同じであり自分の一部である…この宇宙をそう認識している人まで、現文明のあらゆる問題は、このあまりにも個人差の大きい認識ギャップに起因していると私は考えます。

その鍵を握るのは、今の物質文明社会を構成する皆さんが、肉体(物質)と意識体(非物質)との関係性を理解できるかどうか?だと私は思うのです。
その関係性の詳細については、また次回に投稿します。

2016年12月10日

夢と現実

みなさん、「夢」という言葉、とても興味深いと感じませんか? 

睡眠中に見るのも夢ですし、とても叶いそうもない物事などにも夢という言葉が使われたりしますね。後者の場合、どの程度までを夢とするのかは人によって随分と幅があるのだと思います。現代日本人でありながら「一回の人生で5千人の異性と交わって1万人の子を設けたい」というならば誰にとっても夢で終わるでしょうが、「いつか深く解り合える一人の異性と親密になった結果、子宝に恵まれるのかも」という想いならば、それは「既成事実」「当然」「目標」「期待」「予感」「幻想」等々、いろんな捉え方をする人がいますし、それこそ夢見ている人もいますよね。夢は夢でも悪夢と感じている人だっているでしょう(笑)。

 今回、私がこの話題から入ったのは、みなさんが日常的に使っている「夢」という言葉には「現実味がない」「実感がない」というようなニュアンスが多分に含まれているのではないかと思うからです。しかし、今から私が説明を試みる「夢」の話は上述の多数派からすると【夢=現実】もしくは【夢>現実】みたいな、少数派とされてしまうお話です。

 私は幼児の頃からほぼ毎夜、夢を見ていました。当時の私は今のような語彙や表現力を有していませんから、その異世界のことを親にも説明できませんでした。
内容的に説明しづらかったのもあります。例えばそのひとつが、夢の世界の入り際には数パターンの現象が伴っていたことです。瞼を閉じると球体をベースにした幾何学模様のサイズと形状が変化して行く映像が見えてくることや、瞼を開けていた場合には自分が地下深くに沈んで行くみたいに天井の照明器具が徐々に遠ざかって小さくなり、音も遠ざかって行くこと。
そして何よりも夢の内容です。今でも憶えているのですが、仮の家族である肉親ではなく、真の家族が迎えに来てくれ、「バレてしまったのなら仕方がない」とでもいう雰囲気で、まだ幼い自分を実の両親が見送ってくれていたシーンがありました。そのとき両親は、なぜか水の噴出し続けているホースを手にしていました。

何をもって肉親が「仮の家族」で、迎えに来たのが「真の家族」だと感じたのか? その真の家族の風貌はどうしても思い出せないにもかかわらず「夢の世界の人達こそが本当の自分の仲間だ」と確信してしまったのです。小さな子供なので睡眠時間が長い上に内容に連日継続性があったということも大きな要因でしょう。両親を偽者だと考えるくらいですから、幼稚園や小学校の先生や生徒は基本、自分とは別の種類の生命体だと考えていました。

そう考える決定的な材料もありました。私にとって現実世界より真実味のある夢の世界…その夢を、睡眠中に「見ない」「全く憶えていない」「ただ真っ暗」などと語る人が多かったのです。大人になるにつれて唯物主義の刷り込みが進みますから、徐々にそういう人が増えてくるのは致しかたないにしても、そういった人達は、幼児が半日眠っている間、いったい何をしているのかを不思議に思わないのでしょうか。心臓の鼓動も呼吸も休まず続けていて、眠っている間に怪我や病気が回復したり肉体が成長したりするのは、本当に物質的な栄養だけで出来得ることでしょうか。

 人は肉体生物でもありますが、本質は非物質の情報生命体である!というのが私の見解です。「肉体」に対して「霊魂」という位置づけはなんとなくわかる…という方ならば、「夢」の世界との関連性にも注意を向けることの大切さに気付くはずです。今でも肉体死のことを「永眠」と言うではありませんか。

今年の夏、私は今人生で最も深遠な夢を見たのです。一時は危篤だったため連続100時間単位の眠りです。肉体死に至るかどうかなんて、本人にとっては瑣末な事に感じるほどの壮大でリアルな異次元の意識世界…

私は長年「夢」というものについて、敢えて学術的なアプローチは採らず自分なりに探求してきましたが、この経験を機に大きな進展をみたと感じています。
長くなってしまったので、続きはまた後日に試みます。
最後までお読みくださってありがとうございます。

 

2016年12月05日

地球人の起源

私の肉体が生死を彷徨っている間、異次元にて活発な意識活動(その渦中にいる私には疑いようのないリアル体験でしたが)をしていたことを前述しました。

 

複数の時代や地域で同時展開していた私の人生の中のひとつに、21世紀地球文明からしたら未来と感じられる社会にも私は暮らしていました。

 

あくまでも認識できた複数にわたる人生ヴァージョンのひとつでしかないのですが、今回はそのひとつの中の更に一部を説明してみようと思います。

 

そこでは誰も飲食や排泄をしていません。

 

その代わり定期的に、巨大なスーパーにも病院にも見えるような所に行って液体をチャージします。

 

色とりどりのカートリッジのような物を並べて「今回はこれとそれの組み合わせにする」という感じでチョイスします。それぞれの液体には用途や効能らしきことが謳われているのですが、一時的にはどれを選択しても問題ないようでした。

 

今風に言えば各メーカーが競ってその商品?食品?エナジー液?をPRしていて、私が「その組み合わせはよろしくないでしょ」と感じたカートリッジの組み合わせを注入した人が調子良さそうになった様子を見て、その意外さに私が驚いているシーンもありました。口から摂取していないのは確実でしたが点滴や注射をしていた記憶もなく、その注入方法は自然すぎて意識していなかったという感じです。

 

支払いのようなこともしていませんでした。まるでマシンのようですよね?人工知能車が定期的に無料ガソリンスタンドに寄るようなものでしょうか…笑

 

沢山ある異次元記憶の中から、なぜ私がこれについて触れたのかといいますと、今回の後遺症で最も辛いものに複視という症状があり、不便さもさることながらその不思議さに我ながら呆れているからです。

 

左右の眼球(レンズ)が捉えた視覚情報を脳が統合調整できないため、視界が常に二重になっているのです。

つまり制御できないまま右目と左目が同時に独立して機能しているということなのですが、人や車が多い場所ではどれが本物か判らず危険なのです。

 

片目ならば二重映像にはならないのですが、やっと歩けるようになった程度でラジオ体操なんて難しくてとても無理!という赤ちゃん状態である今の私にとって、片目での移動や作業も平衡感や距離感がつかめないためかなり厳しいのです。

 

かといって常時泥酔しているかのような視界は頭痛や嘔吐につながりますから、両眼の瞼を開いたままでもいかに片目ずつの視覚に意識を向けられるか!という変なトレーニングもしています(笑)

 

何が呆れるほど不思議なのかといいますと、私が仮に映画「スターウォーズ」に出てくるC-3POなら、頭部に強い衝撃が加わった結果このような故障を引き起こすという事は解せるのですが、はたして生身の人間の肉体とは何なのでしょう。

このような障害に陥る自然生物が他にもいるのでしょうか?

 
全身のシビレや痛みに加えた肉体諸感覚の鈍さも手伝って、自分の身体が異物のように感じられるのです。

 

運転していた自分の乗物で多箇所同時に不具合が発生し、辛うじて完全停止を免れ最低限の機能が残された…そんな比喩になりましょうか。

 

バイオテクノロジーの暴走は、研究者がその種の誤解に及んでしまうのも仕方がないと思えてしまう機械的数学的特性が肉体生物にはあるからなのでしょう。

 

学校で教えられる「種の起源」や「進化論」に対して、私が直感的に違和感を覚えたのは事実でしたし、今でも疑わしく思っています。

 

だからといって、某神様なり某宇宙人が地球人類を創造したというような特定の説を支持しているわけでもありません。

 

「気にしなくてもきっと死ねばわかることだろう、しかもそう遠くない時期に」なんて考えて気軽に流すようにしていたのですが、突如不便な身体になったのをきっかけに否が応でも生きながら考えさせられているのが近況です(笑)。

 

何者がどのように創造したのかは別にして、「三次元肉体地球人は被創造物であっても、人の本質は非物質(意識)である!」というところまでは確信に至っているのが今の私です。残りの余生で「肉体を創造したのは○○である!」…というところまで探究は進むのでしょうか? 

それにしても、くれぐれも注意しなければならないのは「人の本質が肉体(物質)である」と勘違いしないことです。

 

現状の日本で、その辺りをどう考えるのかは個人の自由なのですけど、「人間は非物質存在などではなく単なる物質である」と定義している人に、「そのように考えて定義しているアナタという存在の本質が脳などの肉片だと、どうして信じられるのですか?」と逆に問うてみたいものです。

 

私にとって、その思想こそが奇抜すぎですから~(笑)。

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