お知らせ

2018年 9月
2018年09月30日

ゴミ問題の解消

現代の生活スタイルですとゴミは必ず出ます。

 

物質的に過剰ではない質素な暮らしをしていれば、ゴミは基本出ません。食物となる植物や動物も魚も基本「捨てる部分がない」暮らしは当たり前だったのです。

 

近年では例えば毛皮が欲しくて獣を撃ち殺したとして、皮を剥いだら残りは単なるゴミです。人間の糞尿はかつて肥料として、ハッキリ言って宝でした。それを排泄する人間は虫けら以下の扱いを受けていても!です。

 

それがいつからか「汚物」として面倒なゴミの扱いを受けています。「あんなのクソだ!」と言い放てば、早く片付けたい全く無用な最低の存在を意味しますよね。

 

私が生まれた頃は近所の畑の隅によく肥溜がありました。遊んでいた子供が落ちると大笑いのネタになっていたその場所や周辺にはカエルやミミズなどの生物が沢山いて、小学生になると私はそれをライギョやフナの釣り餌にしていていました。

 

自然の食物連鎖や循環というものについて常に意識が向いていました。「自然とはものすごく合理的で良くできている循環の仕組みだ」と、子供ながらに関心していたものです。

 

排泄する糞尿もゴミとなったならば、それこそ人間だけは生きていても無用な生物!?笑

 

近所の農家では豚も飼育していて、売り物にならない野菜を餌にしていたようです。その奥にはなぜか長年更地のままの場所があって、父の話では「昔は地域で出た人間の遺体を皆あそこで焼いていた」と聞いてからは、「生きて糞してるうちは価値があるけど、人間だけは死ぬことで何の役にも立たない生物なのだなぁ」と感慨深くなっていました。

 

私が成長してからは逆に「人間だけは、物質で存在している事にじゃなくて非物質のエネルギー存在として価値がある」という結論に達したのですが、今の文明にはそこが決定的に欠落しています。

 

肉や骨や内臓や脂肪の塊としての存在を継続させたい意思が必要以上に強い割には、エネルギー体としての在り方には極端に無頓着なのです。あらゆる歪はそこから生じています。そしてゴミ問題が正にそこなのです。

 

ゴミを減らす意思が金銭損得絡みでしかないのです。人間だけは自然のあらゆる循環から外れてしまっているのです。

 

今回この事に思いを馳せたのは、生後数ヶ月で立てなくても転がり始めてからずっと、息子がゴミに凄い意識の向けようだからです。小さなゴミを見つけては直ぐに口に含んでしまう(飲み込みません)のを筆頭に、今でも紙パックジュースを飲み終わるとまずは「ゴミ」と言ってゴミ箱に走るのです。

 

数ある好きな乗り物の名称の中でも「ゴミ収集車」を覚えて連呼する子供なんて面白いですよね!笑

 

こんな世代が普通に生まれてきているのなら、近年深刻化しているゴミ問題が解消される日も遠くはないと思われます。すぐにできる事は実践しながらも「我々にどんなサポートができるのか」です。

 

星の自然環境と上手く適合して生きる事から、人間だけを以後も除外しておく必要はないと思うのです。

2018年09月29日

時間と空間のない世界

お客様からのお申し込みがあって都合がついた場合、曜日不定ですが毎週必ず瞑想会を行っています。霊能者で占い師でもある妻も一緒になって、お客様2名の計4名グループで開催しているのですが、毎回皆様に「人間は次元を股にかけた非物質生命体である」ことを実感していただいてます。

 

肉体のある物質世界と異なる次元世界を体験するということは、大きな特徴としてまず時間の概念がなくなるということ。大凡10分の瞑想を行うのですが、ほとんどの方は「たった10分で体験できるはずがない」という体験をします。この世界で言ったら「過去や未来を沢山体験する」ということですね。

 

そしてもう一つの特徴は「大きさや距離の概念がなくなる」ということです。よくあるわかりやすい例は「宇宙空間を移動する」とか「肉体器官の中を漂う細菌の視点になる」とかです。

 

「時間や空間の無い世界」と、いくら説明したところで経験したことがなければわからないのです。食べた事のない物の味覚や食感や好みを語りようがないのと同じです。

でも食べた事もないのに勝手に決めつけたりは結構しますよね?笑

俗に言う「死後の世界」とか「深い瞑想体験」については、その決めつけをしている人が多いのです。死ななくても体験して理解できるのに…です。

 

興味がおありでしたら、気軽にお問い合わせください

2018年09月27日

子供はどこまでわかっているのか

大人は「まだ2歳の子供だからわからないだろう」とか「一週間もすれば忘れるだろう」などと考えがちです。そう考える理由は自分が2歳の頃の記憶がないからです。

 

私は「記憶できるということと感じたり思ったりすることとは別物である」と小学生の時から考えていました。なぜなら同じ授業を受けていたのにそれを記憶していない人もいるし、特に音楽や図工で「これで何も感じないし、思うところも何もないのか?」という不思議な人をたくさん見たからです。

 

「人間とは、外見は似たような生物だけど、中身には随分と個人差があるのだなぁ」と小学生なりに度々思っていたわけです。

 

防犯カメラに犯罪行為が録画されていても、撮影機器は何も思ったり感じたりしないでしょう。ところがたまたま見て見ぬフリをしていた人は、何も語らなくても一生で最も強烈な感情や考えが湧き上がっていたのかもしれません。

 

憶えていない語れないことが認識できていない証拠とはならないのです。証明できないのをいいことに「記憶にございません」と堂々と解答する大人もいるわけですが(笑)記憶は改ざんされますし、いずれにしても事実認識と記憶とは全く無関係なわけです。もっと言えば事実も1つではないのです。

 

だからリハビリを続けながら2歳になるまでの息子を観察していた私は「コイツはいったい今どこまでわかっているのだろう?」という事が最大の関心事でした。それが近日になってにわかに態度に出すようになって「どうやら、かなりわかっているらしい」と私が掌握し始めたのです。

 

何も慌てるような事はありませんが、子供が自分の所有物であるという感覚が私には全くありませんから、これまで以上に一人前の人間として対処することとなりそうです。

 

人間の子供の可能性を潰すことなく拓いて行きたいですね、もちろん自分自身の可能性もです!

2018年09月26日

物質にも心

息子は歩けるようになってからというもの、近くの公園に行くと真っ先に写真にある機関車の展示コーナーに直行します。私はSLオタクでもないし、動く本物はおろかまともな模型すら見せたことはありません。なのにいたく気に入ったらしく、乗り物はいっしょくたに「ブーブー」だった時期に列車だけは「電車・新幹線・機関車」と勝手に使い分けるようになりました。

 

動いている車や電車に興味を示すのはわかりますが、こんな古ぼけた金属の展示品に興味を示す理由を考察してみました。

 

やはり「波動」以外には思いつかないのです。これの現役時代の頃に乗り物を扱う人間の感覚は、牛や馬や犬に対するそれと同じで愛情や感謝や愛着を皆がもっていたことでしょう。起動原理が爆発ではなくて水蒸気であることも大きいと私は思います。

 

機械とはいえ人間に愛され続けて喜んで動いてきたのと、コストや性能ばかりを気にして消耗品として扱われるのとでは大違い。この展示車両からは「走れなくてもまだ人間を喜ばせたり感動を与えたりは出来るんだ!」という機関車の気概とでも言うべき前向きなエネルギーが発せられていて、子供はそれを感じているのでしょう。

 

物質にも心があるということ、それを小さな子供はちゃんと感じているということを思い知らされます。人間の感謝というエネルギーを長年チャージしてきたので、今でもそれを放出できているのでしょう。大人(バカ)になってしまうと「そんなの関係ない」話でしょうが(笑)とても大切な事ではないでしょうか。

2018年09月22日

善か悪か

先日の講演会で私は「善と悪、陰と陽みたいな二元世界のこの世の中では、どちらかに意識を向ければそちらに力を与えることとなって…というのが常かと思いますが、石井さんはその辺をどうお考えですか?」というような質問を受けました。

 

現文明を象徴するとてもよい問いかけだと感じたのですが、この応答だけで1時間とかを使い兼ねないため(笑)やんわり流してしまいました。よって興味がある人のためにも概略を記します。私も若い頃はそこをよく考えたりしていたからです。

 

同じ事柄でも喜ぶ人も悲しむ人もいる、ということは成長に連れて誰もが気付く部分だと思います。私も幼稚園児の時にテレビを見ていて「平和を乱す敵の悪者を正義の味方がやっつける」みたいな価値観を刷り込まれてしまったわけですが、「やっつけるつもりで敵の存在を暴いて戦っている正義の味方こそが迷惑者で、悪者と思っていた敵は自分たちとは異なるアプローチで平和を守っていただけだった」というオチの可能性に気付くのは、高校生くらいになってからだと思います。

 

それでも「この世界は二元」という考え方自体に疑問を挟む余地があまりありませんでした。

 

でも実際は「(今の日本国もそうしているように)地球から搾取を続けて破壊する」「地球を守る」「どちらにしても争いの口実でしかないので気にしないようにする」「神の再臨で奇跡が起こる」「そんな事に興味がないしどうでもいい」「人類が滅ぶ事こそが最善」「地球ごと無くなるのが理想だ」「巨大な宇宙船が飛来して宇宙人が助けてくれる」等々、実に呆れるほどの価値観や考え方があるわけです。

 

私が言いたい事は「ネガティブ・ポジティブ」をはじめ二元論で考えていること自体が既に自分が洗脳されている証拠であるということです。

 

意味づけを勝手にしているのはそれぞれの立場の人間なのであって、人間が勝手に意味づけしたことで事態が善悪や陰陽にコロコロ変わっているわけではありません。

 

「物質肉体」と「霊魂などとも呼ばれる非物質エネルギー」とは、どちらが本当でどちらかが人間だという話ではないのです。誰でも肉体がなくても非物質意識活動をするし、物質としても存在している間は食事や排泄を繰り返して肉体を維持するよう努めています。

 

どちらも真実の人間です。ただ、個の肉体に普段から宿っているエネルギーは圧倒的に制限されているという特徴があるのみです。

2018年09月22日

生きようと決める

成人した頃から、私は周りの人の肉体生死にあまり関心がありませんでした。ただどんな死因にせよ肉体死を常に待ち焦がれていたため、口には原則出しませんでしたが他人が早死すると「いいなぁ」と感じたり、長生きしている人を見ると「気の毒だなぁ」と思ったりはしていました。

 

自殺は次元を超えたルール違反だから厳禁である、と自分に言い聞かせて葛藤したことは十回単位でありました。ですから両親が他界した後でもあった2年前に自分が救急車で運ばれ、目が見えなくなり耳が聞こえなくなり全身の感覚が無くなって行く時に「ついにこの瞬間がきた!」と達成感を味わった直後に肉体意識を失ったことはよく憶えています。

 

不安も全くなく本当に苦痛の無い、脳幹大量出血によるピンピンコロリがついに実現したかと思われたのでした。そしてその数時間後に息子がこの世に誕生しました。

 

ところが翌日になっても私の肉体はなぜか生存を維持しており、植物人間として生命維持をするのかどうかを検討中の状況下、なぜか意識が戻ってしまったのです。

 

飲み込みも何もできない植物のような身体に人間の意識が宿るとどうなるのか… 特にリハビリ序盤の拷問のような体験をこの二年間味わってきました。

 

さきほど異変を感じて目覚めると、また息子が横にくっついて寝ていました。そこで想いを新たにしました。

 

ボケ老人のような頭脳で寝たきりだった頃の私でも想いはあったはずですが「生きてるだけでこんなに痛くて苦しいけれども、コイツの成長を自分が肉体で生きた状態で少し見届けたい」という積極的な肉体生存願望を、私は40代後半で初めて持ったのです。

 

そのためにはほとんど見えない目を見えるようにすること、奇声を発してるだけじゃなくてちゃんと言語を話せるようになる、指を使えるようになる等々のリハビリ目標もできたし、併せてノソノソ歩くことさえできるようになったのです。

 

私が今ここまで健常者に近付けたのは、倒れた同日に誕生した息子の存在が決定的だったことは明確。そして2歳になったばかりの息子が私を生きるよう励ます行為を試みている!

 

私はこれからも肉体的障害を乗り越えて何かをすることになりそう。その内容はどうやら「人間が生きる・死ぬ」ということについての情報発信のようです。

2018年09月17日

大切な事はデータ化できない

大人には大きな勘違いが数多くありますが、その中でも大きいと私が常々感じているのが波動の感知です。

 

波動は優劣や善悪とは無関係です。でも私は波動をあらゆる事の指標にしてきました。「どうやって波動を感じているのか?」という質問には残念ながら答えようがありません。

 

強いて言うなら、例えば「高級食材ばかりで作ってあるはずの料理が大した味ではない」とか、逆に「たまたまあった冷蔵庫の残り物で作っただけなのに激ウマ」というようなときは、波動を感じているのだと思います。

 

音楽ならば「ノイジーで騒がしいだけの曲なのに凄い魅力を感じる」場合もあるし、「洗練された楽曲や演奏者達なのに退屈なだけだ」といった事もあるでしょう。

 

ただそう感じる、それだけです。波動を数値化して測定を試みる事も私にとってはナンセンスな発想だし、何より不可能だと思います。それでも数値化して納得したい人がオモチャを開発して実際に使用することも自由だと思っています。

 

実際その場に行ってみればなぜだかわかる。どういうわけか、実際その人に会ってみればわかる…人間とは本来そういう生き物なのです。

 

自分が偽っている部分を隠したい人は、事前に文字で自分のことをアピールする場合が多いです。「会わずに済むのなら好印象を与えただけで終わり」「会っても先入観が良ければ欠点に気付かれずに済む」などの考えがあるのでしょう(笑)。

 

しかし付き合いが濃くなれば、取り繕っていた部分もいつか必ず露呈されます。それが人間の性質です。

2018年09月13日

一見不本意なこと

今日は妻が息子を連れて両親と旅行兼仕事に出かけていて一泊してくるようです。特に病院で自分だけが外泊したことはあっても、自宅で独りっきりで過ごすことは数年ぶりです。こんな贅沢をほとんど毎日していた時期もこの人生では長かったわけでして、思う所が大いにあります。

 

今はやっと2歳になった息子の相手を中心に自分の時間は限られているのですが、既に死んでいるはずの自分の肉体に多くを求めても仕方がありません。何をしてもしんどい私の身体は、逆に言うと何をしても結構なリハビリ運動なのです。つまり常時リハビリ中でその時は辛いことに目を潰れば、日常でかつてのように出来る事は増えて行く一方なのです。

 

これが毎日一人で過ごしていたらどうでしょう。痛くて辛い事を口実にほぼ寝たきりの毎日のはずです。今のように必要なら移動して人前で活舌よく話しているはずもありません。だから一見不利だと思える条件が自分を成長させてくれている事はよくあるのです。

 

私が小学校に上がった頃、切り替え自転車がブームでした。周りのクラスメイトは仮面ライダー気取りでガチャガチャギアチェンジしながら自転車に乗って移動していましたが、私だけは常に毎日数キロ走っていました。なぜなら私の自転車だけカッコ悪かったからです。

 

父がイギリス出張のお土産で自転車を買ってきてあったのです。大人になればわかる事なのですが、タイヤの小さい白っぽいオシャレなシティサイクルで「お前には皆より立派な外国産自転車があるだろ」という事で新たには買って貰えず、恥ずかしかった私は「脚力がつくから」と苦しい言い訳をして自転車集団の中を一人走り回っていたのです!笑

 

おかげでスポーツテストの50M走は学年で一番になってしまい、陸上部でもないのにどっかの会場の大会に出場させれたこともありました。子供ながらの恥ずかしさと見栄からきた副産物です。

 

皆さんも思い返せば色々とあるはずです。私がリハビリ病院を退院する際、車椅子は常時必須とのことで自宅近所の介護センターで車椅子リースと介護担当者を決められましたが、私は車椅子を一度も使っていません。

 

医師からしてみたら担当していた患者が退院後すぐに大けがをしたり死亡されたくはないから、自己防衛からもそう言うであろうことはわかっていました。そこで揉めても医師の言う通り、後数ヶ月は低レベルなリハビリを続けさせられたでしょう。ですから、そうするように見せかけて安心させることも大切なのです。

 

患者や生徒やお客様のためにではなく、誰だって何の仕事でも「自分のため」にしていることなのは当然のことです。少し悲しいようですが、それくらいのことは押さえておかなければ「単なるバカ」として生きることにもなりかねません。

 

若い時期は特に「アイツのせいで…」と思いたくもなる境遇に直面するでしょう。でもそれを「アイツのおかげで…」へと変える能力は誰もが持っているのです。自分が倒れた日に生まれた息子に手がかかって忙殺されていたからこそ、医師には信じられないような私の後遺症からの回復なのです。

2018年09月10日

人間という存在について

先週の木曜日、「サトルエネルギー学会」の主催する「サトルサロン」で講演をさせてもらいました。

 

この学会とのお付き合いは初めてですし、お越し下さる皆様にも私の考える人間というものの実体像がわかりやすいように学校では教えてくれない「人間とは何か」について浅く広くお話しさせてもらいました。

ほんの一部だけですが録画映像がありますので、よろしければご覧ください。

 

あまり聞いた事がないであろう種類の話だけに、皆さんが真剣に聴いてくださっている様子でした。

 

どんな種の娯楽でもないですし、誰もが飛び付く話ではないでしょう。むしろ避けて通っている話題!笑

 

ただ、私が幼い頃から感じていた「こんなに需要が大きいはずのテーマなのに、供給している人がほぼいないのはおかしい」という不思議を少しでも解消するため、残されたこれからの肉体人生のエネルギーをここに費やして行くつもりです。

 

どうぞ宜しくお願いいたします。