お知らせ

2018年 5月
2018年05月31日

自分を知る

「自分のことがよくわからない」との言葉を聞くと、「アンタもかい!」とでも言いたくなるほど誰もが口にしそうなこのセリフ、実は現地球人類にとって最大のテーマのような気がします。「自分の事は自分が一番よくわかっている」などと言う人にかぎって、沢山の要素の中のごく一部を「これが自分だ」と勝手に定義づけているだけだったりします。

 

「骨や肉や内臓などの物質の寄せ集めが人間、とりわけ頭部にある脳に、思考や記憶はもちろんあらゆる身体機能を司る重要な部位がある」的な教育を受け、それこそ頭脳だけで自分とは何か?を考えようとする人がほとんどですからね。

 

人は本来、非物質です。それを動物のような物質存在として機能維持させるために頭脳を含めた身体があります。ですから頭脳や身体を損傷すると物質人間として上手く機能しなくなってしまうのは事実です。それは私も近年どっぷり体験済み。小脳を損傷したため身体機能が著しく低下しました。

 

「自分のことがよくわからない」と言う人は正直なのでしょう。正確には「『自分』とは何を指しているのかもわからない」というのが一般的な今の世の中の人です。それではイジョウな社会だと私は強く感じるので、「セイジョウ石井」のペンネームを語ってあれこれ発信しています。

 

「人間」「自分」とは何なのか?について教えてくれる人は学校にも病院にも原則いません。簡易な文章だけでは誰もが理解できるものでもありません。だからって複雑な論文にしたところで結果は同じでしょう。

現代社会においては、人にとって大切な事を何もわかっていない人が、カネや権力や名誉をもっと求めながら人を指図しているのが普通です。そんな不健全な人間社会から歪んだ人間が更に多く輩出されるのは自然なことでしょう。

 

平易に言うと、この世にない情報はあの世から得るしかないのです。あの世とは死後の世界とは限りません。いつでもどこにでもあの世は存在しています。非物質世界には時間も場所もない(あるように錯覚することもできます)ので、このような表現しかしようがありません。

 

それらの事を、他者から得る知識からと自分で得る体験経験からと、双方から学ぶのです。「学んでそれらの理解が深まったところで名誉や金銭にはならない」との理由から、現社会では学ぼうとする人があまりいないことが残念です。

 

しかしそれらを学ぶことでしか「自分(人間)を知る」ことはできないのだ、と私は思います。自分を含めた人間のことがある程度わかるようになれば、副産物として物質世界での生き方も豊かになるものなのです。ただ、豊かさの定義がカネや名誉を得ることだけになっていない場合が多いのです。

 

率直な私の意見を述べると、「すぐできる」「簡単に手に入る」「誰でもできる」等のキャッチコピーを謳ったどんなHow to本や講座やセミナーよりも、【自分のことを良く知る】ことのほうが、この物質世界での成功にも大きく貢献します。上述のキャッチコピーとは反対で、継続力が必要で簡単でなくて挫折する人が多いのも事実ですが…笑

神妙になることはありません。リラックスやユーモアは常に大切です。純粋に楽しみながら探究し、報酬や称賛などの見返りを短期で期待しなければよいだけです。

2018年05月29日

昨夜の異次元体験記

昨晩の私の睡眠中の体験は、いくつもの世界を跨ぐ感慨深い体験でした。これをお読みになっている皆さんにとっても、いつも私が語っている並行世界概念の参考になるかと思いまして記録します。

 

私は脳幹出血の後遺症でここ2年弱、手足のしびれを常に感じているのですが、歩きや体操でほぐすことのできない睡眠中が最も体感的にキツイのです。昨夜の夢の世界のある異次元では、私だけでなく皆がその苦しい体感を味わっていたのです。空気や食糧の汚染が原因なのでしょうか。

 

この肉体人生での妻ではない女性と並んで横になっている私は、隣で健康状態を不安がって心配しているパートナーに対して「皆がそうなのだから仕方がない」と、その肉体障害の処し方やそれでも暮らして行ける旨を説明していました。

 

私が今朝目覚めて何時間しても明確に記憶に残っている体験だったので「あ、これは単純な夢ではなくて平行世界での現実なのだな」と感じたわけです。時間外の異次元認識ですから未来や過去の可能性もあります。愚かな地球人は、過去や未来でも今のように自然環境を破壊しまくって物質界での人間の存続危機を何度も経験しているのでしょう。

 

他ならぬ私も(ここの世界の時間や空間感覚で呼ぶのなら「いつか、どこかで」)人類存続の危機を漏れなく経験していて、そことリンクしているこの世界の私が同じ症状を体現しているのが「脳幹出血の後遺症」なのか?

 

誰でも「この私が何故?」という事態に陥った場合には他人や環境のせいにしたくもなるのかもしれません。しかし他ならぬ異次元異世界の自分の存在が原因であることがほとんどなのだ、と私は考えています。

 

時間や空間を超越していますから「過去生での自分の行いがこの事態を招いた」という直線時間軸での単純な因果ではありません。だから今を変えれば、そこに関連する過去や未来と思える異次元の現象も同時に変わるのです。

 

これを読んでもおわかりのように「人生ルール」みたいなものは「時間や空間に縛られない異次元や並行世界を認識」できなければ、語りようがないのです。私も数十年間、あらゆる人の著述をあれこれ探究してきましたが、基本的にどれも「時間と空間の縛りから抜け出ていないママゴトみたいな人生哲学」を語っているのです。

 

チャネリング情報には時空を逸脱したものも少しありますが、悪質な憑依現象の場合も多く、その精査自体が難しくて問題となってしまうのです。宗教と同じで娯楽としてなら好みは人それぞれですから、他人に強要しなければ何も問題にはなりませんが…

 

「異次元・異世界を自分で知る」ことの重要性を私が常に強調している理由です。

 

でも「その契機を作ってれるのは自分ではない誰か」なのです。私はその「誰か」になるべく奮迅しているのです。

2018年05月28日

セッション新メニュー

現在は、妻で多次元数秘術占い師である「西きほ子」のセッションも私のあらゆる種の個人セッションも、時間あたり一万円代でのサービス提供となっております。その点、お集まりいただいた複数名の参加者を対象に平均隔月ペースにて夫婦で開催している〈波動体験会〉は、料金もリーズナブルな上に内容にも相乗効果が見られるために好評で「西きほ子」も大のお気に入りイベント。

 

そんな妻「西きほ子」からの提案で〈小規模波動体験会〉とも言える【グループセッション】のメニュー追加です。瞑想時のお客様についての「西きほ子」霊視レポートと、夫であるの私の解説や助言がついた2時間に及ぶセッションです。今予定しているのはお一人様1万円での2名参加型が基本ですが、2万円の濃厚個人セッションとしても承ります。問い合わせやお申し込みは私「石井数俊」だけでなく、妻の「西きほ子」にも遠慮なくどうぞ。皆様のご連絡をお待ちしております。

2018年05月25日

「キツイ・メンドウ」を避けない人生

「あれはキツイからやめた」「それはメンドウでやる気も起きない」そんな事を考えたり言ったりしていませんか?

 

そのような考えに支配されて生活している人が望むことは「ラク」な事でしょうか。

「ラク」な事とは、表現を変えれば「ショボイ」「タイクツ」な事ですよね。私は昔からそう感じてしまうタイプです。キツかったりメンドウだったりするからこそ達成感や満足感や喜びも得られる…少なくとも私はそう思うのですが…

 

体力のみの勝負となると若い一頃だけの話となってしまいますが、知性や感性、身体能力でもパワーだけでなくてコツを掴むための鍛錬でしたら年齢や性別とは関係なく取り組めるものが世の中には沢山あります。飽きたりめげたりして放り出すことなく長年継続できれば、それは「特技・取り柄」になるのが普通なのです。

 

誰だってそうできるのに「長年このような事に打ち込んでいます」と言うものが何もない人生を選ぶ理由は何しょうか。実際にそのような人が増えているような気がするからです。今回はそれがどうしてなのかについての考察です。

 

私の見解では、子供の頃から皆が損得や利害を計算しすぎているからだと思います。「それができる事によって将来はカネや名誉になるのか?」という基準ですと「契約金が話題になるスポーツ選手をはじめ限られたジャンル、しかも一流になれないのならば意味がない」とやる前から見切りをつけてしまうのです。

 

昔は皆がある種の職人であることが前提の社会だったはずが「それで自分が特別な扱いを受けられるわけではないから」との理由で、若い人でも色んな事に興味を持たなくなっているのだと思うのです。何も習得する必要を感じていない人が多いということです。有ったとしても金銭報酬で優遇を受ける知識や技術や資格だったりするのです。

 

自分が子供の頃は、大人からしてみたら「またそんなアホなことに夢中になって、まったく!」みたいな子供が周りにも結構いました。興味が持続して大人になってそれが職業になった人は確かに少ないでしょう。でも全く無関係に見える職業に就いていたとしても、養われた感性や工夫力や忍耐力は意外と仕事にも活かされているものだと思います。

 

これも人生観・死生観の問題だと私は思うのです。「お金や権力を持つ人のみが自分の人生を評価する」という考えに染まっているだけなのですね。ところが肉体死間際になれば誰にでもわかることですが、自分の人生の納得度や充実度とは自分自身が感じるものであって、他人の誰かが決める事ではありません。権力者や金持ちの言いなりに生き、そこそこの富や名誉を得たところで「素晴らしい自分の人生だった」と感じることはないでしょう。

 

何度もお伝えしていますが、人が肉体を持って生まれ出る理由は経験から学びを得ることです。そこには金銭苦や病死や餓死など、肉体を持つが故の性質全てが含まれているのです。「ずっとお金に恵まれて健康長寿なら人生の学びが大きい」では決してないのです。

 

セイジョウ石井は貧乏や飢えや病気を勧めてるわけではありません。ラクチンばかりを求める人生はイジョウだと言っているのです。

 

その時はキツかったりメンドウだったりしても嫌ったり避けたりしないで「これが今の自分に与えられた経験と学びの機会なのだ」と素直に受け入れる姿勢が次の展開を生むことにつながるのです。

 

特定の人物との思わぬご縁や大きなチャンスは事前に知ることが基本できないのです。ただ、それらの多くが億劫な物事の奥に潜んでいるのです。ですから「キツイ・メンドウ」を避けて通る習慣とは、出逢いやチャンスを自ら遠ざける行為なのです。

 

直接的には何の益もないように思える事でも、自分が惹かれる事を継続していれば人生で大きな何かを得るものなのです。それは金銭や名誉などわかりやすいものではないのかもしれません、よって「特に何も得られていない」と感じるのかもしれません。

 

経験と学びを得ることが肉体人生最大の魅力です。私も40代で倒れて歩くことすら難しい身体になるとは予期していませんでした。過酷なリハビリの結果、肉眼で景色がそこそこ見えるようになって、一人で糞尿漏らさずに数時間散歩できるようになっただけでこんなに大きな達成感を得られるとは我ながら驚きです。

 

だからって誰かが褒めてくれたりご褒美をもらえるなんて微塵も期待していません。あくまでも自分自身の問題です。私は悔いなく生きているだけです。皆さんも小さな子供を見習って楽しんで悔いなく自分を生きましょう。

2018年05月20日

高次元体験

昨日開催した【高次元体験会】では、前回に一回だけ初めて導入した家崎耕平さんの奏でるシャーマンドラムを本格導入し、海外在住者複数を含めた参加者の皆さんを異次元に誘導しました。結果は良好!

 

やはり音楽に限らずビートを使うことで人を異なる次元にもっと導きやすいみたいです。毎回のことながら、ほぼ全員が異次元体験をして内容をご報告くださいましたから、私も解説や人生アドバイスのし甲斐がありました。

 

更に素晴らしいやり方を常に模索しながら気付けば数年で十数回も開催継続してきた異次元体験会ですが、今回は前回からの開催ブランクが最短の一か月以内、内容も皆さんが最もスムーズに異次元旅行できた印象があります。

 

イベントの趣旨には初回からブレはなく、一貫しています。異次元を気軽に体験できる瞑想を通じて「死」に対する無駄な恐怖感を取り除き、「生き方」をより充実させるきっかけを得て欲しい… その一点です。

 

自分のしている事の内容や方向性に更なる確信を持てた昨日、次回の日程も最速での確定です。次回は7/14(土曜)日中、同じく新橋での開催です。詳細告知は数日内に再びイベントページ等で!

 

2018年05月18日

意識状態

一昨年の夏に脳幹出血による意識不明の重体で集中治療室にいた私は、医師から「おそらく間もなく死亡するであろう」と予測されていたようですが、その時の私の非物質意識は忙しく活動していました。あまりにも膨大な情報量なので簡略に説明できるものでもありませんが、皆さんにも理解しやすいであろうごく一部をここで公表しましょう。

 

病室からそのまま上空500mほどの位置に自分が浮いている景色が見えました。羽をばたつかせていたとかではなくて静かにホバリングしていたイメージです。ほどなく下界には存在しないようなかなりの高さの高層ビル上層階で空飛ぶタクシーみたいなものに乗車しようと何ヵ所かで試みるのですが、なぜか乗り物が見つかりません。仕方なく地上に近い標高を走るタクシーに乗車しています。それでもタイヤが地面に接している様子はなく、浮いた状態で移動していたようでした。

 

今住んでいる場所を説明して行ってもらうのですが、街の様子は数百年先設定の映画シーンのような無機質な雰囲気です。家らしき場所に到着したのですが私は家の中に入れません。施錠のようなセキュリティが今の下界で普遍的なものではなく、その辺りが原因で開錠できなかったような印象です。

 

この世界での私の父が、引っ越しをした直後に突然死を迎え、その際に旧住居の室内を意識体でウロウロしていたことを妻の霊視で確認済みなのですが、人間は肉体死を迎えると一旦は家路に着く習性があるようですね。どこが自分の家なのかという定義が曖昧な人は帰る場所に難儀するのかもしれません(笑)。

 

つまり私は一旦、医師の予想通り他界したのですが、行った先で何らかの理由で次のステップに入る事ができず、仕方なく肉体のある世界に戻って来たのかもしれません。肉体意識が戻ってしばらくは、全身のしびれと痛み、目がほぼ見えない、手足も動かせない、といった現実よりも「今自分はどこの世界にいるのか?」という不可解さが大きくて、何かを心配したり困ったりしている余裕はありませんでした。

 

臨死体験中の意識体での活動は、生きている肉体意識での感覚以上にリアリティがあったため、肉体意識で捉える自分や世界の実情が軽薄に感じられたとでも申しましょうか…これは事故や病気で死にそうな人に限った話ではなく、外見や物質的状況からは判断できない意識状態のお話なのです。

 

服装や髪形やメイクをはじめとする物質的なことに無関心な方々は、それくらい濃厚な非物質リアリティを生きている可能性があるのです。これは誰にとっても自分の人生にも当てはまることでしょう。俗に言う「なりふり構わず」とは、そんな濃厚な意識状態なのです。

 

見た目や物質的なことに意識を奪われていませんか? それらを生業にしている方には恐縮ですが、人間の本質は非物質の意識体なのです。肉体の外見などで悩んでいるのならば、言葉は悪いですが今はそれだけ軽薄な人生になっている証拠なのかもしれません。そうは言ってもシャワーや着替えをして清潔を保つことは重要ですよ!笑

 

明日開催するイベントも、参加者に濃厚な意識体験をしてもらうことが目的です。外見云々で言うのならば、そもそも人間ではない自分を認識する参加者も毎回いらっしゃるのです。

 

2018年05月16日

人が発するエネルギー

私は一歳の息子にとって厳しい父でしょう。躾に必要だと思えばよく怒鳴ったり頭を叩いたりもしています。私は身体が悪くて家にいる率も高いので、一緒に過ごしている時間もとんでもなく多いです。

 

私は睡眠中の手足の痺れや痛みが辛いため、原則一緒に寝ることはないのですが、私が寝ているといつの間にか息子がすぐそばに来て寝ていることがよくあります。私は母ではないですからもちろん乳をあげたことはないのに…です。「何が理由なのだろう?」と謎ですが、おそらくオーラが心地よいのでしょう。

 

大人でも、エロい理由ではなく近くで一緒にいるだけでも心地良い人がいませんか? 逆に至近距離にいるだけで不快な人物だっているはずです。この辺の事は、あまり敏感でも公共交通機関などを利用できなくなるため、私は鈍感になるように努力していた時期が長かったのですが、今でも人が大勢いる場所は苦手です。

 

オーラとは、人が発している非物質エネルギーのことです。小さな子供のうちはきっと敏感に察知しているのでしょう。霊視ができる人で、対象となる人物のオーラに過去や未来の映像を見ているタイプも実在します。発しているエネルギーの種類や大きさや濃度も人によってまちまちです。ただ息子は私の発するオーラが今のところ気に入っているのでしょう。

 

このような事をいくら説明してもわからない大人が沢山いるかと思えば、皮肉にも説明なんてできっこない子供が当たり前に感じ取っているのですから面白いものです。

 

そもそも論理的に説明ができないような事実を、まぐれや偶然や無かったことにしている大人が多いだけなのかもしれません!笑。 

何度か死に損なったりしながらもそこそこの期間を生きてきて私が感じるのは、やはり「人間として大切なものは全て科学的な説明がつかない」ということです。

 

プログラムが必須のロボットと、不可解な生物人間とは根本的な違いがあったということですね。人間を機械に見立ててプログラムしてきた近年の人間社会の歪みがあらゆるところで噴出しています。これは人間という存在の認識を見誤ってしまった当然の結果です。

 

現状の人間社会、文明がイジョウである、そのことを認めざるを得ない今だからこそ「人間の探求」や「定義のし直し」が求められているのだとセイジョウ石井は考えています。

2018年05月15日

他人よりまずは自分

今日は現代社会での処世術としても有効なものの考え方を1つお教えしましょう。それは「自分以外の誰かを特別に尊重しないこと」です。逆の言い方をするのなら「自分の価値を他人に比べて低く見積もらない」ということです。

 

家庭でも仕事でも趣味でも、誰かが自分に対してとった態度や放った言葉などが原因で気分を害したり浮かれたり落ち込んだり舞い上がったり…つまり対人刺激によって人間の気分は上下するものです。モノを相手に自分の気分に波が出るのは、対象物を擬人化しているからです。「家電製品までが私の事をばかにしている」といった具合です(笑)。

 

相手が一人でも複数でも相手の存在が自分よりも意義深いと想定していると、相手の反応を過大に解釈してしまうのです。「自分の価値なんて誰がどう言ったかによってどうにでもなってしまう些細なものだ」そのように常に自分を過小評価していると、いつも他人の顔色を窺って生きる人生となります。

 

仕事の立場上やむを得ないこともあるでしょう。私は何も「他人をバカにしろ」と提案しているわけではありません。「必要以上に自分で自分をバカにするな」と言っているのです。自分の価値はまず自分が決めるのです。それが人に伝わって行くようになるのです。

 

謙虚な人柄で有名な歴史上の偉人で「私には価値がない」と考えて何かを成した人はおそらくいないでしょう。「どんなに時間がかかって些細なことにせよ、私の信念はきっと物事を動かす」そう考えて生きていたのです。そのような自己信頼があれば、実際の多少の非難や悪口も気にならなくなるものです。

 

しかしそのためには、しっかりとした自分の考えを持って行動を起こして継続している必要があります。他人の評価を気にし過ぎる人は自分の信念がなく、これといった行動も起こしていないから根本的に自己嫌悪感が強くて、他人からの評価ばかり気になってしまうのではないでのしょうか。「少しでも隙があれば皆が自分をバカにしたがっている」きっとそんな被害妄想と折り合いをつけながら暮らしているのでしょう。

2018年05月14日

平和の創出

皆さんは自分が位置している場所というものを常に意識して生活していることと思います。地図で表示するなり、今時なら正確な座標を数値で表示することだって可能ですよね。ですから日常の活動範囲を越えた出張や旅行で大きく移動するとなると、大変だったり楽しみだったり特別な感情も湧いてくるものです。

 

実は場所(位置)も、時間と同じで単なる錯覚だとしたらどうでしょう?

 

私は日常的な習慣である瞑想中はもちろんのこと、俗に言う臨死体験みたいなもので自分があらゆる時代や場所に存在していたという経験を何度かしたことがあります。この身体は病院の集中治療室で横たわっていただけだと思いますが…

 

元々若い頃から私は人間が非物質存在だと考えていたので、時間と同じで空間というものの錯覚に魅力を感じたことがあまりありません。「自分がどこにいようと、本来はどこにでも行ける」とでも申しましょうか、仕事の出張以外では旅行というものをしたことがほぼありません。肉体が物質的などこに位置しているのかにそれほど重要な意味があるとは思えないのです。

 

睡眠中に異次元でよく大旅行を経験しているのも関係しているでしょう。例えば海底深くから雲の上までつながっているビル一本がまるごと大都市のような空間で自分が忙しく活動している事を認識していますので、それに比べるとこの世界のどこへ出かけても「ショボいな~」くらいの感想しか持てないのです。

 

この世界とは別の異次元世界でも確かに自分の生活が継続しているのです。つまり、次元を超えた対比みたいなことをしてしまう癖があり、今この星で特定の名前で呼ばれている自分の世界だけに意識をフォーカスできないのです。

 

何を取っても「沢山ある自分の中の僅か一部分」的な感覚が常に付いてまわってくるのです。それは評価をうけること、病気になること、結婚して子供ができること、カネを稼ぐこと、肉体死を迎えること…「自分のしている何もかもが他人事のようだ」まさにそんな感覚です。

 

はじめから「守るものが何もない人生」とでも言いましょうか。だから脅したり騙したり殺したりしてまで何かを維持したがっている誰かの状況を見かけると「この人は凄い錯覚の深さだなぁ」と感心してしまいます。自分の肉体生命やカネや名誉をはじめ、そんなにまでして手に入れたい、手放したくない何かがあるなんてこと自体が不思議なのです。

 

ただ私にあるのは「そんな局所的な部分に執着する必要なんて人生には何もないのですよ~」とお知らせしたい気分です。それは「もっと広くて多角的な視点を養いましょう」という意味です。何をするにしたって「特にどうってことはない」という気楽な感覚で取り組めば、何でも楽しめるし結果も良好となります。

 

戦争をはじめイザコザは何でも全て、はっきり言って誰かのどうでもよい事への執着心から生じていると私は感じています。社会情勢とは関係なく、いつでもどこでも自分が平和を創造するコツ、それを一緒に体験してみませんか? 

次回の瞑想会は19日(土)の12時からです。楽しみにお待ちしています。

2018年05月13日

異次元の自分

いつも私は異次元の自分を認識する大切さを話しています。脳で明晰に認識するところまでは行かないにしても、異次元に存在する複数の自己とリンクすることで情報が統合されて人生がスムーズになるからです。

 

誰しも「どうして自分にはこんな側面があるのだろう」というような不可解な要素を持っています。その理由が引き出されることが多いのです。時空を越えた異次元での話は過去や未来もなくなってしまいますが、私のイベントでは普段の思考回路で言うならば「過去生・未来生」を含む、普段は全く意識していない今とは別の自分の人生に接触することを促しています。

 

誰もが有する直線時間で言う過去生や未来生は今生と多大な影響を与え合っています。時間を越えた世界の話ですので因果関係ともまた異なるのですが、「同居人が与える影響」とでも喩えられるでしょうか。

 

実際の自分との同居人ならば皆が気にして選んだり関係解消したりするのですが、自分の過去生や未来生となるとノータッチの人がけっこういるのです。過去や未来はどうにもならないとでも思っているのでしょう。そんなことは知りようもないと考えているのでしょうか。何度も言いますが実際は過去でも未来でもないのです。

 

直線時間が錯覚である事実は、おそらく論理的に納得しようがないでしょう。だとしても他人を説得する必要もないことです。しかし誰でも時間の錯覚から抜け出る感覚が養われると、簡単に言えば過去を変更したり望む未来を容易に実現させられるようになります。

 

そんな感覚を皆さん自身に体験から養っていただこうとシリーズ開催しているのが「波動体験会」なのです。次回で13回目となる開催の会場はいつもの新橋、5/19(土)の昼からで決定しました。今度はまた誰がどのような異次元体験をするのかが楽しみです。

 

おぼろげな記憶となりがちな異次元体験を具体的な情報として引き出せるのかどうか、そしてそのメッセージをどう解釈するのか…それもイベント現場での私の役目です。抽象的でもよいならば参加者全員が毎回異次元にアクセスしています。これを読んで気になる方、遠慮なくお問い合わせください。

2018年05月11日

地味な社会変革者

物事を常に俯瞰していないと手段が目的となってしまうのが人間の悲しい性です。例えば現在の日本社会に暮らせば、生きて行く手段として家賃や住宅ローンや食費や光熱費や交通費などが必要となりますから金銭を手に入れようとします。すると知らず知らずのうちに金銭を求めるという行為そのものが人生の目的となってしまっているのです。

 

稼ぐのか貰うのか盗むのか拾うのかはともかく、あなたはカネを得ることを目的にプログラムされたマシンではなかったはずが、いつからか実質そのようになって生きてしまう場合が多いのです。

 

そうなってしまう理由のひとつには、人生の目的など考えないまま大人になってしまうことが多いからです。私は特に目的のない人生だって、その都度その都度の思い付きや行き当たりばったりの人生だって大いに結構だと思います。

 

ただ、名の通った高校や大学に進学する目的は何でしょう。今ではそうでもない世の中となってきましたが「安定した高収入の職に就くため」が基本だと思うのです。塾や予備校を含めて受験勉強とはカネ稼ぎマシンとして落ち度のない人間を作ることです。

 

でも本当のところは、受験産業に携わっている人々が儲けるためにがんばっているだけの実状に乗せられているのです。飲食でもファッションでも医療でも軍事でもスポーツでも音楽でも、どの業界をとっても同じ事です。

 

カネを得るためだけに凌ぎを削っている大人たちに囲まれて育った子供たちも、気付けばカネを得るためだけの大人となっている…至極当然のことですよね。

 

そんな世の中は根本的におかしいと感じている若者が増えてきています。思想を振りかざすわけでもなく、ただ社会参加しないのです。

 

学校へも行かず、会社にも行かず、起業もせず、異性との交際もせず、友人との交流もほぼなく、親や国家や自治体などの保護だけに依存して生きている不安定な人が結構な数実在します。

 

生きること自体が嫌なのでしょうか?それともそんなに人間っぽい問題ではなくて、単にプログラムされ損ねたマシン人間なのでしょうか?

 

いずれにしてもそのような人々が増殖しているのが事実なのですから、世の中のしくみは確実に大きく変わります。無職者も深刻ですが労働現場の人手不足も深刻です。雇用や労働の概念があちこちで覆っているのでしょう。

 

自分が社会的に何もしないでどこにも属していない環境とは、まさに人間社会や世の中を俯瞰している状況ですよね。親ならば心配の種でしかないでしょうが、政党や国会議員や企業や学者などには無関心な彼らが今後どのような存在となって行くのか、私はとても楽しみです。

 

政治家でも企業人でも学校教師でもない自分の声をそのような人々に届かせることで社会変革を後押しできると考え、私は各種のイベントでひきこもりについて語っています。個人的なカウンセリングも常時承っています。

 

ひきこもりとは、攻撃性の無い社会変革者でもあると私は考えているのです!

2018年05月11日

異次元体験

寛ぎを邪魔するものは何でしょう。場所ですか?空腹や満腹ですか?インテリアですか?気候ですか?騒音ですか?体調不良ですか?

 

何の話かと言いますと「寛いで暮らしていますか?」ということです。

 

誰もが「寛ぎ」という単語を使います。しかし私はリゾート地や飲食店で人が寛いでるという印象を受けたことがほとんどありません。病院のベッドでならあります(笑)。他人に見られたら寛げないから皆さん一人っきりの時に寛いでいるのでしょうか。

 

気がかりなことが何かあったら寛げない…それは普通のことです。休暇には期限の終わりがある、肉体を維持しているのなら空腹はもちろん痒いだの痛いだの痺れるだの何らかが毎日あります。たとえ安らげる時があっても束の間ですよね。

 

ところが深い睡眠中は違います。無理な姿勢で寝ていても気付かずにそのままで身体の痛みや不具合を発症した経験が誰にでもあるでしょう。別次元に行っているためこの世界の心配事とは無縁なのです。逆に眠りにつけないとか眠りが浅いという事も起きるわけですが。

 

そんな寛ぎの心理状態を覚醒中でも意図的に作るのが瞑想だと考えてください。

 

瞑想とは、経済や身体状況等の心配事を一切忘れて別次元にて戯れることができる行為です。そこでは閃きやアイデアに溢れているのが普通です。ただ目を閉じてじっとしていれば必ず誰でも行ける世界でもありません。きっかけや慣れが必要でしょう。

 

私の開催するイベントでも、体験する異次元訪問を参加される皆さんが大変に喜んでいます。次回の異次元体験会の開催日は5/19(土)の昼で急遽決定いたしました。皆さんとお会いできることを楽しみにしています。

 

2018年05月09日

本当の個性とは

発言を聞いても行動を見ていても「この人、なんかイヤだなぁ」…いけないと思いながらもそう感じてしまう人がどこかにいませんか?

それは家庭内か職場内かテレビ出演者か街中で出会った誰かなのか、どこで遭遇するのかはそれぞれでしょう。ただ言えるのは、時期的なものである場合が多いのです。

 

同じ人物を一生不快に感じ続けるということは意外とないものです。「この世の中の誰もかもがクソみたいな人ばかり」そう感じる時期もあれば、砂漠やジャングルで長い期間独り寂しく遭難していて、誰かもわからない人間を見かけただけでありがたさに涙が溢れることだってあります。

 

他人とは、自分の反映でしかないのです。自己をどう認識しているのかによって自分以外の人がどうにでも映るのです。その状況が生涯変化しない人は原則いないという意味です。

 

わかりやすい例をあげると、自分が金銭を得るために意図していなくて無自覚だとしても自然環境の汚染や破壊に貢献しているのが一般的な人間です。その観点からすると経済活動をしている人が皆クズに思えてきます。そして他ならぬ自分自身も生業を立てるために経済社会に組み込まれて日頃ゴミや排泄物を出しているのが普通です。

 

かかわる人物を一人残らずあげつらって悪口を言うのが趣味みたいな人がいるかと思えば、全ての出会う人から素晴らしさを引き出して長所を指摘して「世の中には感謝すべき人しか存在しない」そんな人間観の人だって実在します。

 

その点ではどれが良いとか何が悪いとかはまるでないと私は思います。どんな生き方が楽しいのか、学びが多い人生なのか?というテーマなのだと思います。

 

何でも肯定的に解釈していては問題改善はしようがありません。何でもOKの人にとってはそもそも問題などは存在していないのでしょうから!笑 逆に何にでもケチばかりつけていてはおそらく楽しい人生にはならないでしょう。何につけてもバランス感覚ですよね。極端は基本避けるべきだと考えます。極端な生き方とは、実は本人も苦しいし周りも大変な目に遭うでしょう。極端を続けると結果的に寂しい人生となりやすいということです。

 

一時的な自分の価値観や感情で人物や物事を判断しないことです。後日「どうしてあの時に自分はあんな事をしてしまったのだろう」と思える事態を積極的には引き起こさないことに繋がります。かといって私は「だから何でもあやふやにしておけ」と言いたいわけではありません。

 

「あの時の自分はどうしてあんな事すらできなかったのだろう」という後悔を抱えて生きている人も実は多いのです。これが自己否定となって周りの人間や物事を醜く映し出すようになってしまうのですから。

 

究極的に自己中心的な人とは穏やかで大らかで、細かい事にこだわらない人だと私は考えます。自分の人生哲学のようなものがそれなりにあればこそ周りに振り回されることもなく常に穏やかでいられるのです。他人の介在で人生が左右されにくいということです。そして穏やかで大らかで特異な主張もしないならば誰からも好意を抱かれやすいので他人から促される事案は多くなり、本人が望むならば人とのご縁で人生が急展開もするわけです。

 

「特別なアピールをしているわけでもないのに上手に世渡りしているなぁ」そんな人、誰か思い浮かびませんか? そんな方は棘がないだけで充分に個性的な人だと呼べるのです。

 

外見を筆頭に極端であることが「個性的」とされる風潮がありますが、個性を確立できている人物は実のところ地味で寛大だったりします。バランス感覚を充分に養っているからです。

 

目立つ人は、むしろ無個性で自信が何もなく「何かの模倣をしているだけ」の場合が多いと私は感じます。

 

個性とは、一見したところの印象とは別の非物質部分に表れるものなのです。外見に惑わされてしまってはいけません。一目で個性的だと思わせる人は、変わっていたとしても(それも個性には違いないでしょうが)人間的にはそんなに個性的ではなかったりもするのです!笑

 

2018年05月08日

見えない大きな変化

若い自分に会ったとして、何か言ってあげたいことはありますか?

 

例えば三十年前の自分に出会ったとしたら、今の自分はどんな反応を示すのでしょう。「このような話にはのるな」とか「あのような人とはあまり親しくなるな」とか、選択しないようにする助言はいくつか思い浮かんだにせよ、積極的に何かを選択するよう勧める案件は意外と出て来ないのではないでしょうか。

 

何年前だろうと、今とこれからもずっと「やってみないことにはわからない」のがこの世界の面白さだと私は思うのです。

 

肉体寿命や健康状態、人間関係に金運、誰だって「どうなるのかわからない」からこそ興味が持続している部分が大きいのです。にもかかわらず、多くの人が大きな変化を嫌って拒んでいるのも事実です。

 

厳密には「拒むフリ」をするのが人間の習性というものなのか…近頃そのように強く感じます。一歳の息子をシャワーに誘うと必ず拒みます。そのくせしてシャワーに誘われることを心待ちにしているのです(笑)。

 

身体の悪い私は転ばないように自分がシャワーするだけで精一杯なので服を着せる担当なのですが、風呂から出た裸の息子に肌着を着せようとすると猛烈に嫌がって逃げるのです。真剣に追う事の出来ない私が諦めて腰を据えていると「おい、追いかけて肌着を着せろよ!」と言わんばかりに自分で肌着を持って寄って来るのです。

 

一歳ですから本能のままに行動しているだけで特に策はないと思いますから、常に楽しみにしている事を嫌がるフリをして楽しんでいるのです。これは大人にも等しく見られる傾向ではないか?という話です。

 

何かを提案されて「やった!」と思ったのに何故だか自分は嫌がった態度に出ている…そして「そんなに嫌なら」と引っ込められてしまう(笑)そんな事が皆にあるのではないですか?という話です。

 

この事を考慮すると人間関係は面白いものです。多くの皆が本能的に説得されたがり病、もしくは無理矢理強行されたがり病なのです。

 

大きな変化はワクワク要素で沢山ですが「わからない」という不安要素にもなります。おおよ子供はわからない事を楽しみに感じますが、大人になると「わからない」事は心配の種となります。だから大人になると変化を避けるようになるのです。

 

変化がほとんどない人生を選ぶことのできた時代が終わります。これからは組織に属していても大きな変化を体験することになるでしょう。子供目線では皆がワクワクの時代です。大人目線では不安な時代の到来です。

 

変化を怖れて変化が最少で済む生き方を選んでいる人だって、いつだって大きな変化を起こすことができます。変化への対応を常に求められている人達は元々大勢います。変化とは物質的なことばかりではありません。同じ場所で同じ職業同じ家族構成なのに大きな変化を遂げることだってあります。

 

私は常に心の変化、エネルギーとしての変化について語っているのです。

2018年05月07日

思いもよらぬ出逢い

自分の考えや想いを表現することにおいて得意な人と苦手な人がいると思います。自分を認知してほしいと考えるかどうかですね。ですから得意でも不用と考えて表現しない人がいますし、苦手でも必要だと考えて一生懸命に表現している場合もあります。

 

これも経済社会だからこそテーマになることだと思います。商品を買ってもらうためにはまず商品を認知してもらう必要があります。商品化されていないのに「売ってくれ」と申し出る人だっています。

 

物質の商品ばかりではありません。「そんな知識や経験や実績のある人物を求めていた!」つまり人間自体が商品となる可能性も高いのです。

 

親が裕福だったり既に身分や収入を確約されているような人は、表現力に乏しくなる傾向があるわけです。それに対して「自分(の商品)を誰かに高く買ってもらえるよう、できるだけ目に留まる努力をしよう」となれば、表現力も自然と高まるわけです。

 

表現しないことには存在自体を認知してもらえないわけですからね。

 

そこで意外なのは「誰が何を欲しがるのかは予測がつかないものである」ということです。特定の何かを常に欲しがる素振りを見せておきながら一生手に入れない人もいますし、本人の口からまったく聞いたこともない突拍子もない何かを衝動買いすることもあります。

 

私はそれが「ご縁」というものだと思うのです。本人にも説明のつかない霊感というかエネルギー的なものを感じて咄嗟に特定の何かを引き寄せてしまうことがあるのです。

 

つまりここで私が言いたい事は、顕在意識上は自分が何も求めていないとしても、自分を表現する事は予想以上に大切であるという話です。

 

金銭的なことだけではなく、偶然の出逢いで人生が一変することはよくあるのです。厳密には「偶然に見える必然」と言うべきでしょう。一切の自己表現を拒んでいたのでは、その「偶然に見える必然」を逃してしまうことにもなりかねないのです。

 

俗に言う「目立ちたがり屋」であっても、金銭や名誉を求めてそれをしているとはかぎりません。ましては石や木ではなく人間として存在しているのですから、レベルやセンスはまちまちでしょうが自由に表現することは健全なことだと考えます。表現する者を快く思わないならば、自分が表現することを抑圧している証拠なのかもしれません。

 

どんなにささやかな事だったり時間がかかってしまっても結構ですから、自己表現をもっとしてみましょう。思いもよらぬ面白い事態が訪れる可能性が高いのです!

 

 

2018年05月06日

ハンドパワー

誰もがオーラを発しています。全身から出ていますが掌からは特に放射されています。掌から強めのエネルギーを発している人は、特に「ハンドパワー放射」などと説明しなくても、身体を癒したり、料理して食事を美味しくしたり、奏でる楽器の演奏で聴衆の心を魅了したり、描く絵で観る者に感動を与えたり、そのエネルギーを活用した仕事や趣味を持っていたりします。

 

「非科学的な話」ですよね!笑

 

科学とは物質のことをあれこれ追究しているのだと思いますが、再三私が語っているように人間の本質は非物質です。人間だけじゃなくてあらゆる生物や自然物は非物質であることが本質です。

 

裏を返せば「人間やあらゆる自然物は科学進歩に伴って本質が解明されることがない」わけです。

 

オカルトとか霊力とか奇跡とか迷信とか呼ばれていた科学的根拠のないものの方が、よほど真実を語っていたりするわけです。

 

あらゆる非物質の法則も解明されて説明可能となれば科学となるのでしょうか。ここが難解なところです。上述のハンドパワーにしてみても、優劣の問題ではなくてエネルギーの大きさや種類が人によって異なるからです。実験や証明をしようとする人によって結果が異なる事を「科学的」と呼ぶ日は来ないような気もします。

 

要するに「科学的」かどうかは重要でないという話です(笑)

むしろ非科学的な事に興味を注いで探究すればするほど人間や宇宙や世の中についての理解が深まるでしょう。

 

そしてその場合のポイントがあります。深まった人間観や宇宙観や世界観はあなた自身のものなのです。他人は他人の観点で人や宇宙や世界を観ているのであって、どれが正しいとか誰が誤りだとかいう問題は存在しないのです。

 

その多様性を許容できるかどうか…それが「人としての器量・人徳」などに繋がって行くのでしょう。私はそう考えています。皆さんはどう考えますか?

2018年05月05日

眠りの探究

人間は目を閉じることで無限に広くて深い世界に移行できます。眠ってしまうことも含めて(笑)

 

子供の頃の私にとって、眠りにつくという行為は神聖な日課でした。夜の9時頃には目を開けているだけで辛いほどに眠気が襲ってきました。畳の和室で寝かされていた私は、少しでも神聖な環境を実現しようと押入れの上段に布団を敷いてもらって寝ていた記憶があります。目を閉じるとすぐに異次元に誘われるシンボルがパターン化されて数種類表れていました。

 

しかし幼稚園や小学校に行っても睡眠という行為が話題に上ることはあまりありませんでした。皆が多くの睡眠時間を確保しているにもかかわらずです。「真っ暗だ・何も憶えてない」などと興味なさそうに語る周りの様子に始めは驚愕していましたが「きっととても個人差のある秘密の時間なので公に語ってはいけないことなんだ」そんな風に自分に言い聞かせて自分も睡眠について語ることはしなくなりました。

 

大人の親や先生ですら睡眠の意味について語ったことがなかったのです。体を休めると言ったって、原則呼吸も心臓も止まったりはしないのです。毎日欠かさず、皆いったい何をしているのでしょう?

 

大人になってから「瞑想」というものの存在を知りました。「眠気に襲われて仕方なく」ではなく、眼を閉じて異次元を積極的に堪能する行為です。音楽鑑賞をしていたり、大自然の例えば水面や上空などをぼんやり眺めていると、眼を開けたままでも異次元を堪能できることに気付きました。

 

「どうやら食事や排泄を継続させるために働いてカネを得ることだけが人生の全てではない」…二十歳頃にはそれが確信に至っていました。

 

人間とは面白いものです。よく「食って行く」という表現がされます。確かに住む場所がなかったり飢えが原因でポロポロ死人が出ている国や地域が現存します。その反面、日本のように食い過ぎによる肥満や病気と闘っている人だって大勢存在します。

 

しかし目を閉じた先の無限世界はどちらの環境下の人にも等しく存在しています。

 

肉体死のことを「永遠の眠りにつく」という表現をします。今は生きていてもあと何十年以内には肉体死を迎える人が使う言葉であるというところに滑稽さがあるのですが、その「眠り」について皆が深く探究することがない事実は、「肉体死の意味」について皆があまり探究しないことと強い関連があると私は考えています。

 

ですから瞑想ワークショップでは、自ずと死生観や人生観が主体のお話となるのです。

2018年05月04日

他人の目

自分が笑いのネタとなったりするのが不快だという人が一定数います。わかりやすく言うと「凄い・カッコイイ」などと語られるのなら気分がよいけれど「くだらない・バカだ」などと扱われると心外だということです。

 

悲しい事実ですが、多くの人は「自分よりレベルが下だ」と感じる相手には警戒心が解けて心を開きますが「自分よりも先を行っている」と感じたら警戒することはあっても心を閉ざして親しくは感じないものです。

 

ですから人心掌握術としては「アイツはアホ」とか「大したことない」とか「しょうもないヤツ」と思わせることができるかどうかで好感を抱いてもらうところがあります。

 

前提がアホなら些細なことでも「意外と凄い」となりやすいですし、何かと人生のハードルが下がるというわけです。関西を中心に自分が面白い人だと思われたい願望というものは、敵対心を抱かれないようにするための人間の防衛本能なのか?などと私は若い頃まじめに考えていました。

 

静岡県出身の自分には、常に笑いを取ろうとがんばっている関西人などには理解に苦しむ部分が多く「その熱意はいったいどこから湧いて来るのか」とよく不思議に感じたものです。

 

ただ確実に言えることは、笑いを取ることに喜びを感じる人は円滑な人間関係の構築に興味があるということでしょう。自分を受け入れてほしいという願望があるということです。

 

そこが私には欠落していた部分でした。自分が人間であることを常に不快に感じていたし、狭い世界に閉じこもって人間関係をできるだけ広げたくなかったのです。生きる喜びが見事にない閉鎖的な期間を長らく過ごしていたのです。

 

今は何も期待せず何も幻滅せず…そんな感じです。人間存在だけは長年探究してきましたから、それらを活かした何らかを寿命の続く限り続けて行くのでしょう。自分がどう思われようともほぼ気になりません。

 

他人の目が気にならなくなる…どうやらこれは大きな武器になるようです。

2018年05月03日

生きる価値

生活している中で日々心地よさを感じているのか?、それとも自分の生きている後ろめたさのような、説明のつかない充たされない気分を常に感じているのか?

 

これは上手く言葉にできなくても重要な課題ですよね。

 

子供の頃に読み聞かせられる偉人伝で「これだけのハンディを克服してこんなにも世の中に貢献した」的な物語がよくあります。後々はそのような偉人伝にまとめられる人であっても、当時の多くは「こんなに自分勝手でなりふり構わず周りに迷惑をかけて好きなように生きた人がいた」みたいな印象が強かったのだと思います。

 

自分の社会的存在意義を気にして生きていると「自分には価値がない」という罪悪感のようなものに襲われるのが人の常なのでしょう。

 

皮肉にも、自分に強い無価値観をもっている人ほど努力してカネを稼いだり異性にもてるようにして自己の存在意義を誇示しているように見えますし、自己愛が強いと他人から評価されることへの関心があまりないようにも思われます。

 

自分の存在意義をどう把握しているのか?
…結局はそこの問題なのではないでしょうか。

 

これは実に難しい問題です。経済社会における人間の存在と、金銭とは無関係の人の存在意義とでは、だいぶ定義が異なっているような気がするのです。好印象を抱いている人への好感の理由が、実は自分への経済メリットでしかなかった…突き詰めて考えれば残念でもそんな事だってあるでしょう。

 

経済観念から逃れられない考えで行くと「報酬をもらって当然の行為をこっそり無償で行っている」のなら価値の高い行為であり「誰にでもできることをしているだけなのに金銭報酬を得ている」のは悪く言われることがないとしてもヤレヤレな行為なわけです。そのどちらかに当てはまる行為を自分がしている事実で自分の価値を決めている側面は誰にでもあるでしょう。

 

では経済価値とは無関係な人間の価値とは何でしょう?

 

「人間として存在するだけで充分な価値がある」権利を主張する言葉はあったにせよ、今の日本社会でそのように考える人は少ないでしょう。そこで「価値のある何かをしなくてはならない…」思春期頃にはそのように考える人が多いのではないでしょうか。

 

その頃は既に経済価値観に染まっていますから「学生でなくなったら年収○○以上」とか「結婚するなら資産家の人と」などと普通に考えるようになっています。人の価値が経済価値とリンクしていて当然なわけです。

 

改めて考えると凄いことなのですが、人間の存在価値を経済価値と切り離して考えることが原則ない…そんな世の中に皆さんが普通に暮らしているということです。

 

「親なり会社なりからもらっているカネ、何らかの手法で稼いでいるカネがその人間の価値である」という思想、けっこうイジョウだと思いませんか?

 

カネやモノの所持や所得とは無関係な人間の存在意義を堂々と語り合える、そんなセイジョウな世の中で暮らして行きたい。私は常にそう考えています。