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2017年 2月
2017年02月27日

音に秘められた力

「音って、なんて面白いんだろう!」

ほとんどを室内で過ごすのが当たり前だった幼児期、世の中のしくみなど何も気にせずに夢中になっていた音の世界。

身の周りで耳にできる自然音はもちろんのこと、ラジオやテレビから流れてくる音楽や効果音にも、私はそれこそかじり付くように興味を示していたようでした。

視覚で捉える鳥や虫の「姿」以上にその存在感を私に与えていたのは、鳥や虫の発する鳴き声や羽ばたきなどの「音」。

 

それが「音楽」ともなれば目を閉じていても様々な世界が展開するわけですから、親が絵本をパラパラめくる行為がもどかしくなるくらいです(笑)。

 

音を聴くことで、どうして映像が浮かんだり感情起伏が促されたり「畏敬の念」(当時はその表現方法が全くわからなかった不思議感覚です)が湧き起こるのだろう… 私はすっかり音楽の魅力にとりつかれてしまったのです。

 

視えないし匂わないし味もしないし掴むこともできない、物質ではない「音」の世界が確実に存在している。

 

そのことを誰もが疑わずに認めているわけです。

 

それなのに、自分の眠っている間の体験をアニメ番組の内容さながらに話しても「それはよかったねぇ」とか言うだけで、まともに取り合ってもらえません。

 

今思えば、非物質世界と物質肉体世界との関係を探求したくなった契機にもなったのでしょう。

しかし、物質ではないのに音楽だけはなぜか否定されない。「そんなに好きならピアノでも習おうか?」などと親の方から勧めてくる始末(笑)。

 

大人になってから判ったのは、生まれ育った地域が製造業の盛んな町だったため、洗濯機・冷蔵庫・テレビ・マイカー等の他に、家に「楽器」があることが唯物主義的価値観での社会ステータスでもあった… 幼児には知りようもないそんな事情もあったわけです(笑)。

 

さて大人になってからの話です。皆さんは音の可聴領域を気にしたことがありますか? 

ここでの話は機能劣化による難聴とかではなく、人間という種として聴こえている音の範囲のことです。

 

「地獄耳」なんて言葉もありますが、実は他の種に比べて人間はけっこう限られた範囲の音を頼りに生活しているのです。

 

逆に言うと、音として認識できていない周波数にも大きく影響を受けているわけです。

 

極端な例を挙げると、音がしていないはずなのにうるさくて鬱陶しいのが「耳鳴り」ですよね。

 

和音だの倍音だの数学的アプローチはさておき、小中学校で習う音楽とは、一部の偏った材料だけを大ざっぱに取り扱うものであると考えてください。

ところで、幼児だった私は見事にすぐピアノ教室をやめました(笑)。

 

練習させられる課題曲が趣味じゃなかったという事が最大の理由ですが、鍵盤で勝手に割り振られている音階を絶対としている楽器自体の特性が気に入らなかったのです。

 

その頃の自分には上手く説明できませんでしたが、例えば「ド」と「ドのシャープ」(=レのフラット)の、そのまた中間にあるはずの音が切り捨てか切り上げ扱いになっている音階のしくみや、調律師がチューニング時に基準値としている周波数にも馴染めなかったのだと、今になって思うのです。

十代になって手にしたギターでは、チューニングを自分で自由に調整できますし、奏法で弦を持ち上げたり引っ張ったりして音階を自由に操れる上、張った弦を支えるブリッジ自体が可動式の物もあるため、その機能の自由度から思春期以降はずっとギターを愛好していました。

 

そして昨年、一旦は全身が植物状態となった私の指先は、今でもゴムとスチール弦の区別がつかない触覚レベル(笑)。よって再び路線変更。

 

音階は固定でも奏者によって豊かな倍音や精妙なゆらぎを醸し出す、水晶で作られた楽器「クリスタルボウル」と、その特性を巧みに引き出す演奏者として活動している「せつこ」さんに出逢ったのです。

 

その素晴らしさは既に先月のコラボで実証済みです。一般的な音楽とは少し異なる不思議な異次元の悦びを一緒に堪能しませんか? 音楽鑑賞会ではなく、異次元体験型イベントです。

 

2017年02月26日

マンダラって何?

下の写真にある大きな野菜をご覧ください。

 

マンダラでなくても、目にして美しいと感じたり思わず目を奪われてしまう形状や色彩というものが、皆さんそれぞれにあるでしょう。

 

私はとりわけ魚・昆虫・植物等々、自然物の造形に心奪われる少年時代を経て、星の軌跡やら肉眼で確認できない雪(水)や鉱物の結晶などにも魅せられたものです。

人工物のデザインも好みは人によっていろいろですが、やはり「イイ!」と感じる物の外観には、自然物と同様の法則性のようなものが巧みに取り込まれていると思うのです。

乗物のボディデザインを生き物の形状として捉えている人も多いのでは?

 

さて、ではどうして初めて見るものであっても、特定の色や形に対して「美しい」とか「バランスが悪い」などの好き嫌いが出てくるのでしょう。

 

私がそんな考えをあれこれ巡らせていた頃に気付いたことがありました。それは例えば魚であれば、全身フォルムだけではなくて部分的なヒレやウロコ、全体でも部分でもバンド・ライン・スポットなどの模様に、その種その個体独特のパターンが認められ、ある意味数学的なその法則性に美を感じているようなのです。

 

しかし生半可に数学的な見方をすると、釣りに出かけて釣れたカレイを眺めて「両目とも常に片側を向いてるとは、なんてふざけたデザインなんだ!」と創造主にケチをつけたくもなるのです(笑)。

 

しかし自分が成長するとわかってくるのですが、数ある魚種の中にはカレイもいればヒラメもエイもいますし、ここでは割愛しますがフィボナッチ数列やら黄金比やらの数学的見地からしてもマクロで見れば何らおかしくはないのです。

 

理屈は抜きにして、傑作とされる庭や盆栽などは入門者にはアンバランスに見えますし、池の鯉も上面から眺めて左右非対称な模様が通好みとされるのです。

私が何を言いたいのか・・・・

常に限られた小さな視野でモノを見ていながら、相手のことを「そりゃおかしい」「そんなんじゃダメだ」「けしからん!」などと決め付けているのが並の人間という生き物なのです。対象のそれがそうなっている意味や理由は自分の非物質的成長に伴ってわかってくるものなのです。

 

それはつまり、歳だけ重ねてわかっているつもりでも、残念ながら一生わからないままでいる事が誰にでも呆れるほど沢山あるということです。

 

そんな実情を知ることが「謙虚」という態度を自然に生むのではないでしょうか。

そして宇宙の真理探究には、万人がもっと「形状」や「色彩」などに興味を向けることが、かなり有効な手段ではないか?ということです。

 

言語には制約が多すぎます。

 

言葉が通じなくても、色や形で直感的に伝えるという手法は時やエリアを限定しませんし、マンダラに限らず、とりわけ幾何学形状は、時空を越えることのできる優れた情報伝達手段なのですね。

皆さんご存知のように、これら色や形と並んで「音」も優れた情報伝達手段ですよね。

音については、語ると長くなるのでまたの機会に譲ろうと思いますが、音量は控え目でも私の企画イベントでは「音」も積極活用しています。

通常の人の声とは異なる周波数も用いたいからです。

「文字を読むだけ」という情報受信行為は、情報伝達が未熟な種に特有の手段だと思うのです。

それらを補おうと発達してきた「テクノロジー」が皮肉にも、種の未熟さを助長してきたのですよね(笑)。

私は科学技術よりも、地球人という種の非物質的変貌に興味があります。

 

2017年02月24日

すべては非物質の波動

人間の身体に過度の負荷がかかると、意図せずとも気付くことがあります。

 

それは「肉体は時空に縛られていても意識体は常に自由である」ということです。

 

戦争、事故、病気等で肉体生命維持の極限状態に達した多くの人がそんな意識体の自由度を認識するわけですが、そのまま肉体死へと移行するのが普通なので、その状態について説明がなされることは稀です。

 

また投薬や手術など、自然の摂理に反した医療処置をされるのが一般的な昨今では、意識体もが最期まで縛り付けられた状態にあるのが標準なのかもしれません。

でも実は、そのような極限状態にまで至らなくても意識体は自由になれますし、肉体負荷を比較的少なくそれらを体験する方法として昔から瞑想やヨガなどがあるのです。

 

しかしそれらが肉体を苛める手法を採らないからといって、意識体の自由を習得するのが容易なわけではありません。

何でもそうですがコツや継続が必要、やはり本当に体得する人は稀なのです。

 

だから現在でも「修験道」のような肉体酷使のアプローチも有効だとされるわけです。

 

意識体の活性化について自分なりに長年探究してきた私は昨年、まったく自慢にはなりませんが脳幹出血による肉体維持ギリギリ体験をしました。

 

意識が戻ってからは後遺症の肉体的不具合と付き合う日々です。

 

現在、仮に意識体と肉体が完全リンクしていたなら何もかもが苦痛でしかなく、肉体死を迎えるのが絶対的な楽しみとなるでしょう。

 

車椅子からは卒業し、のそのそ歩けるようにはなりましたが、数時間も同じ姿勢を固定するとちょっとの移動だけでも全身に激痛が走るので、家では無意識で毎日「ウゥ…イタッ!イタイ~!!」などと口走っていました。

 

すると、倒れたその日に誕生した息子がずっとそれを聴いていたらしく、最近大声で発する日本語らしき言葉が「ウゥゥ~イタイタイタイタ…」とかだったので(爆笑!)切なくなった私は慌てて「ワ~オ!イェ~イ!」などと周りを驚かせない語句に言い換えて悶えています。

つまり、苦痛を笑いに変えるユーモアを以前にも益して身に付けざるを得ないのです。

 

その考え方は人にもよるのでしょうが、居合わせる人と共に波動を明るく軽妙にしたい欲求がより強くなるわけです。

 

いつでも瞬時に深刻になれる状況なので、怒り、攻撃、悲しみ、罪悪感、被害者意識などの重くて暗い波動を取り込む余地は微塵もありません…即、破滅につながってしまうからです。

確実に誰もが順番で迎える肉体死について、人の本質である霊魂について、語るのをタブー視すること自体が異常なのです。

それは人が物質であるとの社会的妄信から生まれた、時代と地域限定の特殊な常識です。

 

肉体物質環境がどうであろうとも、自他の意識体を決して陥れないこと。

 

他人を蔑ろにできる人は自分を蔑ろにしている人です。物質肉体人生もすべては非物質の波動次第なのです。きっかけとなる、そのコツをお伝えしています。

 

2017年02月19日

新たな人生モデル

とても重要な事であると言わんばかりに「これは科学的だ」とか「それは非科学的だ!」という言葉を多用する方がいます。

まだまだ発展途上で未熟な今の科学を絶対視する人も、科学という名の教義に囚われてしまった宗教信者と同様である、というのが私の見解です。

 

科学的、論理的であるように演出し、宗教とは無縁であると思わせ、その実、宗教的洗脳を実践している組織のいかに多いことか。その目的はもちろん支配と搾取です。

では皆さん、ここで問題です。支配する側にとって鍵となるのは、いったい何だと思いますか?
答えを先に言います。それは、支配したい対象に「自分には力がない」と思い込ませることです。

サーカスの猛獣たちはどうして逃げ出さないのか?について、テレビ番組等で観て知っている方も多いことでしょう。残念ながら人間にも動物の一側面がある以上、同じ要領で縛り続けることが可能なのですね。

 

ストレスまみれで病院暮らしになっても、その洗脳から解かれることがないまま最期を迎える人が多いのです。

 

「自由意志で生きるなんてこと、できるわけがない!」との長年の思考回路が金属の檻のように実体化していまい、いとも簡単に出られるはずだった柵の内側から一歩も出ようとしない人がいったいどれだけいることでしょう。

 

そのような人は、本当に一切の束縛もノルマもない状況となって「じゃ、私はどうすればいいの?」となることをむしろ怖れています。

 

また、何かを発案して行動に移すような事を苦手とするため、空白の時間を作らぬよう無意識的にスケジュールを埋め続けている人もよく見かけます。

 

ゆったり過ごすことはなく、常に「忙しい、忙しい!」と言って、一度停まればエンストしてしまうマシンか何かのように動き続けている人です。搾取側にしてみれば、ここまで調教されている人間はオイシイですよね。

 

する事がなくて困るよりは、どんなに愚かしい事であろうと時間が潰れればそれでよい…そんな人々が大勢存在するのです(笑)。

人によって様々な価値観があるのは確かですが、同時代の同地域における価値観となれば大まかに絞られてくるでしょう。

「金銭獲得こそが人生最大の意義だ」と考える人にとっては、「人としての在り様」などに想いを馳せている人こそ「1銭にもならない事に妄想を抱いている愚か者」と映ることでしょうし、その反対で人生に純粋さを求めている人からすれば「世の中、カネのためだけに妥協する人生がこんなにありふれているなんて…」と悲観的にもなるでしょう。

 

ここではその善悪や優劣を問題にしたいわけではありません。ただ、20世紀は前者タイプが標準で圧倒的に優勢、21世紀に入って後者タイプが急増していて、前者タイプにはやりにくい社会となってきているのではないでしょうか。

 

これは人間の本質が変わったわけでなく、いつの時代でも社会全体がそのような価値観に染められる結果でしかない、と私は考えます。

 

ざっくり言ってしまうと、前世紀までは「多くの物質を所有できる=豊かな人生」という宗教が流行っていたというわけです。それを科学的な事だと思っていたのです。

 

ところが、そんな親や大人の生き様を見て育った世代の目には、それが豊かだとは映らなかったのでしょう。

 

「豊かさとは名誉や金銭で賄えるものではない」…若い人になるほど、そんな価値観を有しているように私には感じられます。

 

しかし「では、どのように生きて行けばよいのか?」というモデルが消されることはあっても示されることはなく、あっても極端に少ないため、自分を社会に合わせて歪めることができなければ成人しても路頭に迷う他はない…という実情があります。

 

それを駄目だの無気力だの病気だのと決め付けている、社会システム側に問題があると認めるわけにはいかない!?そりゃそうですよね。

 

これまで何十年もよしとしてきた営みを「これではマズイから大きく変えよう!」と動き出す大人が普通にいたのならば、現在こうはなっていないでしょうから(笑)。

 

とても大切な文明転換期に入っていると思うのです。ここまで読んでくださったあなたもきっと、その勇気ある仲間なのでしょう。

 

最大の力は、戦争でもテロでも抗議デモや論争でもなく、他の誰かが書いたり言ったりすることでもありません。

 

各人が自らの叡智に触れることなのです。そこから得た情報を基に各人が実践して行くことが最大の力なのです。 

 

2017年02月13日

高次元を体験する!

一部の人が「これこそが生命のすべてだ」と思い込んでいる【肉体】の存在を疑う人は少ないでしょう。

 

実際に私も今、まだ後遺症で思い通りに操ることのできないしびれる指先を使ってキーボード入力をしています。

 

皆さんも、顔をモニター画面に向けるよう姿勢を調節し肉眼を動かして読んでいることでしょう。

 

では肉体でない、つまり物質ではない生命の存在を疑う人々が、先進国と呼ばれる所を中心にどうしてこんなに大勢いるのでしょう?

その理由は簡単です。

 

自分自身を含む人間の本質が【非物質生命】であることを体験から認識するのには程遠い、緊張を強いられ続けてリラックスできない暮らしをしているからです。

 

ですから生活インフラが整っていないような大自然の中に浸れば、誰もが精妙な非物質のエネルギーを感じ取りやすくなるのでしょう。

そして、それらを「神・精霊・妖精・天使・菩薩・異星人・寛容・愛・癒し・平和・感謝・謙虚・歓喜・悟り」などと呼んでいるのです。

 

反対に、現代社会の中に埋没して生活していれば誰もが囚われてしまいがちな、物質に近い粗雑な波動の非物質エネルギーだってあります。

 

それらは「不信・疑い・怒り・争奪・支配・憎悪・復讐・蔑視・恨み・嫉妬・無関心・無気力」などと呼ばれるものです。

皮肉にも物質に波動が近いだけに、それらの想念が物質世界に形をとって顕現する場合がとても多くて速い… 繊細な人にはそれだけ闇が深く見えるため、いつだって終末論が絶えないのが物質世界文明なのです。

 

もうおわかりですね。

 

人間社会とは肉体や物質だけで構成されているものだと思い込んで生活していても、お金や力だけではどうすることもできない非物質エネルギーに誰もが大きく影響されて生きているのです。

 

すなわち肉体を有していても、皆さんは確実に非物質生命体なのです!

 

どんな波動を選ぶのかは本人の自由です。

何らかを求め続けて常に疲れている人がいる反面、あてのない旅に出て人生が一変した!なんて話もよく聞くでしょう。

 

しかし旅に興味はあれど、諸々の事情で叶わないという人も多いのでは?

そこで、「そんな大仰なことを企てなくても、都会の真ん中でだって精妙な高次元の波動を気軽に体験できるのですよ~」と開催しているシリーズが【高次元波動体験会】なのです。

 

ちょっとした日帰りのお出かけでも、思い切った長旅を決行した場合と同じような人生の転機になるのかもしれません!

 

実際、これまでにそのような体験をした参加者もいらっしゃいました。

 

大きな『気づき』とは、費やす時間やお金に比例するとも限らないのです。

 

しかし、自分で体験しないでいくら文字で読んだり話を聴いても、残念ながら他人事としか感じられないのですよね。

 

2017年02月07日

見えている通りには実在しない?

何度か触れましたが、ここ半年近く私が抱えている身体の後遺症あれこれの中で最も辛いのが肉眼視界の錯乱です。

左右の眼球が捉える映像を脳がリンクして処理できないため、常に対象が複数重なっているように視えるのです。

 

真っ暗闇に灯りが一点だけという状況でしたら二点に見えるだけですが、日常では背景を必ず伴った状態で右の捉える映像に左の映像が重なり、当然左右逆の現象も同時に起きていて対象物も自分も移動するため、常時まるで万華鏡を覗いているような視界なのです。

 

意識が戻って症状を自覚した初期には、車椅子での移動から立ったり歩いたりする練習の著しい障害になりますし、両目を開けているだけで気持ちが悪いので常に眼帯で片目を塞いでいました。

 

この先もずっと続く症状だとすると、かなり陰鬱になりかねないそんな状況下でも私はそれほど深刻にならず、毎日が不思議アトラクションで冒険しているように楽しんでいるところもあります。

 

「転倒せずにできた!」「ぶつからずに通り抜けられた!」「どれが本物か見当がつくようになった!」といったささやかな楽しみ方ではありますが(笑)眼前の数十センチならなんとか普通に見ることができるようになっただけでも大きな進展です。

そんな気軽な感覚で済ませられている大きな理由に、私は幼少期から元々視覚に関する独自の考え方を持っていたことがあげられます。

 

それは、「肉眼で視えているからといってそれが実在するとは限らない」…反対の言い方をしますと、「視えない」からといって「実在しない」ということにはならない、という持論です。

私はほぼ毎夜夢を見て、結構それらを憶えている子供でした。暗い部屋で肉眼の瞼を閉じていても充分にカラフルで現実的な映像をキャッチできているのだから、肉眼は補助的なものだとしか思えなかったのです。

 

これは聴覚や触覚に当てはめて考えても同様に言えることです。
もうひとつは、魚をはじめとして甲殻類・昆虫・両生類・爬虫類・小型哺乳類など様々な生物を捕獲しては観察するのが大好きな少年であった私にも憶測がついたこと。

それは、あらゆる生物が、同じ対象物を全く別のものとして捉えているであろうということです。

 

それは、外見がほぼ同じ人間同士においても該当する事だと思うのです。

 

自分の視界を他人に説明することも、誰かの視界を自分が真に理解することも、できているようで実はできていない。

 

「見る」という行為をしている「自分」というものの実態はいったい何なのだろう…?子供の頃から常にそう感じていたのです。
錯乱状態だと感じている今の視界が、突然の脳出血からではなく生まれつきの視界だったとしたら、それが私にとっての視覚から自然と認識される世界の在り様なわけで、「視界が変だ!」などとは思わないはずです。

瞳を閉じても映像や画像が浮かぶ事実を、現代の医学や科学では脳機能の産物だとしたがるでしょう。

 

私はその事をとやかく言いたいわけではありません。

「科学的」という言葉を使うのであれば、人や宇宙に関する大切な真理は現代社会で「非科学的」とされていることの中に埋没してしまっているのです。

 

人や時期によって必ず異なっていて当たり前の内容を、第三者が検証するなんてこと自体、ナンセンスの極みですよね(笑)。

 

 

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