音に秘められた力
「音って、なんて面白いんだろう!」
ほとんどを室内で過ごすのが当たり前だった幼児期、世の中のしくみなど何も気にせずに夢中になっていた音の世界。
身の周りで耳にできる自然音はもちろんのこと、ラジオやテレビから流れてくる音楽や効果音にも、私はそれこそかじり付くように興味を示していたようでした。
視覚で捉える鳥や虫の「姿」以上にその存在感を私に与えていたのは、鳥や虫の発する鳴き声や羽ばたきなどの「音」。
それが「音楽」ともなれば目を閉じていても様々な世界が展開するわけですから、親が絵本をパラパラめくる行為がもどかしくなるくらいです(笑)。
音を聴くことで、どうして映像が浮かんだり感情起伏が促されたり「畏敬の念」(当時はその表現方法が全くわからなかった不思議感覚です)が湧き起こるのだろう… 私はすっかり音楽の魅力にとりつかれてしまったのです。
視えないし匂わないし味もしないし掴むこともできない、物質ではない「音」の世界が確実に存在している。
そのことを誰もが疑わずに認めているわけです。
それなのに、自分の眠っている間の体験をアニメ番組の内容さながらに話しても「それはよかったねぇ」とか言うだけで、まともに取り合ってもらえません。
今思えば、非物質世界と物質肉体世界との関係を探求したくなった契機にもなったのでしょう。
しかし、物質ではないのに音楽だけはなぜか否定されない。「そんなに好きならピアノでも習おうか?」などと親の方から勧めてくる始末(笑)。
大人になってから判ったのは、生まれ育った地域が製造業の盛んな町だったため、洗濯機・冷蔵庫・テレビ・マイカー等の他に、家に「楽器」があることが唯物主義的価値観での社会ステータスでもあった… 幼児には知りようもないそんな事情もあったわけです(笑)。
さて大人になってからの話です。皆さんは音の可聴領域を気にしたことがありますか?
ここでの話は機能劣化による難聴とかではなく、人間という種として聴こえている音の範囲のことです。
「地獄耳」なんて言葉もありますが、実は他の種に比べて人間はけっこう限られた範囲の音を頼りに生活しているのです。
逆に言うと、音として認識できていない周波数にも大きく影響を受けているわけです。
極端な例を挙げると、音がしていないはずなのにうるさくて鬱陶しいのが「耳鳴り」ですよね。
和音だの倍音だの数学的アプローチはさておき、小中学校で習う音楽とは、一部の偏った材料だけを大ざっぱに取り扱うものであると考えてください。
ところで、幼児だった私は見事にすぐピアノ教室をやめました(笑)。
練習させられる課題曲が趣味じゃなかったという事が最大の理由ですが、鍵盤で勝手に割り振られている音階を絶対としている楽器自体の特性が気に入らなかったのです。
その頃の自分には上手く説明できませんでしたが、例えば「ド」と「ドのシャープ」(=レのフラット)の、そのまた中間にあるはずの音が切り捨てか切り上げ扱いになっている音階のしくみや、調律師がチューニング時に基準値としている周波数にも馴染めなかったのだと、今になって思うのです。
十代になって手にしたギターでは、チューニングを自分で自由に調整できますし、奏法で弦を持ち上げたり引っ張ったりして音階を自由に操れる上、張った弦を支えるブリッジ自体が可動式の物もあるため、その機能の自由度から思春期以降はずっとギターを愛好していました。
そして昨年、一旦は全身が植物状態となった私の指先は、今でもゴムとスチール弦の区別がつかない触覚レベル(笑)。よって再び路線変更。
音階は固定でも奏者によって豊かな倍音や精妙なゆらぎを醸し出す、水晶で作られた楽器「クリスタルボウル」と、その特性を巧みに引き出す演奏者として活動している「せつこ」さんに出逢ったのです。
その素晴らしさは既に先月のコラボで実証済みです。一般的な音楽とは少し異なる不思議な異次元の悦びを一緒に堪能しませんか? 音楽鑑賞会ではなく、異次元体験型イベントです。