お知らせ

お知らせ
2017年07月25日

大人になる

私が物心ついてから成人するまでに一貫して加速し続けた感覚がありました。それは「人間という生物は醜い」という強い思いです(笑)。 

何よりも「自分が」ですが、物質的に大便・小便・ゲップ・屁・汗・垢・フケ…などの臭いモノを「これでもか!」と言わんばかりに日々生産(笑)している自覚が徐々に芽生えてきます。

そんな物質的な事よりも強烈なダメージとなってくるのは非物質の醜い言葉や想念です。学校では子供から競争心が植え付けられて嫉妬心や罪悪感が湧くのが普通です。何らかの材料があればすぐに相手を蔑視することで自分が優位に立とうとする大人顔負けの愚か者が(笑)皆さんの身近にもいませんでしたか?

教師や親などの限定された大人の評価を真に受けて「何の取り柄もない自分なんて生きる価値もない」などの罪悪感を持って生きていることの方が根深い問題でしょう。しかしそれらが学校教育の目的でもあるわけですから、この世に生まれてきた子供には原則避けようのないことです。

バイトでもするようになれば、世の中は腹黒い人ほど生きやすいしくみとなっている事を、否が応でも知らされるわけです。悲しいことですが根底から嘘と偽りで固められたような人、そうとまで言わなくても咄嗟に上手な嘘をつけるような人でなくては生き方はかなり限定されてしまいます。

私は昆虫や小動物の飼育を通して、とりわけ魚は大人になってからもずっと飼育し続けて「人間とは違って美しいなぁ…」と鑑賞を楽しんできたのですが、その美しさは人間で言う素直さや純粋さなんですよね。人間が純心なのは原則物心つくまでの数年だけだというわけです。良くも悪くもそんな純心さのままでは生きて行けない世の中なのですね。乳児を何百何千時間と観察できる機会が自分にも訪れたため、改めて感じたのでした。

それでも最近は「生きるためには仕方がない、自分も醜くなって社会適応しよう」とは考えないまま歳を重ねる人が出現してきているように見受けられます。でもまだまだ、世の中はそんな人たちを「大人になれない子供」として白い目で見がちです。

「今の世の中に堂々と美しく生きる人間がもっと存在していてもよい」

静かにそう想い続けている仲間が、つながり始めているのを実感しています。

2017年07月24日

自分も星

この太陽系で言えば月や太陽に水星・金星・火星・木星・土星・天王星・冥王星・海王星など、つまり惑星や衛星や恒星。それだけでなく様々な星たちや星団の向きや配置が人間の運勢や体調を左右する…そんな記事を目にすることが多いですよね。

それはその通りだと私も思いますし、実際この物質世界にいるかぎり、誕生日時をはじめとして星々からの影響を受けずに生存することはできないでしょう。

ただ、私にはいつも気になることがあります。それは、その時々の特異な星の配列なりの影響で「物事が滞りがちとなる・人間関係がぎくしゃくする・身体や頭が重くなる」…等々のよろしくない事態の口実になっている説明は頻繁に目に入りますが、星の影響で「仕事がメチャはかどります・人間関係が急激に良好になります・心身共に絶好調でしょう」…などの説明や感想を目にした記憶があまりないということです。

上手く行かないことの口実を調べたり気にしているくらいなら、それらの影響をなるべく受けない考え方で生きる方が楽しくて賢いように思うのです。大病にかかるリスクをあれこれ調べている本人が実際に大病となって「ほらやっぱり!避けがたい○○のせいだよ」という話や、生活習慣について周りに散々あれこれ言われ続けた人が気にも留めないで健康で長生きしてしまうような例を、きっと皆さんご存知でしょう(笑)。

人間とは星でもある」というのが私の基本的な考えです。物質と非物質・別世界・別次元などが絡んでどうしても複雑になってしまう説明はさておき、あなた自身が星であるという認識になってしまえば、周りの影響から完全に免れることはできないにせよ一方的に振り廻されるような受動的影響はなくなります。その筋の専門家が「この時期にそんなに調子の良いはずがないのだが…」と首を傾げるぐらいのことは誰でも起こせます!笑

それは、物質世界で「呼吸」と言われている行為で制御します。
今週末はそのことについて解説しながらのワークショップです。

2017年07月17日

第8回高次元波動体験会のご報告

昨日7/16(日)に行われた【第8回・高次元波動体験会】のご報告です。

昨日は「以前からずっと気にかけていたのですが、やっと日程が合って参加できました」という参加者が多かっただけに、この日時に居合わせている意味の大きさを実感されていたようでした。

肉体は座ったままでも横になってくださっても、とにかくリラックスした状態で野村節子さんのクリスタルボウル演奏に意識を傾けてもらいます。良くも悪くも毎回大きく影響する共通波動があり、肉体よりも精妙な波動となった意識体での活動報告を各参加者にしていただくと、毎回打ち合わせでもしていたかのように似た景色や行動風景が浮かんだりするのです。今回は「南国・水・泉・海・泳ぎ・川・螺旋・龍・ニョロニョロ・水色・黄緑色」等が共通イメージの傾向がありました。

慣れない異次元体験は衝撃的だったり奇想天外すぎて、皆さん自分で内容を上手く言い表せないのが普通ですから、私がそれを引き出すお手伝いをします。体験記録をとって帰られてから、後日その意味に気付く方も多いでしょう。いずれにしても、この世で本を読んだり話を聴いたりするのとは別種の自分専用メッセージを受け取るわけです。

その相手が神様でも詳細不明の生物でも天使でも宇宙人でも知らない人間の誰かでも、また人物や生物でなかったとしても、何であれその現象にメッセージがこめられているのです。そして、肉体をもつあなたにそれを伝えたがっているのは、時間や空間の縛りから自由となっている非物質のあなた自身なのです。

2017年07月14日

日陰と日向

1970年代、小学校に通わない子供は原則いなかったと思います。当然のように、学区というものに従った小学校に私も通いました。田舎ですからのんびりしたもので、同級生をライバル視したとしても一部の生徒だけ、中高生になってからだと思います。

珠算や習字、ピアノやエレクトーンなどの教室を開いて商売をする大人は田舎でもいましたから、習い事をしている子供はいました。でも受験ビジネスチェーンがまださほど参入していなかったため、学習塾に通う小学生が存在した記憶はありません。

小学校は友達が集まる楽しい遊び場所であり、登校するのが楽しみな時期が数年は続きました。漢字や数字、理科や社会での固有名詞あれこれを覚えられることは有意義で、授業が無駄だと感じたこともありませんでした。本人の成績や家族構成とは全く関係なく皆でテレビ番組から得たネタや近所の時事ネタ、誰かのモノマネなどで毎日ワイワイ騒いでいました。

しかしそんな無邪気な時期もずっとは続きません。4~5年生になると徐々に世の中の不条理さに気付くようになってくるのです。これは当時の田舎で情報も少なくて発達の遅かった私の場合ですから、今時なら小学入学頃の子供が普通に抱いている感覚なのかもしれません。

まずは、授業の内容が「くだらない」と感じる比率が高まってきます。それが本当に真実なのか?とかは置いといて(笑)これを憶えたところで何なの?的な授業が増えてくるのです。そして、大人の習性が刷り込まれた発言や行動がクラスメイトの中でも目に付いてきます。

子供ながらに露骨な表現を避けたとしても(それは返って大人のような陰湿さか!?笑)ひとりひとりの相違を問題視するようになるのです。「○○は目立ちたがり屋」「○○はカッコつけ」「○○はバカ」「○○は運動オンチ」…といったことですね。個性的であることは、まるで「悪」。私が数年後に猛烈なイジメに遭うための布石がそこで打たれていたのです!(笑)

名前を大きく書いた名札を縫いつけた、軍服とも体操着とも囚人服ともつかない同じ制服を皆が年中着ていました。明らかに学童の服装ではありません(笑)。後で思えば相手が田舎の子供なのをよいことに、戦後30年も経ってにそんな工業規格製品のような扱いを人間に強いているのですから、規格外が鼻につくような狭くて閉じた感性が子供にも自ずと育まれてしまうわけです。

私にとって最も不可解だったことが、雰囲気が貧乏っぽい子や成績全般で劣るとされている子が必ず嫌われることでした。スパイのように実情をちゃんと調べたわけではないでしょうから(笑)あくまでも「そう見える」ということで、本当は資産家だったり高い知能の持ち主だったのかもしれませんが、どうであろうとまだ子供なのですから本人が好き好んでそのように見せているわけではないのです。 

私は実弟が知的障がい者ということで特別養護施設に預けられていたので「もしこの場に弟がいたとしたら…」と思うといたたまれなくなり、そのような偏見で蔑まれている同級生を男女かまわず庇ってしまうところがありました。すると、その庇う行為が「変わり者」であると見なされるのです…何の得にもならないからでしょうか。

そんなことが重なって、私は人間という生物について分析する性向が強く出てきたのです。大人の見地からすると「生物は弱い者を餌食にする習性がある」という当然のことですね。長年生物観賞を趣味としてきたので、これはよくわかります。魚同士でも、小さかったり弱っている個体を真っ先に突き殺したり吞み込んだりして餌とするわけです。魚に限らずこれが物質生物の自然淘汰です。弱い者は排除される…では、人間社会の在り様も果たしてそれでよいのか?ということです。 

それこそ小学校でも「人間は他の生物とは違って特別だ」などと教えられます。「知恵があって思いやりの心を持つことが人間らしさだ」みたいな話ですね。でも実態は皆さん知っての通り、他の生物の比ではない同種間での殺戮・支配・搾取を繰り返して歴史を刻む残虐さ。それが武力なのか経済なのかの変化はあるものの、確かに人間は特別な生物です!(笑)

社会組織の中で歴代優位に立ってきた方々の人間性を見れば(良く見せようと努力しているのでしょうが)わかることです。創業者や自営業者なら該当しない場合もありますが「正直者がバカを見る」との言葉の意味が誰にでもすぐ理解できてしまう、そんな世の中に上手く馴染めない人は、果たして本当にダメ人間なのでしょうか。

近況、そこに逆転現象が起きはじめています、とはいってもまだ一部。弱者を踏み台にして稼ぎたくはない、非合法ではないとしても、嘘と偽りにまみれた他人を騙すような日々を送りたくない…そのような理由から今の社会に居場所を見つけられない、まともな人々が自ら道を拓きはじめて賛同を得ているのです。今はまだ目立っていない予備軍の皆さんが、これからも日陰に隠れ続けている必要はもうないのです。

タテマエとオンネの使い分けが必須の世の中。子供の頃からそんなことを考えるまでもなく身に付け、家でも学校でもタテマエとホンネの切替を駆使して成長してきた…そんな社会の中にでも、嘘や偽りのない人々が日向で堂々と生きられる場所を皆で設ける。今ある社会の中にそれを創出することは、そんなに難しいことではないと考えます。

私たちと想いを共有してみませんか?

2017年07月13日

経験の共有

人間は、それが何であっても対比するものが無ければ認識そのものすらできません。夜があるから昼を認識し、寒さがあるから暖かさを認識できるように、改めて考えてみると実に見事なほど対極の何らかを知っているから、そうでない状態の意味を感じることができるのです。厳密には「知る」のではなくて「経験」することではじめて得られる感謝や喜びが、人生の醍醐味です。

これは誰もが否が応でも感じることですよね。サイボーグではない証として(笑)空腹感や眠気や体調不良、寒さ暑さを一度も感じたことのない人間はいないわけです。

逆の見方をしますと、世界中ほとんどの時代で日常であった「身の周りでよく知っている誰かが死を迎える」という事態が、珍しい事のように感じるほど平和で安全な世の中が続けば、人生への不平不満は増えても生きることの喜びやありがたさをを感じ難いわけです。その善し悪しは別にして「このネタで、これだけ騒がれてしまう世の中なのか…」と、表面的には平和となっている今の世の中をしみじみ実感している人も多いはず。

だからといって私は、豊かさを味わうために断食や不便な暮らしをしてみることをすすめるわけでも、健康を実感できるように身体を酷使して、一度は身を危険に晒すのが良いとか考えているわけではありません(笑)。 

そこにはこだわらない生き方について少し書いてみます。

今も肉体で生きている世代がこの世界に生まれてからの社会環境からすると、人生を左右する二大要素とは(もちろん例外はありますが)おおよそお金性(恋愛・結婚)かと思われます。 

冒頭に書いた話の流れからすれば「物質金銭的に貧しい環境に生まれ育ったからには経済的に報われることが人生最大の目標であり、そのための犠牲(不本意さ・非情さ・冷酷さ)はやむを得ない」というような考えのまま晩年を迎える。その延長線上にある性への考え方なら「表面上はアブノーマルな趣味だと思われることを慎んで、相手選びには家柄などの経済利点が何よりも優先される」といったところでしょうか。 

あくまでもざっくりですが、逆パターンですと「経済的に不自由のない家に生まれて物質的には恵まれて育つも、社会的優位に立つ人間の強欲で卑怯な生き方を間近で見て知ってウンザリし、清貧に憧れる」みたいなことでしょうか。それが性的には「家柄や生育環境が違いすぎたり価値観が世間一般と大きく異なる相手と、周りの意見を無視して一緒になる」パターンですね(笑)。

強いて言うのなら、若い世代は圧倒的に後者が多いというのが現状です。レストランでの外食や海外旅行を自慢に思えたり、大きな家や豪華な乗り物に憧れる若者は今や少数派なのです。そして、上述のパターンには当てはまらないケースも増えているのです。 

それは例えば、経済的に貧しい環境に生れたからといって「大人になったら金持ちになって見返してやろう」とは考えないケースです。これは「金持ちを目指して努力することで人生は報われる」との洗脳が解かれたということでもあります。独立して社会人となったにしても、昨今では金銭や物質に依存しないで豊かに生きる方法を模索しているのが当たり前の風潮です。

これら一見無欲な人々は、両極端を経験して初めて理解できるはずだと思われていた個人的学びの経験値を、貧乏も裕福も大して経験していなくても何らかの形で早い時期から得ているということなのです。散々苦労して両方のベクトルを経験してきた人ほど「まだ若くて何も解ってないガキが…」などと思ってしまうのでしょうが、もしかするとこれは集合無意識の作用によるものなのかもしれません。 

その理屈はどうであれ、先人の経験学習が共有されてくるのです。工業製品のスペックで言うと「今ではどの機種でも当然である機能が、かつては一部最先端の最高峰機種だけに付いていた特別機能だった」みたいな話です(笑)。人間と機械とは違うのだから、そんなバカな…と考えたくもなりますが、戦争を知らない世代でも「あらゆる犠牲を払ってまで争いに加担・協力して勝敗にこだわることのばからしさ」を知っています。それは学校の授業でいうところの「歴史から学ぶ」といった知識的な事とは別物であると私は感じています。むしろ学校は、勝敗や競争の価値観を植えつけるための場所なのですから。

人間の非物質領域に鍵があるのです。この世に物質として残っている記録だけではなく、先人の経験が自分の人生にも非物質的に蓄積されているということです。非物質的にはいつでもカンニングし放題なわけです!笑

 

2017年07月08日

欲を無くしたい欲

人間とは面白いもので、欲望に振り回されて一喜一憂している自分がイヤになると「こんな欲望自体から開放されたい」という欲望が湧いてきたりもします(笑)。

悟りという言葉があります。
普通に社会生活を送っている人からしてみると宗教的ニュアンスがあるため、私も使うことを躊躇しがちな単語です。知識の吸収や肉体試練といったものとは真逆の、全く努力を必要としない状態を指す言葉だと私は思うのですが、後の人間の手によって時と場所を経て伝えるうちに歪曲され、宗教的修行等で追い求めて手に入れるものであるかのように捉えられているからです。

若い頃は「この肉体で生き続けても、記憶喪失になれば悟りに近いものが叶うのではないか?」と考えたりもしたのですが、歳を重ねた今となっては実際に脳を損傷して不便な身体にはなったものの、そうそう都合のよい機能障害には陥りませんでしたね(笑)。

というわけで、タイトルと同じ欲求を抱いていた時期が私にもあったということですが、30歳頃に辿り着いた感じ方で、今でもそう感じている私の結論を申しますと「あらゆる欲を完全に失うならば、物質界に肉体で出現しなければよかった」という話だと思うのです。

物質界と非物質界のそんな関係性を誰も教えてくれない今の日本社会ですから、中学生の頃の私は「どうしてこんなにもデタラメな世の中なんだ!俺はこんな世界に好きでやって来たわけじゃない!」などと喚いて両親を困らせていた、とんでもなく親不孝なバカ息子でした。そこから自分なりに探究してきた今だからこそ「他のどんなことよりも大切な、これらのことを伝えられる人になろう」とのが私にはあるのです。そして、その時は答えに窮して困っていた両親も、非物質世界から今の私をサポートしてくれているのです。

生存欲求がそのまま食欲や性欲や物質所有欲ですから、歴史上この物質界で活躍した者は皆、食通で好色で支配や権力が大好きなのです。しかし上述のように、悟りは真逆なのです。カネも名誉も物質所有も支配もあまり望みません。食事にもセックスにも、ろくに興味がなかったりするのです。

アセンションという単語もこれまた怪しくて使いたくないのですが、新人類でもニュータイプでも○○チルドレン(小泉じゃありませんよ!笑)でも草食系でもバイセクシャルでも呼び名は何でもよいのですが、コテコテの物質人間からしてみたら生存欲求の薄い、物質肉体依存度の低い、無欲で何を考えているのか解らない非物質寄りの新しい世代が地球にも既に台頭してきているのです。

それをひきこもりというワードで私は括っています。そして、そんな人種の感性がわからなければ理解して、有していれば伸ばせるように体験会も開催しているのです。

2017年07月05日

緊急度における錯覚

社会人の皆さんなら、重要度と緊急度をマトリクス(表)にした時間管理術をきっと見聞きしたことがあるでしょう。意識して実践している方も多いことと思います。

何が重要なのかは人それぞれ。特に労働時間外ならば口を挟むのも大きなお世話でしょうから、重要度の話は脇に置いて、私が常々感じるのは緊急度の設定がおかしい人が多いのでは?ということ。つまり少数派の意見となりますが、これについて少し書いてみようと思います。

誰の人生にとっても、惑星の文明や生態系全般にしてみても、この物質世界では重要な案件ほど着手してから成果があがるまでに時間を要する傾向があると思うのです。この考え方で行くならば、最も重要なテーマの取り組みには最も時間を要すると判っているわけです。即ちそれを真っ先に着手して継続する姿勢がなければ、些細な物事はあれこれ達成できたとしても重要なテーマとなるほど未着手のまま、もしくは時間切れとなって当然だということです。

「結果がすぐに出ないことは緊急ではないこと」と見なして後回しにしている人が実に多いということなのですが、私はそれを逆にする必要があるのではないかと考えるのです。

卑近な例ですと、買い物をする際に懐事情から金額が高いだの安いだのと神経質になっていたとします。ところが、そもそも必要でもない買い物をする悪癖を止めた場合、どれだけ飛躍的な節約となるのかは判っているのだが、その慣習を変えることが簡単ではないから、浪費癖自体を無くす工夫は選択肢から除外している(笑)…といった具合です。

思春期に入って「環境・資源・人種・権力」などの諸問題に関心が向くようになってから、私はそのことに気が付いてしまい、これらの過ちを大人たちがをこぞって実践していることが不思議でなりませんでした。しかし、それこそ一人ですぐにどうこうすることもできない社会問題ばかりでしたから、私は常に人間社会の矛盾に対して憤りに近い感情を抱え、人間社会全般を軽蔑したまま成人しました。かといって天使や宇宙人が救いに来てくれることを願っていたわけでもありません(笑)。

自分も今はその人間をやっているのだから、人間社会を軽蔑したところで生きることが辛くなるだけです。そこで打開策を求めてあれこれ探究した結果見えてきたこと…

どうやら根本原因は先進国とされている人々の死生観にあるようだとの結論に達したのです。世の中を大きく動かす立場にある人が、肉体死を迎えれば何もかもが無に帰すというカルト信仰(笑)で人生を送っているのならば、世の中にどんな歪みが生じても自分の余命残り時間だけ誤魔化し通せればそれでよいわけです。どうせ自分はもうすぐ死ぬんだから子や孫や曾孫の世代の社会なんてどうなろうが知ったこっちゃない!それがこの世界の高ポジションを占める方々の本音だったというわけです。

前世紀末から、上記カルトを信奉しない人間が増えてきました。「自分の肉体を富ませるためなら何でもする」という人ばかりではなくなってきているのです。それが儲からないことだとしても、地球環境や人類のあり方に興味関心を示す人が増えてきたのはとても嬉しいことです。「こんな世の中でも、これまで肉体生存してきた甲斐があった!」大袈裟でなく本当にそう思える変化を私は感じています。

ですから私は、人間の本質が非物質であることをコツコツお伝えしています。それが宗教の経典のようなマニュアルや誰かの言説だけでは必ず誤解を生じますから、ご自身の体験で探究してみてくださいとの趣旨で私が開催しているのが【高次元波動体験会】です。

無音の静寂の中で瞑想をすることは現代人一般にはハードルが高いため、現在はクリスタルボウルの演奏に意識を傾けるという手法を取っています。そうすることでも自分の本質が肉体とは別の非物質存在であることを充分に体験できるからです。図らずも、私が若い頃には願ってもいなかった「天使や宇宙人に遭遇する参加者が続出している」という事実は、なんとも皮肉で面白い現象ですね(笑)。

地球人類の行く末がどうとかそんな大仰なことではなくて個人の人生の指針でも、向かう先がおぼろげでもよいから見えていることが重要かつ緊急なのです。ハッキリとした目的が何で、具体的にどんな手段でどんなルートを辿ることとなるのかは、動き出してから決めればよいことです。「詳細の何もかもを詰め切ってから動き出そう」と考えることは、ずっと何もしない、もしくはチャンスを逃すことを意味します。

予定を勝手に決めたところで何度も変更を余儀なくされるのが物質世界の人生ゲームなのです。このゲームには絶対的な時間の制約があるようでいて実は時間も空間も錯覚であるということ。そのことも、非物質として得る経験から誰にでも気付けることなのです。

 

 

 

2017年07月03日

母の偉大さ

世の中には実に様々な商売や職業、知って呆れるほど多様な考え方に基づく色んな人間の生き方が存在します。ある人にとっては「まさかそんな人生を送っている人がいるなんて…」という生き方が、他のある人には「そんな事も知らないで生きている人がいるのか!」だったりするわけです。

現在でも歴史上でも、一般的に認知されている職種や功績や人名は、人間ひとりひとりが本当に果たしている役割の中でも一部でしかありません。どういうことかと言いますと、全てが経済原理に則って動かされている社会では、金銭報酬を得るためにする仕事が職業として確立しているのみで、給料がもらえない、お金を稼げない、お金を払う人がいない物事を扱っている状態は、少なくとも一般的な地上の人間には職業として見なされないわけです。

そんなことも知らずに過ごしていた私のマヌケな過去を綴ってみます。

自然に恵まれた田舎で世間を何も知らないまま育って上京してすぐ、対人スキルが全くなかった十代の私は22:00~7:00まで一人で大型飲食店舗を掃除するバイトを始めました。入れ替わりになる夜と朝の若い男女スタッフ達はいつも賑やかで「大変な仕事だよねぇ」と同情的に接してきました。人間と係わることが最大のストレスだった当時の私には、肉体的負荷は大きくても独りきりならば気楽で全く苦痛ではありませんでした。

毎日出る100キロ単位の大量のゴミを早朝に業者が回収しに来るため、丸一日裏に溜めてあったゴミをその収集時刻までに店先に出す作業がありました。某JR駅前の店舗だったので、まだ薄暗い空の下で駅に出入りする人がポツポツいるだけです。ぼーっと待っているのも辛いので、店舗前清掃のついでによく車の送迎レーンのゴミ拾いをしていました。するとどう見えていたのか、何度か見かける歩行者や客待ちのタクシー運転手などが「早朝からご苦労様です」「ありがとうございます」「なかなかできない立派ことで…」などと声を掛けてくるようになりました。

「店内での作業に比べたら、ほんの軽作業で暇を潰しているだけなのに、どうしてそんな大袈裟な反応を示すのだろう…」

そこから数年いろんな仕事でいろんな人と接して、アホだった私にもさすがにわかったのです。今している事が金銭報酬になるのかならないのか、割に合うのか合わないのかを考えてするのが、この世の一般的な仕事というものなのだと!(笑)

つまり逆に言いますと、人間の行為でもその事がお金儲けになっていなければ表に出てこない、というわけです。枠としては会社員・公務員・自由業・学生・主婦・無職などと大まかに分けられても、見えていないところで誰がどのような役割を果たすことで世の中が成り立っているのかなんて、地上の人間にわかるはずがないのです。

経済社会に毒された人間の相手の見方とは「自分にとって利用価値があるか」「自分の荷物にならないか」ぐらいです。そして、その読みも的を外れているのが凡人というものだと思うのです。

産み育てる子供を「どれだけ稼いでくれるようになるのか」との見方をしている母親は、いても少ないはずです。

出産や育児は損得でなされることではないからこそ存在する言葉「偉大なる母」
血縁関係などなくても、その役割を果たす人は常にいる、私はそう考えています。

2017年06月30日

8/6(日曜)13:00【第3回ひきこもり講演会】開催決定のおしらせ

学校や職場に通えない状態のひきこもりの場合、今ある社会に適応させようと無理やり引っ張り出すことが問題解決とはなりません。なぜなら、現状の世の中に馴染めない原因は優劣の問題などではなく「人としての倫理観や感性を周りに合わせて要領よく歪めたり偽ったりできない」ことが理由である場合が多いからです。

今の世の中、事実そのままだけを表現していても成り立つ職業や立場が、いったいどれくらい存在するのでしょう…
現在金銭報酬を得ている人で、自分の思いや考えが100%外に漏れても何ら不都合のない方って、どれくらいいるのでしょう…

まだ立ち上げたばかりのひきこもり講演会ですが、嬉しいことにこのような趣旨に賛同してくださる方が多いようでして、地方開催の要望を含めた以後の予定を訊かれます。そこで早速、次回開催の日程を決定いたしました。ただ、今はまだ足場固めの段階ですので、申し訳ございませんが次回の開催地も東京です。出張講演も順次できるよう準備を整えてまいりますので、遠方の皆さんも楽しみにしていてください。もちろんお越しいただくのは大歓迎です。

いろんな職歴を経た後に法人コンサルティングでも感性を培ってきた私「石井数俊」と、個人や家族の深刻な相談に長年向き合ってきた占い師である妻の「西きほ子」、共にひきこもり実績ありの夫婦がお送りするコラボ講演&質疑応答です。

ありがたいことに、会場である新橋のアートギャラリー管理者様からも「これは素晴らしい試みだ!」とのご理解とご協力をいただき、次回の参加費に反映させることができました。

世の中のありようを変えようと、団結して闘ったり騒いだり、あるいは孤軍奮闘したり、特定の何かや誰かに依存するやり方はもう古い・・・かといって諦めているわけではない!そうお感じのあらゆる職業年齢性別の皆さんとお会いしてお話できることを、夫婦で心待ちにしております。

日時:8/6(日)13:00~16:00 

会場:アトムCSタワー・B1Fサロン(東京都港区日比谷通り沿い)

参加費:1名2千円(同伴者2人目以降は1名1千円)

お問い合わせ・お申込みは下部【お問い合わせ】クリックしてください。
仮名やペンネーム等でも大丈夫です。妻の西きほ子へのアクセスでも結構です。

2017年06月28日

成長の確認

過去を振り返っては「どうしてあれをやってしまったんだ!」「なぜあんな事を言ってしまったのか…」、逆に「なぜ見送ってしまったのか」「どうして黙っていたんだろう」などと思う機会があるのは、いけないことでも何でもなくて自然なことです。数十年前の事をそう思うのか、昨年の事を思うのか、先月の事なのか、先週の事なのか、昨日、いや、それともついさっきの事(笑)なのか?

「しまった!またやらかしてしまった」と思う内容が毎回似通っていたとするなら、それは学習能力なり悪癖なりを見直すべきサインの場合もあるでしょう。しかし「あの時はそれがよかれと思って選択・行動したのだが、今思えばもっと他に採るべき手段があった」と気づくのは、自分が変化しているのだから当たり前のことです。

それが成長なのか劣化なのか、強気なのか弱気なのか、楽しみなのか悲しみなのか、喜びなのか落胆なのか、好奇心なのか無関心なのか、怒りなのか寛容なのか…どう捉えるのかは人によって、同じ人でも時期や状況によって異なるのでしょうが、変化している事だけは確実なわけです。

この物質世界で絶対不変の法則は万物が変化することだけです。
言葉遊びではありません。

生まれた赤ちゃんが50年経過しても乳児のままだとか、500歳でも食欲性欲モリモリなんて人間が実際にいたら困ったものですよね。ところが多くの人間は、不変のものなど何もないとわかっていながら不変を求める愚かさを有しています…例えば「永遠の若さ」ですとか(笑)。

肉体的な美容や健康というテーマが経済を活性化していることぐらいは誰もがご存知でしょうが、それ以外でも、人間が組んだあらゆる社会システムに不変願望が盛り込まれていることが、大きな矛盾として否応なく噴出してくるのです。

ごく一部の仕組みを作る側の「手に入れやすい、そして一度手に入れたらずっとオイシイ」などという、宇宙と自然の理に反した事を実現させようとの考えに基づいた、はじめから理論破綻しているシステムに則って人間社会が運営されているわけです。

そこまでしても、せいぜい100年前後で肉体が分解されるのが物質人間です。寿命がいくら伸びたところで基本は同じです。しかし、スピリットには時間や空間の制約などないのです。

「このことを理解できれば、肉体での一生を虚しいことに費やして死期になって後悔しなくても、もっと変化を楽しむ別の生き方があるんですよ!」ということをお伝えしているのです。そしてそのことは、現代人が「昔の人・原始人・未開人」などと呼んでいる人たち皆が理解して人生を楽しんでいるのです。

 

2017年06月25日

【第二回ひきこもり講演】ご報告

予定していた通り、25日の13:00から【第二回・ひきこもり講演会】を開催いたしました。お越しくださった皆さん、ありがとうございました。

「私にはひきこもっていた時期があった」と説明くださる方から「そうは思われていませんが、私はずっと昔から今でもひきこもり中です」と告白される方、「離れて住む家族のひきこもり問題に対処継続中」と仰る方まで状況は様々です。その多様性ゆえに仕方がないこととはいえ、世間での「ひきこもり」の定義づけの曖昧さをはじめとして、活発な意見交換がなされました。

第一線で活躍することを皆がよしとしていた、一昔前でしたら戦線を離脱する人はあまり出ないし、戦線離脱しそうな人を引き止めたりするのが人情でした。ところが今は、配属された戦場の第一線には興味が湧かず、それ以前に戦場に赴くことすらしない人が続出している世の中です。

これは明らかに、人間の生き方や働き方が大きく変わっていることの証です。戦を好まない人を悪く言って戦場に引きずり出せば済む問題ではありません。

今ある社会のしくみが変わることを待ち望んでいる大勢と、今の利権を何が何でも維持したいごく少数とのせめぎ合いは、いつの時代どの場所でも存在していたテーマです。しかし、こんなに静かで摩擦の少ない形でジワジワ拡がり続ける社会現象となったのは初めてのことでしょう。

とても壮大すぎて誰も手を出したがらないのですが、誰もが大きく影響される問題。

まだ始まったばかりです。穏やかに、でも堂々と、この「ひきこもり」をテーマに向き合って行きます。賛同される仲間をお待ちしています。

次回の日程は、決まり次第お知らせいたします。

2017年06月23日

損得勘定は不可能

都市部で生活している人ほど、日々の生活の中で「無駄な…」「もっと有効な…」といった類の思いがひっきりなしに湧いてきて、自分の事でも他人の事でもあれこれ考えたり気になったり口を挟んだりしていることでしょう。

今の日本は基本的に資本主義経済です。何もかもが出資した人の利益を生むための活動であり、損失を出さない(自分のお金でなければ平気で出します!笑)ための努力と工夫、「効率」がテーマの競争社会であることが前提です。

誰もが子供の時からそのような大人や社会を見聞きして育ちますから、大人になるほど「得」になると思う行為には時間やお金やエネルギーを費やしますが、「損をすることはあっても得にはならない」と推測することには無関心。得するとは思えないそれを知ったところで「関わらないようにするのが賢い生き方だ」と考えるわけです。私も思春期には「悲しい現実だけれども、この世の中はそういうものだ」と、与え合うことで成り立つ理想社会とは切り分けて捉えていました。

ところが、人生経験の中身によって個人差はあっても、年齢を重ねる事で判明してくる「この世の法則」とでもいうべきものがあります。それは何が無駄で何が有用かは、その時点ではわからないという法則です。その時にその事があった意味は、まさに肉体死を迎えてみるまで総括できないのです。

改めて考えてみれば、万人が納得の法則ですよね。その時々で少なからず誰もがしてしまう損得勘定。これ、実は肉体をもつ人間には不可能な事なのです。「こうなるとわかっていたのならば」…肉体をもつ皆が、何かしらそういう思いで暮らしているのではないでしょうか。

人生の全てが計算通りに推移したのなら、もう神か仏です。逆に言うと、経験と学びを与えるため、人間にはそれができないようになっているのでしょう!にもかかわらず、得をすると思い込んで行動してバカをみたり、損をしたくないとの思いが足枷となって行動せずに大きな宝を逃して生きているのが、私を含む凡人の実情(笑)。

それでも、試練を多く乗り越えて生き抜いてきた老人は、若年者の合理的思考では及びもつかない「生きる知恵」を有しているものです。昔から世界のどこでも「こんなヨボヨボの年寄りが?」(失礼!)てな印象の老人が地域の長だったりしたのは、そんな事情があるからなのですね。いくら知識だけを詰め込んだところで「賢人」にはなれないのです。

何度か救急車で運ばれて頭蓋骨をくり抜いたり植物状態になって生命維持を危ぶまれたりした末、思考力は戻ったにせよフラフラ歩くのが精一杯の身体となった今、私はたったの半世紀も生きてないくせに、すっかり老人の気分(笑)。

ひきこもりとして扱われている人は「学校や会社に行ったところでする事は山ほどあれどする事など何もない」…総合的にそう判断しているのかもしれません。更に言うなら、生きていること自体に何のメリットもないのでは…そう感じている人も少なくありません。学校でも職場でも、毎日通う場所ではすぐに役立つとはかぎらない生きる知恵など誰も授けてはくれません。

それが社会風潮だからとはいえ「損得勘定以外に生きる指針はない」という価値基準を植え付けられても、そこに賛同できない人々が利害を超えた何かに興味や関心を向けるのは自然なことです。

明後日25(日)新橋13:00~。ぜひお話を聴きにいらしてください。
ひきこもりとは、善悪・正誤・優劣・加害被害などの単純構図ではないこと、即効性がないとしてもジワジワ効いてくる克服法がテーマです。そしてよろしければ、あなたのお話もお聴かせください。

 

2017年06月22日

世代による価値観

突然おかしなことを言うようですが、私は自分で自分の肉体が生きているのか死んでいるのかが、よくわからないのです。

それは決してケンシロウを相手に闘ったからではありません(笑)。夢を見ている最中や瞑想中の体験などでは肉体や物の質感が充分にあっても、こちらの世界に戻ってきたら「あれは夢で、これが現実である」との割り切りルールを自分で作って受け容れてきたまでのこと。

私の身体の強健さを自他共に認めた中学生の頃から今に至るまで、常に定期的に湧き上がってくる何とも言えない感覚があります。「ツライ・悲しい・苦しい」等の気持ちとは違って、無理に言葉にするなら「何から何までが不思議でならない感覚」でしょうか…。中年になってこの肉体が集中治療室に運ばれて、ほぼ機能停止するような経験を度々してきて、そんな時にこそ強く記憶に残る濃厚体験を別次元でするのですから、尚更です。

もう約30年も前のことですが、霊魂としての自分の存在だけは確信できていた高校生の私の感覚からすると、生物が物質として存在すること。その物質生物である人間が、肉体生存に不可欠とされる物(カネ)を追い求め続けて一生を過ごすこと。全宇宙を物質として説明している現代の宇宙観・世界観・人間観を当然の事として受け入れている人が大多数で社会が成り立っていること…等々の解せない不思議だらけで、それらを探究したい情熱以外に欲求らしきものが皆目見当たらず、そこから20年間は常に身の振り方に窮していました。

「とにかく物質だけではない生命とは何か?」との疑問探究以外には期待も希望もないのですから、私の肉体生命維持欲求が希薄なのは一貫していました。しかし、肩書きでも名誉でもカネでも色でも健康でも何でも強く求めることがない分、失うことのショックも小さいため、衝動的に何かをしでかす確率は案外と低いのです(笑)。

ところが前世紀から今世紀に入る節目に世に出た映画「マトリックス」を観た時、私は大きな喜びを感じました。絶対唯一だと思い込んでいる現実が幻想である可能性を見事に描写している内容だったからです。作った人たちはもちろん、それに気づいている人たちがこの世界にも一定数はいるであろうと憶測される作品だったからです。

あれから17年、映画に限らず今ではあらゆる作品にその概念が盛り込まれています。つまり、子供の頃からそんな感性を培った世代が大人になっています。お金に繋がる地位や名誉や評価・家や車などの物的資産所有・性的快楽・飲食や観光旅行などの享楽…等々に興味の薄い人たちが増えているのです。

それらを動機に頑張ってきた世代が作った世の中のしくみに乗っかれない人々が溢れ出てくることは当然です。高校卒業後の私は家賃を払うために朝まで掃除のバイトをしたりの生活でしたから、それほど贅沢なひきこもり生活はできませんでしたが、男性ほぼ全員が学生か公務員か会社員か自営・経営かのどれかに該当していた時代でも、既にどこにも属さない中途半端人生を選択していた「ひきこもりフロンティア」(笑)の自覚はあります。

お伝えしたいことは、物質的価値観に埋没できない人々が急激に増えているということです。幻想に全てを捧げる生き方ができないことは誰にでもわかることです。
何が現実で何が幻想なのか。
その定義が相違したままでは、話し合いの土俵にも立てないわけですね。

簡単に説明できることではありませんが、25(日)その価値観の違いをわかりやすく解説いたします。俗に「ひきこもり」と呼ばれているものは、どんな現象なのか?
社会でバリバリ活躍している人でも遠慮なくお越しください。
「ひきこもり代表」として(笑)いろんな質問にもお答えいたします!

2017年06月17日

「ひきこもり講演会」開催の御礼

今週14日(水)「ひきこもり講演会」の第一回目が無事にシリーズのスタートを切りました。お集まりいただいた参加者の皆さん、誠にありがとうございます。

初の試みで平日正午の前後を跨ぐという時間設定でしたから、予想通りの少人数。結果的に少数精鋭メンバーとなった(笑)ならではの、皆が旧知の仲であるかのような率直で活発な意見交換ができまして、4時間があっという間でした。

現在の社会システムからして「一般的な職」として認知されているあらゆる方面の主導を握っている人たちは、競争を勝ち抜くなり定めとして道が用意されていたりして優位に立てた人です。

例外はありますでしょうが、原則「劣」や「弱」(これもあくまで現代人の見方でしかないのですが…)を対象に虐げたり踏み台にしたり搾取したりと手段は様々ですが、少なくとも前世紀までにおける「優」や「強」の立場となることは、大なり小なり「他人を利用」することができる自分勝手な精神構造があってはじめて成し得ることです。

「世渡り上手」とか「要領がよい」などと言われる成功や出世に必要となる性質は、綺麗ごとではない現実社会の闇の実情を早かれ遅かれどれだけ受け容れられるのかにかかってくるわけです。社会人経験をどっぷりとは積んでいなくとも、フィクションでありながらもその多くは実話を参考にして作られている、映画やドラマや小説からでもわかること。

「いくらカネのためだとはいえ自分にはそんなことできない」みたいな気持ちが頻繁に湧く人ほど、生きにくい社会なのは確実なのです。逆に言えば「カネのためなら何だってしますよ~」って人には生きやすい社会のしくみ(笑)。

ここまで読まれて「そんなにネガティブな見方をしているから成功できないんだ…」みたいに感じられた方は、俗に言う「ポジティブシンキング」類の影響を受けたか、元々楽天的な性分なのかもしれません。しかし現実社会のあり様を「おかしい」と感じて馴染めずに生きて(肉体死を選ぶ人もいますが)いる、不器用で要領の悪いひきこもりは潜在数を含めれば膨大な数なのですから、これこそ現実です。

「ものは考えよう」なのは事実ですし、私も思考転換を積極活用してこの物質世界に暮らしています。しかし物質世界の主導者が「カネにならないから」という理由で見事に「問題を問題としては捉えない」「見て見ないふりをする」「改善解決のポーズをとるだけ」という誤魔化しで長年ここまで来た結果が、現在の全ての社会状況を招いていると思うのです。

歪んだ社会に沿った歪みを後から来る人間に植え付け続けることは、もう限界でしょう。かといって「社会を変えよう!」などと声をあげているだけでは何も変わらない虚しさ…そう感じている方、今は見えないけれど大きな何かを一緒に築いてみませんか? 

次回で第二回となる「ひきこもり講演会」&意見交流会は6/25(日)13:00から。

場所は新橋のアートサロンで、明るい未来の社会像をゆったり語り合いましょう。

2017年06月13日

紙一重

茶化すように使われることの多い「バカと天才は紙一重」。きっと皆さんこの言葉の意味を噛み締めるような経験がどこかでおありなのではないでしょうか。それが自分のことであるならば「諸刃の剣」にも似たような意味があります。

私は実弟が先天性の重度知的障がい者ということで、私自身も小学生の頃から小高い丘の上にある養護施設に出入りしていました。入居者ではない私が施設敷地内に入ると、何者かがいきなり顔面に石を投げつけてきて額から流血するという手荒な歓迎を受けた事もありましたが、大人になって思えばそれは第三の眼を開く強制儀式だったのかもしれません(笑)。辛い思い出はそれぐらいです。

そこにいた人々は子供から中年まで幅広かったのですが、初めて接した時の慣れない発声や身のこなしに異様さを感じる他にはこれといって危害を加えられることもなく、私にはただ「一般の学校や職場に通って同じような事を日々繰り返すことができない、何らかの要因を抱えている人たち」という捉え方をしていました。

実は、障がい者とは逆のパターンもあるようでした。例えば、初めて会ったのにもかかわらず、長年私たち家族のスパイをしていたのではないか?と思うほどの詳細情報を10歳前後の子供がマシンガントークしながら歩み寄ってくるのです。抑揚の無い無感情な超高速の喋りはまさにマシンです。話せないし字も書けない弟から情報を引き出すことは常識的に無理です。こんな凄い人が学校や会社にいたら、もうオカルトの世界ですよね(笑)。

他にも、10歳過ぎても三輪車しか乗れなくていつも独り言をつぶやいていた子供が、彼の自宅からも施設からも数十キロは離れた場所にある私の自宅に、私一人だけが在宅していた僅かな時間を狙っていたかようにいきなりやって来て「○○君(弟)いる?」と話しかけてきたのです。しかも私が気付いた時、彼は既に私の部屋の扉を開けて顔を覗かせていたのです。呆気にとられていた私は我に帰って、出て行った彼を探したのですが、もう姿はありません。彼はテレポーテーションを常用していたのでしょうか…

ですから私は、今の社会では「一般的にはないはずの何かを有している」場合でも、「持っていて当然とされるものを持っていない」場合と同等の扱いを受けてしまうという前提に立って人間社会を観察しています。

そのような話に興味がおありなら、明日14(水)25(日)「ひきこもり講演」に是非お越しください。生まれつきの霊能力で苦しんできた妻とのコラボです。

実際に引きこもっているのは、どの立場の人なのでしょう!?

2017年06月11日

自己表現

「自己表現」とは、文字通り自己を表現する行為を指す四字熟語です。

一般的な学校や会社に通った経験がある人がイメージする自己表現とは、文章を書いたり話をしたり絵画や音楽や造形美術などの作品を通して訴えたりするような、何らかのメッセージ性があってこその「自己表現」だと思うことでしょう。

ですから、数歳の子供が日記に「今日の○○先生は機嫌が悪かった」や「お昼ご飯はまずかった」とか「○○ちゃんはすぐにばれるウソをつく」などと書いても(笑)立派な自己表現だとは思われないし、自己表現ができる大人になるまでの訓練時期だと捉えているわけです。

ここに大きなテーマがあります。

会社や国や自治体(時代によっては軍隊…等々)に属して働くようになる人間を養成するのが学校の目的だとすると、ある程度の表現能力は欲しくても自己表現は原則タブーなわけです。

自分のことを「ウチ・わたくしども・我々・弊社・我ら・我が○○」などと呼んで、自らが所属組織の一員でしかないことを強調する文化の中に浸って暮らしを成り立たせている人が大多数なのです。外部に対して「実を言いますと…」とか、内部に対して「私の本当の気持ちは…」なんて言い出す人がポロポロ出現したら、維持できない組織がほとんどでしょう(笑)。

つまり「いかに自分を表現しないでやりすごせるのか!」が重要な、ガマンの人生を多くの人が歩んでいるわけです。そんな実情にある立場の人から「自己表現をちゃんとしましょう」などと言われても、「支離滅裂」という四字熟語の意味に精通するぐらいの話です(笑)。

誰もがタテマエとホンネの使い分けができて当然の時代から、「ウソをつけない、ウソで固められた社会に参画できない人々」の比率が格段にアップした時代に突入しているのかもしれません。そのような人達のことを「要領の悪いバカだ」などと一部の例外者扱いで一笑に付してもいられない社会変革の時に入っているのです。

今あなたの周りに存在する通勤も通学もしない人は、表向きの現象がヒキコモリだとしても本質は当事者各自だけの問題ではない!だからといって見て見ないふりをしているのは決して得策ではありません。それは例外案件ではなくて既に一定の比率を占めているのですから、かかわる皆さんが前向きになれるようなお話会を開催します。
第一回は6/14(水)、参加費500円です。気軽にお問い合わせください。

2017年06月08日

愛がすべて

今の世の中、何らかの数値達成や特定の状況変化を目標に頑張っている人も、逆にそのように目指すべき目標が無いことを気にしている人も、「目標」という単語に無反応な人は少ないでしょう。ところが根本に立ち返って考えてみると、具体的な目標とまでは言わなくても、名前があって暮らしている万人に確実に該当する人生の目的とは、物質地上世界で肉体を有して生きることです。

皆さんは当然であると感じているのかもしれませんが、実はものすごく特殊である「物質世界での生活」というものは、肉体のない一般的な知的生命体では経験できない条件に溢れています。

その最たるは「時間・空間」という縛りの体験です。

それがどういうことなのかを卑近な例で挙げるなら、目の前にDVDソフトが何百枚もあったとして、それぞれの作品の凄さ・楽しさ・爽快さ・悲しさ・虚しさ・怖さ・感慨深さ…等々の説明書きをどんなにじっくり読んだところで「実際に作品を視聴してみなければ価値は生じない」という意味です。それがどんな内容であっても、各作品の視聴体験そのものに意味があるのであって、誰がどんな作品を製作しようと、どの作品を視聴してどんな感想を持とうとも、全くもって各人の自由です。他人の作品をどうこう言う必要もありません。

人間にエゴがあるということは、それぞれ個別に独立した作品があるということ。 

皆さんが子供の頃から「命の大切さ」のような言葉を見たり聞いたりして育ってきたと思うのですが、私が思春期の頃には「そう言いながらも、地球人類とは常に殺戮や環境破壊に励んでいる変わった生物である(笑)」という事実の不思議さに圧倒されました。でもそれは「命」の定義から由来しているのです。

 「物質肉体でなければ生命ではない」という思想を信奉している人々によって発展してきたのが今の文明なのです。

人間の氏名をはじめとする固有名詞がこれだけの意味を持つのは、時空に縛りつけられた物質世界だけです。ですから「その氏名で呼ばれる肉体が機能しなくなれば生命ではない」という奇怪な考えが普遍的となるのが今のグローバル社会なのです。自然下に生きる動植物にとっては、その物質死も含めての生命の営みですが、人間のペットとなって名前がついた時点で「肉体死は悲惨だからと無闇にそれを避けようとする」人間のエゴシステムに組み込まれますから、外見は自然動物であっても非物質的には種類が異なる生物と考えるのがよいでしょう。

物質世界で使われている言葉「愛・慈悲・ワンネス」のような表現は、物質偏重の思考から抜け出せて初めて理解できることです。人間の五感では動いていることが認識できないような土も空も石も水も、物質はもちろん非物質もすべて「命」であり、生きています。個別の認識ができない世界では当然、すべてがつながっていて切り離すことは不可能です。そのことを「宇宙はすべてが愛でできている」というように表現されるのです。

だから「愛がすべて」なのですね。
宇宙を構成する材料「愛」の基本は非物質ですが、そこには一部物質も含まれるということです。

2017年06月04日

ひきこもり

一言で「ひきこもり」といっても、私はそのひきこもり度合いにかなりの幅があるものだと感じています。皆さんはどうお考えでしょう。

政府や社会が「ひきこもり」だと認定?するレベルは「少なくとも半年や一年など年単位の期間、学校へも職場へも通わず、社会的な接点を持つことなく家ですごしている状態」を指すようです。

相手が家族でも誰でも一切接したり話したくないケースから、ちょっと買い物に出るくらいは平気だという人もいるでしょう。たとえ重度ひきこもり中でもトイレには仕方なく行くのと同じように、電車や車で通学通勤していながら「実質ひきこもり」という方々が大勢いらっしゃるような気もします。

昔から世界中で言われている通り、他人は自分の鏡でもあります。つまり程度の差こそあれ、周りに映し出される自分の姿に耐えられない心境だということですが、どういう理由で鏡に写りたくないのか…それには人それぞれの背景があるため、なかなか画一的に扱えるテーマではないのです。

自己像を初めて知らされたショックで収縮したのか、元々持っていた自己像と周りの評価との相違があまりにも大きかったために愕然としたのか、自覚があって防御していた部分が露呈されてしまい情けなくていられないのか… 
実に様々なパターンがあるでしょう。

 対人間や対社会で生じる「ひきこもり」ですが、本人の能力なり哲学なり技術なり、これまで蓄積してきたもの、してこなかったものに端を発しているのは確実な現象なわけです。綺麗な言い方をすれば「醜悪な人々に囲まれたこんな穢れた世の中で自分はとてもやって行けない」という口実にもなりますが、それも「対人免疫力を養いそびれた」と言ってしまえばそれまで(笑)。

 30年前なら肩書きや資格等で組織的に守られて生きて来られた人々が大勢いたでしょうが、今やそれだけで守られる人は著しく減ってきている世の中です。かといって雑誌やネットでもてはやされるような人生に該当する人はごく一部です。

 「普通に生きるのが難しい時代」なのではなく「何が普通の生き方なのかを見極めるのが難しい」時代になったのですね。

6/14(水)6/25(日)は、そんなマクロ観点からのお話がメインとなるでしょう。

 

2017年06月01日

「分離から統合へ」とは

ここ数十年「分離から統合の時代へ入る」などとあちこちで頻繁に謳われています。

二極化・陰陽・白黒・明暗・昼夜・光と影… 生まれてからこのかた、そうであることが当然で暮らしてきて慣れきった概念が「そうではなくなる」という説明は、それが何であろうとも難しいものです。新しい概念というものは、体験してみてはじめて「こういうことなのか!」と理解できるのであって、事前に言葉を並べて説明してみた場合は「ふぅ~ん」ぐらいの反応でも「これでも伝わったほうだ」と楽観視できければ説明を試みる気にもなりません(笑)。

 ではここで極端な例を挙げましょう。「幸せになろう」とか「必ず幸せになる」でも「幸せでいるのが当然」でもこの際、言い方は脇に置いといて「幸せ」と定義している時点で「幸せでない=不幸」という状態との対比となっていて、これは二極化の考えに基づく発想なわけです。つまり「統合」も「分離」に対する分離用語!(笑)

「幸せなのか不幸なのか」が全く気にならない、問題にならない、比べることがない、その概念すら湧き起こらないのならば、それは分離の思考を脱した証拠です。これは「健康⇔病気」「成功⇔失敗」「金持ち⇔貧乏」「男⇔女」「美人⇔ブス」「オシャレ⇔ダサイ」「利口⇔バカ」「デブ⇔ヤセ」「ノッポ⇔チビ」「ジジババ⇔ガキ」…等々の俗語を含め、何にでも当てはまることです。

そうはいっても文章を書くからには、私もそのような対義語が存在する単語を頻繁に使わざるを得ません。ですから「言葉」そのものが「分離思想の産物」のようなものであると私は認識しているのです。

では、分離を象徴する「言語」に対する非分離の概念は何かといいますと、強いてあげるならそれは「テレパシー・想い」のようなものですね。それこそ言葉にした時点で安っぽい分離ツールになってしまうような気もしますが、意味が近い単語ですと「愛」だと思うのです。「愛」を真剣に「性欲・所有・制御・執着」などの同義語だと捉えている人も結構たくさんいる疑惑の単語(笑)ですし、対義語で「憎しみ」なんて言葉が出てくるのは更なる勘違いだと思えて少し悲しくもなります。

欧米的分離の思想が浸透した今の日本では「愛していると言葉で表現してほしい」的な場面がドラマでも現実でもあるように思います。「愛」以外の利害関係事は言葉にすることが重要である場合も多いと考えますが、TVなどで洗脳された人が「愛を言葉にする」というその行為をバロメータにしているケースもあるようですね。でもかつての日本には「想いを言葉にすると軽薄な記号になってしまう」という感覚を持った人がきっと多かったのでしょう。

そもそも、愛を「測る」という概念を持っていること自体が究極の分離思想ですから、両者共にそうでなければマッチしないことは確定しているわけで、どうでもよい事なのかもしれません(笑)。

さて本題です。これら二分や対立を象徴する言葉の中で私が最も重要視している言葉が「生死」です。

現代人なら「生」と「死」が全くもって真逆の現象だと捉えていることでしょう。自分自身や家族に向けられることの多い考えでしょうが、肉体での生が絶対的に重要であり、そのためなら本当に何だってする。肉体死こそが最も避けるべきことであり、確実に訪れるその時を怖れて忌み嫌い、想定すらしたくない…

この考え方が変わるとき、他のあらゆる事柄も変わります。少し考えれば誰にでもわかることですが、この上ない分離の思想に乗っかった人生では万事が分離の思考でしか捉えられない!これは当たり前すぎることです。

何十年も前に丹波哲郎氏がいつも言っていた「死ぬのは怖くな~い」が腑に落ちた場合ほどの最強人生はないでしょう。しかも、生きている万人が手に入れることのできる素晴らしい心境なのです。私は何も肉体死を勧めているわけではありませんので誤解なきよう。むしろ逆の効果が出るでしょう。長寿で活躍する人は皆、生と死を分離して捉えてはいないのです。どんな窮地に陥ったとしても、死んだところで全てが解決するわけではない!という意味でもあるのです。

使いたくはない言葉ですが(笑)「生きている皆が心豊かで健康長寿となり、争いという概念が消える」方法でもあるのです。「争いの概念をなくす」ことに難しさがあるのではなくて、その前に万人が「肉体死は怖くない」と思える人間本来の死生観を、宗教ではない形で普及させることがポイントなのです。そうすれば現在ある文明社会や環境の問題を問題として維持してきた努力が自然とアホらしくなるのです。

「どうせ死ぬのだから…」は肉体だけの話です。肉体は自分のほんの一側面でしかないことをよく理解できたとき、はじめて無制限に穏やかで寛容な気持ちとなれるのです。誰かやどこかや何かに依存することも無くなるのです。現在の人類の愚かな行為はすべて、自分の肉体死を必要以上に怖れることで成り立っているのです。

 

2017年05月10日

【高次元波動体験会】次回は7/16

次回で第8回となる【高次元波動体験会】は7/16(日曜)13:30~17:00に決定しました。第6回・第7回に続き、次回も野村節子さんがクリスタルボウルを使って高次元波動への誘導をサポートしてくれます。

これを読むだけでまだ体験されていない方には何の事かわからないでしょうが、参加者各人が肉体ではない自分自身でどこかの土地・家、どこかの星・宇宙空間などに行って見てきた場所や生命体の様子、聞こえた音声などを後ほど皆さんに話していただくのです。それらの体験の意味や解釈方法を私がその時点で出来得るかぎり解説して差し上げ、それがそのまま周りにいる体験者の参考にもなる…というイベントです。

長年の心のわだかまりがとれたり、苦戦している近況を脱却するヒントが降りたり、幼少期やそれ以前の記憶が蘇って純真さを取り戻したり… 内容は人によってそれぞれですが、とにかく多忙な日常ではあり得ない体験や気づきを参加者の皆さんに得ていただくことが目的。究極のリラックスタイムです。

今回は開催日までに余裕がございますが、会場にも皆さんがリラックスできるだけのスペース的な余裕が必要なのと、参加者全員に発言の機会を提供するというイベントの趣旨からして、お申込み状況によっては早めに締め切らせていただくこともございます。ご了承ください。

料金は当日の受付時で5千円。会場はいつもと同じ新橋のサロンです。
詳細ご案内文返信のため、お申込みは下部『お問い合わせ』をクリックしてお名前をお知らせください。
もちろん本来の意味でのお問い合わせもお気軽にどうぞ。

2017年01月27日

【高次元波動体験会】withクリスタルボウル演奏 3/4開催決定!

昨年9月に予定していた【高次元波動体験会】は、主催者である私石井の身体故障により中止になってしまい、誠に申し訳ございませんでした。一度は起き上がることもできないほどの肉体損傷を負った石井も、リハビリを重ねた結果、おかげさまで場所移動をして皆さんの前でおもしろおかしく話ができるまでに身体機能を取り戻せました。私自身が待ちに待ったシリーズ開催復活です!

前回までは、著書「誰でもヘミシンク・まるの日圭」でおなじみ「真名圭史」さんを【異次元ナビゲーター】として熊本からお招きし、皆さんの高次元誘導をサポートしてもらいました。

今回は、同じくヘミシンクにも造詣が深く「みんなの広場」主催として近頃は主にクリスタルボウル奏者として活動中、「スピリチュアルTV」のMC「せつこ」さんとしてもおなじみ、先日国立市にて初コラボが実現した、東京出身の「野村節子」さんをゲストにお迎えしてのコラボです。

精妙なクリスタルボウル演奏で皆さんを高次元波動へと誘い、その場で見えた聞こえた感じた不思議体験の意味や感動を皆でわかち合う…そんな参加者全員が主役の異次元体験会です。石井が昏睡中に異次元で体験した話も交えてのユーモアと気づきに溢れる会。ご一緒しませんか?

日時:3/4(土)

場所:新橋・日比谷通り沿いのギャラリー https://www.atomlt.com/cstower/access/

時間:開催14:00(受付13:30~)18:00終了予定

 

2016年12月14日

1/22(日)コラボイベント決定のおしらせ

スピリチュアルTVで皆さんお馴染み、クリスタルボウル奏者でもある「せつこ」さんとのコラボが決定しました。

元々夏の時点で、彼女とは秋のコラボ計画があったのですが、そんな最中に私が倒れてしまい復帰が間に合わず、まだ人前でのお話や移動に耐えられる身体には戻っていないとの判断から先送りされていたものでした。
その体験は既にこの場も活用してお伝えしているのですが、まだ眼球や指先の自由が利かない状態でのPC作業は時間もかかって非効率、故にもどかしさもあります。
せつこさんはそんな私の気持ちを汲んでくれたのか、おかげさまで冥界の土産話を軸にけっこう深い内容をお伝えできそうです。興味がおありでご都合のつくかた、異次元の情報を共有いたしましょう!
お申込みや詳細情報はこちらです。

2016年11月05日

名古屋講演のお知らせ

退院はしたものの、まだまだリハビリに励む日々です。その甲斐あって自立歩行に安定性が出てきました。従って、おかげさまでの復帰第一弾は、11/19(土)名古屋で行われる「非物質ガイドとの探索・三部作」の出版記念講演となりました。東京では5月に行ったのですが、その時の会場はイベント主催だった出版社のビルで、ニコニコ動画生放送もあったりのオープンな環境でした。「次回は多少クローズドでマニアックに行くのもいいだろう!」なんて、夏に決めていた企画です。私は監修者という立場で携わっていますが、次回は著者である【真名圭史】氏が主催です。彼は、私に言わせれば「金額設定の桁を間違えてるんじゃ?」と思うくらい質の高いワークショップを常に開催している実力者です。

お越しくださる方に多くの学びや気づきのある、大満足の会となるような話を二人で展開する予定です。いつもの事ながら突っ込んだ質問等も大歓迎の来場者参画型となるでしょう。物質世界での生活に非物質世界の智慧を有効活用したい方、詳細は真名圭史(まるの日 圭)のブログをご参考ください。

2016年08月10日

第6回 高次元波動体験会 9/26(月)開催します!

【日時】 9月26日(月)12:00 ~ 15:00(受付11:30より)

【場所】 新橋4丁目(日比谷通り沿い) 
    会場サロンは異次元体験に相応しいアート空間です。

【申込み】 knowinginnovationアットgmail.com 
     (「アット」を「@」に入力し直してください)
     追って会場等の詳細ご案内メールを返信したします。  

【内容】 
誘導瞑想のエキスパート「真名圭史」氏を迎えての、カジュアルな瞑想会シリーズ第6弾です。低次元の波動は誰もが日常のあらゆる所で体験可能なため、今回からは「高次元」を付けてみました(笑)。平日の昼間開催だった前回が大好評でしたので、次回も同様の設定とさせていただきます。

各自お好みの姿勢にてリラックスした状態でアナウンスに身を委ねるだけで、本で読んだりして憧れていた高次元での体験をご自身で体験できる絶好のチャンスです。これは、毎回が初体験者の続出で実証されています。
皆で一緒に非物質領域へと散歩に出かけ、皆で同時に肉体次元に戻ってきてもらうのですが、肉体に戻れなくなる事は100%ありませんのでご安心ください。そして、その体験を整理して順次言葉にしていただきます。話すことで体験の意味やメッセージを明確にし、更にそこへ多角的な解説を添えることで暮らしに活かせるようサポートいたします。「百聞は一見にしかず」・・・体験すればわかる世界です。そこでの体験を、次元を超えた自己探求のきっかけにしてください。

ご質問はお気軽に下部の【お問い合わせ】クリック! お申込みもこちらからでOKです。
前回のレポートも是非ご参照ください。

2016年03月19日

5/30(月)波動体験会のお知らせ

3/11の晩に開催しました異次元体験イベント「波動体験会」も、おかげさまで前回同様に参加者の全員が貴重な経験を得ることができたようでした。ありがとうございます。第四回を終えたこのシリーズ瞑想イベントを、我々が「波動体験会」と謳っているのには理由があります。天使や神様などと呼ばれる非物質ガイドが存在している次元は、金銭や物を基軸として生活する多くの現代人生活領域の粗い波動の中では認識が難しく、精妙な波動の高次元領域に自らがアクセスする必要があるからです。その波動上昇をサポートするため、参加者の皆様には粗雑な波動が排除された上質な空間をご用意し、人と宇宙の多次元構造についての易しくくだけた前説でリラックスいただいた後、誘導瞑想の達人「真名圭史」氏のナビゲーションに素直に従ってハートを開くことで、居合わせた参加者の皆が異次元の体験を得ることができるというわけです。肉体の目や耳ではなく、いわば「霊体」で得た情報はその解釈が難しく、各人に降ろされたメッセージが何だったのかの理解を助けるための意見交換こそが重要となります。そのような世界を信じていなかった方でも、嬉しいことにこれまで例外なく何かを得ていらっしゃるようですから、自信を持ってオススメできるイベントです。

次回開催日は【5/30(月)12:00~15:00】 場所は新橋、異次元ツアー参加費は当日払いの5,000円です。
「夜や週末では参加できない」とのご要望から、初めて平日昼間の開催となります。お申込みや問い合わせは遠慮なく下記をクリックしてください。詳細案内を返信いたします。貴方からのアクセスをお待ちしております。

2016年02月26日

3/12(土)多次元的自己(過去生・未来生・非物質) 活用ワークショップ開催!

【日時】3月12日(土曜日) 昼の部 10:00~16:30
【場所】新橋日比谷通り沿いの、まるで異次元のようなギャラリーが会場です。
【多次元ナビゲーター】『非物質ガイドとの探索・三部作』
           著者:真名圭史&監修:石井数俊
【内容】昨年、銀座にて開催しました『過去生を変更して今の人生も変更しよう!』の発展バージョン。 2月中には順次発売されるトータルセルフ七福シリーズ『非物質ガイドとの探索』3部作に書かれている内容を、ワークショップ用に落とし込んだものです。日常的に誰もが認識している「今の自分の肉体」のみでなく、本当は同時存在している多次元の自己を認識して積極活用することで、ここでの肉体生活をより豊かに展開させる手法を共に実践します。プログラムは 1.概念説明 2.軽い瞑想ワーク 3.具体的ワークをテーマ別×数本 4.質疑応答・まとめ… というような流れを予定しています。
 複数の、過去生・未来生・別次元・別のタイムラインとリンクして存在している自分。一般的に無自覚であるそれらとの関わりが、人生に強く影響を与え合っているというのが隠された真実です。これまで「過去生」「未来生」と対象を限定して行っていたものを、今回はまさに「トータルセルフ」としてマクロ視野で変更することで、ミクロの今生を豊かにして行くための実践プログラム。半瞑想状態にてグラフや文字を用いて図表化するような作業が中心となります。そのテクニックを持ち帰り、参加者各々が既に実践している何かにも適用させて、より充実した人生へのきっかけとしてください。

夜の部  18:30 ~ 21:30
【内容】来場者参画型トークライブ
新刊3部作の内容に関する質疑応答からアトランティス等の古代文明や宇宙人ネタまで、ディープな話題をサラリと語り、それらが現実社会生活での実用ガイダンスともなる自由で楽しいリラックスタイムを、ご一緒にいかがですか? いつもは周りを気にして遠慮しているアナタ・・・ここでは何を話しても大丈夫ですよ!

2016年02月15日

3/11(金)18:30【 誰にでも存在する『非物質ガイド』を感じる波動体験会】

非物質ガイドとの探索」三部作の著者「真名圭史」と監修「石井数俊」とのコラボでお送りするイベントです。参加者の異次元体験を促進する条件が整った素晴らしい会場で気軽で楽しく、かつディープな瞑想会とその体験をシェアするトークライブ。異業種交流会というものは巷にもよくありますが、それとは比較にならない感動の「異次元交流会」に、あなたも参加してみませんか? 

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件名に「3/11参加申し込み」、本文に「氏名と緊急連絡用電話番号」を記入してご送信ください。追って会場案内等の詳細メールを返信いたします。もちろん、お問い合わせも受け付けております、遠慮なくどうぞ。