お知らせ

2018年 3月
2018年03月31日

桜が満開だと思っていたら、既にだいぶ散って緑の葉が出てきている枝も増えています。

 

「桜の咲くことが、どうしてそんなに飲み食いしてまで騒ぐほどのことなのだろう?」

 

長年私は不思議に思っていました。だって自然界には他にも美しいものがいくらでもあるというのに、桜だけが特別視されているのが不思議だったのです。

 

でも近年はわかるような気がします。(でも人が集まるような花見には相変わらず参加しませんが…笑)

 

何がわかったのかと言うと、桜はまるで人間の生のように、その儚さにおいて圧倒的なのです。

 

冬の間の桜の木はとても寂しくて、目に留めている人はほぼいません。まるで長年ぱっとしなくて脚光を浴びることのない人生のように… それが一気に人目を惹く景観を作り出すのですから。

 

しかもその期間は短くて、あっという間に散って地味な木に戻りますから、タイミングが重要なわけです。

 

当たり前な自然現象だとわかっていながら、皆さんその貴重さを堪能しているのですね。

 

一歳半の息子の歩行練習と私のリハビリを兼ねて桜に関係なく連日公園に足を運ぶのですが、満開の桜を見ても「そんなの当たり前のことだ」と言わんばかりに興味を示さない息子が、落ちてくる花びらにはとても強く反応するのです。

 

動いているからという理由ではありません、動くものは他にも色々ありますから。

 

空を指差して次々と散ってくる花びらを指摘しては、地に着いた花びらに直接触れて何かを話しかけているのです。

 

これは、花びらが非物質エネルギーを発散している証拠です。純粋な子供にはわかるのです。

 

それを見て、私は「まさに肉体人生と同じだ!」と思ったのです。

 

見た目はどうであろうとも、桜の木は年間を通じて桜の木として地道に生存しているのです。そして数日だけ一見華やかな姿になります。しかし地味で目立たない長い時期に耐えるからこそ花を咲かせることができるのです。

 

すぐに散ってしまうのも悲しいことでもなんでもありません。「花は桜でも木は桜じゃない」と思い込んでるから切なくなるのです。

 

人間の肉体死も同じです。誰もが順番に肉体死を迎えます。天変地異や疫病や戦争で一気にほとんどが散ってしまうことだってあります。

 

「どうせ散ってしまうのだから根元から木をなぎ倒しても同じこと」というのはナンセンスな話です。肉体死を無闇に恐れたり、死をタブー視しているというのは、そんなナンセンスな話なのです。それでは綺麗な花を咲かせるはずもないのです。

 

2018年03月27日

人の評価

前回、「人に評価されたいのも自由」と触れました。そこで今回は「人の評価」そのものについての話題です。

あまり深く考えないで日常的に「高い評価を得ている」と聞くと、よい印象を持つ人が多いようです。なぜそのようになるのでしょう? 

誰もが、経済価値最優先の社会に染まってしまうと人間のことも経済的価値でしか見なくなり、自分自身も経済的価値を高めることを目標として生きるからです。だから年収○○円とかが人間の価値だと本気で思っている人もいるのです。

ところがそこには大きな矛盾があります。経営側からしたら低コストで生産性の高い従業員(ロボット)が高評価となるに決まっているのですから、高い評価を得たければ安月給で馬車馬の如く働けばよいだけになってしまいます。それは自分自身を安売りして消耗品のように疲弊するだけなの行為…なのにもかかわらずです。

逆に、ある人が生み出す何かが万人から高い評価を得たのなら、それを作り出した人が低評価であり続けることはないでしょう。しかし企業からしてみたら仮に生産性が周りの100倍の従業員がいたとしても、コストも100倍レベルでは当然低評価!笑

結論は、自分の経済的価値を高める方法は直接的に人の評価を求めないことなのです。そんな事にも気付かないというのは、幼少期から刷り込まれた競って評価される観念が邪魔をしているだけなのです。

多くの親にとって子供が有名大学や有名企業に所属することは気持ちの良いことですからたくさん投資します。(それももはや投機となる時代ですが…笑)
塾や学校はたくさん儲けようと、有名校に合格する生徒を一人でも多く輩出することに躍起です。

ひきこもりとは、子供たち本人が金儲けと見栄の道具にされているくだらなさに気付いて、ささやかな反逆が始まっている証なのです。カネ最優先のイジョウな大人社会が変わらなければ、次世代は育ちようがありませんね。

 セイジョウ石井

2018年03月25日

胸にしまう

学校では、先生や親からの評価を常に気にして生活するようシステム化されています。その延長で、社会人になってからも職場の上司などはもちろん、それら染みついた習慣からなのか利害関係者以外の目まで過剰に気にして暮らしている人々が多いようですね。

評価されたいのも、人目を気にしてコソコソするのも、誰からも良く見られたいと考えるのも、その人の自由ですから別段問題はありません。しかし、常に遠慮することなく堂々と発言して行動する人に対する自分の態度には、多くの皆さんが難しさを感じているように思います。(無意識に反抗することも含む)

学校でも職場でも、組織に属しているからには周りへの配慮がない自分勝手な行動を慎むべきなのは当然の事としてです。

よくある例では、常々自分が言いたくても我慢していたことを誰かが言った場合に
1.「よくぞ言ってくれた!自分も日頃からそう思っていたんだ」
2.「それは言ってはならない!誰もが言いたいのを我慢しているのだから」
3.「へぇ、そんなこと言ってたんだ」とか、まるで関心のない人(笑)、
4.「胸の内にしまっておけばよいことなのに…バカだな~」(多いタイプかと思われます)

他人がすることへの自分の反応はかなりの自由裁量があります。

まさに学校教育の弊害でしょうが、選択の余地がない命令や二択三択なら得意でも「どうしようと全くのあなたの自由です」という状態が最も困る!という人が多いのです。

だからこそ「ひとまずしまっておく」ということになって、そればかりが長年あれこれ続き、物質ではないため気付きにくいのですが心の中はガラクタだらけになってしまうのです。

どこに何が入っているのかもわからない大量な収納ケースを大事に内に溜め込んだまま人生を送っている…いつの間にかそうなっているのです。そして中身が腐って内臓疾患等で肉体を脱ぎ捨ててはじめて身軽になろうとするのです。

健全に肉体人生を送るのなら「しまい込まないこと」が鍵です。子供のように一喜一憂していればその場その場で処理して終りです。後悔や恨みや復讐など、後ろ向きなエネルギーとは無縁になればよいのです。

セイジョウ石井は、子供のようにすぐに泣き喚くことを勧めているわけでは決してありません。感動や悦びなら、しまっておくことも楽しみだったり生活の知恵と呼べるものでしょうが、日々確実に溜まる汚れを長年大事に保管しておくのはイジョウだと言っているのです。

対処は簡単。定期的に洗い流せばよいだけなのです。「人との楽しい時間(楽しいフリではありません)が日常的に過ごせている」「頻繁ではないが信頼できる相談相手がいる」といったことが大事ですが、独りでも夢中になって没頭できる何かがあるのならばそれで洗浄できます。

そして行き着くのが「瞑想」的な事なのです。非物質存在の自由度を知れば物質世界に囚われて悩み苦しんでいることがバカらしくなります…あなたも確実に非物質の存在なのですから!

人が非物質の存在であること、そのことを「肉体死を迎えてからでなければ気付いてはいけない」というルールはないのです。

 

2018年03月24日

植物という存在

私が考える地球のメイン物質生命体は植物です。

水の星ですからもちろん水中にも繁殖し、巧みな方法で陸上にも潤いを継続的に与え、あらゆる陸上生物を養っています。決して人間のような暴力を振るうことのない、物質を伴う非物質知的生命体です。

物質の栄養源としてだけではなく、「波動」である非物質知性(情報)をあらゆる生物に提供し続けている植物の実体については、物質主義で総じて低知性な物質地球人の中でも気付き始めている人が増えています。(現代人的な表現ですと「薬品」ということです)

大型植物の大きさや寿命だけを考えても、その知性は人間などと比べるまでもないことですが、人間でも非物質的な側面が退化していない方ですと、時間軸縛りの範囲内でも「あら、久しぶり。前に会ったのは2千年前だったかしら?」というような植物との会話が成立するのです。

早送り映像でもわかる通り、植物だってちゃんと動きます。ただし生物全般的にそうですが、知的であるほど物質の性質が希薄となり、同じ物質でも運動能力を発達させなくなるため、身体の動きは少なく遅くなります。必要なら消滅したり瞬間移動すれば良いだけですから!笑

ただ残念なのは、ほぼ獣の資質だけで生きている先進国を中心とした今の人類は、おとなしくて無抵抗の地球のメイン生物である植物を大量殺戮し続けていることです。皆さん知っての通り、地上は本来のフサフサからしたらほぼハゲ、海中汚染も凄まじいレベルです。

「非物質が本質なのだから物質として星が丸ごと全滅したとしても些細な問題だ」と言ってしまえばそれまで(笑)ですが、だからといって私が「なるようになれ~」とも思えないのには理由があります。

それは「非物質の存在が物質に閉じ込められていると感じながらも、どれだけ非物質の性質を体現できるのか」というゲームができなくなってしまうのが問題だと考えるからです。

例えると「音楽(霊魂)そのものが好きなんだから会場(肉体)なんてあろうがなかろうか関係ない」とか言ってみても、世界中の演奏ホールやライブハウスがなくなってしまったら音楽という娯楽なり癒しなり芸事自体が消滅してしまうと思うのです。

わざわざこんな説明をしなくても、物質肉体を維持しようとするのはほとんどの人にとって当然のこと。だったら地球生態系の基礎である物質植物を地球から追いやらないことです。そんなこともわからない低知性は「どうせ数十年もしたら自分は死んで何もかもが無くなるのだから」というイジョウな死生観が全ての原因なのです。

  セイジョウ石井

2018年03月22日

生態系

「百獣の王であるライオンだって簡単に殺すことができる人間は凄い、だから生物界の頂点に君臨している」…小学生の頃に地球の生態系について教わった内容はだいたいそんなものだったと思います。

何より面白いことは「いかなる生物も物質としての生存だけを目的にエサを求めて生きている」というのが前提となっていることです。故に殺傷能力に長けている生物が強く、その最たる存在が人間である、だから人類がもっとも優秀で特別な種である、というわけです。

しかし子供なりに生物飼育や自然観察をしていると、中学くらいには「実はその逆なんじゃないか?」という思いが募るのです。

その内容は「プランクトンから始まってあらゆる生物は他の種を生かすエサとして自身を提供することを目的に生存しているようなものだ。しかもその先エサとして枯渇してしまわぬよう、どの生物も種の保存に工夫を凝らしながら!」ということ。

では、猛獣の餌食になるとかの特殊事例を除けば、異種はもちろん同種内でさえもひたすら殺して奪うことだけを繰り返している人間という種の存在理由はどこにあるのだろう…?

今しているように他の種を凄い勢いで絶滅させ、しまいには地球と人類そのものを消滅させることが目的で存在している!?

私の結論を簡単に言うなら「その答え探しを続けているうちに肉体死を迎える不思議な生物」です(笑)。

真面目な話、生態系や食物連鎖などの観点から確実なのは「物質的な存在理由が人間にはない」ということです。裏を返せば人間は非物質的に存在する事で意味を成す生物なのです!

ということで、非物質世界の探索に明け暮れた私の思春期から今に至るまでの探求成果を、近年コツコツ発表しはじめたところです。肉体死を迎えてからそれをやっても、近況世に溢れていて多くの人にとっては謎が謎を呼ぶだけとなりがちな「チャネリング」になってしまいますからね。

人を獣と同じ物質だと捉えているのが多数派、というイジョウな社会で「人は非物質の知的生命体です」と繰り返すこととなったセイジョウ石井の思想的背景でした!笑

2018年03月20日

星の運行

各種の惑星や恒星や衛星など、常に星の配置を気に掛けては体調や気分のすぐれない理由や日常的アンラッキーに納得している方々が、二十世紀末から急増しているように思います。それこそ地球人類の滅亡から個人的肉体部位の痛みや重さなど、その予告や現状説明を試みるサイトは概ね大繁盛?です。(笑)

アストロジーは数千年前から盛んでしたし、その数学的緻密さと絶妙さ、古代遺跡の物的証拠から検証される天体観測技術が「人類の星への興味は大昔からのものであった」ことを示唆しており、そのロマンに私自身も若い一頃は随分と魅了されたものです。

しかし近年は「人や宇宙とは本来非物質の知性である」というスタンスを取っていることもあり、私は「人生と物質的な星の運行とはあまり関係がない」という姿勢です。

厳密には肉眼の瞼を閉じて異次元を旅していても、多くの人にはよく色彩や図形や星が見られることから「星の軌道や星そのものが非物質である」という観点で今でも興味津々なのですが、セイジョウ石井としては「望遠鏡観測から予想される物質情報に踊らされているようでは知的生命体とは言えない」との思いが強くあり、敢えてそんな捉え方をしているのです。

詳しく説明しましょう。星占い好きな方、あまり気を悪くなさらないでください。(笑)

まず「何月何日、一生に一度きりの金運チャンスが訪れます」とか発信する人は原則いませんよね。なぜなら「全財産を宝くじに投入したのに結果破産だ!どうしてくれる!!」とかなって困るだけだからです(笑)。

でも「人間関係に亀裂が生じます」とか「思わぬ身体的不調に襲われるかもしれません」とか「不可抗力で経済ダメージをうけるかも?」などと発信していれば、「凄い!本当だった!」となります。だってそれが現代人の日常なのですから(笑)。

あとは、期待でも予測事態の阻止でも、エネルギーを過剰に向けるだけでスムーズに行くはずのものさえうまく行かなくなるのです。何をするにしてもリラックスが最重要です。リラックスを妨げるような情報の遮断が適切にできているのかどうか?です。

たかが予測とはいえ良からぬ事が起きそうな気持ちが少しでも入れば、人にはそれを物質世界に実現させる能力があります。

つまり理想的な事でも過剰エネルギーを注いでダメにしてしまい、避けたい事でも心配することで実現させてしまう…笑

それよりも、誰にも振り回されず自分のフィーリングを信じて常に今を感じて行動している人生の方が面白い、セイジョウ石井はそう考えるのです。

そうすれば誰かの発信する情報を鵜呑みにして右往左往しなくても、星さんからの警告メッセージだってちゃんと自分自身で受け取れるようになるのです。実際にそのようにして私は発信をしています。

小脳損傷で一度は起き上がりさえもできなくなった身体から私が歩く練習をしていた経過を見ていた医師が「車椅子なしではとても無理。建物から外には出るな」と言っている段階で、私は強硬退院しました。そりゃ病院からしてみたら、少しはよくなるはずの患者の中から死者を出したくはないでしょうから。

退院してからだって、私は決して無理をしていません。生れたばかりの赤ちゃんを踏んだり上に倒れたりしたくはないですから(笑)。ただ、この今の肉体ではどこまでが無理で、いつ何をどこまでできるようになるのかは、非物質の私だけが知っていることなのです。

いくら医師が「何千人も診てきてわかっていることだから」と言っても、私のスピリットを見ているわけではないのですからね。それは機械になら当てはまることですが、本質が非物質の人間には該当しません。人間の場合には何においても呆れるほどの個人差があって当然なのです。

ですからセイジョウ石井は皆さんにも「自分で自分の星読みをしてみること」をオススメします。すなわちそれがイベントで推奨している「瞑想」みたいなことです。反対に、周りの人にはできても自分にはできないことだって誰にでもあるのです。私の場合はそれが組織へのお勤めでした。どんなに頑張っても数年で壊れてしまうのです。

それこそ、皆がそれぞれ違う星のもとに生まれているのは事実です。生年月日だけでなく時空を越えたところでの話です。その肉体は、あなただけの星なのです。そこに優劣はありません。さて、あなたはどんな星でしょう?

2018年03月18日

他人(自分)の定義

突然ですが、あなたにとって他人でないのは誰ですか?

答えはそれこそ人によってまちまちです。「自分以外は全員他人」と言う人から「学校でも職場でもご近所でも皆知っているのだから他人とは呼べない」。もっと言えば「人類は皆兄弟なんだから他人なんて一人もいない」と考える人もいます。極端な愛犬家で「犬を捨てたり殺したりするから、犬以外は人間も全て他人だ!」なんて方もいるのかもしれません。

唯物主義社会の一般的感覚で最も多いのは「血族」なのでしょう。鶏と卵で「親子丼」なのに対して、鶏以外を使うと「他人丼」と呼ぶくらいですからね。

いずれにしても漠然とした質問と答えになりがちです。

では、質問を逆にしましょう。「あなたにとって自分とは何ですか?」

ここが現地球文明において全てのネックとなっているテーマです。

何百回でも言いますが、人は非物質生命体です。肉体という物質も一部まとっていますが、基本的には非物質ですから時間や空間の制限がありません。ですから何億人であろうとも過去も未来も「今の自分」だと認識できるだけの意識の拡張も可能です。(厳密には大きさではなくて異次元との行き来です)ただ、そうすると両刃の剣となってしまい生きて行くことが難しくなりますから、基本概念としてだけは知っておいてください。

何が難しいのかと言うと、繊細すぎては今の地球の粗雑な波動に順応できなくなり、精神も肉体も壊れてしまうのです。

例えば世界中のゴミ問題、家のキッチンに知らない人が次々と訪れてゴミを捨てて脱糞して帰って行き、どんなに片付けてもウンコやゴミの山が常にキッチンの天井に届いていたらどんな気持ちになるでしょう。今の瞬間、地球の裏側で銃弾を撃ち込まれている誰かの痛みをあなたが全部感じ取ったとしたらどうでしょう。…しかしそれがこの物質次元の現状です。

ある程度は「他人のことなんて知ったこっちゃない」だから平然と暮らしていられるのです。でも実の子供が瀕死の重傷だと聞いたのなら、どこで何をしていても駆けつけようとするでしょう。老いた親にでもそうする人がいるのですから、動物の本能としても当然のことです。

自分の定義が家族だけに留まらないからこその知的生命体である、とセイジョウ石井は思うのです。エサ(カネ)をくれる相手にだけよい顔をするのでは動物と変わりません。

自己の意識をほどよく拡張できるワークショップ次回開催は4/25・4/26で決定です。

上述のように他人の苦しみが自分の苦しみとなってしまう弊害も少しありますが、基本的には他人の喜びを自分の喜びとして享受できることは間違いなく豊かなことですからね!

問い合わせもお気軽にどうぞ。

2018年03月17日

セイジョウ石井の想い

人間とは、経験から学ぶために肉体を持って生きています。そこが、プログラムされていなければ作動しないマシンとの大きな違いです。人間なら本来は自分で自分をプログラムできる、という意味です。

しかし実態は何度もお伝えしているように、使い勝手の良い労働力に育て上げるべく子供のうちから集団行動を強いて、親や教職員などから偏った情報を強制的にプログラミングされるため、入力ミスや入力漏れがないかぎりほぼマシンとして物質肉体維持に努めて働くのが普通の人々です。

ところが近年、滅多になかったはずのプログラム入力漏れが頻発しているわけです。小学校でも登校拒否、成人してからでも就職拒否、人生そのものの拒否(うつや自殺、意図のないひきこもり…等々)。

就職難を口実にする人もいますが人手が必要な業種はどこも慢性的人材不足、日本語が通じない人が働いている業種は増える一方です。

「金銭奴隷を避けた先には金銭苦が待っていただけ」という現実に直面して打ちのめされ、途方に暮れている方もいるでしょう。

頭部があって胴体から手足が伸びて二足歩行しているという、皆が一見似たような姿をした地球人類ですが、知的生命体と呼ぶに相応しい存在はそんなにいない…実質は動物なのか社蓄なのか国蓄なのかマシンなのかはさておき、本来の人間らしい生き方をしている人が少なすぎるイジョウな社会に強く警鐘を鳴らしているセイジョウ石井です。

でもマクロで見ればこれは必然の状況です。人間らしい生き方を諦めないで求める人が急増しているのに、その受け皿となるものが特に用意されているわけではなく、各自が模索しなければならないのですから!

ここで私が言っている「人間らしい」とは、唯物主義社会で言われる衣食住に関する物質のことではありません。人間が非物質存在であることをちゃんと知って、非物質(心)の豊かさを優先して生きるということです。

それはつまるところ「肉体死を無闇に恐れない」ということが原点なのです。どんなに恐れて心配しようがしまいが、物質と直線時間軸だけの狭い世界観を持つ限り「全ての終わり」だと勘違いしている肉体死は必ず訪れるのですから(笑)

セイジョウな人間社会を実現するためには「人は非物質の存在である」というセイジョウな人間観、死生観を持つことが必須です。

ですから、セイジョウ石井は馬鹿にされても無視されてもそれらを語り続けます。

2018年03月13日

「考える」ということ

「考える」という言葉を使わない人はいないと思います。

ところが近頃マスメディアや世間一般で使われている「考える」という言葉のニュアンスは「困っている」「即答できない」「決めかねる」「先延ばしにする」というような場合に「考える時間を」などという具合で使われていることが多いように感じられます。

しかし私が思うのは、そんな場合に使う言葉は「想定外で答える準備ができていない」が妥当です。大惨事が起きると組織の責任者が決まって堂々と口にする「想定外の事態で…」ってヤツです(笑)。裏を返すと、その「準備」とは何でしょう?

ここでの答えは「暗記しておくこと」です。
子供の頃から受験や資格取得などで暗記ばかり求められて生きてきた人が大抵は大きな組織に所属します。専門知識の他にも「こういう事態の場合はこのように対処すればよい」とマニュアル化されているものを記憶し、時にはそのマニュアルを調べたりして、マニュアル通りに実行できる人が重用される職場が普通です。これがグローバルな人間ロボット化計画の成果です。一昔前まで、ロボットとは人件費に比べると機能も限られていてやたら大きくて重くて高価なものでしたからね。

立場的に説明責任を果たすはずの者が「想定外の…」あるいは堂々と嘘を言ったり黙していたりする感覚は「マニュアル化されていない事が起きたんだから私こそ被害者だ!」といったところでしょう。ロボットとして育成されて生きてきたのに急に人間らしさを求められても、何を求められているのか?すらわからないのです。

「人類だけが知的生命体」という常識は、セイジョウ石井に言わせると二つの意味でイジョウなのです。一つは皆さんも予想がつく「人間以外にも知的生命体はたくさん存在する」ということ。

そしてもう一つ肝心なのは…「人類の中には知的生命体でない存在もいて、概してそんなタイプが人間社会を操る側にいる」ということなのです。

データ保存は、考えることとは別です。学校で成績下位を独占していたような悪ガキの考えるイタズラは秀逸で、被害者に失礼でも笑ってしまいませんでしたか?

いつもボーっとしていて周りとズレまくっていてダメダメ印象だった同級生が、後年になって特殊な仕事で成功していたりしませんか?

「考える」という行為は、「予算や時間など物理的状況からしたら不可能に思えるけれど、何をどうしたらそれが可能になるのか?」といった工夫や奇想天外な発想です。ですから、「考える」とは「瞑想とひらめき」と言い換えてもよいでしょう。

とにかく知識の詰め込みだけという教育は、心の通わないマシーンのような人間を量産するのです。それこそが目的で行われてきた教育ですが、人間の定義が変わりつつある今、教育をはじめ何もかもが転換することとなりそうですね。

2018年03月11日

みんな宇宙人

私は「宇宙人」という単語を使う難しさを常に感じています。
個人的解釈がこれほど異なる言葉も滅多にないという思いもあります。
ただ、俗にこの言葉を使う一般的なニュアンスは解しているつもりです。

今の地球での一般常識を超えた容姿なり技術なりを持っているとか、つまり簡単には理解不能な人を「宇宙人」と呼んでいる場合が多いのでしょう。全般的に「規格外」の意味合いで使われてるのだといます。ですから説明のつかない度肝を抜かれるような何かを見せられたら「宇宙人だ~」で褒め言葉になりますし、「どうしてそんなバカな事を言い出すんだ!」というような場面でも「宇宙人だからしょうがない」とでも言っておけば角が立たなくてよい、便利な言葉でもあります(笑)。

「宇宙人」という単語の私的見解をいちいち説明するのも面倒ですし、まず嫌われるだけですから普段は私も気軽に「宇宙人」という単語を使って流してしまうこともあります。でも実は、その言葉の定義に重要な意味があると常々考えています。

仮に自分が小柄な黄色人種で農作物が主食だったとします。そこに身長体重が倍近くて常に肉の塊を食していて体臭のきつい白人が現われたとします。それでも同じ地球人だということは現代人だから解するわけです。実際に「南蛮人」と呼んで同類別種の生物として扱っていた時代があったのです。

宇宙人という言葉を出して騒ぐのは「自分が宇宙人以外の存在だ」と定義しているようなものです。秋田県民でも岐阜県民でも大分県民でも日本人であるように、地球人が宇宙人なのは当たり前過ぎる話です。

それより何より思うことは、皆さん物質形状に固執し過ぎなのです。手足が二本ずつあるだけでもかなり物質的には近縁です。その前にまず、地球の粗雑な波動に浸かりきっている人間の肉眼で視える知的生命体はかなり限定されてきます。俗に言うUFO自体も知的生命体ですから同じことです。

赤ちゃんに「脱糞とはどういう事なのか」をわからせるために目の前でケツを出して見せてやる大人がいるのと同じように、まるで粗雑な波動中の物質であるかのように存在を見せてくれる知的生命体は確かにいます。でも本当は、自分で便所に行けるようになればよいだけの話なのです。

それにはまず、「便所とは未知で恐ろしい場所だ」ですとか「誰々が一人で便所に行って用を足したなんてウソだろ!」などと特別視しているかぎりお漏らしが続くのです。

毎日当たり前に便所に行ける人にとって、脱糞放尿は特別な話題ではありません。常時いろんな知的生命体と交流している地球人は今も昔も普通にいます。それができるようになった本人には取り立てて騒ぐことではないから、普段は黙っているだけなのです。

あなただって非物質の知的生命体なのです!(一部、物質としてだけ制作された存在たち、ごめんなさい!笑)

2018年03月10日

人は動物とどう違うのか

「死ね!」という言葉。近頃は気軽に使われるようですね。

自分にとって最悪だと思う言葉を相手に浴びせることが目的なのでしょうから、その言葉を発する人こそ「さもなければ死ぬ」という状況下では「何でもする、頼むから命だけは助けてくれ~」となるはずです。

それが、戦争では「相手に殺される前に殺さなければ」という思考に自然とつながって参画者が集まり大量殺戮ゲームが成立するわけです。日本ではここ70年ほど経済戦争にとってかわってはいるものの、表向き殺傷能力のある武器を直接使わないだけで、生きて行くために仕方なく戦っているという意味では同じでしょう。

それらがアホらしくなって戦線離脱する人が今は急増しています。

他の生物と同じように、常に肉体生命の危機に晒されながらかろうじて生き残った生体が、肉体死を迎える前にせめて種を残して後を託す…人間もそんな時代が多いわけです。

ところが皆が物質的な豊かさを求め、叶え、種として過剰繁殖するにつれ肉体生命維持(種の保存)を疎かにするため、大量殺戮ゲームを始めたがる暴君が出てくるのです。

それが個人レベルではどう出るのかいうと「肉体死を避けるためなら何でもする」だったのが「あれもこれもしたくない」「子供がほしくない・家庭を築きたくない」「次世代のための環境保全なんて思いつきもしない」「むしろ肉体死を望む」人が増えるのです。それがこの星の現状であり、これは「熟している証拠」なのか「ほとんど腐っていてどうしようもない」のか、見解が分かれるところです。

私が何を言いたいのか…

「ここ数千年の地球にかぎって言うと、ほとんどの人間は知的生命体ではなくてアニマルとしての経験を積んで来た」ということです。言葉は悪いですが、労働力が家畜や奴隷から機械へ、更に人工知能へと大きくシフトしている今、資本主義が続く限り「ちょっとくらい器用で賢い奴隷でももういらない」となるわけです。

自分をサルやチンパンジーと同列の「動物」として認識しているかぎり、恐怖や不安は増すばかりです。ところがサルとほぼ同じ形をした人間ですが「その本質は非物質の知性」だと気付いたのならどうでしょう。

セイジョウ石井はそんな説明を試みています。

2018年03月08日

直線と曲線

自然のあらゆるものが奇跡で溢れ返っているのに、肉体死を免れる奇跡、あるいは大金が手に入る奇跡にしか興味のない人がとても多いイジョウな世の中にメッセージを発信する「セイジョウ石井」です。

インテリアでも服でも乗り物でも、何でも特に意識していない方が多いだけで、皆が直線と曲線の絶妙なバランスに「美しさ・優しさ・癒し・面白さ・不快感」等を感じている、私はそう考えています。それは自然に既にあるものを人工物にどう取り入れるのか?でしかないのですが…

その辺りの私的研究にもってこいなのが、趣味で私が数十年続けている鑑賞魚飼育です。

形のバランスだけではありません。色や大きさや性質など、それぞれの特性が活かされる組み合わせをいかに成立させるのか…まさに日々が実験です。

固定された四角い箱の中に、動きのしなやかな生物たちがゆらめく。それを眺めるだけでも私には歓びなのです。しかも、一年半前に視力を失って一度は全撤去したので、視えるようになってきた今は小さな水槽と魚でも大歓びの子供状態(笑)。

写真にある龍のように体をしならせて泳ぐ魚であっても、鱗はレンガを積んだような数学的緻密さでもってきちんとモザイク模様になっているのです。子供の頃から昆虫や魚類や植物を観察しては素直に「これの設計主は何者?」と、ずっと未知の存在に想いを馳せていました。

私は宗教とは無縁の環境で育ったのですが、宗教で言ういわゆる「神」的な非物質知性をずっと尊重していたのす。きっと誰もがそうだったのだと思うのですが、そんなことをいくら考えたところで、うっとうしく思われることはあってもカネにはなりませんからね(笑)。

実は、皆さんの肉体は自然生物を凌ぐ奇跡の集結です。運動能力はじめ機能面においては他の生物に比べてダントツ低スペックなのにもかかわらず…です。

たしかに物質としての比較でしたらダントツの貧弱生物ですが、非物質能力が幾重にも宿っていて、それを物質世界に活用できるという点で圧倒的な生物なのです。

その能力を現文明のように「大量殺戮兵器を開発使用できる」というような特性として活かしているのが残念なところです。知的生命体本来の特性を、カネと権力を得ること以外に向けられるのか?

それがとてもセイジョウな考えだと思うので「セイジョウ石井」はこのような発信をしています。「現文明を一旦崩壊させる以外に手はない」と、口にはせずともどこかで諦めているのは物質的な発想でしかないと私は思うのです。

効率優先の直線思考では「変えられない止められない」か「ぶつかって終わる」しかなくなるのです。だからこそ私は一見無駄に見える曲線をふんだんに盛り込んでいるのです。

「すぐにカネや名声には繋がらなくても、知的生命体らしい在り方を求めましょう」
セイジョウ石井がお伝えしたいのは、ただそれだけのことです。

 

 

2018年03月04日

3/3高次元波動体験会のご報告

昨日【第10回・高次元波動体験会】が開催され、おかげさまで無事に終了いたしました。遠方からご近所まで様々な場所からお越しくださった皆様、誠にありがとうございます。

 今回は、「私『セイジョウ石井』が、なぜ現社会をイジョウだと言っているのか?」「高次元波動とはどういう意味なのか?」の説明に十分な時間を費やした甲斐あって、人間型非物質存在よりも色彩や幾何学図形サインを受け取る率が高かったです。

おかげで、知的存在といえばヒューマノイド型ばかりだと思いがちな現代に生きる皆さまにも「知的生命体・知性とはどういうものを指すのか?」という話を複数の角度からできました。

参加者みなさんの体験が意味していたことが何だったのか…その場で全てまではわかりかねた部分も、以後ジワジワ判明してくることでしょう。それが明日なのか来週なのか来月なのか来年なのかは、参加者それぞれのお楽しみ!笑

2018年03月01日

わかってない!?

「親切ぶっている(偽善)」と思われることを恐れて些細な行動も起こせない人が標準となっているイジョウな世の中で、堂々と「確実に訪れる肉体死から逃げないで生き方を決めましょう!」と発信しているセイジョウ石井です。

気付けば3月ですね。以前、自分を理解してもらうコツを話題にしましたが、それとは逆の立場での発言で「あの人はわかってない」という、ほぼ決め付けに近いもの(笑)もあります。

私の経験では、早々と「わかった」と答える相手こそわかっていないことが多いようにも思えます。むしろ「どうでもいい・うるさい・めんどうくさい」と感じていると早く切り上げたくて、その場ではすごくよくわかったみたいな態度を示すケースはありがちです(笑)。

つまり、しっかり聴いていてその事に真剣に向き合っているテーマほど、安易な返答では済まされなくなるのです。

ですから、誰かに何かを言ったら相手が質問を返してきたり、あるいは敢えてしばらく沈黙してから代案を出してくるとかなら、それは言ったことが響いている証拠です。それが本来の人間の自然な振る舞いだと思うのです。

大佐か長官か部長か先生かそれは知りませんが、上司となる人は大抵が自分の言った通りにそのまま従う人を好むため、雇われている身なら誰もが自分の処遇を決める相手から言われたことには即従うことが賢いやり方となり、それが私生活でも習慣化している人がいるのかもしれません。数値化できない創造性などがある人は、属している組織が大きいほど才能の芽を伸ばすことが難しいのは当然のことです。

いずれにしても自分の人生の舵取りが人任せとなったまま何十年も過ごしていれば、当たり前ですが創造性どころか思考力も判断力も失って行きます。それを実感している人も多いでしょう。

少し話が逸れましたが、なぜ急にこのテーマを持ち込んだのかと言いますと、近頃一歳の息子と遊んでいていつも思うからです。

写真は、車のオモチャで一緒に遊んでいたのに息子がそれを突然ほったらかしにして別の行動に出たため「おい、終わりにするのなら片付けろ!」とかキツめに言っている私の画です(笑)。返事もなし、一切振り向きもしないのですが、ひとはしゃぎ終わると一人で黙って片付けをするのです。

つまり聞こえているし、わかっているのです。「ちゃんとわかった素振りを見せればご褒美がもらえる」といった発想がない(実際にしてないので)だけなのです。それを「もう、わかんないかなぁ」とかブツブツ言って毎回私が片付けていたら身につかない習慣です。

大の大人を赤ちゃんと比べるのもどうか?…そう感じる人もいるでしょう。

ところが歳を重ねて穢れる人が多いというだけで、人間の本質は老人も子供も大して変わらないと私は思うのです。むしろ受けた洗脳が少なくて、長期の執着を持たない分フラットで、相手が子供だからこそ学びが多いと考えています。自分自身のこの肉体人生も、何か大切なものを見失いそうになった時は自らの幼少期の記憶や感性を頼りにしてきました。

「相手がわかっていない」と決め付けることは、以後のあらゆる場面で「自分は要らぬことばかりしていた」という状況に自分自身を導くリスクの高い行為です。

「わかった」ということをすぐに表現しないからといって、その相手が本当にわかっていないとは限りません。自分の思い込みを口や態度に出すのは少し待ったほうがよいのでは?

でないと、アナタこそが「わかってないな~」と相手に思われているのかもしれません(笑)。