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2020年01月26日

常に肉体死を意識して生きるということ、皆さんできていますでしょうか。
 
私は中学生頃からそうでした。
 
だから大人になってからは常に意識的に生きてこられました。
 
それがなければ死を避けるためだけに生きてきたことでしょう。
 
それでは生きていても大したことはないでしょう…
意識的に生きるからこそ何かをなし得る、それが人生というものなのでは?
写真の説明はありません。
2020年01月25日

腎臓がほぼ機能していなくて、数日透析をしないだけでも自分の出す毒素であの世行きが確定の身体となってしまいました。
 
それでも何故生きるのでしょうか?
 
元々私が感じていたのは「納得できる死に方をしたいから」誰もがそう考えているから、確実に死ぬとわかっていながらも生きているのでは?…
 
これからもその模索を続けるのでしょう。
 
異臭を放つ屍となるためだけにこの世に出てきたわけではありませんからね!笑
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2020年01月21日

数週間ぶりにヒゲを剃ってもらいました。
 
顔だけじゃなくて頭も整理できるのでは?と真剣に考えてのことです。
 
簡単に言うとこの世とあの世をも超越した世界を体感してきました。
 
他人に説明できるのか?
説明する必要があるのか?といったことを整理しているのです。
 
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2020年01月19日

昨年末に救急搬送されてずっと入院しています。
 
何度か道で転んだらしく顔も傷だらけになっていました。
 
かつてお世話になった病院へと転院して少しずつ良化しているようです。
 
いったい何が起きたのか自分でもサッパリわかりません!笑
 
記憶の断片をたどってそのうち文章にするつもりです。
写真の説明はありません。
2019年12月26日

自分は自分

中学生以上なら誰でも知っていることですが、多数の細胞が集まって機能することで各種臓器や肉体の部位を形成しています。

 

個々の細胞が自己主張ばかりしていたり特定の機能を担うように強制していては、肉体のあらゆる部位が機能しなくなって肉体死を迎えてしまうのです。

これは人間社会にも該当すること。

人体でいえば心臓や脳だけが重要なわけではありません。切って捨てるだけのために伸びてくるようにも見える爪や毛だって必要があって生えているのです。

それぞれの細胞に優劣があるわけではありません。
ムダ毛処理に苦労している人もいれば髪の毛がなくて取り繕っている人もいます。ムダ毛があってはダメだとか禿は犯罪だとかの法律があるわけでもありません。
どんなに食べてもガリガリで肥れない人もいれば大食漢でもないのに全身シモフリ肉の人だっています。

 

どんな身体的特徴があっても「それが自分だ」と受容できればよい話です。「これではいけない・ああならねば…」それは誰の基準でしょう。

 

「心臓だったらよかったのに」「私は脳になりたい」
はたしてそんな細胞があるでしょうか(笑)
他の細胞がそんなことでしたら機能不全に陥るだけ。人間でしたら自分がなぜそのように考えてしまうのかを見つめてみましょう。

 

 

2019年12月23日

ヌーソロジーを知っていますか?

昨日はヌーソロジーレクチャーに参加してきました。

半田広宣氏が発信する情報を吟味するようになって早くも20年以上が経ちました。半田氏の著作の初版が発刊された数年後に上映された映画「マトリックス」を観た、まだ20代であった私は「ほどなく地球文明が大きく変貌する時期が訪れる」としみじみ感じました。

 

何年か前、私は「『マトリックス』とかの映画を引用してヌーソロジーの説明を試みたらどうか?」などと偉そうに提案したことがありましたが、今年に入ってそのような新刊を出してレクチャーまで開いてくれたのです。

 

私が大いに価値を認めてきた半田広宣氏の発信する情報が、より一層多くの人々に受け入れられるよう工夫をこらしてくれたことに、私は沸々とした喜びを感じます。

 

人間や宇宙の捉え方が大きく変わるであろう半田広宣氏の発信するヌーソロジー、その概念には本当に多くの人に触れていただきたいのです。

人間が肉体に閉じ込められた動物の一種であるという概念のままでは「地球人は知的生命体である」とは言えないのです。進学や就職や資格取得や金儲けのためのくだらない勉強はほどほどに、人間であるならば真に知的であってほしいと私は強く願うのです。

 

 

 

2019年12月21日

活力の元

「儚い」という言葉。皆さんそう頻繁には使わないでしょう。

 

名声を得た後・愛する人と結ばれた後・大金を手にした後・間もなくご臨終となりそうな時・そんな場面で使われる言葉ではないでしょうか。

 

逆に言うと、名声を得られない・愛する人と一緒になれない・カネが手に入らない・健康でまだまだ死にそうもない(笑)とかだったら出てくる言葉ではないのです。

 

善し悪しの問題ではなく、実に深い言葉だと私は考えるのです。まだ成就していない物事が多いほど使われることのない言葉だとも言えるでしょう。まだそうなってはいないけれど成就させたい何かがあればあるほど夢や希望を持って生きるモチベーションが保てるということにもなります。

 

皮肉なことに、環境に恵まれていない人ほど活力のある人生を送っている場合が多いことは事実ではないでしょうか。ただし心の持って行きようによっては鬱状態や自殺を招くことだってあります。

 

鬱っぽかったり生きる意義を見出せないとしたら、それは元々が恵まれすぎているサインなのかもしれません。

敢えて今より厳しい環境に思い切って飛び込んでみれば、案外治ってしまうのかも?

 

 

2019年12月19日

「時間はない」と説明する理由

過去生とか今生とか未来生とか・・・
時とは直線的に流れているものだと認識している人に、スピリットなり霊魂なりの本質を説明するためには必要とされる単語です。

 

楽曲というものを説明するときに、アルバムCDが手元にあったとして「2曲前の構成は…」「3分先の展開は…」等と説明する他はないのと同じですね。CDを手にして「これが全てだよ」と言ったところで、時間というものを経て音楽を再生しなければ何のことだか判らない(笑)。

 

ですから誕生・成長・老い・病・肉体死といった時間経過を前提にしなければ、物質としてのこの世の人生は説明のしようがないのです。ただ問題は、霊魂やスピリットは物質ではないので本当は時の経過というものを前提に説明できる性質のものではないということ。

 

だから「今しかない」みたいなわかったようなわからないような説明になってしまうのがこれまででした。かといっていつになっても霊魂が肉体のような物質としての性質を帯びるわけでもありません(笑)。

 

物質を超越した非物質の性質が人の本質であるということを、物質でもある肉体人間がどこまで理解できるのか… 
宇宙時代に突入できるかどうかはそこにかかっています。

 

 

2019年12月15日

何が陰謀?

俗に言う「陰謀論」ってあれこれありますよね。

 

 

学校では教えない様々な意図や手法を暴くみたいなものが多いわけですが、例えば人を害することでカネや名声を得ることの何が陰謀なのでしょう。

 

そのことについて少し書きます。

 

地球文明を振り返ってみると、カネや名声欲しさから呆れるほど多種の営みを試みているのが地球の人間という生き物の特性です。

 

労働者だろうが経営者だろうがそこに変わりはありませんし、それらの人々から搾取することで生活を成り立たせたい人は、官僚とか政治屋とかの職業に就こうとするわけです。

 

ちょっと勉強すれば解ることです。一部の人を潤わせるために大多数の人が利用されているのが地球という星での人間の営みの特性です。

 

人を殺そうが騙そうが、合法であるかどうかだけの問題なのです。

 

それが地球のスタンダードなのであって、陰謀でも何でもないと私には思えます。

 

ただ、人間という生き物の在りようとして、それはいかがなものか? そこが論点ではないでしょうか。

 

カネのためとはいえ、こんなにくだらない事を日々繰り返しているだけなんて、地球人はおかしいのでは? そう考えて何らかの行動を起こす個人がどれだけ出てくるのか。

 

いつの時代でもそこにかかっているのでしょうし、今はそれに関する何らかを穏やかに実践する人が増えつつあるように感じます。そのことによってのみ地球は変貌して行くのですし、そんな兆しを私は感じています。

皆さんはいかがお感じで?

 

 

 

2019年12月08日

視えているものは何?

眼で視えているものとは何でしょう。

 

元々そのようなことを考える傾向が私にはありましたが、3年前に脳幹出血で寝たきりになって左右の眼のピントを合わすこともできなくなり、改めてしみじみその事を考えるようになりました。

 

生まれつき盲目ならば霊眼が発達するとか、その分聴力の優秀な盲目のミュージシャンも実在していることは解ります。

 

でも視えていた期間があった場合、肉眼で視ていた物質世界だけが現実であると認識しているわけで、触覚や嗅覚や人から聞かされた話でかつては視えていた世界をイメージする、ということが当たり前となるでしょう。

 

しかし生まれつき盲目だった場合「現実世界とは何か」との認識が、視覚のある人のそれとは全く異なっているわけです。

 

ヴァーチャルの視覚を体験できるテクノロジーが既に現存する今となっては、「はたして肉眼が捉えているものとはいったい何なのか」という事は、誰にとっても重大なテーマです。

 

手足も動かない上に肉眼でほとんど何も識別できないという体験を経た私は、あまりの不便さから「なんとか克服しよう」と眼球をあれこれ動かしてピントを合わせる訓練を重ねた結果、3年経った今ではほぼ倒れる前と同じくらいの視力をとり戻しました。

 

だからといって「これが現実世界である」との確信は得られないまま。

 

実際に意識不明状態中の私は、肉眼を使わずにあの世で様々なものを見てきたのですから。

 

皆さんは、視えている世界が何であると考えていますか?

2019年12月05日

性的欲求を超越

性欲とは動物の本能欲求ですから、種の保存のために異性との性的結合を求める行為。

その時期には個人差があるものの、求め出すのは生殖機能が発達し始めた小中学生頃からということになりますね。

 

思い返してみると、幼稚園児だった頃に自分が好きだった相手は男女年齢問わず複数人いました。

 

果たしたい性的欲求があったわけでもなく単に人に好意を抱いていたのです。

同性以上に異性を選別し、同時に自分が異性から選ばれることによって子孫を残そうとしている。 

 

他の動物と同じ原理が人であるはずの自分にもあるということに複雑な心境を覚えました。

 


よって思春期ともなると、自分が異性からもてよう努力することにバカらしさや嫌悪感を抱くようになってしまいました。

若い頃ならスポーツでも音楽でも勉強でも仕事でも、恋愛や結婚に有利にはたらかせたいことが大きな動機。


多くの人にとって最大の生きる動機が私にははたらかず、子供の頃から「人間とは何か・生死とは何か・宇宙とは何か」といった事に最大の興味関心を抱き続けてきたのです。

そんな人なら当然……(笑)



でも社会をよりよく観察する中で、異性との結合欲求があらゆる人間行為の動機ともなっている社会の仕組みを理解できました。

 

私は3年前に脳幹出血で倒れて一度はほぼ全ての肉体機能を失ったため、幼児期以来の「性的欲求とは全く無関係に人と関わる」ということが再び可能となりました。しかも大人の教養があるのだから新鮮!笑

 

何事でも禁欲は返って執着となりますから、欲そのものが湧かないことが究極の理想なのです。

 

2019年12月02日

時間概念の変容

またもや寒い雨。室内で雨や寒さを凌げることがありがたい日ですね。

今年も今月で最終月となるわけですが、多くの人があっという間だったと感じているはずです。

 

本来は直線時間などないということを語っている私ですが、それでも表向きは直線時間があるかのごとき人間社会がこの世で成り立っているのは集合意識での合意があるからに他なりません。

その合意が崩れかけているのです。

 

これからは、時間が均一に直線で流れていると考える人にとってはそれが凝縮されて驚きの展開となるでしょう。

中学高校などの教科書に載っている歴史とやらが、いかにデタラメなのかも証明されるでしょう。

今オフィシャルな歴史となっているものはカルト宗教信者の言説みたいなもの(笑)。

多くの人がそれに騙されて信者とさせられているのです。

直線時間で言うならこの世に来る前やこの世を去った後、この世にいながらも夢を見るという行為を探求しないでいたことの大きな代償ですね。

 

今しかない・今がすべて、といった言葉の意味が誰にも解るということ。

 

併せて金融・保険などの直線時間概念から成り立っている合法詐欺的な商売が成り立たなくなってくることを意味します。

 

AIの影響だけではなくて、人間という存在のあり方自体が変わって人間社会は変容するのです。

 

 

 

2019年11月29日

下りがあるから上りに価値が出る

本日は寒かったですが久しぶりに穏やかな晴天でした。

 

私は寝たきりから立てるようになってからのここ3年、ほぼ毎日歩く練習をしてきました。

 

ヨチヨチ歩けるようになったはずだと思えた昨年末からまた徐々に歩けなくなり、再び入院となってしまいました。

 

元々の脳幹損傷による内蔵機能の低下で血液等に問題が出ていたようでした。

 

今では傘をさして歩くことは大変な危険を伴うため、一週間以上ほとんど歩けない日々が続きました。

 

それで今日は定番の散歩コースである世田谷公園に行ってきました。

 

青空の広がる中で噴水を眺められるだけで、若い頃なら絶世の美女や大金を手にしたとか(笑)特別な保養地にでも出向いたかのような喜びを感じるのですから、そんな気持ちを湧き出してくれるどんよりした日々に感謝したくもなります。

 

これは天気だけではなく何事においても言えることで、当たり前に続いていた事でもそうでなくなった場合に元の状態へ戻っただけで嬉しく感じるのです。

 

ですから波があるのは結構なこと。落ちることで上がる喜びを感じられるのですから。
例えば預貯金が何千万何億とあっても喜びを感じられずにもっともっと欲しがる人というのは、いくら金銭を手にしたところで不幸であり続けるわけです。

 

2019年11月28日

眠りの意味

睡眠。多忙な現代人にとって睡眠時間の確保とは煩わしい問題です。

 

若くて無理の効く身体のうちは起きてやらねばならないこと、やりたいことを優先して睡眠時間を削っている方も多いことでしょう。

 

他ならぬ私自身も若い頃は寝ている時間が惜しくて、朝まで起きていて仮眠をとってから出勤とかも良くありました。

 

睡眠の重要性を理解している人が多忙な日本の社会人には少なく、授業中とかに眠っていて叱られることはあっても、教えてくれる人はいないからとの理由もあります。

 

私は人生の後半になってから救急車で運ばれて病院のベッドで横になって過ごすしかない日々を幾度か送ることとなってしまったため、もうすっかり無理の効かない身体となってしまいました。

 

試しに完全徹夜をして仮眠だけで活動する日を作ってみましたが、後遺症でただでさえ思い通りに動かない身体が更に使い物にならなくなり、ほんの少しの移動でも大決心(笑)。

 

もうチャレンジできないと覚りました。

 

「人は飲食物や酸素等の物質を摂取することで生命を維持している」と学校では習ったかと思いますが、現代の文明国の大人はそれしか知らないのですから仕方がありません。

 

とりわけ未成年は物質としての肉体を成長させる必要があるため、それが嘘とはならないでしょう。

 

ところが成人後は肉体を成長させる必要がないため、肉体労働者を除いては過度な物質栄養摂取は肥満や病気の促進要因となるだけ(笑)。

 

若い頃にはおろそかにされがちな精神活動がメインの生物になるので、非物質のエネルギーチャージが大切となるのです。そしてそれが睡眠と呼ばれる行為なのです。

深い瞑想でもチャージできますから、チベット辺りでは睡眠を全く摂らない人も実存するのです。不食の人なら日本でも実存します。

 

人も物質でしかないと解釈している現文明、特に先進国では見逃されている重要事項です。

 

だから永眠が近くなると自然と物質・非物質共にチャージも不要となってくるのです。

 

睡眠や休息を軽視して非物質エネルギーチャージを怠ると、結果的に高くつく。

 

人はマシンではないということに、経済活動を主として生活している人が自覚していること。それこそが、かつては実在していた真に人間的でセイジョウな文明。

 

2019年11月26日

時は流れていない?

人には記憶というものがあり、いつどこで何をしたとか、誰と関わったとか、部分的には曖昧でもおおよその事は思い出すことができます。

当然ですが未来はまだ記憶にありません。

だから、自然と過去の記憶から分析して「多分こうなるであろう」との未来予測はつきます。

 

でも不確定ですから心配したり期待に胸を膨らませたり、人によってまちまちですが不安材料ともなるわけですね。

 

過去から現在まで時間は流れてきた、だからこれからも時間は流れて未来もやってくる・・・
多くの人が当たり前のようにそう考えていますが、本当にそうなのでしょうか?

 

記憶にあるからといって時が流れているという事にはならない、私はそう考えるのです。
仮に、パソコンデータのように人の記憶も改竄できるとしたらどうでしょう。

 

実は、肉体死を迎えてすぐは肉体で生きていた感覚が残っているので時間感覚も残りますが、それも次第に薄れて行くのです。「地上時間で何月何日の何時」とか照準を合わせて干渉することは許されればできるのですけどね(笑)。

 

「今に生きる」との言葉を目にすることは多いでしょう。
どうせ過去や未来に生きることはできない(笑)。

「時間に囚われないで生きる」
この方がより的確な表現かと…


皆さん、いかがお感じで?

2019年11月25日

何に興味があるかは幼少期でわかる

自分の住んでいる星がおおよそ球体であると知った時の衝撃の大きさは、幼稚園児ながら凄いものがありました。自分の足元の方向が星の裏側では上空と同じ方向なのですからね。宇宙空間で考えればなおさらですが、上下とか東西南北とかの方位というものが意味を有するのは惑星の表面側に位置していている場合のみです。

 

更に不思議に感じたことは重力。球体がグルグル回転している外側にへばり付いているのだから遠心力で吹き飛ばされるのが普通に感じられるのですが、鉄が磁石に吸い寄せられるように物を持ち上げるのに重さを感じる。バケツに水を入れて縦にグルグル回しても水は底に張り付いて落ちてこないというのに何たる不思議。

 

最も不思議だったのは、数歳の頃におばあちゃんの家に行くと立派な仏壇があったこと。線香を焚いて合掌していた姿を見て「何やってるの?笑」

死者は姿が見えないし声も聞こえないけれど、姿が見えたり声が聞こえる人もこの世にはいるということを後年になってから知りました。

 

約半世紀を経てわかったこと。今でも興味関心を抱いていることは、ズバリ幼少期から不思議さや疑問を抱いていたことなのです。
もしも「何をしたら良いのかなぁ」と思った場合、幼少期の記憶を辿れば間違いないでしょう。そこにあなたの本質的な興味の対象があるのです。

 

 

2019年11月24日

時の経過

皆さんは「時の流れ」というものについて不思議に思ったことはありませんか?

私は中学生の頃に「光の速さで何年かかるという距離の単位を何光年と言う」みたいな理科の授業を受けてからというもの、常に疑問に感じて時というものについて考え続けてきました。

 

それが本当なら仮に10光年の距離にあるとされる星を見ていたとして、今現在見ているその星は10年前の姿であって5年前にはなくなっているのかもしれない。その理由が何らかの事情で爆破したのだとして、爆破した瞬間の姿が自分に見えるのは5年後…釈然としない(笑)。

 

地球上だけでも経度が異なれば昼夜の状況も変わります。夜遅くまで明るい地域もあります。でも、今の人間社会には勤務時間や徴兵期間や服役期間(笑)等がありますから、時刻や暦というものを人間社会の都合上決めておく必要があります。それで国や地域ごとの標準時刻というものを無理矢理定めて運用しているのです。つまり自然生物としては極めて不自然な営みを強いられている。

 

暦にも同じことが言えます。たまたま世界標準となっている今の暦は4年に一日追加して調整をつけるという無理のある暦ですが、私の母は2/29に他界したので命日が少ない!笑
大人になって調べてみれば、世界中には様々な暦が存在しているではありませんか! 日本でもちょっと前までは今とは異なる暦を運用していたのです。

 

私が脳幹出血で植物状態となってあの世を旅した際にも、意識不明期間であったこの世の肉体での経過時間の何千倍もの経験をしてきました。 元々、一晩で見る夢が数週間分はあったなんて事は幾度も経験したので、それほど驚くことでも…笑。

 

だから時間や暦とは、今のこの世の文明社会で暮らす人間が創作したものだと感じるのです。そのうち新たな時間概念が人間社会に普及するのかも?

2019年11月22日

生きることに集中

「人生で初めて」という言葉から、みなさん何を思い浮かべますか?

「数十年そんな事はなかった」という人から「毎日のようにそんな事ばかりだ」という人まで、実に個人差のある言葉でしょう。

 

でも確実に言えることは過去世の記憶がないかぎり「死んだことがある」という人は少ないのです。人とは未知の事を避けようとする習性があるため、何が何でも死を回避しようとしたがるものです。死んでから「肉体死とはこういうものだったよ~」と教えてくれることはあっても原則は幽霊からということになります。幽霊からのメッセージは公文書に載ることもなく、むしろ現代ではオカルトとかトンデモ話のジャンルとなりますから、経験したとしても口外する人も少ないのです。よって教科書に「死ぬとはどういうことか」といった記述もされることがないため、益々皆が肉体死を「未知のもの」としてタブー視するようになってしまうのです。

 

もうひとつ確実に言えることがあります。それは今生きている万人が肉体死を迎えるということです(笑)。明日なのか来週なのか来月なのか来年なのかその時期は人によってまちまちですが、少なくともこれを読んでいる人で来世紀まで今の肉体で生きている人は一人もいないわけです。

 

肉体死を迎えない人がいたのならばタブー視することもありですが、確実に自分も迎える事態を無いことにしたり考えないようにするというのではあまりにも幼稚なのでは?だから気持ちよく生きて気持ち良く死ねる人が現代は少ないのです。

 

私は自殺の勧めをしているわけではありません。肉体死の心配をしろと言っているのでもありません。むしろ充実した人生を推奨しているのです。冒頭に書いた通り、肉体死が未知のこととなり過ぎているからこそ、心配したり不安になったり多くの人が生きることに集中できていないように窺えるのです。

 

肉体死とは何なのかに意識を向けることは

生きることに意識を向けることとセットなのです。

 

 

2019年11月21日

3歳の息子が、深夜早朝に声を上げて泣きながら手足をばたつかせることが稀にあります。覚醒時にはよくしゃべるし笑うしそんな行動をとることもないので、怖いなり悲しいなりの夢を見ているのでしょう。10分もすれば再び眠りに落ちてくれるので助かります。
起床してからの様子は至って普通で「怖い夢でも見ていたの?」と訊ねても記憶にはない模様。生まれてからの3年間にそれほど辛い経験をさせたこともないので、夢とは本当に不思議なものですね。いつでも息子に「どんな夢を見た?」と訊くと「ユーチューブ見てた」と答えるので(笑)、まだ夢を見るという行為が何なのか理解できていないのでしょう。

 

実はいい大人であってもそれは同じで、夢分析とか夢占いとかは多少あっても現代の先進国に暮らしていればほとんど誰もが自分が睡眠中に夢を見るということがいったい何なのかを知らずに一生を過ごしていることでしょう。

身体は横たわっているだけなのに忙しく意識活動をしていたりするのですから、私も幼稚園児の頃から人生ミステリーのひとつであり続けました。後年になって気付いたのですが大人であっても「夢とは何なのか」について明確に答えられる人がいないということが更なるミステリー(笑)。

ですから私は、人間とは物質の肉体で活動している動物ではなくて非物質の意識で活動している生命体である、子供の頃からそう考えるようになったのです。大人になるほどそれは受け入れ難いことですから「夢を見る」ということを曖昧にしたまま考えないようになってくるのだと思うのです。

しまいには、物質世界で実現しないであろうと自分が憶測することを言ったりやったりしている人のことを「夢見ている」と表現する始末。
ところが実態は「夢見ている」人だけが、現実と呼ばれる肉体の世界でも物事を成就したり生き生きと暮らしているのです。

 

夢を見るという行為を
軽視してはいけないのです!

 

2019年11月19日

使い慣れたものからの切り替え

10年は使用してたであろうPCが壊れました。
丁度妻が人に貸していたノートPCが返ってきたとかで、それを使用してこれを入力しています。長年使っていたデスクトップPCに比べると、ノートPCとは画面は見難いしキーボードは打ち難いしで体の悪い今の私には厳しい!笑

元々使っていたデスクトップ用のキーボードやマウス、でかいテレビ用モニターに繋いで何とか凌いでいます。高齢になってから新しい機器を使いこなせるようになることがいかに難しいことなのかというのがよく解ります。70~80歳になってからガラケーをスマホに替えて使いこなせていたのなら、それだけでかなり立派であると言っても過言ではありませんね!

 

 

2019年11月14日

悪霊からの影響を避ける

先週、皇居周辺で新天皇即位のイべントがあり、アイドルクループのコンサートも無料で見られるとのことで全国から大勢の人が集まっていたようでした。丁度その日に妻も自分のイベントで皇居周辺にいたらしく、苦しそうに帰ってきてすぐにとり憑いて来た霊を除去する作業を私も手伝うはめになりました(笑)。

 

妻は霊的能力が強いので敏感に察知できて直ぐに除去することもできるわけですが、そうでなければ憑依霊が体内に居ついてしまい、病院に行っても原因が判明せずに長期に亘って体調不良や精神疾患に悩まされて生きることとなるのです。

 

昭和中期頃までは、天皇という存在を特別視して良くも悪くも思い入れが強いまま他界し、生きている人間にとり憑いている霊も多いのです。全国からそのような人々が集まっている場所に居合わせることになったら、誰だって多かれ少なかれ影響を受けてしまうのです。

 

私も直ぐに影響を受けてしまうため、人間が集まっている欲望の渦にまみれる事を極力避けています。混雑している商業施設や特に初詣なんてもっての他。「ああして欲しい」「こうなって欲しい」といった人の欲望だけではなく、その人にとり憑いている霊の影響が大きくて必ず疲弊してしまうのです。でもそのことに気付いたのは20代になってからのことでした。

 

人からはもちろん、霊からの悪影響を避けることはとても重要です。

 

2019年11月11日

人にとって本質的なこと

興味のある物事が思い浮かばない場合、物事ではなくて興味のある人物がいないということです。また、物事自体に興味があると自分では思っていてもその物事を行っている人に興味があるとか、そんなきっかけを有している事がほとんど。「私がこれに興味があるのは他人からの影響ではない」と考えていても、他ならぬ自分の過去生からの影響だったりするのです。

 

今生とは時と場が異なるのですから自分とはいえ人物の影響であることに変わりありません。
人間とは、特に生まれた直後は周りの影響を受けて真似をすることだけでしか成長できない生物です。狼に育てられた子供の話を出すまでもなく、それは必然。だからそれを総合すると「どんな考え方で何を行っていた人に影響を受けたのか」という内容次第で自分の生き方も決まっているということ。

 

昭和時代ならば「世の中カネと物こそが全て」であり、「人間とは生きているうちだけが華」といった生き方をしている人が多く、そんな影響を受けた人々がその後も趨勢に乗じてこの世の中を牛耳ってきたのです。

 

なぜこのような事を話しているのかというと、「人間とは何なのか」「肉体生死とは何か」といった事に興味を持つ人が長年あまりにも少なく、そのような事をタブー視してカネのことばかり考えている人が圧倒的多数だなんていう人間社会は、とても不健全だと私には感じられるのです。

 

もっと本質的な事をオープンに
語り合う社会を築く時代です!

 

2019年11月11日

幸せとは心の状態

「何かや誰かが自分を幸せにしてくれる」子供はそう考えがちです。ところが実際、大人になってみるとそうではない事に気が付きます。子供の頃から夢見てきたそれらが中年になっても何ひとつ実現しないのならば(笑)そのような幻想を持ち続けたまま肉体死を迎えることがあるのかもしれません。

 

「恋人ができる」「結婚する」「子供が生まれる」「カネが手に入る」「車や家、その他諸々を購入する」等々、子供の頃なら「それさえ叶えば幸せになれる」と思っていたことが叶ったところで「これで幸せだ~」となることは少なく、むしろ新たな悩みの種になったりするのです(笑)。

 

もう解りましたよね。自分を幸せにすることができるのは自分の心の状態だけ。
普段口にする飲み物や食べ物、日常目にすることができる景色、毎日のようにしている作業、ただ座ったり寝たりできるだけでも「幸せだな~」と感じるかどうかは心の状態次第です。行為の内容を少し変更するだけでより幸せに感じやすいのならばそうする価値は大いにあります。

 

そんな心の状態をつくる工夫が万人にとっての人生テーマだとも言えるでしょう。

 

2019年11月09日

低失業社会

小学生くらいから、親からも先生からも歯磨きの重要性を随分と口うるさく指摘されてきました。丁寧に歯磨きをしていたのですがそれでも虫歯になり、痛がっては仕方なく歯科医に幾度も通っていた記憶があります。ところが高校の頃、同級生で虫歯に一回もなったことがないという友人の存在を知りました。彼には深い考えやこだわりがあったわけでもないのですが、なんとほとんど歯を磨いたことがないと言うではありませんか!

 

確かに世界には歯磨きなんてしない民族だっているのです。食生活も異なるのですから、私も真似をして歯磨き厳禁とするまでの勇気はありませんでしたが(笑)就寝前に毎日一度だけ歯磨きをするようにしました。すると以後、虫歯になって歯科医に行ったことは本当に0回なのです。

 

大人になってから気付いたことですが、歯科医の大学は凄い数あるのですね。時間とカネをかけて大学を出たからには歯科医になろうとするに決まっています。それは歯科医だけの問題ではありませんが、いろんな専門の勉強とやらをした人達皆がその道での就職を望むのです。そのことが当てはまるのは医療業界だけではないということです。

需要と供給のバランスを考えたら、医師ばかりが増えても患者が増えないことには成り立ちません。ですから社会全般を考慮したら「病人をいかに増やすか」が大きなテーマであり、既にそのような仕組みが社会常識の中にも巧に組み込まれているのです。病気が増えるわけです、だってそれを誰かがクリエイトしているのですから。病気にならないようなことを進言する人は単なる営業妨害者(笑)

 

実際にそのような国もありますが失業者で溢れかえっている社会というのも厳しいものがありますからね。世界中の旅行者から「日本は最も治安が良い」とされていることも、日本人全員が負荷をシェアしているという背景あってこそのことです。

 

2019年11月07日

人生のテーマ

自分が日々体験している不愉快を、機会あらば他人にも味あわせようとしている人っていますよね(笑)。

 

自分が単体でどうであるかよりも、他人と比べて自分がどうであるかを問題としている人が多いのです。その考え方ですと、自分よりも他人が更に辛くて苦しいことが多ければ自分は比較的楽。自分が快適でも周りが更に快適だったら自分のささやかな快適さはむしろ不愉快になってしまうわけです。

 

金持ちかビンボーかというのも、ほぼそのような問題ですよね。食事にありつけないとか寝床が確保できないといった人は少ない世の中でも金持ちビンボーが話題となるのですから、ほとんど豊かさの話ではないのです。自分と他人の懐具合を常に気にして比較しているのなら、それだけで「豊かな人生じゃない」ということは言えるのかもしれません。

 

金銭の有無を気にかけないで生きて行けたのなら、それこそが豊かな人生だとは思いませんか?

そのためには、経済が些細な課題であると感じられるくらい、金銭よりも大きな人生テーマを掲げていることが必須です。
逆に言うと、それがないから預貯金の残高が最大の人生テーマとなってしまうのです(笑)。

 

2019年11月06日

大人を教育

私は「ありのままで良い」みたいな言葉を目にすると心に少し引っ掛かります。極端な話、例えば「一日100万の盗み」「毎日一名の殺人」を目標に掲げている人に言える言葉ではないですよね(笑)。

 

現代日本では平均的に小学生から「ねばならない」事に埋没したまま、病死か事故死をするまでそれが続いている人が多いのは事実です。そんな生活に耐えられなくて義務教育中から不登校となってしまったり、若くして自殺をする人が多いのは皆さん周知のこと。そんな人間社会から開放してあげたいと考える人の言葉なのかもしれません。

 

ただ、私は思うのです。「このままで良い」と安易に思い続けた結果が人生の破綻を招くのではないでしょうか。ですから逆に、子供の頃から「このままで良いのか」と定期的に立ち止まって見つめる習慣を身に付けることほうが大事だと考えます。それができれば、親や教員に何を言われても「自分はこう考えてあれをしたいから」等はっきり断るなり自分の意見を言えるようになり、操り人形のような人生を送らずに済むのではないでしょうか。

 

大人である親や教員や上司は、残念ながら自分の都合だけで子供や若者にあれこれ指図してくるのが普通です。

だから大人の教育こそが肝心ということですね。
とても難しいのですが・・・

 

2019年11月05日

他人は実在するのか

突然ですが、自分以外の人とは存在するのでしょうか?
何を言い出すのか!と思う人が多いであろうことは承知の上での投げかけです。

 

私は子供の頃から、自分以外の人をゲームの中に組み込まれたキャラクターみたいな感覚で観ていました。幼稚園に上がるかどうかの頃、よく夢で見た記憶が鮮明にあるのですが、私は形の無い存在に家から連れ出されてパパ・ママ(当時はそう呼んでいた)と一緒に住む家から遠ざかって行くのです。そして「あの人達はパパ・ママという役割を演じているだけの存在なのだ」みたいなことを言語ではなく、でも明確にテレパシー的なもので私に伝えてくるのです。

 

「じゃ僕は誰の子なの?」的な疑問が大きかったのも手伝って、誰にもその事を話さずに成人しました。成人した頃から感じ始めたことは「あれは『実は別の父母がいる』という意味ではなく、この世に人間という種の動物で出てくるためには物理的に両親というものが必要であってその役割を担ってくれた人達であり、非物質的には親でも何でもないよ、という意味だったのだ!」

その後も会社勤め等を経験しましたが「上司とかサラリーマンにそんな話をするのもなぁ」と躊躇し続け、自分がコンサルタントとして独立開業してからも、お客様の経営者等にはそんな話を切り出せないまま今に至っています。

 

30歳頃に映画「マトリックス」を観たとき、「やっぱりそうか、そのように感じているのは私だけではないのだ!」ってな安堵感を得たものです。興行成績も無視できませんから娯楽作品として受け容れられるようにアクションや制作手法が話題になっていました。しかし着目すべきはストーリー・脚本です。

現実だと思わされている世界とは実はコンピューターで創作されている世界で、それに気付いてしまった人達だけで現実を取り戻そうとしている・・・

人間社会を操作しているのがコンピューターだったり、それと闘うという構図はエンターテイメント作品ですから仕方がないとして、「これが現実だ」と思っていることが実はそうではないという核心部分は的を得ている作品だと感じます。

 

私は3年前の脳幹出血によって、この世の肉体は仮死状態のままいろんな世界を体験してきました。それぞれの時空間で関わった人々はその場では確実に存在していたように思われましたが、この世界での意識が戻ってみればそれらの人々はこの世界には存在していません。何が現実なのかという問いを掲げ続けて約50年この世を生きてきて、「全部が現実だとも、どこにも現実などないとも言える」そんな体験を味わったのです。

 

ですから強いて言葉にするのなら、自分が現実であると感じている世界が現実なのですね。

あなたにとって他人は存在していますか? 

あなたにとっての現実とはどんなものですか?

皆さんはいかがお感じで??

2019年11月02日

人生は楽しく!

中高生の頃も社会人になってからも、私は地球人の愚かさやマヌケさにほぼ常時憤慨していました。常に「地球のこの世なんて、無くなればいいのだ」と思い続けて30代を迎えました。

 

しかし、自分の一存で地球のこの世を無にするわけにもいきません(笑)。自分が死んだところで「この世」では地球人の愚かな営みが繰り広げられ続けることを思うと、居ても立ってもいられません。このままでは史上最強のテロリストになってしまう(笑)。何よりも、自分の自由意志で地球のこの世にやってきたことが見えてきたのだから、「この世に出てきた本意を遂げよう」と方向転換したのです。

 

自ら望んでこの世に出てきたという経緯に立脚するならば、人間という生き物の愚かさや醜さは百も承知の上で自分がその愚かで醜い存在になろうと決めて人間をやっているのです。だから人間の愚かさや醜さを嫌悪していたのならば当然、死ぬまで憤慨を続けているだけ(笑)。

そこで自分までが積極的に誠に愚かで醜い存在となる必要もなく、周りの人間の愚かさや醜さを楽しめるセンスを磨こうと30代から努力し始めたのです。その甲斐あって、それまで「よくもくだらない!」と思っていたようなものにまで笑える人に自分が成れたのです。

 

よくよく振り返ってみると、小学生低学年頃までを楽しく過ごせたのは「8時だよ全員集合」みたいなテレビ番組をバカにせず楽しんで見ていたからだ、ということに気付いたのです。それが小学校高学年になると「くだらない!」とかカッコつけたことを言い始め、中学生頃には見ることもなくなった。と同時に人間社会へも憤慨するようになったのです。

 

マヌケさを楽しめるセンス
この世では大切なのです(笑)

2019年11月02日

非物質として人を認識する

首里城の火災映像を観た時、私は阪神淡路大震災のニュース映像を思い出しました。自分も生まれ育った街を離れ上京して間もない頃だったので、色々な思いが巡った記憶があります。関係が薄い場所でさえもそうなのですから、自分に馴染みのある場所が焼失したらどれだけ心が影響を受けることでしょう。

 

ここからが本題です。繰り返し書いている通り、人とは本質が非物質の知的生命体です。物質の動物でしたら自分自身の肉体が燃えなければ難無しとして片付く話であっても、自分の思い出に染み付いている建物や場所が焼失した場合でも自分自身の一部が被害を受けたかのように傷つくのです。それもそのはず、焼失したものが非物質として自分の一部に組み込まれていたからです。

 

この世でも想念が物質化しているようなものですね。だから仮に肉体の健康状態に問題があったとしても、非物質である内面の心が健常ならば肉体も健康に戻りやすいですし、物質の肉体だけ健康だったとしても、心や精神が病んでいれば身体も同調して病気となるのです。継続して心配していれば物質の身体も心配していた通りになるということですね。

 

肉体を物質機能としてしか捉えていない西洋医学には欠落している観点ですが、千年単位の昔から東洋医学では非物質エネルギー(気)の流れを重視して人間の身体を診ていたため、現代人も改めてそこに着目し始めているのです。

 

人間という存在への認識の非物質化は、こんな唯物主義文明下でも着実に進んでいます。

 

健康問題も経済問題も、非物質の問題として扱うことが妥当なのです。

2019年10月31日

この世の立ち位置

何が現実なのかについて確証のある説明ができる人は、存在するようでいて存在していない・・・面白い事実だと感じませんか?

 

私が「あの世」という言葉を頻繁に使うのは意図的です。なぜなら「この世」とは、沢山ある世界の一つでしかないからです。「あの世」とは「この世」と対照的な世界という意味ではなくて「これが世界の全てである」と多くの人が認識している「この世」とは、沢山ある世界の一つだけであると私は認識しているのです。

 

同じこの世にも複数のパラレルワールドがあります。「あの世」とは、この世を去った後に「この世の続き」的な世界があるのかと勘違いしている人が多いので「あの世がある・ない」といった話になってしまうのですが、実はこの世の誰もが元はあの世の住人。この世にいながらもあの世は並行存在していて関わり続けていますし、肉体を去れば元に戻るというのは当然のこと。別世界にアクセスできなければこの世にも居続けられないので、この世で生きている誰もが毎日睡眠を確保しているのです。

 

それなのに何故「この世だけが全て」だと捉えてしまうのかというと、恋愛を経験したことのある人なら多くは解ることでしょう。異性も同性もこの世に十億人単位で存在しているのに、特定の人だけしかこの世に存在していないかのごとき錯覚に陥ってしまうわけです。だからこそ結婚したり妊娠出産したりとかもあり得るわけで、私はそれを悪く言っているわけではありません。つまりは他に親しくなる人がいないから起き得ることなのです。

 

しかし誰もが睡眠中には夢を見て、覚醒中でも当たり前に異世界を体験しているのに「この世が世界の全てである」と誤認している人がこれだけ多いということは、明らかに皆がそのような洗脳を受けてしまっているのです。

 

その洗脳から抜け出せない限り「人生における生死とは何か? 宇宙とは何か? 重力とは何か? 時空とは何か?」等、人類にとって重要であるはずのあらゆる事項があやふやなままでしょう。

しかし「あやふやなままで済ます時代はもう終わった」と私は感じているのです。

 

 

2019年10月28日

復活の予兆

昨夜は「非物質ガイドとの探索」3部作の出版で共に仕事をした「まるの日圭」さんの「東京夜会」に参加してきました。
私が倒れてからは初となり、数年ぶりに懐かしい顔も見かけて「私はまだこの世にいたんだ!」と再認識できました(笑)。

その時共に出版のお仕事をした編集の江口さんも偶然来られて(多分彼は初参加)よくも凄いタイミングだと感じました。

 

倒れる前から決まっていた圭さんとの名古屋の出版記念講演に、倒れてから数ヶ月後のヨレヨレの私が妻の介添えで出演した時のことを思い出しました。まだ眼も見えていなく、手足もあまり動かなくて「サインください」に応じるのに難儀(笑)した記憶があります。その頃に比べれば今はノソノソ歩いているくらいで痛さも辛さもなく、昨日もバスやタクシーを使わずに電車と徒歩で累計数時間は歩きました。

 

より健康体に近付いている確認ができた一日となりました。今後は更に積極的に活動します!

 

2019年10月26日

誕生も死亡も皆が孤独

孤独とはどんな時に感じるものでしょう。

 

私も十代頃までは常に孤独を感じていました。ところが、自分以外の誰かと一緒にいたり共に過ごしたりする機会があると、益々孤独感が深まるということに気付いたのです。遅かれ早かれ誰もが気付くことでしょうが、自分と全く同じような感性や価値観を有する人なんてこの世には原則いないのです。でもそんな幻想を抱く時期がきっと皆さんにあるのでしょう。だから「恋愛」などという幻想ゲームが成立する!(笑)。

 

人とは必ず別の個性を有するものである。そんな割りきりができてしまえば、孤独という当たり前の感情に虚しさを覚えることも無くなるのです。むしろ少し感性が近い人に出会えただけでラッキーだと思えてしまう(笑)。

 

自分の好みを表明して行動することで、結果的に仲間だと思える人は増えるのですね。

 

2019年10月25日

他人の存在は自分の意識

誰にとっても、存在感の大きな人とその一方で普段は存在自体を忘れているような人もいることでしょう。人の存在のあるなしとは、自分がその人のことに意識を向けているかどうかで決まります。

 

テレビや雑誌である人の存在を知って、会ったことも話したこともないその人の、豆粒のような姿を遠くから見るためにカネや時間を喜んで使っている人もいます。他人の意識の中で存在感を大きく育てることができれば、そのような商売も可能だということ。仮にその豆粒みたいに見えていた人が全くの別人だったとしても何の問題もないでしょう(笑)。はじめからその人は見に来た人の心の中に存在しているのだから!

 

もうおわかりでしょう。
嫌だとか苦手だとか思う人がいるのなら、自分自身の意識がその存在を大きくしているのです。好きな人も嫌いな人も「自分の中では大きな存在」という意味では同じです。どうでもいい人は自分の中で小さな存在なのですから、好きとも嫌いとも何とも思わない(笑)。

 

だから他人をどうこうする必要は全くありません。自分の意識のあり方を自分で変えればよいだけなのです

 

2019年10月24日

学びは自由

皆さん、職場等で年上を相手に腹を立てたりウンザリしたりしていませんか?

 

肉体年齢はせいぜい数十年の違いであっても、魂の年齢は千年万年単位の違いがあったりするものです。しかし、古い魂が偉いわけでも若い魂がダメなわけでもありません。同時期の肉体人生でも、保育園児が高齢者よりも劣っている人間であるわけではありませんよね。それと同じで誰もがそれぞれの魂の段階に適切な学びを体験するため、この世にやってくるのです。

 

ただし、若者ほど暴力的だったり言葉が乱暴だったりはしますよね。高齢な賢者ほどおとなしくて控えめ、そんなものなのです。ですから中年以降になっても大声で騒いでガミガミ言うような人に対しては寛大に接することも知恵なのです。他人の幼稚園児に凄い剣幕で怒ったりウンザリするような人はいませんよね。厄介な事を言ったりやったりする人に対しては、修行だと思って(笑)微笑ましく接する事も時には必要です。

 

幼い魂ほど、この世で自分の人生を切り拓くことを苦手としているので、高学歴で大きな組織に属して一生そこで過ごす傾向にあります。何度も言いますが、それがダメなことでは全くありません。むしろ躊躇せずに人生のあれこれに手を出して、傍から見たらだらしのない人生をこの世で送っている古い魂もいます。つまり人の生き方とは良し悪しの問題ではないのですね。

 

何が言いたいのかというと、人それぞれのこの世での学びがあるということ。
ですから何に価値を見出すのかも実に人それぞれ。学びのペースも人それぞれ。
アナタが数千年前に学んだ経験を今の人生経験から学んでいる人が、アナタの教師や親や上司の立場である可能性も充分にあり得ます。その逆もあるでしょう。自分では立派なことをしているつもりでも「いい歳して幼稚なことしているなぁ」と黙って観られているのかもしれません。

 

表向きは同調して似たような事を口にする人が多いのですが(それが社会性だと考えるため)その実、人の数だけ異なる思いがあるのです。誰のことをどう思うのかはアナタの自由。人をどうこうしようとの思いがアナタにあるから腹が立つのです。どんな人であろうとも、それもその人の自由。

 

2019年10月23日

災難を受け容れる

今日の天候は台風でもなく暑くもなく寒くもなく風も穏やかで、外に出るだけでありがたく感じられるような陽気ですね。

 

いつもそのような陽気ならば特に何も感じないでしょう。強風に煽られたり雨に打たれたり暑かったり寒かったりという経験があるからこそ、平穏な気候だというだけで嬉しく感じられるのではないでしょうか。

 

これは何事にも当てはまります。病気や怪我をするからこそ、痛みも痺れも痒みも辛さも苦しさもない健康な状態がありがたいのです。支払いに苦悩する経験があるからこそ、寝泊りする場所や食事にありつけることに喜びを感じられるのです。

 

総じて人生の中で一旦は厳しい経験をすることは、人生に幸せや喜びをもたらす要素となるのです。これは気休めではなくて事実です。

 

ですから一時はどんな災難に遭ったとしても自暴自棄になったりヤケクソにはならないで「幸せや喜びへの切符を手に入れた」と思って淡々と受け容れそれを乗り越える姿勢、そんな考え方が人生には重要です。

 

2019年10月22日

異なる生命体を受け容れる

今日は天皇即位の儀式をどの局でも放映していました。

第二次大戦後、それまで国家統治者として扱われていた天皇が憲法で単なる国の象徴とされたことは誰もが知っているでしょう。では、平安時代等それ以前の天皇が何故特別視されていたのかを考えたことがありますでしょうか。

 

小学生頃から謎に思っていた私は思春期以降あれこれ調べてみたのですが、学者が発表している説は昔の文献に基づいているだけだったり、低知性な現代の学者が理解できない事は排除するような意図がはたらいて「実在したのかは不明」とか「記述の誤りかと思われる」みたいな情報で溢れかえっています(笑)。

 

そんな玉石混交な中ではありますが、天皇の起源となる人は身長3メートルくらいで尾があって全身が鱗で覆われていたとの情報を昔どこかで目にしたことがあるので、おそらく平均的な地球人に比べて身体能力なり精神性なりに秀でていた存在や、その末裔を特別視することから始まった風習なのだと私は考えます。

 

他の星との交流が原則無かったここ数万年の地球人は、他の星の生命体を見ると神様と勘違いして崇拝したり、悪魔だと思って攻撃を仕掛ける傾向があるため、それらが他の星の生命体からしても地球には介入し辛い要素となっているのです。それを象徴する現象ですね。

 

今の天皇は一般庶民との混血ですから、もうそのような特別視は不要です。相手が地球人とは大きく異なる部分のある知的生命体であってもそれを平常心で受け容れられる意識を、地球人も養う必要がある時期に入っているのです。

 

 

2019年10月21日

地球人を盲目から解放させる!

数日前から、倒れる前に穿いていた厚手のスボンを穿いて、歩いたりバスや電車を乗り継いだりして移動しながら長時間を外で過ごしました。

 

脳幹出血で歩けなくなってからは、良くてもスウェットパンツとかの緩いズボンしか穿けなかったので、自分一人で達成感を味わっています。
理由は、摩擦が大きいと脱ぎ穿きができないことと歩けないこと、それから下の粗相をした場合にあまりにも大変だから!笑 それがここ数ヶ月は糞尿を漏らす事もなくトイレで用を済ますことが出来ていて、思い切って健常者デビュー!みたいなものです(笑)。

まだベッドに腰掛けながらでないと着替えはできないし、相変わらずのヨチヨチ歩きしかできませんが、この日をイメージしながらリハビリを3年間続けてきた甲斐がありました。

 

先週末、私も講演を2度行わせてもらった「サトルエネルギー学会」理事からの強い勧めもあって、秋の講演大会に聴衆として参加しました。その中に「松尾みどり」さんという先輩女性の講演者がいて、地球外の星やあの世のことについて自分の言葉で講演されていたので私は興味を持ち、懇親会で色々とお話しさせてもらいました。

 

他人の著作やブログを引用して宇宙やあの世について語っている人は多くいますが、自分の体験や記憶から自分の言葉でそれらを語っている日本人には初めてお会いしたので(他国でそういう人がいることは知っています)私は今生、地球の日本に生まれてきた長年の孤独感が癒されたようで嬉しくなりました。

 

普遍的な、宇宙や知的生命体の在り方を、地球という星とこの世だけしか知らずに生きている盲目な今の地球人を啓蒙すべく、地球人のフリをしてこの世で活動している人は日本にもいらっしゃったのです。

 

今という時代が、地球の宇宙時代の幕開けであることを確信しました!

 

2019年10月18日

失敗を笑う

失敗を笑えることはかなり重要です。その理由を説明しましょう。

 

これは、自分に対してでも他人に対してでも重要なのです。失敗と成功の定義についてがここでの主旨ではないので脇に置くとして、何事も一度目で成功する事ってあまりないですよね。失敗を繰り返すからこそ何とかしたくなるのです。そんな人間の心理を上手く突いて存在しているのが宝くじを含めたギャンブル(笑)。

 

他人の失敗に腹を立てたり自分の失敗に落ち込んだり、それらが日常では成功できる事はほとんど無くなり、単なる気の毒な人になってしまうのです。何でも一発で成功させる人が仮にいたとしても他人にそうさせることはできませんから、結局は不快だらけの人生が待っていることとなるのです。

 

他人の失敗をあからさまに笑う事は難しい場合が多いでしょうし、他人に対して無礼に振舞う事を推奨しているわけではありませんよ~。
卑近な例ですと先月、新品のインスタントコーヒーを持ち上げようとしたらフタが閉まっていなくて中身をブチまけたことがありました。その際に「誰だ、きちんとフタを閉めていない奴は!」とか怒ったところで何も良い事はありません。他ならぬ自分がやったことなのかもしれませんしね(笑)。そこで私は、自分のしたことのマヌケさに立っていられないほど腹を抱えて大声で笑ってしまいました。そうする事で楽しい思い出が一つ増えただけで済むわけです。

 

私は脳幹出血で死にそびれて一度はほとんどの肉体機能を失ったのですから、その事実をウジウジ考えたところで自殺以外にすることはありません。ですから、その事実を笑って受け容れることができて初めて次のステップを踏めるのです。

結論、自分の失敗をウジウジ悩んでいられる人や他人の失敗に腹を立てていられる人は、ヒマすぎるのですね!笑

 

2019年10月18日

人の多様性

今日の昼頃に用事があって渋谷の街を徒歩で移動しました。何年ぶりでしょうか、少なくとも脳幹出血で倒れてからは初めてでした。すると、街の歩道の石のモザイク模様が激しい凹凸に見えてしまい、恥ずかしながらアトラクションに乗った高齢者みたいな疲労を覚えてしまった(笑)。

 

やはり一度壊れた脳は、再生したかに思えても元とは異なる構造で再構築されているのです。人の外見からでは全く判らない事ですが、同じものを視ていても人によってそれぞれ見え方が異なっているのだということを改めて感じさせられました。

 

 

若い頃「この魚の美しさがどうして解らないのだろう」とか「この曲の素晴らしさをなぜ感じないのだろう」等々疑問に感じる事は多々ありましたが、自分が視えたり聴こえたりするものとは異なるものを他人は視て聴いているのです。
視覚や聴覚ですらそうなんですから、味覚や嗅覚や触覚、更には霊感ともなればどれだけの個人差があるのかということです。

 

「それらを他の誰かと共有したい」なんて幻想ですし、共有を求めること自体がナンセンスなことであると誰もが認識すれば、多種多様な個人差というものを互いに尊重する人間社会が成立するものだと考えます。

2019年10月17日

身体ではなく心

私は3年前に脳幹出血で一度失明をしました。

厳密には真っ暗な失明ではなくて右目と左目の視覚情報を脳が処理できなくなって、常に壊れた万華鏡を覗いているような錯乱した視覚で過ごしていたのです。敢えて言うなら「3D映画を裸眼で観ている」のもっと酷いヴァージョン(笑)片目ならまだマシなので、眼帯を左右交互にして生活していました。

 

歩けるようになりそうな時期となっても、向こうからやってくる人の数や車の台数が全く認識できませんでした。それで、自ずと車も入ってこなくて人通りもまばらな公園道路でヨレヨレしながら歩く猛練習を一人重ねてきたのです。

 

眼に限らず、生まれつき肉体に障害のある人は少なくありません。それでも幼少時から人間社会に適応できるような訓練を出来得る限りの時間をかけて養うでしょう。一定以上の年齢に達してから突如失ってしまう肉体機能というものはダメージが大きいのです。私は視力だけではなく、多くの肉体機能を数時間で失いました。ものを飲み込むことも糞尿を体内に留めておくことも一時期はできなかった。私が倒れた同日に出てきた生後数日の息子と全く同じ!笑

 

もう肉体以上にメンタルの問題です。起き上がりも出来ないのに歩こうと思うのか?眼が視えないのに読み書きをしようと考えるのか?私は「する」と決めたから出来るようになっているのです。

 

今日、バス停でバスが一台近付いてくるのが裸眼で視覚認識できました。リハビリ病院で文庫本を顔から数センチの位置に構えて片目で読んでいた3年前の心情が蘇ってきました。

あれから3年… 肉体機能の修復には時間がかかります。
前向きな気持ちを維持できるかどうか、それこそが最大の課題なのです。

 

2019年10月16日

生きる楽しみ

今日、昼前にファミレスに入ったところ、隣の客席に荷物を置きっぱなしでトイレに一時間以上立て籠もっている客がいるとかで店員が困っていて、身体が悪い私もその障害者用トイレが使えないのでは困ってしまうと思っていたら警察が来て、やっとその泥酔した人は出てきました。

 

そのスーツを着た初老の人は何を要求するでもなく、その後一人でブツブツ独り言を語り続けて色んなところに電話をかけていました。つまりは寂しい人なのでしょう。徹夜で飲み明かして閉店になったからファミレスで過ごしていたっぽいです。中高生の非行少年少女と同じで、自分に注意を引かせたくてもその要素が何もないから問題行為をすることでかまってもらおうとするのです。

 

トイレに居続けるだけで店員が「大丈夫ですか?」とか何度も気に掛けて来てくれたり、終いには警察官が来てくれたりして犯罪者でもないから逮捕もされない。いい歳して何の楽しみもないということは、余程の寂しさなのでしょう。

 

帰りがけ、店員が「本当にスミマセンでした」とか申し訳なさそうに言ってきたので「動物園に来たみたいで面白かったよ!」と返したら周りでドッと笑いが起き、気持ちを和ませてあげることができました。すぐにどうこうなる事は誰にだってありませんが「これが自分の人生だ」と思える何かを築き続けて生きて行くことは、自分にとってとても大切なことです。

 

2019年10月09日

時の経過

時を超越するとはどういうことでしょう。この世に滞在しながらそれを理解する事は確かに難しいのですが、その理由を説明しましょう。

 

手元にDVDソフトがあったとします。収録時間は3時間だったとして、30分経過の箇所を観るのも、1時間先でも2時間先でもエンディングでも今観ている所よりも15分戻った箇所を観ることも簡単にできますよね。それはDVDソフトを操作できる立場にあるからできること。

 

自分が、普通に上映されている映画に出てくる主人公だったとしたらどうでしょう。
30分先の展開も読めなかったり50分前の経験をもう一度とかもできません。

 

もうわかりましたよね。

この世に出てきたということは自分主演の映画が上映スタートしているようなもの。あれこれ操作できるのは普通なら監督や制作関係者のみ。
その立場の人のことを、この世の人は「神」とか「あの世」とか呼んでいる。

 

映画は様々な作品を観に行って楽しんでいる人が多い。
だから多くの人が「この世」へも何度も出てくるのです!
時と場を変えて・・・
それは、この世での今現在からしたら過去・未来です。

 

2019年10月08日

夢とは一体なんでしょう。すぐには実現しそうも無い物事を「夢」見るとか「夢」みたいとか言いますが、ここでは睡眠中に瞼を閉じて見る夢の話。

 

夢にも立体空間があったり時間経過があったりしますよね。そして毎回皆さんにとってのこの世の時空と同じ感覚ではないと思います。私は3~4歳頃には夢を見ていた自覚や記憶がありますが、瞼を閉じていても空間を認識できるということは覚醒時に認識しているこの世の現実とされている世界も夢で、夢から覚めて初めて「ああ、夢だった」となるものだと幼い頃から思えてなりませんでした。それで肉体死というものに積極的に興味があったのです。

 

3年前に私が脳幹出血によって植物人間になっていた間に体験したことは、まさに「夢を見ていた」に近いものがあります。ただ、この世での睡眠中に見る夢に比べて時空間が複数重なって同時進行していたような感じなので、文字や言葉で表すことが難しいのです。

 

幼少期の瞼を閉じて睡眠に入る前、幾何学模様や球体の運動が私にはよく見えていたので、そこに非物質宇宙の本質的な何かが現れていたのだと大人になってから気付きました。

 

そのヒントとなる情報が、近年この世にもいろいろと出始めているのです。

 

2019年10月07日

知的文化遺産

昨日、カタカムナの勉強会に誘われて参加してきました。ついでに元々感じていた事を少し書いてみようと思います

 

現代人は、幾何学のような文字の意味を分析することだけが重要であると勘違いしがちですが、発音する(唱える)ことに本義があるのです。祝詞(のりと)や念仏等にも同じことが言えますでしょうが、読んだり聞いたり発したりする言葉の意味が重要なのではなく、発する「音」に意味があるのです。

 

厳密には「音」というよりは「波動・振動」ですから、発声の訓練に熟達していない人が文字を声に出して読んだところであまり効果はないでしょう。かつてはこの地球上でも「音」を駆使することによって巨大で重量のある石等を移動させていたのです。

 

ピラミッドやモアイ像等建設の憶測は、低知性な現代人の発想でしかありません。

再び地球人が知的生命体へと戻る時期が近付いているのです。だからこそカタカムナのようなかつての知的文化遺産が脚光を浴びはじめているのです。

 

 

2019年10月05日

何故地球は変わるのか

宇宙には大きさがないとはどういう意味でしょう。今日は補足説明をします。

 

人とは非物質であることを私は繰り返し説いていますが、宇宙も実は非物質。

非物質とは物質ではありませんから本質的にサイズはありません。その人が想定・イメージしているそれがサイズなのです。

 

「人間とは死ぬ事を怖れて生きるだけのちっぽけな存在」だとイメージしている人が多いから、実際そのような人で溢れています。「とある星までは光の速さで何百年の距離だ」とか教えられているから、自由に宇宙を移動する地球人は出てこないのです。

 

「人間は可能性に満ちているし、宇宙とはそんな人間の手中にあるのだから自由になる」では、これまで通り庶民を家畜として制御できなくなってしまいますから、地球人から搾取している存在側からは決して明かされなかったこと。ところがその搾取支配層が、今世紀に入って地球から失脚し始めたのです。

 

数十年もしないうちに、地球人は本来の知的生命体としてのパワーを取り戻すでしょう。

 

2019年10月04日

宇宙に大きさはない

小宇宙との言葉があります。主に人間や芸術品から宇宙を感じたりした場合に使われる言葉ですね。

 

何度も言いますが宇宙には大きさがありません。子供の頃から「人間は小さな存在だが、それに対して宇宙はとても大きい」みたいな教育を受けて洗脳されているだけです。私も7歳の頃、家に「宇宙のひみつ」という子供図鑑があってボロボロになるまで読み込んだのですが、「宇宙空間は無限である」とか「拡大を続けている」とかの記述がどうにも腑に落ちなくて、更に読み込んで行くうちにページが次々と剥がれて本の形態を保てなくなって(笑)諦めた記憶があります。

 

思春期になってから「実は宇宙には大きさがないのでは?」との考えに達したのですが、その頃の地球人には「大きさが無い」という概念を受け容れる余地がなさそうだったので、理解させようともしませんでした。
それが21世紀に入ってから理解できそうな人が出てきていると感じています。

 

星を見ていても水槽を見ていても人体を見ていても昆虫を見ていても本を読んでいても音楽を聴いていても、大きさとは関係なく宇宙は感じられます。
そのことにもっと多くの人が気付いても良い段階に地球は突入しているのです!

2019年10月02日

文字記録に依存する現文明だから…

かつての歴史の中でも、文字による記録を行っていた時代はほとんどありません。

現文明でさえも、ユーチューブやデジタルレコーダー等の普及によって文字記録文化は廃れ始めています。

 

テレパシーが使えない、尚且つそれを補う代替手段もない。
文字とは、そんな文明に特有の情報伝達手段。

 

現文明においては歴史の解明にも形あるものを優先して捜してしまうため、大した手がかりも掴めないのです。
情報とは、非物質手段で伝達するものです。文字ではなくて数や幾何学模様ならば、まともな文明でも使われていたので少し記録があったりもするのです。今でも未開とされる地域では口語伝承が重要視されているのはそれでなのです。

 

これも「現地球人が自分達のレベルを理解していない」が故に見落としている致命的な要素ですね。

 

こんなに傲慢で謙虚さに欠けている愚かな生物が「唯一の知的生命体」なんて扱いをされているのだから、若い頃の私は苦笑するしかなかったのです。
ところがそれなりに歳を重ねてくる中で「地球文明がこのままの状態というのではあまりにも酷い。真剣に何とかせねば…」となってきたわけです(笑)。

 

2019年10月01日

地球の歴史

地球も生き物ですから、大陸や島が水没したり隆起したりを繰り返しながら変動していることは、地震大国の日本に住む皆さんならご存知でしょう。たかだか百年そこらしか生きない今の人間にはあまりピンとこない話ですが、地殻変動のペースは皆さんが考えるよりもずっと早くてダイナミック。

 

現代人も遺跡の分析とかをしていますが、地球という星に遺されてきたランドマーク的なもののほとんどが今は海底や地底や山岳やジャングル等になってしまっていて、今の地球の文明レベルではほとんど何も解明できないのです。

それだから教科書などには、恣意的でなくとも正しい歴史の記述がないのです。霊能者やチャネラーが得る情報にはいい線を突いてるものもあるのですが、教科書等のデタラメ情報との隔たりが大きすぎて、自称賢いバカな学者(笑)にはとても受け容れられないものだったりするので普及しないのです。

 

歴史観ひとつ採っても、現代の地球人は皆が虚偽の情報に踊らされているのです。幼児や老人の方がまだ虚偽に踊らされずに済んでいるのかもしれません。

 

賢くなりたいのであれば、まずは謙虚に自分が愚かであることを認識する必要があるのです。

 

2019年09月30日

ヒントはあの世にある

動物として生きることを選択した人は、この投稿を目にすることもないかと思われますので、本日は知的生命体に向けてのお話です。

 

重力とは何でしょう。今の地球上で物理的に存在していれば普通は必ず重力の影響を受けています。それがこの世のルールとなっているのです。星の運行から原子構造までこの世ではスピン(回転運動)が基本になっていて、そのことで軸というものがあって上・下・右回り・左周り等の方向というものが確立されます。

 

いわゆるUFO(他の星の宇宙船)でもこの世に出現する時はスピンをしています。地球人には一般化されていない認識ですが、普通の星の宇宙船とは機械ではなくて知的生命体。それでもこの世に出てくるのには回転が必要なのです。

 

地球上でもヒマラヤの聖者クラスになると宙を浮くように移動するのですが(イエスキリストが水の上を歩いたとの話は皆さんもご存知でしょう)この世に居ながらにして重力を制御できている証拠ですね。2万年前くらいは地球上でもそれが当たり前のテクノロジーとなっていて、ピラミッド建設等もできたわけです。

 

重力とは、体重をはじめとする重さを生じる現象というだけのことではなくて、この世をこの世たらしめている法則です。無重力では方向もないし、距離や時間も変わってきます。あの世の人が宙を浮いていたり壁をすり抜けたりする現象は、この世のルールではなくてあの世のルールに従っているだけ。

 

この世にもその技術を取り入れることができなければ、せいぜい月まで行って宇宙旅行とかホザいているレベル止まりなのです。そもそも月はスピンしていませんから、この世の自然物でもありませんしね。

今の人が「死」と呼んでタブー視しているその先に真実はあるのです。

 

2019年09月29日

同じ人間のようでも…

今日、友人と会話していて「神の定義」の話題になりました。

 神は霊魂よりも上の存在で個の人格がない?

日本には霊魂という言葉があるけれど、世界的には「神の怒り」「神のご褒美」的な、いかにも神が人格を持っていそうな表現があるのでは?

等々、それだけでも話題は尽きません。

 

私が提唱していることは、肉体を有する人間だって本来は非物質の生命体なのだから、肉体を有していない生命体を上の存在として崇めたりするのはおかしいのでは?ということです。
逆に言えば人も神たりえるのです。肉体生命維持だけに固執して生きているだけでは単なる動物ですが(笑)。

 

だからこそ、一見は似た生物「人間」であっても知的生命体なのか動物なのかによって大きな隔たりがあるのです!

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