お知らせ

2019年 5月
2019年05月30日

気の毒な人

数年お付き合いした税理士と今月で完全にお別れしました。年間契約顧問料という名目で決算申告の事務処理をお願いしていたのですが、数年前は「ただの事務屋じゃないので年間何度かは会ってアドバイスをする」という話で割高な請求でした。その実、契約最終年の今年はスタッフからメールや郵送が何度かあっただけで面会は0回でした。

 

カネを落とし続けてくれるのなら多少の相手はしても、もうこれ以上はカネを落とさないとわかったら約束も守らない… これって実際によくいるタイプだと思います。

普通ならば間を置いてカネを落とす額が上がる理由が出てきたり、自然と誰かを紹介してもらえても当たり前であるはずの人にまで嫌われてしまっては、詰まるところ自分が損をするだけの「気の毒な人」なのです。

 

カネが欲しいだけの動機で仕事をしていると誰でもこういった事態に陥りがちです。

やはり知的生命体ならば、金銭以外に意義ややりがいを感じながら仕事をすることが重要。 飲食やレジャーや人間交際ために、つまりはカネを得るためだけに仕事をするのならば、それは知的生命体じゃなくてもその他動物で充分です。

金銭報酬のための労働は家畜(社畜/国畜)と同じであることを自覚しましょう。

2019年05月27日

子供のエゴ

2歳の息子はスーパーに散歩しながら買い物に出る事が大の楽しみです。そしていつも買ってきたお菓子などを開封するのを楽しみにルンルンで帰ってきます。その時に私は「何をそんなに楽しみに持ってきたのだろう…」と思って食う気はないのに観察しようと手を伸ばします。すると息子に「みず君(自分のこと)のお菓子だからカズはダメ!」とか言われて諦めていました。「2歳でもイッチョマエにエゴが芽生えているんだなぁ」とか感じて(笑)

ところが私が関心を示さなくなったらそれも面白くないのか、近頃は頼みもしないのに自分から声を掛けてきて私の口に菓子を運んでくるのです。かまってくれなくなったのが寂しいのでしょう。

大人でも、我が張っている人というのは寂しくて相手にして欲しいだけなのかもしれませんね。それでもケチとか自己中とか周りに悪いイメージしか与えられませんが!爆

2019年05月21日

リーディング(チャネリング)

約30年ぶりにエドガーケイシーを塾読しました。私が高校生の頃は、まだ「バシャール」をはじめとするチャネリング本は出回っていませんでしたから、ケイシー関連の著作で「リーディング」(後の世ではチャネリングと呼ばれるもの)の様子を読んだ高校生の私は興味津々でした。

 

エドガーケイシーは1900年前後にアメリカに実在していた人物。

何の教育も訓練も受けていない中卒の労働者なのに、あらゆる医師に診てもらっても原因も治療法も見出せないような難病患者を前にしてトランス状態となって、患者の不具合の原因や治療法を膨大な数の患者に対してアドバイスしていたという人物です。

その魔法のような能力を疑う医師や教育関係者も傍で一緒に記録を取っていたため、医師でもないのに実質膨大なカルテが残っているのです。

 

久々に読んで改めて思うことは「所詮はサルの仲間である多くの人間に知性を求めること自体にムリがある」ということと、「神でも霊でも宇宙人でも呼び方はまちまちだが、人間以外の非物質知性とつながることができる人ならば喩え相手が人間でも知性を求められる可能性が高い」ということです。

 

ですから私は10代の頃から、よく言えば神がかった人、俗に言う「変な人」とばかり好んで付き合ってきました。

他ならぬ私自身も普通の人から見れば「変わった人」であるという証拠です(笑)。

 

妻は霊能者で占い師ですから本人の生まれや環境とはあまり関係なく飛び抜けて個性的です。

霊と自由にアクセスできるということは、人間でありながらも知的な存在たり得るというわけです。

 

妻との間に息子が誕生しましたが、その出産当日に私は脳幹出血で倒れ、しばらく植物人間みたいになり、意識が戻ってからも数ヶ月間はリハビリ病院に入院して立ったり歩いたり話したりする訓練を受けていました。

そこへも妻は赤子を抱えてよく見舞いにきてくれました。2~3年経った今では喋りや文書作成は少しできるし、一度は寝たきりだったものがノソノソなら歩くこともできます。

普通は息子の出産日に夫が死にそうになったらパニクったりしそうですが、平静に育児をしながら見舞いにきてくれたりしたので、私も少しは元に近付けたのです。

これまで死人の霊とも普通にかかわってきたのですから、身近な人が肉体死を迎えようとも大した問題とはならないのでしょう。助かります。

 

息子も2歳半を越えたので良く喋ります。人間の営みというものをそこそこ理解できているようで、近頃は感情を込めて「ごめんね」とか「ありがとう」という言葉も発します。誰が教えたわけでもないのに不思議です。夢をよく見るのか深夜に喚いて暴れることもたまにありますが、「大丈夫だよ」とあやすとすぐにまた眠ってくれるのでありがたいです。

せめて自分の子供くらいはサルではなく知的生命体として育ってほしいものです。

 

エドガーケイシーに限らず、騙して奪う以外のことに興味を持って他人に貢献している人はどこでもいつの時代でもごく一部存在しています。

自分の生きているうちにそれが多数派となって「かつてはサルに似た人間という生物が地球を支配したつもりになっていがみ合ったり殺し合ったりしていた醜い時代があった」と過去形で語られる日が訪れることを楽しみに、人間のあり方を共に探求しようじゃありませんか!

2019年05月13日

不完全だから人生は面白い

私はあまり小説を読まないのですが、三島由紀夫氏だけは例外で、ほとんどの作品を読んでいます。特に晩年の作品「豊穣の海」四部作は夢中になって読了しました。

 

私が生まれて一歳を迎えた直後に氏は自衛隊市ヶ谷駐屯地で派手な割腹自殺をしました。私は成人してからそのことを気にかけていたのですが、作品全般から滲み出る氏の知性教養からして、私には氏の自殺の動機を理解することが難しいのでした。この本の作者も他界して10年弱が経過しているようですが、若かりし頃に歌舞伎作家としての晩年の三島氏と仕事での親交があったようで、よくある見聞きしただけの推測論よりも核心に迫っていると私は感じました。

 

三島由紀夫氏はある意味潔癖症で、人間の醜さや愚かさを受け入れられなかったのだろうと思います。老いる前の才能溢れるうちに氏の考える美しい死に方を実践したのでしょう。

 

私の強い自殺願望が収まったのはまさに死に損なった近年のことです。脳幹出血によってあらゆる身体的不具合が一生ものとして与えられ、人間の不完全性やマヌケさというものを身をもって体験させられ、完璧主義どころではなくなってしまったのです。寝たきりの植物状態から喋ったり歩いたりできるようになっただけで喜んでいられるのです!(笑)

 

いろんな事で完璧を求めがちだった健康な頃に比べると、今の私は自分にも他人にもあらゆる部分に寛大でいられます。こだわりがほぼなくなってしまったのです。一度は失った視力を用いて読書をしたり熱帯魚観賞をしたり、また同じく失った聴力は完全に復活して音楽の素晴らしさを堪能できています。ただ当分手足は元の様には動かせないので、かつてはできたような楽器を演奏することはまだおあずけです。

 

誰でも自分の不完全性を理由に色々と諦めていることでしょう。でも人間であるからには常に不完全なのです。だからこそ完全をめざして、一生何らかの努力を続けられるのだと思うのです。

2019年05月07日

多くの人の錯覚を解く

中学の頃でしょうか。理科の授業で「あの星は光の速さで○百年の距離にある」的な授業があって、私は本能的に「デタラメ言ってるんじゃないよ!」と感じました。先生も子供の頃から授業でそう習ってきたから教師になっても子供にそう教えているだけのことでしょうから、厳密には「騙されてんじゃないよ!」でしょうか?

 

アインシュタインがそう語っていたことを知ってはいても、光の速さを実感できた人も何百年もかけて星間移動をした人も原則いません。科学とは全てがそんな具合で「誰かがそう言っていたことを真実だと仮定して計算するとこうなる」的なことばかりです。

 

私が幼稚園児の頃に本を読んでいると「ピラミッドは偉大な王の墓で、膨大な労働力を駆使して作られた」的な記述を見たときに「そんなアホな、それはアンタの乏しい想像力の産物でしょ」くらいに感じたのをきっかけに、中学生くらいの頃には「特に理科や社会の授業はカルト宗教信者を輩出すべく洗脳を強いられている」としか捉えられなくなってしまいました。

 

高校生になると、県立や市立学校の教員職に就くタイプがどんな人か察しがつくようになったので、私は本物のバカにされないためにも高校卒業以降は学校には一切通っていませんし、肩書きや資格とは無縁の人生を送っています。それが故に不利なこともありましたが、人並なバカにはならなくて済んだという利点もあります。

 

日本が高学歴社会ならば、高洗脳社会でもあるわけです。会社などの組織に属すると、原則は洗脳された信者ばかりが在籍しているわけで、どこにいても私には息苦しかったので、ことごとく長続きはしませんでした。そこで「40歳までには起業しよう」と若い時期に決めて実践したまでです。

 

皆さんが絶対に正しいと思っていること、何気なく当たり前に継続していることなど、目覚めてみれば「とんでもない事をしていた」という事は、まだまだ沢山あるのです。

 

私は皆さんにそんな気付きをコツコツ与えられる人物となるよう、今でも精進しています。

 セイジョウ石井

2019年05月05日

孫はなぜカワイイ

私自身は子供が苦手な若い頃を過ごしていたので、結婚や家庭というものに関心を持ったのは40代になってからです。それは20代からの借金苦をはじめとする色々な苦労の体験を経て自分が精神的な成長を遂げてきたので、子供とかかわる事で子供を見て「このクソガキ!」とか思うことも減って自然とそうなってきたのです。

 

子育ては実際、特に自分が若い時期なら大変でしょう。しかしそんな苦労を乗り越えて子供を育てた経験があればこそ、孫が可愛らしく感じられるのだと思うのです。自分が若いうちは「労働力と時間を奪われている」としか感じられない大変な事でも、それほど苦には感じない自分に成長できているのです。これは子育てに限らず、何でも苦労を乗り越えた先に楽しみや歓びが待っているということです。

 

逆に言えば何も克服しないで避けたり逃げたりしているうちは、歓びの体験も訪れないということです。

昨日、孫とも思われかねない、はしゃぐ生意気な息子(2歳)の相手をしていた私は、わざわざそんなにもったいない退屈な人生を送る選択をするな!と言いたいのです。

正に「苦労は買ってでもせよ」というわけですね。

2019年05月01日

半田広宣のヌーソロジーに魅力を感じる理由

現代の時代に生きるほぼ全員が「生きる死ぬとはどういうことか」「いわゆる現実と呼ばれる世界とは別に夢や幻想、今では仮想現実の世界もあるし、何が真実で何をどうすればよいのか」といった戸惑いの中で人生を送っているものかと思われます。

 

他ならぬ私自身もそうでした。子供の頃から抱えていた「生死とは何か」「現実だとされている全てが錯覚なのでは?」「どうして生きているの?」といった人間の「どうして?」「どういうこと?」に答えを見出せないまま30歳近くになっていました。

 

私が子供の頃から特に感じていたことは、本でも映画でも写真でもテレビでもあらゆる景色でも自分の視界は常に平面ヴィジョンを見ているだけ、瞳を閉じても考えたり想像したりいくらでもできるのに、人間も含めて世界や宇宙空間までが立体の物質で出来ているなんて嘘ではないか?」というものでした。

 

どんな本を読み漁ってもその答にあたるものは見出せませんでした。ただバシャールというチャネリング本だけは真相に近いニュアンスを醸し出していたので30年前くらいから愛読していました。
「やっぱりサル同然の地球人に答を求めても無理か…」そんな諦観が多くを占めるようになった20年前くらいに半田コウセン氏の著作に出会ったのです。同じ太陽系内の冥王星のオコツトと
名乗る異星人が情報源のチャネリングという体裁を採った本でしたが、かなり理論的に私がそう感じる理由を説明できていました。
やはり同じ頃に映画マトリックスが上映されました。どちらも私の感覚を上手く表現できていて、私は「ついにその時代が来る!これを解説できる人物が地球上にいないのならば自分がそうなれば良い」と思い直して今に至ります。

 

新しい概念の説明には、既存の用語や概念を引用できないというハンディをいかに克服するのかが鍵だと私は読んでいます。映画マトリックスを見た時に「映像や脚本や音を駆使すれば不可能ではない」と希望を抱きました。しかし予算や時間の都合を考慮して今の私にできることは専門用語を用いずに深い話を優しくすることです。そんな機会を多く創出できるよう以後も努めます。

 

その点、半田コウセン氏の新刊「奥行きの子供たち」では、誰もが知っているであろう映画を引用して会話形式で文明論が展開されているので、多くの方に一読を推奨したいです!