お知らせ

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2018年08月16日

心の豊かさとは

ひもじい思いすらしたことのない人が多くいるほど、この日本では物質的には豊かに見える文明が50~60年は続いています。

しかし心の貧しい人は増える一方で、そのような人が多くの人に影響を及ぼす立場にいる可能性も当然高まるわけです。

 

物質的に豊かな生活とは何なのか?については、ほぼ皆さんにわかることでしょう。金銭で買える物、家や乗り物や衣服や装飾品や飲食物や娯楽品などを入手したり利用したりすることです。では、心の豊かさとは何でしょう。

 

私が生まれた昭和40年代には、大凡すべての大人が「マイホーム・マイカー・洗濯機冷蔵庫テレビ等の家電」を揃えたり買い替えたりすることを生きる大きな喜びとしていたように思います。高校卒業後は実質フリーター生活の長かった私も「住む家や車や食う飯がない」という経験を多少はしています。でも過ぎてしまえばいい思い出です。

 

端的に言えば「一生懸命労働して、まだ足りていないと考える金品を得る」ことで多くの皆が生き甲斐を得ていた時代は終わりました。飲食店で日々捨てられている充分普通に食べられる料理にも象徴されるように、物が溢れた環境下で物質的な不自由を感じることなく育った世代は「どんなに辛くてバカらしくても金銭報酬を得るためには耐える」なんてことはないのです。

 

「労働しない人、就職してもすぐに辞めてしまう人」が多くなるのは当然です。皆が金銭だけではなく働き甲斐を求めている時代です。ところが実際には労働意欲を削ぐような人ばかりが目につくポジションに就いているわけですから(笑)。

 

そもそも他の誰かの労働によって支えられている人とは、昔も今もどこでも大半はそういう人だと私は思っています。「自分が率先して何かを切り拓いたら皆がついてきた」というのと「コネや資格など利用できるものを駆使して皆を踏み台にしてシステムを登った」というのでは正反対ですが、前者の場合は実に稀だからです。

 

話を戻して「心の豊かさ」についてです。私は貧乏を推奨しているわけではありませんが、人間とは金銭物質的な困窮を体験しなければ、心が豊かになりようもない側面はあると思います。貧乏をすることで益々心まで貧しくなってしまう人が出る、これもまた事実です。

 

大きな災害で生活の苦労を体験した人の口からは「物には困窮したし死人も沢山出たが、心は豊かになった」というような話をお聞きすることが多いのも事実です。

これは、誰もが簡単に病んだり飢えたり死んだりする環境下では人間常に助け合うのが当然で、今の都市部の平穏時のように皆が自分勝手にしていたのでは誰もがすぐに立ち行かなくなってしまうことを意味します。

 

何事からも多くの学びを得ることが人間らしさだと私は感じています。「何かがあって欲しい」と願う一方で「何かだけは起きないで欲しい」と願うのはイジョウで不自然なことです。大局的には、何があっても「あるがままのこれでいいのだ」と思える自分になることが賢い選択なのだと、私「セイジョウ石井」は考えます。

 

2018年08月11日

肉体死を迎えたその後

今日は息子の2回目の誕生日でした。ということは、私がこの現日本国での肉体を1~2週間留守にしてまで出かけた異次元探索決行日から丸二年というわけです。

 

病院に残された肉体に戻ったのはいいが、食事排泄等も自分では何もできずに朦朧とした頭で感じたことは、あまりの肉体苦痛と不便さからも「息子の誕生日を父の命日にすることは避けられたが、誕生日は祝えないだろう(本音はそんなに生きていたくはない)…」でした。

 

ですからこの日を、しかも2回も迎えたことがとても感慨深いのです。嬉しいのではなくて、妙というか不思議感でいっぱいです。

 

息子が誕生した日に私は肉体を意識不明の植物状態にしておきながら、非物質意識としてはこの肉体人生において最も積極的な活動を試みたわけですが、実はそれから2年経った今でも私の意識はどっぷり肉体に収まっていません。

 

不便な身体で時にマヌケな事をしているこの肉体存在を、まるでアホなクラスメイトでも観ているような感覚で見守っている自分が常にいます。肉体の自分が超希薄、そんな表現にもなりますでしょうか。それを上述では「妙」「不思議」という言葉を使っているのです。

 

思考やしゃべりに関しては、脳幹の動脈が破裂して小脳が潰れている割には倒れる前にかなり近く戻っています。ですから自分がイチかバチかでリアル体験した異次元旅行の詳細を、少しずつでも表現できる準備を進めています。

 

いわゆる「死んだらどうなるのか」的な話は、聞き手の宗教観や死生観によってだいぶ解釈に幅があるため、不用意に話しても誤解を生むだけのところが多くて躊躇してしまうのですが、珍しく貴重な体験をした後に寝たきりから肉体で移動して話したりできるここまでになったということは、躊躇してばかりもいられないかなぁ~笑

2018年08月10日

自分が生きるヒントを見つける

数年間かけて十数回開催してきた【波動体験会】を、実質もっと個別に内容を深くした【グループセッション】ですが、予想以上にお客様の個性によりマッチした濃いサービス提供ができている… それが本日のセッション実施後の私の素直な感想です。

 

大凡が似たような身体を保持して生きている地球人ですが、今ここ地球で自分の一部を肉体に宿らせて人間として存在している経緯は人によってだいぶ異なります。

 

そのことを微塵も理解していない人が教育者としての立場に甘んじている文明下では、ほぼ誰もが「何故生きる?」「どのように生きる?」となってしまうのは当然のこと。

ですから現社会環境化では自暴自棄なマシンのようになってしまったり、直接間接を問わず自殺を望む人が多くなってしまうのも自然な流れと言えるでしょう。

 

普段は肉体に宿っていない残り大部分の非物質のあなた自身を認識してみましょう。

生きるヒントが見つかるのは当然のことです。

 

 

2018年08月08日

身体と心

二年前に私が意識不明の重体から目覚た時、寝たきりですが多少手足が動いたり飲食はできませんが奇声を発したりするようになって、自分の肉眼視力のデタラメさに驚きました。

直前の意識体での活動中は、今の地上には滅多にないような眺望を不自由なく体験していたため、そのギャップが大きかったから余計に不便を感じました。

 

状況によって見え方のムラが大きいのですが、今では「健康だけれど視力に問題がある」という人と同じ程度には肉眼で見えています。それに対して聴力は割とすぐに戻りました。病院の個室から出た後は、周りのベッドで苦しそうに呻いてる患者の声もしっかり聴こえました(笑)。

 

数メートルくらいなら車椅子なしで歩けるようになってリハビリ病院も退院したのですが、私はその頃に面白い体験をしました。長年愛好していたはずのインスト(ボーカルなし)曲にまったく興味が持てなくなっていたのです。

 

その頃には私も飲食が少しできて下手な歌ぐらいなら口ずさめるようになっていました。そうです、そこで体験したのは「人間は自分に無理な事には一切興味を抱かない」という大発見です。

 

他人の楽曲を聴いては自分の長年手にしてきた鍵盤やギター等の楽器への興味から「自分なら、こうプレイする」「私ならこのようにアレンジする」などと想像を膨らまして楽しんでいた部分がほとんどだったことが図らずも発覚したのです。

 

ギターを持ち上げて抱えることさえできない身体となっては、もうそれら楽器による他人の演奏を聴く事にも面白さを感じられない、というわかりやすい話です。

 

ところが最近では、手すりにしがみつかなくてもシャワーが出来たり、ギターの弦と輪ゴムとの区別がつくほどに指の感覚も戻ってきています。本日は台風の影響で突風が吹いていたため、今の私では道中に倒れそうなので朝の散歩を見送りましたが、コンディションさえ良ければ健康な人のフリをしてゆっくり歩くこともできます。

 

「私がまだしばらく生きるのであれば、もしかしてギターや鍵盤を再び手にする日がくるのかもしれない…」無意識にそう判断しているのしょう。2年前に一度はすっかり興味を失ったジャンルの音楽が、今日聴いてみたら魅力的に感じられたのです。

 

総じて、これは結構重要な人間に関する傾向だと思います。

 

興味が持てない、やろうともしない事ならば、それは自分で「ムリ」だと決めつけている証拠なのであり、逆に興味があってやってしまう事ならば、リスク要因をあげつらったりしなければ人前でそれをやったり金銭的価値を生むことができる!という証拠でもあるのです。

 

ですから下手な考えは不要ですが、ハチャメチャでなく常識的な人ほど勇気や工夫は必要となるでしょう。

 

「身体は正直」とはこんな事を言っているのだろう、と本日の私は思いました。

 

2018年08月01日

行間を読む

遠藤周作さんの「沈黙」という作品を、私が長年かけて何度読み返しても名著だと感じたため、そのことを投稿したところ「映画で観たらとにかく怖かった」との感想を述べている方がいらしたので、私も気になってDVDを借りて鑑賞しました。

 

そこで私が出した結論は「ほぼ同じ内容なのだが、受ける印象がだいぶ異なるのは事実」ということです。

「行間を読む」という言葉がありますよね。映画だと、まさにこれができなくなってしまうからなのだと私は思います。

 

文庫本を持ち歩いて時間の切れ端を有効利用している方も多いでしょう。すると自然に、筆者が伝えたい事はもちろんですが、登場人物の発言や行動では直接表現されていない部分を推理したり憶測することになるわけです。

 

続きを読むのが楽しみでも、次に時間を確保できるのがいつなのかは大抵が不明ですから、その間知らず知らずのうちに想いを巡らせているということです。ですから時間的には行間読みまくり(笑)。

読者の人生経験によっては何にどのくらい深く想いを巡らすのかも人それぞれですし、良くも悪くも解釈は人によって幅広いものになる…それが読書というものです。

 

ところが映画はどうでしょう。映像とセリフと効果音を含む音で表現するわけです。興業成績を気にしたら俳優とかロケ地やセットも重要でしょう。

すると当然ながら脚本や原作筆者のメッセージ性は徐々に損なわれてしまうのです。異なった作品解釈をしているいろんな立場の人々が協力しあって制作するのだから尚更です。

 

上映中に勝手に席を外したり再生中を停止したり巻き戻したりする人も原則いないわけですから、映画館では「行間を読む」的な行為は全く叶いません。ですから私は以前からDVDを自分の部屋で観ることはあっても映画館には基本的に行きません(笑)。

 

それで、この作品「沈黙」の場合ですと、キリスト教を布教したい外国人と国家権力から隠れてキリスト信仰している日本人たちが次々と異教徒であることを暴かれてジワジワ拷問されて殺される場面がメインの作品です。

 

しかもほぼ史実なので、映像描写ですと「超リアルなホラー映画」との印象が強すぎてしまうのです。例えば現代が舞台でも仮に事故死体ばかり網羅された映画を上映したら「気持ち悪い・怖い」が先立ってしまい、メッセージ性は薄れてしまうでしょう。

同じくこの作品も肝心の「人間社会の営みとは何なのか」「宗教とは何なのか」という哲学部分へ意識が向かない視聴者も出てしまうことがわかるのです。

 

何でも便利だったりわかり易かったりすれば良いわけではありません。少なくとも私はそう感じます。

 

不便だったり難しかったりするから「考える」「工夫する」というような、人間として重要な資質を磨いて発揮できるようになるものだと考えます。

その意味でもつくづく「読書は素晴らしい」と頻繁に感じている私がいます。

2018年07月30日

読書の素晴らしさ

故・遠藤周作さんの「沈黙」という小説、サラッと読んだことはありましたが最近また新たに購入して熟読しました。

ここ千年以上この星の人間の営みを大きく左右してきた「宗教」というものがテーマです。

 

簡略に言うと、宗教が持つ性質である「自分以外の誰か(神)が、窮地に陥った正しい自分をこの世なりあの世なりで救ってくれるはずだ」という部分に鋭く切り込んだ作品です。

 

私の勝手な感想を書きますと、人間を家畜か家畜以下に扱って搾取している一部の人を除いては、「死に際か死んだ後に自分は報われるはずだ」と信じたくもなる生活を、いつでもどこでも皆が強いられてきたのがこの文明の特徴であり、それを「文明」と呼んでいること自体がおかしい… そんな自分の高校生頃の感覚が蘇りました。

 

しかし最も異なる点は「強く憤った未成年の若者であった頃と違って、今は感情がかき乱されることがない」というところ。それは、何十年も自分がしみじみ体験させられてきたことからも「わかりきった事である感」と、何よりも未熟な未成年だったが故に「自分ではどうすることもできない」と決め付けていた人間社会のあり方が、今では「少しずつだが変えることができる」という感覚になっていることです。

 

今時ならば異性を相手にする客商売やギャンブルみたいなもので、宗教のおかげで一時的に人々が実際に希望を抱いた部分もあったことでしょう。肉体死後に報われたのかどうかについては原則誰も答えられない、というのがこの文明最大の特徴ですが!笑

 

本を読むことすらない人々が増え続けている今の世の中ですが、筆者の感性や知性が見事に映し出される「書籍」とは、改めて素晴らしいものだと私は感じ入っています。

お読みになった方もいらっしゃるでしょうが、皆さんはいかがお感じでしょう。

2018年07月28日

人生の豊かさ

「取り返したい」という想いを持つ事は愚かである、と私が考える理由を述べてみます。

 

普通の仕事に就いていて、パチンコ・競馬等の公営競技・宝くじなどで百万千万単位を貢いでいる人は驚くほど大勢います。そんな人たちに共通しているのが「取り返したい」との欲を持っていることです。

 

わかりやすく変換して言うと、失っている金銭等を「一時的に預けているだけだ」と自分の行為を勝手に正当化することを継続していると、負けた金額を預金しているような錯覚に本気で陥るのです。

ですから「今日はそろそろ預金総額から3百万くらい下ろせる頃だ」とかの更なる錯覚から益々大きな損失を平気で出すようになります。

 

ギャンブルに限ったことではありません。人間の面白い一面でもありますが、愚かなことを継続すればするほど「これは愚かなことだから止める」とは言えなくなって継続してしまうのです。おそらく自分の過去を自分で否定したくはないからなのでしょう。

そんな人間の性質を利用した金儲けが、この世の中いかに多いことか…

 

この世界では、何でもやってみなければわからないことが基本です、だって誰もが体験をするためにこの物質世界へとやってきているのですから。そこには現代社会で俗に言う成功も失敗もありません。見解によっては金銭を多く得たことで人生が失敗に終わったり、貧乏や病気なんかを散々経験できて早めに殺されたが故に肉体人生チャレンジ大成功だったりもします。

 

そこで私が考えるのは、それなりの期間を試してみた結果「これは違うな」と感じたのなら、体験の結果そう感じたことに充分な意味があると思うのです。何にしっくりくるのかは人によって異なるのも当然でしょうし、ある時期から突然何らかへの興味を失って止めてしまっても、それは全然自己否定ではありません。

 

誰もが日々生まれ変わっているのです。

 

継続しているから興味関心が続いている証拠かというと、そうでもないというのは上述の通りです。だから習慣や行動パターンからだけでは他人の価値観やセンスというものは意外とわからないものなのです。

 

「経験体験が宝」という考えの私からすると「人生経験の種類が少ないことは貧しい人生であり、得る宝も少ない人生」という解釈にもなります。幾度となく借金まみれになったりそのくせしてソコソコの贅沢をしてみたり、元気でヤンチャな子供時代から一変して近年は複数回倒れて臨死体験や植物状態まで経験させてもらった私は「人生の体験レンジが広い」ことは確実です。

 

でもそのような人生を「経験に恵まれた豊かな人生だ」と私が思えるようになったのは、割と最近のことなのです。

「死ぬのが楽しみ」という感覚は30年以上変わらず今でも持っていますが、「間違ってまだ肉体を維持しての人生が続くとしても、それはそれでよいかな?」という気持ちが、脳幹出血で死に損なって凄く不便な身体となってしまった近頃になって芽生えてきたのだから、人間の死生観とは不思議なものです。

2018年07月23日

グループセッションのご案内

様々な職種を経た後に経営コンサルティングを生業にしてきた私と、良くも悪くも生まれつきの霊能者である妻「西きほ子」と一緒にセッションをしてみませんか?

 

ハッキリ言って真逆の性質を持つであろう二人が同時にメリットを出し合うという、これまでにはどこにもなかったセッションです。

 

ここからは、一般論としてお読みくださっても結構です。

 

人の過去や未来が見える能力のある人に自分のことを見てもらった場合、それが「本当だ」と感じるからこそのショックを受けたり、根拠のない希望を抱いたりするものです。

しかし「この世界で何をどうすればそうなるのか」については漠然とした説明しかもらえないのが普通です。霊能者である本人もお客様の何十年分を隈なくじっくり霊視するわけではないため、そこは憶測するしかない部分がどうしてもあるのです。

 

逆にこの物質世界に限ったアドバイスのみを出す人の場合はどうでしょう。「それを止めろ」「これを始めろ」等々の「もっともらしいあれこれ」を伝えたところで、結果が出る保障は常にありません。

報酬さえもらえれば後は「結果を出さない顧客の責任である」との割り切りで商売をしているのが普通です。

これは何の業種についても言えることです。「痩せる」「もてる」「美味しい」「簡単に儲かる」「病気が治る」「環境に配慮」等々のきれいな売り文句を並べている商売のほぼ全ては、自分たちが儲けたくて考えているだけのことです。

それを堂々とやっていることが「文明社会」と呼ばれている経済第一主義の世の中なのですから…それができなければ「未開の人々」という扱いを受けてしまうのが、悲しいかな今の国際社会です。

 

私は若い頃から職を転々としてきましたが、その最大の理由はどんな仕事に就いても「こんな詐欺みたいな事を続けてまで生きていたくはない!」という想いが激しく湧き上がってきたからです。

わかりやすく言えば「心を殺してまで肉体を維持したくはない」「これならば自殺をした方がまだマシだ」というような感覚から逃避するためでした。

 

他に手段がなかったため、呆れる自分の社会経験を活かしてたまたま起業したのが「経営コンサルティング業」だったのです。しかしいくら自分で起業しようとも、現社会のルールに従いながらある程度は現代人の感覚に合わせて行かなくては成り立つわけもありません。

ですから「カネとモノが全てであると皆が勘違いしている文明下で、宗教ではなくて心の話をしながら自分も肉体で生きて行く」という若かりし頃の願望が今やっと少し実現しているのです。

 

ですから私は「この世界はなんて生き辛いんだ~」と感じている人の気持ちがよく解りますし、そんな世の中を生きるための知恵を提供する事に私自身が喜びに近いものを感じています。

 

次回のグループセッションは7/27(金)です。ピンと来た方は、お問い合わせだけでもお気軽にどうぞ

2018年07月20日

比較にならない人生

昨日の補足説明です。

「基本的に似た者同士が優劣や勝敗を競っている」という話でした。

 

身長や体重が何cm何kgかの違いで大騒ぎすることがあっても、仮に数トンとか数十メートルの違いならば論点が別になってきます。実際に身長十メートル単位の人間の白骨は世界各地で発掘されていますが、現地球人は発表を伏せて全てなかったことにしています(笑)。

 

似たようなもの同士の比較ならばいくらでも論議できますが、想像を絶したレベルの違いとなると人は不思議と黙してしまうものです。

論じる必要がある立場の人にとっても不都合なので「なかったことにしている」という色んなことが、どこのジャンルでも多く見受けられます。

 

この世の中はそんなことばかりです。

他にもわかりやすい例でしたら、月給差が十万単位ぐらいまでなら比較して悦に浸ったり僻んだりもするわけですが、月額報酬の差が仮に億単位だったら、もう比較対象にはならないわけで、なんとなく「別の世界の人」くらいの認識になってしまうのがオチなのです。

 

男女が一緒になるだの別れるだのとの面倒に巻きこまれて日々を重たい気分で過ごしている方もいらっしゃるかと思いますが、現代でもパートナーが大勢いて、自分の子供の人数を掌握できていない人だって存在しています。

 

多くの人が、たまたま自分に与えられた環境が全世界であるかのごとく錯覚した狭い視野で生きているのが実態です。空間的にも時間的にも広い視野を養えば、これまで自分が大問題だとしてきた事が実に局所的な視点でしかないことに気付くのです。

 

私は「あなたの問題なんて大した事じゃない」と言いたいわけではありません。客観的な問題というものがどこかに存在しているのではなく、「自分の思い込みで特定の問題を創造しているのが一般的な人の特徴というものである」と言いたいのです。

 

各々の問題解決のためにお金を払わせたい人が、問題山積であるかのごとく大衆に情報を流布している部分もあります。ですからテレビも新聞も雑誌も見ないで世間話を聞かないだけでも、大半の問題はなくなるでしょう。

でもそんな仙人みたいな暮らしを実現すること自体がそれこそ問題になりますよね?笑

 

ぶっちゃけた話、問題とは人の思考が創出しているわけです。それは言い方を変えると「思考を変えれば問題は消えてしまう」ということです。

 

とりわけ死生観が変わると最も効果的ですから、私は瞑想イベントを続けてきました。「人間は肉体で生きていることだけに価値がある物質である」という思想の囚われから解放されることで、肉体人生の自由度が断然増すからです。

 

肉体を粗末に扱うこともむしろなくなります。なぜなら非物質の自分がこの世で活動するためには、器となる肉体が不可欠だからです。

カネや名誉を手にしていても「どこかが不本意な人生だ」と感じているが故に、自分の肉体を粗末にしている人がとても多いと私は見ています。

 

暴飲・暴食・睡眠不足・過労・等々は、どれも無意識で自分をいじめてゲームセットにしたい欲求の表れです。しかし肉体死を迎えたところで、終わるのはあなたの本質からしたらほんの一部分の物質経験だけです。

 

そんなことをするよりも、自分が本質的に喜ぶ経験を楽しみながら肉体人生を送ることを石井はオススメしています。それが何なのかは人によって実に様々です

2018年07月19日

比較してしまうのは

「相対の世界を超越する」って、どういう意味なのかわかりますか?

 

誰しも何事に対しても快適ゾーンを持っています。それは生活習慣から自然と培われてしまうものだと私は考えますが「快適だとする基準を離れると不満に感じる」ということです。

 

それは裏を返すと、快適ゾーンとの乖離が著しく大きいと、もう「快適・不満」の問題ではなくなってしまう、ということです。例をあげてみましょう。

 

自分の快適気温(室温)が20℃だとすると、30℃では暑く、10℃では寒く感じるわけです。しかし、年中50℃の気候で暮らしている人からしてみれば30℃は涼しくて快適、マイナス10℃に慣れきっている人には10℃でも暑くて不快だったりするのです。

ところが仮に100℃やマイナス100℃の状況下になれば、普通の人間ならばすぐに失神や死亡をするわけです。

 

温度は健康問題や生存安否にもかかわるテーマですから、あまり実験したり極端な考えを持つことは止めておきましょう(笑)。

それでは「恥ずかしい・怖い」などの感情が湧くことについてはいかがでしょう。

 

人それぞれに「これは恥ずかしくてできない」「それは怖いから回避しよう」「そんなの絶対に無理」などの基準があるわけですが、法律で定められているわけでもないケースがほとんどです。基準が人それぞれに設定されていて、多くはそれらが変更されることのないまま長年の判断基準となっているのです。

 

自分で「そんな恥ずかしいことはできない」「そんな恐ろしい危険は冒せない」「自分には不可能だ」と勝手に決めている基準には、実は呆れるほどの個人差があるのです。

例えば10人の前に出て話をすることが一大事の人もいれば、100人の前で話すぐらいでは物足りないという人も実際にいます。

 

これは「怖い」「恥ずかしい」と感じる基準が長年変わらない人が多くいる一方、人生の途上で自分の限界基準をどんどんスライドして行く人もいるからです。自分の中の警告ブザーがやたらと鳴る人が多いのですね!笑

 

それをブーブークッションぐらいの扱いにできれば、失敗しても大半は笑って済まされるし、自分も上限なく成長できると思うのです。

 

近年、私はその顕著な例を自分自身であれこれ体験しています。

近況連日の猛暑は、雪や凍結にも馴染みのある日本で暮らす皆さんにとって凄まじいものがあります。普段は健康な人でも倒れたりするわけですから、二年前に脳幹出血で死に損なって一時は植物状態となった私にとっては10分の散歩でも大旅行です(笑)。

 

それでもリハビリペースを落としたくはない私は、今朝も公園散歩に出かけました。飲食店で充分な休憩をとってから、ネットでなくリアル書店を無性に訪れたくなったため、汗だくになって中古大型書店に徒歩で立ち寄り、文庫本を数冊買って帰りました。

 

汚い話で恐縮ですが帰ってから汗だくのズボンを脱ぐと、自分の下着が汚物まみれになっていたのです。2年前の意識が戻ったばかりの頃は全身の感覚がなかったので介護パンツも履いていましたし、よくあった事なのですが、皮膚や筋肉の感覚が徐々に戻りはじめてからは滅多になくなった事です。

 

あまりの暑さで肉体感覚が麻痺したことに重ねて元々が汗でヌルヌルビチョビチョですから気付けなかったのです。2年以上前の健康な自分でしたら、その情けなさやらマヌケさから怒りが込み上げてきたのかもしれません。

 

しかし極めて切ない経験を「これでもか!」としてきたこの2年間で私の許容量は格段に上がりましたから、他人のコントを観ているみたいに我ながらそのマヌケさに笑いが込み上げてきました。

 

添付の写真は最近のものですが、私が倒れた日に誕生した息子を抱えてテレビを見ている様子です。

退院後すぐの私にとっては息子を落とさないで抱えること自体が高度な技でした。視力もほぼ失ったので、肉眼をテレビに向けてもビジョンは捉えられませんでした。それが二年近く経った今では、必死にがんばらなくても自然と息子を抱えてテレビが見れるくらいにリハビリが進んだわけです。

 

何でも比較の問題なのです。リッチそうな暮らしをしている人と比べて自分を蔑む、辺りが飢え死にしている地域の人と比べて自分が恵まれていることに感謝する、どちらにしてもその人の自由です。

 

私は歩けるようにはなりましたが自転車には乗れません。でも自転車に乗って楽しそうに遊ぶ小学生を羨んでいても何も良い事はありません。

ただ車椅子を見かけた時に「自分もベットから車椅子に移してもらうことが大変だった時期に比べると、随分と進歩しているなぁ」と感じることで私は喜びや達成感を味わっています。

 

下を見て自分を慰めろ!ということではありません。何を比較対象とするのかで自分のポジションを皆が自分で決めている、という意味です。僅かな違いを理由に一喜一憂することも、その人の自由ですしね。

 

それらを飛び抜けた領域を経験すれば、似たり寄ったりの人々が勝敗や優劣を問題にしていることがバカらしくなったりもするのです。いずれにしても、比較できているうちは似た者同志だということです。

 

似た者同士が集まることで安心する傾向が地球人全般にあるようですから、受験戦争でも出世競争でも国家間の戦争でも、残念ながらなるべくしてなっているのですね。

 

「それはおかしい」と感じている似た者同士が、私の発信をきっかけに仲間となることも面白いなぁ、そんな風にも思っています。

 

 

2018年07月14日

【波動体験会】ご報告

今日は第14回目の【波動体験会】開催日でした。

 

参加者それぞれの体験する異次元が「かつての文明系」「パラレルワールド系」「水中系」「地中系」「空中系」「不明系!笑」とレンジが広く、いつもにまして楽しくて刺激的な会となりました。お集まりくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

私の話はいつもと同様だったと思うのですが、注意深く聴いてくださる方が多く、普段よりも心地のよい疲労に浸かってこれを記しています(笑)。「どこの世界へ行っても龍の出没率が高い」というのが今回の特徴でもありました。

 

お客様の異次元レポートにはそのまま映画の脚本にもできるようなストーリーが何本かあって、おかげさまで導かせてもらった私自身や耕平さんや妻の西きほ子にとっても満足感の高い会となりました。

 

これからも、私たちにできる手法で非物質世界の認識を普及させて行きます。これまでの皆さんもこれからの皆さんも、どうぞ宜しくお願いします!

2018年07月09日

勝敗をこえた価値観

大雨によって西日本を中心に死者が出ていることが報道されています。ニュースでも常に注意喚起を呼び掛けていたようでした。亡くなった人をはじめ大勢の生活に支障が出ている現状に全く無関心でいられる人は少ないでしょう。

 

こういった事態が起こると常に強く感じることが私にはあります。

 

自分が大雨を降らせたり崖を崩したりしている自覚がある人は原則としていないでしょう。つまり、自分が加害者となる可能性がないと判断する事柄に対しては「大変だ・気の毒だ」とか、堂々と言えるのです。

 

飛行機が墜落して死者が出ても、飛行機を造ったり売ったり操縦したりで稼いでいる人は多くはないので、全般的には事故を追及しやすいのです。

 

ところが自動車による死となるとどうでしょう。自動車産業に携わる人の数は膨大です。それが直接的な稼ぎの種ではないにしても、店に陳列されているどの商品だって自動車で運ばれているでしょうし、日常的に自動車を活用している人は田舎になるほど圧倒的多数です。連日どれだけの死者を輩出して健康被害を及ぼしていようが、それを廃絶されたら困る人たちが大勢いれば悲しいかなそれは継続されてしまうのです。

 

自分も殺人マシンを活用しておきながら、他人には「危ないからそれはダメだ」と言えるはずがありません。たまたま自動車を例にとりましたが、世の中のあらゆる事柄がこのような構図から抜け出せないでいるのです。

 

原発で潤っている人に権力者が含まれているのだったら廃絶するわけがありません…仮に何億人死のうが自分の懐が潤うことを優先するような人が権力を握ることに興味があるのですからね。

地球の現文明から戦争が無くならないのも当然のことです。見方によっては大量消費と大量生産を確実に促進するおいしい商売なのですから(笑)。

 

平和や愛を好む人は金銭や権力には無関心な傾向があります。きっと組織にも属したがらないでしょう。一般の企業に限らず、そこでの構造の上層に上り詰める人は決まって「敵・味方」「勝った負けた」等、今の地球文明独自の価値観をちゃんと有している人です。

 

地球上のどんな組織や団体に期待しても、残念ながら「この文明では争いや搾取が基本である」ことを思い知らされるだけなのです。

 

しかし本来、人間としての個人の価値観は誰からも自由なのです。「不本意でも多数派に巻き込まれなくては生きて行けない」という錯覚から抜け出しましょう。

 

現状では生活習慣をある程度社会に擦り合わせて行く必要もあるでしょうが、かといって自分の根本的価値観を捻じ曲げる必要はないのです。

 

生活を成り立たせながらも心を歪ませない、これはそんなに難しいことではありません。それが多数派になった時、自ずと人間社会は大きく変わるのです。

 

結局、鍵は個人にあるのです。

2018年07月08日

異次元の認識

人は誰でもリラックスさえできれば数分で異次元を認識します。完全な睡眠状態ではないので「そのリラックス状態に導くことが難しい」というだけです。

 

高次元波動体験会ではそれを試みていて、実際にうまく行っています。参加者の皆さんには異次元で見えたり聞こえたり感じた事をご報告いただくのですが、複数の参加者にも同時に聞かれてしまうわけですから、表現を躊躇される傾向がどうしてもあります。

 

ただ、単独ではなく複数人同時に次元移行する場合の相乗効果は毎回思いのほか大きく、私の話だけではなくて他の参加者の体験談をも耳にすることが参加者の参考になったり不安の払拭になったりもするため、わかっていながらも敢えてそうしているのです。

 

「もっと踏み込んだ個人的異次元情報を入手して、それを人生に活用したい」とのニーズにお応えできる、個室での瞑想セッションを近頃はじめました。ドップリ踏み込んだ話も難なくできます。石井の話での誘導だけでなく、妻である西きほ子の霊視でもサポートいたしますので、エネルギーバランスを考えてお客様も一回で2名ずつです。

 

既に金曜日に3回実施しましたが、おかげさまで好評です。来週末は元々の高次元波動体験会が新橋でありますので、次回に限り7/10(火)正午からの開催です。ご都合のつく方、遠慮なくお問い合わせください。

 

 

2018年07月07日

「霊能力」とされているもの

「霊能力」と聞くと、一般的に特殊な能力だと思われています。ごく一部、そのような能力が重宝がられている場合もありますが、家族や身近に霊能力者がいたら気持ちが悪いとか不都合を感じる人の方が多いでしょう。

 

常日頃死んだ人と会話していたり、自分に隠したい事があっても何もかもお見通しだったり、どんな嘘も全部バレバレになってしまう人とずっと一緒にい続けたいと考える人は少数派でしょう。

 

しかし私に言わせれば、人間である限り誰もが霊能力者です。その能力に違いがあったり自覚のありなしに随分と個人差があったりすることは、何を例にとっても同じです。

それを「霊能力」と括っていないだけで、例えば知らない人が見たら「霊能力以外の何ものでもない」というようなことを仕事にしている人は、多方面でいくらでも見かけられるものです。

 

「UFO」という単語が、現代地球人が広く製造操縦している原始的飛行物体を除く全ての飛行物に当てはまってしまう…このことと同じですね。未確認飛行物体の事をUFOと呼ぶのですから、皆さんがよく知っている飛行機やヘリコプターは全て、江戸時代の人に言わせたらUFOです。

 

私、セイジョウ石井が常々話しているように、人間の大部分が非物質で、肉体は人間の中のほんの一部分です。その肉体を使って話したり書いたりしている中身は、合っていたとしてもその人の性質の僅かな部分だけです。何らかを飾ったり偽ったり隠したりしていることを考慮すると、読んだり聞いたりしたことの中にその人の中身が1%も表れていない場合だって十分にあります。

 

「私のことを理解してほしい」とか「私のことを誤解しないで」等の表現がありますが、そもそも肉体人間で自分自身を誤解しないで理解している人自体がほとんどいないのです。ですからカネを稼ぐことを筆頭に、人間社会の営みは原則ほぼ虚偽なわけです(笑)。だからこそ人生ゲームはオモシロイ!?

 

睡眠中は誰もが非物質活動をメインとしています。ただしそれ(夢)を正確に記憶できる人が少ないため、せっかく毎日本質に戻れていてもそれを肉体生活に反映できないのです。

 

ですから私は「瞑想を通じて、人間の本質である非物質活動を肉体生活へも有効活用しましょう」というスタイルのイベントを継続しているのです。

 

この記事を書こうと思い立ったのは、写真のように一歳の息子が私の睡眠中にほぼ毎晩ベッドに上がってきて一定時間寄り添って降りて行くからです。私はずっと「何をしているのだろう?」と思っていましたが、ザックリ言うと「どうやら私の夢を覗きに来ているらしい」との結論に私が達したからです。

 

女性に多いのですが、「それは嘘だ」「あれは演出だ」「これは本気だ!」などとなぜか直感してしまう人は世の中に意外と大勢いらっしゃいます。男性的に言うのなら、それらには科学的根拠がないので(笑)霊能力みたいなものですよね。いちいち指摘はしませんが私のセッション中にもそういうことが良く起きます。

 

本来それらは人間の誰もが有する能力であると私は考えますので、皆さんのその部分にもっと磨きを掛けようとイベントをしているところもあります。そのようにしてイジョウな人間社会をセイジョウなものに戻して行こうと私は試みています。

 

詳細な情報は常に妻(西きほ子)が発信しています。ご興味のある方はぜひともご覧ください。

2018年07月05日

本性を隠す生き方

人は皆、ほぼ誰でも隠し事をしているものです。それがばれたら大変な犯罪行為なのでしたら納得ですが、知られたところで別にどうこう問題にされることもないであろう趣味嗜好を、多くの人が隠し持っていたりするのです。私自身も若い頃には特にその傾向がありました。

 

取り柄の趣味や好きな事何かを活かして収入源を作りたいのであれば、「失敗を恐れるな」「恥をたくさんかけ」「嫌われることを避けようとするな」等々のよくある助言が多く当てはまります。しかし生計を既に他の何かで立てているとなると途端に皆さんあまり認知されたがらない場合が多いようです。

 

これらについて、少し一緒に考えてみましょう。

 

私は十代初期でイジメを受けた頃から40歳頃まで、ずっと自殺を検討していました。それは特定の誰かではない人間という生物全般の愚かさや醜さをしみじみと感じてしまい、自分もその人間でいること自体がつくづく嫌だったからです。

しかしどう考えても自分だけが死んだところで、特定人物へのイヤガラセにはなったとしても、それで人類全体が賢く美しくなるわけではありません(笑)。

 

十代の初期から「人間の生死」みたいなものを探究してきた結果、私は心待ちにしていた肉体死に価値を見出せなくなりました。人の本質が非物質存在だということが解ってくると、物質肉体での生死が些細なことに思えてくるからです。つまり非物質的には「死」というものがなく、人間が肉体死を迎えたところで何も解決はしないということです。

 

だから肉体死を無闇に怖れたりすることと同じように、肉体死を特別な楽しみにしていること自体もナンセンスだと感じるようになってしまいました。

 

どんなに死を怖れていても死期は遅れないし、どんなに楽しみにしていても死期が早まることはなく、死んで当然の状態にまで陥っても死なせてもらえない私のような人がいたりするのです(笑)…それらを寿命と呼ぶのでしょう。

 

何故こんな話になってくるのでしょう。それは、現代の日本社会ではごく少数の「スピリットを肉体で生きる人」と、大勢の「できるだけ物質の獣に近く、もしくはマシンとして生きる人」で成り立っているという前提で私は人間社会を捉えているからです。

 

前者は日本を出て生き生きと暮らしているか、日本で長年苦しみ抜くか、だいたいどちらかのケースが多いようでして、何の業界にしても自分の特性を自然に活かして収入を得て、生き生きと暮らしている人ともなると本当に希少かと思われます。

 

私がイジメに遭った理由でもありましたが、組織に属している場合、専門職でない限り「特に何もできない・特に何をしたいでもない」という無個性無能力をアピールすることが重要な時代が長かったのです。そうしておけば、好かれることはあっても嫌われなくて済むのです。どうしてそんな不思議な法則があるのでしょう?

 

悲しい話ですが、今時の人は皆が相対的な比較のなかで一喜一憂して生きています。一般的に子供時代は自分の可能性を信じて何かに打ち込んだりもしますが、思春期頃にもなってくると「現実問題、自分には無理だ」と思うことが増えてくるのです。

 

そこでまだまだ伸びそうな何かを見出していたら、特殊な業界での活躍や個性的な生き方ともなってくるのでしょう。しかし概ね何も思いつかない人が組織に属して生きて行くことを決めるのです。

 

つまりは大きな組織に属して働いている人は、原則自分がそれをやりたくてやっているわけではありません。ただ今ぐらいの暮らしが維持できれば良いと考えていたり、お金がもらえる他の何かが特に思いつかないだけです。組織は大よそ減点制です。変わったことをして目立ってしまっては出世が遠ざかってしまいます。

 

ここで重要な話に入ります。大抵の人は向上心を失ってからでも小さな世界に閉じこもって相対的な比較で生きています。そして寂しいことですが、自分が向上しなくても相対的に優位に立つためには「周りを貶める・利用する」しかなくなってしまうのです。そうでなければ常に自分をヨイショしてくれる人のお世話になるとか…(笑)

 

何歳になっても、向上心がある人は起業したり結婚離婚を繰り返したりで忙しくしていることが多いです。同じ組織に何十年も属していれば、イジメ先を探すのに忙しい人が大勢います。有能な脱落者を増やして何もできない人ばかりで周りを固めることがマジメな生き残り戦術なのです。組織下にいる誰にとっても自分より有能な部下とは扱いにくいものですし、有能な上司も苦手でしょう。

 

「思わぬ特技があった」とか「高尚な趣味を持っていた」とかは、元々が有名人でもなければ誰かの餌食になりやすいだけの話です。「黙っていた方が得をする」それがまさか小中学校の社会にも存在していたとは思いつきもしなかったほど、私は素直で正直で社会性の低いバカな子供でした。

そのままではどうせ社会に出てからでもイジメられていたことでしょうから、イジメに遭ったのはなるべくしてなったことです。

 

大きな組織に属していなくても、自分以外の誰かを悪く言っていたところで何も変わりません。「それが今の人間の主な性質だ」というだけのことです。起業しようが、放浪の旅に出ようが、組織でがむしゃらに働こうが、幸い今の日本国では自由に選べます。

一見は嬉しくない現象として、学生でもないのに働きもしない人の存在も広く認知されています。女性なら「家事手伝い」という言葉が昔からありましたが、男性も… 良くも悪くも凄い社会変化です。

 

正直、平然とした顔をしている大人でも困惑している人が実に多い時代です。新たな展開は誰に依存していても叶いません。

 

すべては自分がどれだけ意識変革できるのかにかかっているのです。私はその意識変革のきっかけづくりや変革サポートを、これからも精力的に進めて参ります。

2018年07月04日

愛想の良し悪し

若いうちはもちろん、歳をとってからも「カッコ悪い」と考える物事を避けて通ろうとする人が多くいます。何がカッコ良くて何がカッコ悪いのかのセンスが人によってまちまちなため、別の人に言わせれば「カッコ悪い」ことをいつも堂々としていながら、たまに訪れた多くの人にとって「カッコ良い」と映るチャンスをわざわざ逃している、という構図も見かけます。

 

美意識とは実に多様ですから、何にしてみてもそれぞれの欲求や各々の不服があるわけです。ただ、子供にとってのカッコ良い悪いは主に見てくれの問題なのに対し、大人になってからのカッコ良し悪しは圧倒的に考え方や行為に比重が移る傾向はあるようです。

 

自分の人生経験を振り返ってみてもまさにそうです。皆が見ている時に自分が言ったり行ったりする事へと意識を向けがちな子供時代から、成人すると明らかに「皆が見ていない知らないところで何を考えて何をするのか?」に美意識がはたらくようになってきたのです。

かといって上京して初めてのバイトが「飲食店の閉店後から開店時まで独りでお掃除」という私は、一気にシフトし過ぎた感もありますが(笑)。

 

そのバイトで私は多くを感じ取って学びました。若いスタッフ男女の皆が閉店後によく食事や飲み会に行っていたのですが、いつも一人で汚い店内、厨房や便所なんかを掃除している十代の私を不憫に思うのか、責任者ほど私に良くしてくれたのです。

 

若いスタッフの場合は両極端でした。全く関心を示さないか、酔っぱらっていても声をかけに来てくれたりするのか…笑 何がカッコ良いのかの感覚シフトがまだない人から大きくシフトしている人まで、幅が大きかったのです。

 

そこで私は実感しました。「地味な事でも手を抜かずにやっていれば見ている人は見ているものだ」と。とても重労働だったので、身体を壊すことを避けるために一年以内でやめてしまったような記憶がありますが、良い経験になりました。

 

愛想の良い人に出会った時、根っから明るくて爽やかなら大いに結構なのですが、上司やお客の手前で愛想よく振る舞っているだけの人も少なくはありません。そんな方は日常的に無理をしているので、ストレスのはけ口を求めています。すると気を遣わなくてもよい親しい人に歪の部分をぶちまけたりもするのです。

 

しかしそれも「心を開いてくれている証拠だ」と捉えて嬉しい人だっていますから、一概には良し悪しを語れません。ただ逆の見方をした場合、あまり愛想がない人は「無理に笑顔を作ったりはしていない」ともとれるので「ストレスをぶちまけられる事なく安心して親しくなれる」と私なんかは解釈するわけです。

 

話の根幹は、好印象を与えようとして大勢に愛想良くしてるが裏表があって親しい人には悪印象を与えてしまう人と、割と無愛想だけど知れば知るほど奥深くて感情起伏で周りを振り回すことのない人、主に2タイプがいるように私は感じているということです。

 

あなたはどちら寄りですか? 

もちろん「どちらでもない」という方もいるでしょう。

 

この分類的なものは「自分が広く評価されたい」のか、「わかる人にだけわかれば良い」と割り切っているのか、大ざっぱにはそんな考え方の違いなのだと私は思います。

 

それにしても「この人は評価されたい人だ」とはわかりますが、それがその人への高評価に繋がるかどうかはまた別の話だと私は考えています。

2018年07月02日

ハーフタイム

2018も後半に突入です。多くの人にとって月日の捉え方が前半の「今年になってもう○ヶ月も過ぎた!」から「今年も残りあと○ヶ月かぁ」に変わる時期です(笑)。

 

コップに入った飲み物が「もう半分しかない」のか「まだ半分もある」なのか、よく話題になるところですが、私は「気付いたら終わっていた」というくらいに時間経過を気にしないで夢中になれることが幸せな感覚なのだと思っています。

 

しかし学校でも職場でも、直線時間に縛られてほぼ全ての物事を進めているであろう生活の中では、そんな気楽な事を言っていられません。同じ地球上でも、いつ来るかもわからない乗り物を誰もが気長に待っている地域もあれば、数分遅れただけで怒り出す人がいる地域もあります。「タイム イズ マネー」って言葉もあるくらいですから。

 

時間を気にする人はお金も気にする傾向があるのは事実なので、言い得た言葉ではあると思います。今の日本でお金を気にしないで暮らしている人は僅少でしょう。私だってなるべく気にしないで生きてはいますが、今の社会環境下では金銭や時間を気にせざるを得ない部分だってあるのは仕方のないことですね。

 

「前半と後半」の話題にもどりますが、この時期を大きな節目として活用できることは確かです。今マスコミが騒いでいるサッカーにしてみてもハーフタイムが必ずあるわけです。

身体を休めることが重要なのはもちろんですが、心を休めたり切り替えたりする意義がとても大きいわけです。

事前に決めた作戦を実行したことがどうだったのかを振り返り、作戦を推し進めるのか、止めるのか、変えるのか、変えるなら何をどう変えるのか…大抵はそれらによって勝敗が決まるわけです。

 

パッと見は同じように見えるスポーツであっても、前半と後半では中身が全く別物であることも珍しくありません。勉強でも仕事でも趣味でも何でも、皆さんの前半の動きはいかがだったでしょう。

 

どうせ時間を気にする必要があるのなら「時期・タイミング」というものを積極的に有効活用しましょう。同じことをするだけでも、タイミングによっては値千金の場合と棒に振るだけの場合があるのです。時間や時期とは、本当に不思議なものです。

 

その内容は学生でないかぎり一人一人の状況によって異なるのですから、不特定多数を相手に時期の有効活用法は語りようもありません。ただ、私は同じ相手に同じアドバイスを出すにしても、常にタイミングを重視しています。

2018年06月28日

胎児への影響

写真のミニカーたちは全ていただき物ですが(笑)一歳の息子がどうしてこんなに車のオモチャを好むのかが不思議です。少なくとも近年は両親共に車は乗りませんし、せがまれたら付き合いますが図鑑や雑誌をこちらから見せたこともありません。

 

小学生以上にもなれば「デザインがカッコイイ」「異性にモテそう」「機能が凄い」「乗り心地が」等の理由で興味を持つのはわかるのですが、乳児の頃から・・・謎ですね。

スピ好きな人なら「過去生で…」とか言えば盛り上がるのかもしれませんが(笑)私はこれについてある見解を持っているのでここに書いてみます。

 

お腹の大きかった妻の出産予定日に私が意識不明の重体となったため、息子は妻と私と一緒に救急車で運ばれてから数時間で産まれてきたという経緯があります。ですから、乳児の時から救急車に対する興味が絶大だったのは偶然とは思えません。

 

「出産前に乗ったのだから関係ない」と思う人が多いでしょう。それを言ったら出産後の赤ちゃんの視力や聴力だって怪しいものです。ですから私が考えるのは「胎児は肉体五感以外を普通に使って世界認識しているのではないか」ということです。お腹の中では皆がサイキックというような意味です。

 

妊娠中の母が体験していることを、肉体としてはまだまだ生育中、その不完全な肉体の器官を通さずに、非物質の自己で色々と認知していると思うのです…だとすると辻褄が合うのです。

 

妻は息子がお腹にいる間にも車がよく通る道を歩いていました。それで、息子は産まれた瞬間には既に様々な自動車と半年以上の馴染みがあるのです。外界に出る直前に乗った車は特に印象的だったはずです。

 

私が注視しているのは胎児教育の影響の大きさです。厳密には文字や作法を教え込むわけでもないですから「教育」ではありませんが、人としての感性は胎児の間にもだいぶ養われているように感じます。

大人のように肉眼や鼓膜で情報収集するわけではないですから、想いや気持ち等の波動で多くを感じ取っているのです。

 

わかりやすく言うと、妊娠中の母を中心にどんな気持ちで何を感じてどんな音楽を聴いて何を食べて… それらの発している波動が重要なのです。

現代はそこに無頓着な人が多すぎるのではないでしょうか。

2018年06月27日

生きる楽しみ

あなたが生きている楽しみは何ですか?

 

どちらが良いわけでもありませんが、この質問には即答できる人と考え込んで答えが出ないタイプがいると思います。心の中には答えがあっても「他人に説明することではない」と感じていたりで本心ではない事を口にする人も多いことでしょう。

 

すぐに叶う願いはあまり「生きる楽しみ」とまではならないでしょうから、やはり「長期スパンで叶えたい、簡単には叶わない何かがあった方が生きて行く楽しみになりやすい」という傾向は総じてあるのです。

 

この世のあまりの生きにくさから、若い頃から私は「肉体死を迎えること」を最大の楽しみにしていたところがありました。何時なのかを別にすれば、誰でも人生最後には必ず叶う望みです。しかしそれだけに「自殺は反則だ」とも、強く自戒していました。

 

購入したい物の資金がなかなか調達できないからといって「だったら盗めばよい」というのが反則扱いなのと同じです。非物質的には「死が存在しない」のですから、重罪や自殺は自己に新たな歪みを生じさせるだけだと私は考えています。

 

50年近く生きていて肉体死のチャンスは何度か訪れましたが、今のところ最大の機会は一昨年前の脳幹出血でした。視聴覚をはじめあらゆる感覚を徐々に失って行く過程で「ああ、ついに私にもその瞬間が訪れた」と感慨深かった記憶は明確にあります。全く痛くも苦しくも辛くもなかったです。

 

肉体意識を失っていた間は、この世界だとしたらいろんな時代や地域かと憶測されるあらゆる状況下で忙しく活動していました。しかし後日、全身がしびれて激痛が走る特定の肉体に閉じ込められてしまいました。この肉体意識が回復したのです。

 

ゲットして当然のチャンスを逃しただけでなく、皮肉にも断トツ不便になった身体で余生を過ごすことが決まってしまったのです!笑 せめて歩けて話せる身体になるためのリハビリに専念しているうち、あっという間に二年弱が経過。

 

私は「肉体死のタイミングは地上の人間では理解できない何らかによって定められているのだ。望んでも避けたくても叶うことではない」そう開き直って受け止めました。だから自分が不便な身体に宿っていることにも憂鬱は感じません。

 

私がこれまでに得た体験や知識などを日々発信することができる身体には既になりました。

奇しくも私が倒れた日に誕生した一人息子と肉体で接しているだけで、今の私には充分な楽しみです。

2018年06月21日

変化への抵抗感

人間には大きな変化を怖れる傾向があります。それは何故でしょう。

 

現代人の多くは「これまでの蓄積」を重視して生きています。これは行き過ぎると「常に過去に生きている」とも言えるわけですが、「どこの学校を出た」「○○の国家資格を取得した」「どこそこに勤務した」などの過去の蓄積が、自分がどんな人間であるのかを証明している…ざっと平たく言ってそんな考え方です。

 

すると、過去の自分ならばそうしないであろう事を言ったり行ったりすることが、過去の自分を事実上否定しているように思えてくるのです。そんなきっかけを自分からわざわざ誘引したくはないから、これまでの価値観や行動パターンが変わってしまうかもしれない物事を、単純に「怖い」と感じて避けているのです。

 

常に今に生きているのなら、言うことや行うことがコロコロ変わることにもなります。でもそれは別に過去を否定することが目的ではありません。常に工夫や改善をしているのです。個人でも法人でもそのような柔軟性があれば存続できますが、「それが慣習だから」というだけの理由で同じような事を繰り返しているようでは時代の変化にすぐに適応できなくなるでしょう。

 

ですから今はむしろ「大きく変化できないことが怖い」時代なのです。にもかかわらず人生の舵を大きく切ることが出来ない人は、益々困った状況になって行くでしょう。そして最期には大きな変化を受け容れざるを得なくなるのです。

 

行動だけが変わるとしたら、それは強制的な指示に基づくものです。しかし考えや気持ちが変われば行動も自ずと変化します。それは過去の否定でも何でもありません。

 

例えばシェフが突然和食の料理人を始めたとしても、それは長年続けてきたフレンチなりイタリアンなり中華なりを否定するためではないのです。何をするにしても、大切な事ほど人目を気にしすぎていては上手く行かないものなのです。

 

あなたの人生の責任を取ってくれるわけでもない人の目を気にして、いったい何になるのでしょう。

もしも望まれるなら、私は定期的にお話をするだけで人生変化のお手伝いすることを得意としています。

2018年06月20日

自意識過小

「自意識過小」とはどういうことなのか?と思う人もいるでしょう。

 

簡単に「自意識」といっても、実は何を指しているのかが人によってだいぶ認識の異なる言葉なのです。これについては唯物主義の人が最もわかりやすくて、肉眼で見える鏡に映る自分の姿、肉体の形状が自分の全てであって、そこには服装や髪型も含まれるでしょう。

 

ところが何かの作品を通して自分を表現しているような人の場合、ファッションなど自分の肉体の見てくれはどうでもよいというタイプの人が増えて、作品こそが重要となります。

 

意識が拡大したまま収縮できないとなると、他人事や地球の異変も自分の事として捉えるようになってきます。これには弊害もあって、遠くで悲惨な人災や天変地異が起きると被害者ではないはずの自分までが苦しくなってしまいますし、今の地球文明においては年中暗い気持ちで暮らすことにもなってしまいます。

 

更に意識が拡大して、地球以外の星や生物(非物質を含む)に常時意識がフォーカスされているならば、大抵は精神異常のレッテルを貼られたりして地球上で普通に暮らして行くこと自体に問題が出るでしょう。「鏡に映る肉体だけが自分」だと考える唯物主義者からしたら「この人には自意識があるのだろうか?」と疑問にすら感じることでしょう。

 

ここまで書けばもうおわかりですね。上述の下部になるほど「自意識過小」となって、獣の属性も備える肉体人間として生き難くなる、ということを私は経験上語っているのです。私の場合は上述のそれぞれを幼稚園、小学校、中学校、高校で経験した感じです。ですから最終学歴の高校を卒業してからずっと肉体で生きる難しさに直面しながら、三十年以上かけて割り切りと言いますか使い分けができるように努力してきました。

 

その甲斐あって、必要であれば「よくいる普通の人」もそこそこに演じることができ、自分主体の場ではそこそこの本音を交えて暮らしてきましたが、皮肉なことに2年前の脳幹出血での小脳損傷で「よくいる普通の人」を演じることは不可能となりました。混んだ電車も自転車も乗れません(笑)。

 

私がお客様の年齢・性別・職業・立場を問わず、あらゆるタイプの方々を受け容れてアドバイスができるのは、「地球上で自分が散々な目に遭ってもそれらを切り抜けて生きてきた過去があったからこそ、今となってそれらの知恵が活かされているのだ…」 我ながらそう思います。

 

今でも基本は「自意識過小」な私ですから、私の死に損なった当日に生まれた子供ももうすぐ2歳となった今では「もっとちゃんと自分を売り込んで稼げ!」と周りからも強く思われているようです(笑)。

 

ご相談があっても、すぐに私から飛びついてどうこうしようとすることはありません。お客様にとってはどんなに「変」だとか「恥ずかしい」と思えたにしても、人間の持つ悩みや苦しみは本質的に同種です。

 

遠慮なく何なりと私にご相談ください。人間関係の問題が実績としては豊富です。

 

 石井 数俊 (セイジョウ石井)

2018年06月19日

「期待」とは

期待はずれでがっかりした経験は誰にでもあるでしょう。私も若い頃はよくありました。

 

しかしある時期に気付いたのです。今までの自分の期待とは「自分に有利に物事が展開するのを予想している」だけだと。「自分がラクして通過したい・自分には追い風が吹く」などと、自分に都合の良い憶測をしてるから、しょっちゅう期待が裏切られた気持ちになるのです。だから私は特に何も期待することがない数十年を過ごしています。

 

「誰にも何にも期待していない」なんて語ると、冷淡で寂しい人だと思われがちです。しかし、全くそんなことはありません。

むしろ何があっても誰かや何かのせいにすることがなくなって、些細なことでも喜べたり凄く得した気分になったりすることが頻繁となったのです。それに、期待がなくても常に予感はあります。

 

自然現象をはじめ、自分以外の何かや誰かをコントロールすることは原則できないし、してはならないと感じます。他人を恐怖でもってコントロールすることができたとしても、それは一時的なもので、かえって歪を溜めてしまい、それがいつかは爆発するのです。

 

企業でも国家でも自治体でも、人が集まる組織では属している者を制御する必要があるため、上述の手法を使わざるをえません。

「身が危険に晒される」「もらえるはずの報酬をもらえなくなる」「恥をかかされる」「罰金を払わされる」等々の事態を避けるために不本意でも指示に従って、見えないところで愚痴って発散する…良く見られる光景です(笑)。

それを上手にできなければ内臓疾患や精神異常を招いたりもするわけですから、それもそれで必要な行為でしょう。

 

人は一人きりでは生きて行けません。それは事実ですが、属した組織の都合で一緒に居合わせているのと、自分たちの自己都合で関係を築いたり解消したりする人間関係とでは、同じようでも実質まるで違うわけです。

「そこをどう捉えるのか」の個人差が著しく激しい時代に入ったと感じます。

 

「若い新入社員が飲み会や社員旅行などを断る」等の事例も、良し悪しではなくてその辺の問題だと考えます。お上が望むことならば、誰もが自分が死ぬことを百も承知で戦場へと敵国の人殺しに出向いていた時代があります。今ならそうはならないでしょう。時代錯誤の人が一部いるというだけのことです。

 

そこでも「自国が戦勝する」という期待や願望が、国民の皆にあったのだと思います。私はスポーツが好きな少年でしたが野球でもサッカーでも、自分がプレイヤーでもないのに勝敗をめぐって大騒ぎする観戦者にはいつもゾッとします。暴動もたまに起きますよね。「ファン」と呼ぶらしいですが、期待や応援の気持ちが敵を害することに繋がっていることが不思議です。子供の頃から私は「誰かに決められた仕組みを運用しているだけでこんな風になってしまうんだ」と疑問でした。と同時に、戦争という大量殺戮ゲームを好んで実践する大人たちが多いのもわかる気がしました。

 

何を言いたいのか… 人間はいつの間にか簡単に洗脳される生物なのです。(洗脳のことを「教育・布教」という言葉を使うのが一般的です)

 

誰かの意図に沿って行動するのはマシンだけで充分です。知的生命体人間としてはイジョウです。

縛りの多い環境下では難しいかとは思いますが、皆がそうしていたとしても、自分が「おかしい」と感じるのならば自分までおかしなことを実践しなくても良いのです。それが本来の人間だとセイジョウ石井は考えます。

2018年06月17日

賢さとは臨機応変さ

機械化が進む現代社会においても「クローン」や「遺伝子操作」呼ばれるものを、特に人間に当てはめることには抵抗を感じる人が多いみたいですね。その違和感はどこからくるのでしょうか。

 

平たく言えば、それは「人間というものが(人間が摂取するものが)人間の手によって機械のように製作されたり操作されたりすることは自然の理に反する」と感じるのが人間らしさとも言えるからです。それがどういう事なのかを考察してみましょう。

 

出産育児等で見られる「増殖」というものは、「人間をはじめとする生物も所詮は機械みたいなものだ」と考えたくもなる要素が多分にあります。「DNA」という単語を知らない人がほとんどいないほど普及している今日です。

 

生物の設計図とも呼べる遺伝の仕組みを探究すればするほど、今の人間には理解できない奥深さがあるけれど、プログラムが機能しているのは事実なのです。実際に、一歳の息子は自分の幼少期の写真にかなり似てきているのですから(笑)

 

ところがそれは物質肉体としての話です。非物質の、俗に「霊」「魂」「スピリット」などと呼ばれるものについての解明は現地球文明においては非常に遅れています。物質の複製や操作はいくらできたって、人間の本質である非物質のコントロールができていない現地球人が生き物の操作をできるわけがないのです。

 

そのことを、多くの皆が潜在的に感じているということです。

 

生物が「単なる物質」だと誤解している科学者が物質的に操作したところで、できたかのように勘違いしている生物操作には莫大な弊害が潜んでいるのです。それはこれから著しく表出してくるでしょう。

 

「霊」や「魂」と呼ばれる非物質面を重要視して解明できれば、肉体的な不具合の解消や未然予防がもっと簡単にできますし、そもそも肉体障害や長寿も早死にも大した問題ではなくなります。

 

人間として生きていながら最も人間を理解していない人が評価されて優遇される傾向のある現文明社会です。それを知っていながら、自分もわかろうとしない人や自分を曲げて生きている人が多いようですね。それを私は「知的」じゃなくて「愚か」なのだと言っているのです。

 

そんなことばかり語っていたら生活が成り立たない、と思う人もいるようです。「知らないのに知った顔をして」愚かさを重ねるよりも、訓練は要りますが「知っていても知らないように振る舞うことが適宜できる臨機応変さ」の方が賢い行為だと私は思います。

 

これを応用すれば誰だって、どんな生き方だってできるものだと私は思うのです。

大っぴらに発揮しない事であっても、知っていれば多くを得る …そんなものだと石井は考えます。

2018年06月10日

星のバランス

同じ事柄に対してでも、何を優先するのかによっては長時間熱心に打ち込んだり、逆に関与するのもイヤだったりする…誰だってそんなものだと思うのですが、改めて考えると不思議なことですよね。

 

例えば私の場合、特に健康を気遣う必要がなかった時期には行くこともなかった近所の公園数ヶ所に、今ではほぼ毎日数時間かけて歩きに出ているのです。

 

これは「何とか歩いて移動できる肉体を作って維持したい」という強い欲求があるからできるわけです。深夜早朝の私の状態は、近況でもベッドからトイレまで倒れずに移動するのが精一杯で、リハビリを数日もサボればそれもできなくなってしまう身体なのです。

 

40代で寝ながら糞尿を漏らしたり、自宅での転倒が原因でもっとおかしな身体になることを避けたいのならば、小脳損傷による身体機能の低下を進行させないようにコツコツとリハビリを続けるしかないのです。その甲斐あって、今ではタクシーや空いた電車やバスを利用して一人で移動ができます。

 

乗り物を使わないで何時間かを歩くという行為を健康な時期には「疲れる・時間を奪われる」等を理由に避けていたのですが、それは「体力を温存したい」「他の事に時間を費やしたい」とかの健康時の欲求があったからです。

ところが死んだも同然の体験を経てしまうと「周りにずっと負荷をかけ続けてまで生きていたくはない」「時間を筆頭に既に全てを一度失ったようなものだし、時間を節約してまでしたい事もない」という考えもあって毎日数時間、痺れて痛い足を使って歩くことができているのです。

 

地球の生体系を破壊したり大気を汚染したりする多くの人々も、それ自体が目的なのではなくて「そのことによって金銭を得られる」という第一義を果たすために目をつぶっているだけなのだと思うのです。仮に化石燃料型エンジンをこの世界から無くしたら、少なくとも一時期は失業や生活不便で悶え苦しむ人々で溢れかえってしまう文明です。

 

文明なんぞが栄えて滅ぶのは当然の事ですが「数百年先の地球環境を考慮する」ということが、どうしてこんなに難しいのでしょう。百年先の事でさえも考えている人は少ないでしょう。

 

それは、現社会では「人間は物質肉体なのであって肉体死を迎えたら全てが終わって無となる」と考える人が先進国を中心に地球人口の多くを占めているからです。言うならば「数十年自分だけなんとかなればよい教」の信者です。

 

しかし万人が肉体死を迎えたら気付くことなのですが、これは大規模な詐欺なのです。星のバランスを考慮するような人にとって、今の文明には稼ぐ手段も消費できるようなもの僅かしかありません。「他人や未来なんて知ったことか!」そう信じ込ませることで成り立っている大量消費社会です。

 

表面上で国家や企業の営みをあれこれ指摘したところで社会は変わりません。個々人の死生観や価値観が起点なのです。ですからこのような事を主張したところでうっとうしく思われるだけなのかもしれません。

 

しかし私は人間という愚かな種が、愚行をこれ以上繰り返すことを黙って観ているのが辛いのです。そして、そう感じている人が既に一定数いるようにも感じているのです。

 

大多数が実質「獣」として生きている今の地球人類が、「知的生命体」へと変革する大チャンスだとも私は捉えているのです。

 

「人の本質は非物質である」と語ったところで儲かりはしなくても、大切な何かを失うこともないのです。

2018年06月04日

眠れない夜

詳細不明のエネルギーのような何かを強く感じる時があります。年中どこからか情報が発信されている星の運行や月の状況とは無関係にです。地球もトータルで生命体です。人間には誰にでも、人格性格とは別に感情や体調に少しは波があるように、星にだって説明のつかない変化があるのは当たり前です。磁気的な変動でしょうか。

 

昨夜眠りに就いた後、私は近所の赤ちゃんの夜泣きで起きました。深夜に夜泣きが聞こえたなんて初めてのことです。1歳の息子も寝ながらソワソワしています。この世での近所では事件や事故は何もないのに、犬の遠吠えも聞こえました。

 

身体を悪くしてから毎晩早く眠るのが習慣となった私ですが、今夜は眠気が全くしないため起きてこれを書いています。後遺症の痛みやしびれが原因でもない、何ともリラックスできない状況です。

 

大人になるにつれて鈍感になる人も多いが、子供や動物たちの皆が何かを感じて興奮気味!?のようです。

 

どんな人でも人生を何十年か送っていれば様々な時期があります。健康状態、経済状況、社会環境、気分…何にしても一生ずっと波が上下しないということはないでしょう。海でも空でも観ていればわかる通り、変化し続けるのが自然というものです。

 

変化を怖れたり避けたりするのは不自然なことです。赤ちゃんとして誕生したからには肉体死が確約された将来であることを筆頭に、変化を続けて行くのが自然な形態なのです。ところが自然になりたくない人が増えるのなら、人間社会が星を道連れに不自然となって行くことを意味しているのです。環境破壊と社会の機械化が益々進み人間不要論が持ち上がっても不思議ではありません。

 

そこにブレーキをかけるのが一つの生命体としての地球の機能ですね。火山噴火、地震、津波、異常寒気猛暑…等々、人間は変化を強要されます。その成果でもあるのでしょう、雇用されない人や大自然と共に生きようとする人は近年増えています。

 

文明の過渡期なのですから試行錯誤が基本。それを問題視する人も当然出てきます。世の中の常識はあと10年もすればひっくり返っていることでしょう。私が子供時代ほど強く感じていたイジョウな常識の数々が取り壊され、セイジョウな文明へと向かっているのです。

 

私が重要視するのは人間の定義です。人は基本「非物質生物」なのに、物質的な定義だけがなされた状態で文明が展開しているのですから。これが根源だと考えます。

 

「知性」とは非物質です。飲食やセックスやスポーツを追い求める人生ならば「知的生命体」でなくても良いのです。ですからセイジョウ石井には、多くの現地球人が「知的生命体」には見えません。

 

皆に知性があったのなら、こんな人間社会にはなりません。しかしいつからでも知的に生きることはできるのです。そうすれば、社会も自ずと変わるしかなくなるのです。

 

そのためにはまず、生命体として「知的」とはどういうことなのかを知る必要があります。

 

「記憶(データ保存)」のことではありません。「記憶」とは、今となっては機械に求めるスペックなのです。

 

2018年05月31日

自分を知る

「自分のことがよくわからない」との言葉を聞くと、「アンタもかい!」とでも言いたくなるほど誰もが口にしそうなこのセリフ、実は現地球人類にとって最大のテーマのような気がします。「自分の事は自分が一番よくわかっている」などと言う人にかぎって、沢山の要素の中のごく一部を「これが自分だ」と勝手に定義づけているだけだったりします。

 

「骨や肉や内臓などの物質の寄せ集めが人間、とりわけ頭部にある脳に、思考や記憶はもちろんあらゆる身体機能を司る重要な部位がある」的な教育を受け、それこそ頭脳だけで自分とは何か?を考えようとする人がほとんどですからね。

 

人は本来、非物質です。それを動物のような物質存在として機能維持させるために頭脳を含めた身体があります。ですから頭脳や身体を損傷すると物質人間として上手く機能しなくなってしまうのは事実です。それは私も近年どっぷり体験済み。小脳を損傷したため身体機能が著しく低下しました。

 

「自分のことがよくわからない」と言う人は正直なのでしょう。正確には「『自分』とは何を指しているのかもわからない」というのが一般的な今の世の中の人です。それではイジョウな社会だと私は強く感じるので、「セイジョウ石井」のペンネームを語ってあれこれ発信しています。

 

「人間」「自分」とは何なのか?について教えてくれる人は学校にも病院にも原則いません。簡易な文章だけでは誰もが理解できるものでもありません。だからって複雑な論文にしたところで結果は同じでしょう。

現代社会においては、人にとって大切な事を何もわかっていない人が、カネや権力や名誉をもっと求めながら人を指図しているのが普通です。そんな不健全な人間社会から歪んだ人間が更に多く輩出されるのは自然なことでしょう。

 

平易に言うと、この世にない情報はあの世から得るしかないのです。あの世とは死後の世界とは限りません。いつでもどこにでもあの世は存在しています。非物質世界には時間も場所もない(あるように錯覚することもできます)ので、このような表現しかしようがありません。

 

それらの事を、他者から得る知識からと自分で得る体験経験からと、双方から学ぶのです。「学んでそれらの理解が深まったところで名誉や金銭にはならない」との理由から、現社会では学ぼうとする人があまりいないことが残念です。

 

しかしそれらを学ぶことでしか「自分(人間)を知る」ことはできないのだ、と私は思います。自分を含めた人間のことがある程度わかるようになれば、副産物として物質世界での生き方も豊かになるものなのです。ただ、豊かさの定義がカネや名誉を得ることだけになっていない場合が多いのです。

 

率直な私の意見を述べると、「すぐできる」「簡単に手に入る」「誰でもできる」等のキャッチコピーを謳ったどんなHow to本や講座やセミナーよりも、【自分のことを良く知る】ことのほうが、この物質世界での成功にも大きく貢献します。上述のキャッチコピーとは反対で、継続力が必要で簡単でなくて挫折する人が多いのも事実ですが…笑

神妙になることはありません。リラックスやユーモアは常に大切です。純粋に楽しみながら探究し、報酬や称賛などの見返りを短期で期待しなければよいだけです。

2018年05月29日

昨夜の異次元体験記

昨晩の私の睡眠中の体験は、いくつもの世界を跨ぐ感慨深い体験でした。これをお読みになっている皆さんにとっても、いつも私が語っている並行世界概念の参考になるかと思いまして記録します。

 

私は脳幹出血の後遺症でここ2年弱、手足のしびれを常に感じているのですが、歩きや体操でほぐすことのできない睡眠中が最も体感的にキツイのです。昨夜の夢の世界のある異次元では、私だけでなく皆がその苦しい体感を味わっていたのです。空気や食糧の汚染が原因なのでしょうか。

 

この肉体人生での妻ではない女性と並んで横になっている私は、隣で健康状態を不安がって心配しているパートナーに対して「皆がそうなのだから仕方がない」と、その肉体障害の処し方やそれでも暮らして行ける旨を説明していました。

 

私が今朝目覚めて何時間しても明確に記憶に残っている体験だったので「あ、これは単純な夢ではなくて平行世界での現実なのだな」と感じたわけです。時間外の異次元認識ですから未来や過去の可能性もあります。愚かな地球人は、過去や未来でも今のように自然環境を破壊しまくって物質界での人間の存続危機を何度も経験しているのでしょう。

 

他ならぬ私も(ここの世界の時間や空間感覚で呼ぶのなら「いつか、どこかで」)人類存続の危機を漏れなく経験していて、そことリンクしているこの世界の私が同じ症状を体現しているのが「脳幹出血の後遺症」なのか?

 

誰でも「この私が何故?」という事態に陥った場合には他人や環境のせいにしたくもなるのかもしれません。しかし他ならぬ異次元異世界の自分の存在が原因であることがほとんどなのだ、と私は考えています。

 

時間や空間を超越していますから「過去生での自分の行いがこの事態を招いた」という直線時間軸での単純な因果ではありません。だから今を変えれば、そこに関連する過去や未来と思える異次元の現象も同時に変わるのです。

 

これを読んでもおわかりのように「人生ルール」みたいなものは「時間や空間に縛られない異次元や並行世界を認識」できなければ、語りようがないのです。私も数十年間、あらゆる人の著述をあれこれ探究してきましたが、基本的にどれも「時間と空間の縛りから抜け出ていないママゴトみたいな人生哲学」を語っているのです。

 

チャネリング情報には時空を逸脱したものも少しありますが、悪質な憑依現象の場合も多く、その精査自体が難しくて問題となってしまうのです。宗教と同じで娯楽としてなら好みは人それぞれですから、他人に強要しなければ何も問題にはなりませんが…

 

「異次元・異世界を自分で知る」ことの重要性を私が常に強調している理由です。

 

でも「その契機を作ってれるのは自分ではない誰か」なのです。私はその「誰か」になるべく奮迅しているのです。

2018年05月28日

セッション新メニュー

現在は、妻で多次元数秘術占い師である「西きほ子」のセッションも私のあらゆる種の個人セッションも、時間あたり一万円代でのサービス提供となっております。その点、お集まりいただいた複数名の参加者を対象に平均隔月ペースにて夫婦で開催している〈波動体験会〉は、料金もリーズナブルな上に内容にも相乗効果が見られるために好評で「西きほ子」も大のお気に入りイベント。

 

そんな妻「西きほ子」からの提案で〈小規模波動体験会〉とも言える【グループセッション】のメニュー追加です。瞑想時のお客様についての「西きほ子」霊視レポートと、夫であるの私の解説や助言がついた2時間に及ぶセッションです。今予定しているのはお一人様1万円での2名参加型が基本ですが、2万円の濃厚個人セッションとしても承ります。問い合わせやお申し込みは私「石井数俊」だけでなく、妻の「西きほ子」にも遠慮なくどうぞ。皆様のご連絡をお待ちしております。

2018年05月25日

「キツイ・メンドウ」を避けない人生

「あれはキツイからやめた」「それはメンドウでやる気も起きない」そんな事を考えたり言ったりしていませんか?

 

そのような考えに支配されて生活している人が望むことは「ラク」な事でしょうか。

「ラク」な事とは、表現を変えれば「ショボイ」「タイクツ」な事ですよね。私は昔からそう感じてしまうタイプです。キツかったりメンドウだったりするからこそ達成感や満足感や喜びも得られる…少なくとも私はそう思うのですが…

 

体力のみの勝負となると若い一頃だけの話となってしまいますが、知性や感性、身体能力でもパワーだけでなくてコツを掴むための鍛錬でしたら年齢や性別とは関係なく取り組めるものが世の中には沢山あります。飽きたりめげたりして放り出すことなく長年継続できれば、それは「特技・取り柄」になるのが普通なのです。

 

誰だってそうできるのに「長年このような事に打ち込んでいます」と言うものが何もない人生を選ぶ理由は何しょうか。実際にそのような人が増えているような気がするからです。今回はそれがどうしてなのかについての考察です。

 

私の見解では、子供の頃から皆が損得や利害を計算しすぎているからだと思います。「それができる事によって将来はカネや名誉になるのか?」という基準ですと「契約金が話題になるスポーツ選手をはじめ限られたジャンル、しかも一流になれないのならば意味がない」とやる前から見切りをつけてしまうのです。

 

昔は皆がある種の職人であることが前提の社会だったはずが「それで自分が特別な扱いを受けられるわけではないから」との理由で、若い人でも色んな事に興味を持たなくなっているのだと思うのです。何も習得する必要を感じていない人が多いということです。有ったとしても金銭報酬で優遇を受ける知識や技術や資格だったりするのです。

 

自分が子供の頃は、大人からしてみたら「またそんなアホなことに夢中になって、まったく!」みたいな子供が周りにも結構いました。興味が持続して大人になってそれが職業になった人は確かに少ないでしょう。でも全く無関係に見える職業に就いていたとしても、養われた感性や工夫力や忍耐力は意外と仕事にも活かされているものだと思います。

 

これも人生観・死生観の問題だと私は思うのです。「お金や権力を持つ人のみが自分の人生を評価する」という考えに染まっているだけなのですね。ところが肉体死間際になれば誰にでもわかることですが、自分の人生の納得度や充実度とは自分自身が感じるものであって、他人の誰かが決める事ではありません。権力者や金持ちの言いなりに生き、そこそこの富や名誉を得たところで「素晴らしい自分の人生だった」と感じることはないでしょう。

 

何度もお伝えしていますが、人が肉体を持って生まれ出る理由は経験から学びを得ることです。そこには金銭苦や病死や餓死など、肉体を持つが故の性質全てが含まれているのです。「ずっとお金に恵まれて健康長寿なら人生の学びが大きい」では決してないのです。

 

セイジョウ石井は貧乏や飢えや病気を勧めてるわけではありません。ラクチンばかりを求める人生はイジョウだと言っているのです。

 

その時はキツかったりメンドウだったりしても嫌ったり避けたりしないで「これが今の自分に与えられた経験と学びの機会なのだ」と素直に受け入れる姿勢が次の展開を生むことにつながるのです。

 

特定の人物との思わぬご縁や大きなチャンスは事前に知ることが基本できないのです。ただ、それらの多くが億劫な物事の奥に潜んでいるのです。ですから「キツイ・メンドウ」を避けて通る習慣とは、出逢いやチャンスを自ら遠ざける行為なのです。

 

直接的には何の益もないように思える事でも、自分が惹かれる事を継続していれば人生で大きな何かを得るものなのです。それは金銭や名誉などわかりやすいものではないのかもしれません、よって「特に何も得られていない」と感じるのかもしれません。

 

経験と学びを得ることが肉体人生最大の魅力です。私も40代で倒れて歩くことすら難しい身体になるとは予期していませんでした。過酷なリハビリの結果、肉眼で景色がそこそこ見えるようになって、一人で糞尿漏らさずに数時間散歩できるようになっただけでこんなに大きな達成感を得られるとは我ながら驚きです。

 

だからって誰かが褒めてくれたりご褒美をもらえるなんて微塵も期待していません。あくまでも自分自身の問題です。私は悔いなく生きているだけです。皆さんも小さな子供を見習って楽しんで悔いなく自分を生きましょう。

2018年05月20日

高次元体験

昨日開催した【高次元体験会】では、前回に一回だけ初めて導入した家崎耕平さんの奏でるシャーマンドラムを本格導入し、海外在住者複数を含めた参加者の皆さんを異次元に誘導しました。結果は良好!

 

やはり音楽に限らずビートを使うことで人を異なる次元にもっと導きやすいみたいです。毎回のことながら、ほぼ全員が異次元体験をして内容をご報告くださいましたから、私も解説や人生アドバイスのし甲斐がありました。

 

更に素晴らしいやり方を常に模索しながら気付けば数年で十数回も開催継続してきた異次元体験会ですが、今回は前回からの開催ブランクが最短の一か月以内、内容も皆さんが最もスムーズに異次元旅行できた印象があります。

 

イベントの趣旨には初回からブレはなく、一貫しています。異次元を気軽に体験できる瞑想を通じて「死」に対する無駄な恐怖感を取り除き、「生き方」をより充実させるきっかけを得て欲しい… その一点です。

 

自分のしている事の内容や方向性に更なる確信を持てた昨日、次回の日程も最速での確定です。次回は7/14(土曜)日中、同じく新橋での開催です。詳細告知は数日内に再びイベントページ等で!