お知らせ

2018年 10月
2018年10月24日

レンタマン?

少し困ったことに、私の身体は2年前の意識不明状態に陥ってからというもの憑依体質になってしまいました。死人が私の身体を使いたがるという意味です。

 

元々、私は人間の生死に特別な関心があったわけですが、肉体死は迎えたけれど完全に非物質化していない人の影響をあからさまに受けると不都合しかない、という認識でしたので、できるだけ幽霊系を察知しないように努めてはいたのですが、やはり今回の私のように肉体エゴを捨てて身体から出てしまうところまでやると、制御不能になってしまう部分もあるようです。

 

この世にウラミツラミのある不成仏霊ではないだけありがたいのですが、この物質世界を変貌させたい欲求がある方からのアクセスが多いようです。

 

肉体意識での自覚はないとしても、非物質的な合意がなければ起きない事かと思われます。

 

倒れる前にはこの身体には入っていなかったエネルギーが介入してくる私の特徴としては、全身が痺れて上手く動かなくなる、しっかり寝ていても異常に眠くなる、喋りや動きが入って来た方の生前に似てくる…などがありますが、最も判りやすいのは食性の変化です。

 

退院後1年間程、とある方にどっしり居すわられたのですが、その方は生前大食いの甘党で有名な方だったので、私ほとんど身体を動かせなくなったくせに、私が意識不明になる前は無関心だったシュークリームやらロールケーキやらを毎食後に自分で買いに出てまで口にしていて、内情を理解している妻も協力的に買ってきてくれるようになり、半年で20キロも太りました。

 

やはり、食べることは肉体がないとできないことですからね(笑)。一時、私の身体を提供してあげたわけです。ところが最近、急に甘いものに興味がなくなってきたから「納得されて退出したのかな?」と思ったわけです。

 

同時に不慣れなエネルギーのアクセスを感じているので、「新しいお客さんか!?…もう入室拒否にしちゃおうかなぁ」ってところなのですが、鍵を閉めていてもこじ開けようとしている感じで、不快でもないのです。

 

仮に病院に行っても事情を理解できる医師はいないでしょうし、宗教はもっと関わりたくないしなぁ…笑

2018年10月23日

生きにくさは生きる動機になる

私は小学生までは割と調子づいた友人の多い子供でしたが、中学頃から人間社会に幻滅し高校頃には大の人間嫌いになっていました。大人になってから誰かと居て楽しかった事はほとんどありません。(楽しいフリをすることはよくあった)

 

孤高に過ごせば楽しかったり嬉しかったりする事も沢山ありましたが、人間と関わると決まって寂しさや虚しさを感じてしまい、成人以降はできるだけ一人で過ごしていました。それでも所得を得るために勤めたり、親の手前結婚をして離婚もしました。

 

私は7年前にクモ膜下出血で倒れて頭蓋骨を開く手術で生還し、2年前の息子が誕生した日に脳幹出血で倒れてあの世を体験しました。医師の誰もが「これは死亡するであろう…」と踏んでいたのに生き続けてしまったのです。

 

肉体意識は戻ってもほぼ植物状態。これ以上の拷問はないであろうという全身の猛烈な痛み痺れに耐えてリハビリに精進し、今では食べたり話したり、オムツは必須ですがゆっくりなら歩くこともできる状態。痛みも大分緩和されています。

 

ここからが本題ですが、今は2歳になった息子だけは避けていません。数十年ぶりに私が人間に好感を持っているのです。私の身体では正直1時間相手をするだけで結構な厳しさですが、リハビリだと捉えて割り切れば何時間でも乗り越えられるのです。保育園にベビーカーでノソノソ迎えにも通っています。

 

ここ二年が肉体では人生で最も辛かった時期にもかかわらず、最も生きようとする意志がありました。今でも長生きは望みませんが、若い頃ほど肉体死を切望してはいません(笑)

 どんなに些細な事からでも喜びを感じることができるようになったからです。

 

そんな「逆境をものともせず上手に生きて行くコツ」みたいなものを、これからは皆さんにお伝えすることを楽しみに生きて行きます。

2018年10月22日

人それぞれの事情

今、私の住んでいる賃貸物件は要介護者や小さな子供に優しいバリアフリー物件です。家の中に段差がないのはもちろん、バスルームやトイレにもしっかり手スリがついていて、団地敷地内に児童公園があるくらいです。

 

建物入口にも必ず階段とは別にスロープや手すりが付いていて車椅子の出入りも多く、私のように不自由な身体をしていても、重くなければ一人でゴミ出しに行けるくらいで大変助かっています。自分の住む棟にはエレベーターが二基あって、うち一基は車椅子OK手スリ仕様なので転んで大怪我をしなくて済んでいる大きな要因です。

 

はっきり言って割高な賃貸物件ですが、若い頃から死ぬことは楽しみにしていたものの、まさか自分が手スリがないだけで転んだり、転んでも受け身が取れないような身体に40代でなってしまうとは予想してなかったので、ありがたくも複雑な心境(笑)。

 

ところが住んでみて意外な障害が…

 

同じ棟の同じ階のエレベーター前だけが建物の構造上お一人様仕様の部屋らしく、私でも妻でも息子を連れてエレベーター前まで行くと、若い入居男性が留守でない限りわざわざ中から出てきて陰険な顔をして「静かにしてください」と言いに来るのです。

 

叫んだり大声を出しているのならわかりますが、せいぜい「エレベーター来た」とか小声で喋るくらいです。そもそも下の児童公園からはその何倍も大きい子供の声がいつもこだましているのです。私も妻も根に持たれるのがオチなので「スミマセン」くらいしか言わないようにしています。でも、その男のために息子の口に毎回ガムテープを貼るわけにもいきません。

 

周りの他の子連れ世帯と会話してみても「あの人怖い」と言っています。私は真剣に危険な予感がしたので管理事務所に相談しました。すると事務所側の返事は「家賃の滞納とかしてくれれば私達も動きようがあるのですが…」でした。

 

子供が嫌いなら、この辺にお一人様専用物件はいくらでもあるのに、何故わざわざ割高な家賃を払ってまでここに、しかもエレベーター前に住んでいるのでしょうか。謎が多すぎます!笑 

 

平日はワイシャツを着て定期的に出かけているようなので、どこかしらに雇用はされているようです。大きなお世話ですが、人柄は問われない職業だってありますからね(笑)。

 

例え入居審査に「子供は嫌いじゃないですか?」なんて記載がなくても、児童公園付きで敷地内に管理事務所まである賃貸物件での出来事です。

 

気にしても仕方がないので「快晴の天気予報を見て出かけたら一日中しとしと雨が降っていた」くらいのことでしょか!笑

 

本当に様々な人がいるものです。

 

出来る事としては「他人のフリ見て我がフリ直せ」だけですね!笑

2018年10月21日

本来の自分らしさ

よく、「自分らしく」とか「本来の自分の姿」等の謳い文句を見かけますが、私はその度に思うことがあります。

 

商売上のキャッチコピーなのだとわかってはいても、それを読んだ人の中には「今のこれは本来の自分の姿ではない」とか「私ももっと自分らしく生きなきゃ」とか思ったりする人も実際にいるんだろうなぁ、ということです。

 

他人の営業妨害が目的でこれを書いているのではありませんが(笑)人は誰でもこれまでに積み重ねてきたものや手放してきたものの結果として今があるわけで、大凡いつでもその人の実力が出ているものです。

 

テストの一夜漬けみたいなことで取り繕える部分も多少はありますが、ランダムな話をしたり一定期間のお付き合いがあれば、その人の教養、センス、価値観などの人柄や人間性は、いずればれてしまうものです。

 

ですから私が最も重要だと思うことは、何をしてどんな状態にあっても「これが私の今の実力なのだ」と肯定することなのだと思います。

 

どんなに不本意で情けない結果を招いても、そこから目を逸らしたり誤魔化したり言い訳をしている時点で、それが「本来のその人らしさ」なのです!笑

 

今までの人生、どういう考え方で何をしてきましたでしょうか。その結果が今のアナタです。人は大凡、常に本来の自分らしい結果を出しています。

 

その自分らしさ(実力)も、常に変化しているということなのです。

 

2018年10月18日

思い通りにならない幸せ

何でも思い通りになる人はそんなにいるものではありませんが、色んな事が思い通りに行かなくて悔しかったり切ない思いに浸っている人はいつでもどこでもとても多いわけです。

 

しかし結論から先に述べますと、思い通りにならない経験をしていた時期があるからこそ思いが叶っている状態に喜びを感じるわけです。これは負け惜しみでも慰めの言葉でもなんでもありません。この物質世界に肉体で生まれてくる最大の意義を見出せるところです。

 

想いが全ての非物質世界にいたのでは、体験を通して理解する、楽しむということは不可能なのです。ですから皆さんわざわざ不便な世界に肉体という物質に宿ってまで、何でもすぐには思い通りにはならない経験を積んでいるのです。

 

何でも思い通りになってしまったらそこに喜びはありませんし、そもそも何をしにこの物質世界に出てきたのか?という話なのです。でも実際には「どうして生きているのかがわからない」という人が圧倒的に多数で、一定の年齢からはそれを考えることも止めて動物かマシンのように惰性だけで生きているのです。その惰性もつけられなくて死んで行く人も多いのが実態です。(表面上は病死だったりします)

 

 そのような内容を語っているだけでは闇をまき散らす宗教となってしまうのがオチなので(笑)私は異次元を普通に認識できている妻と共に皆さんにそのことを自ら実体験しながら認識してもらう試みを続けています。

 

何も特別なことではありませんし、怖がる必要もありません。

 

 

2018年10月11日

多次元の自己

同日の前の記事の続きです。

「乳幼児期は基本的に大人の認識している世界とは別の次元に存在している」という話でした。

 

私がそう考える根拠は「1~2歳頃のこの世界の記憶だけが欠落している」と前述しましたが、実はもう一つ根拠があります。

 

それは3歳頃から、元いた世界にわざわざ夜な夜な出向く必要が出てきたからです。その過渡期の記憶は曖昧なところがありますが、幼稚園に通う頃からのこの世界の記憶は今と変わらない鮮明さとなったのです。

 

つまり、自分の意識が基本的にこちらの世界に属するようになってしまったのです。しかし私の場合そのまま数年は自発的な儀式のように毎晩あちらの世界に戻っていたかと思われます。それはこの世界には「夢の記憶」として持ち込まれるというわけです。

 

この私の経験と実績を活かして数十年後となった現在取り組んでいるのが、異次元を認識できる妻と共同で行っている「グループセッション」です。

 

偏って凝り固まってしまっているこの世界だけのアナタではなくて、もっと普遍的なアナタを認識してもらうためのセッションです。

2018年10月11日

別世界の認識

私は異次元世界での人間の活動の様子をビジョンで見ることがよくありましたが、何故かその世界ではどこにも小さな子供が存在していたことがありません。

 

私は子供の頃に記憶力が強かった故、塾に通ってもいないのに気付いたら高校は進学校に在籍していて(そんな意志はなかったという意味です)前途多難な十代後半を迎えてしまいました。大学には進学したくないし、かといって就きたい職業もなかったからです。

 

そんな調子で「気付いたら大学生になっていた」「気付いたらここの社員になっていた」というような人生を極度に怖れていたというのもあります。

 

しかし記憶力が強いはずの自分に1~2歳頃の記憶が全くないことを不思議に思っていました。若い頃の私は、その事を「乳幼児の存在とは、大人には存在しているように感じられるだけで、大人と同じ世界には存在していない」と結論付けました。脳の発達と記憶とは無関係だと私は考えているからです。

 

実際に自分にも子供ができてそこをじっくり検証できるはずだったのですが、息子の誕生日に自分が意識不明の重体となってしまい、思考や発言が人並みになっているのかが怪しい今では(笑)私なりにじっくり息子を観察してきたつもりでも、世間一般のそれとは大きく隔たりがあるでしょう。

 

だから妄想だと思われても構いませんが、やはり大人と乳幼児が認識している世界は別物であると感じます。

 

ただ子供は、本質ではありませんが、大人の認識している物質世界に物質として存在しているかのようにも見せています。その実、大人とは別の非物質世界にも存在しています。

 

ガチガチの物質世界だけを本質だと思っている大人からしたら「非物質世界」である、という意味です。

あくまでも認識して受け容れている波動世界との相対的な別世界です。ですから、非物質世界を当然の事として認識できている場合でも、相対的な別世界は多層的にずっと存在します。

 

つまり、多層だけど多重でもあるのです。現代の先進国に住む人々には、それぞれの世界に意識をフォーカスする訓練が欠落しているのです。

 

それにしても、自分が認識できなければ「ない」としてしまうのは、あまりにも傲慢で稚拙な態度ですよね!笑

 

体験して認識しましょう。

2018年10月10日

遠慮なく豊かに生きる

「遠慮」という言葉を聞いて皆さんはどんなイメージ?

ビシッと断ったりするよりもやわらかに避けたい場合とか… 何かに対して「私は関心ありません」とハッキリ言うよりも角が立たない言葉は「遠慮します」笑

 

でも味をしめて頻繁に使うと自分の好みや考え方・生き方を曖昧にする言葉という側面もあります。

私の考察では「敵をつくらないようでいてそれ以上に仲間をつくらない言葉」というイメージ。

 「私はかかわりたくない」と「私は自信がない」をダブルで発しているような効用のある言葉!笑

 

言葉だけの問題ではなく、常に遠慮気味な態度の人は全般的にチャンスを逃す⇒チャンスそのものが来なくなる⇒誰も相手にしなくなる…の傾向があるように思います。

 謙遜・配慮・気遣いはまた別の話。「遠慮」は排除や否定を意味してしまうのです。

 

小さな子供はあまり遠慮をしません。他人からの印象を気にして何かをしている時点でもう子供じゃない(笑)

私の息子は、0歳の頃から私が朝は歩くことも難しい身体であることを察していた。どんなに遊んで欲しくても朝は私を放置していてくれます。その分、夜は容赦がなくて毎日が「ねぇ、一緒に遊ぼう~」モード。

 

息子が常に遠慮していたとしたらどうでしょう。私が息子を心配しなくてはならなくなります。

 遠慮がちに生きるという行為から生まれる事は何かと言うと「大きな問題を抱えているのではないか?」とか「ばれたら困る隠し事があるんじゃないか?」等の疑惑がほとんどであって、他に得るものは何もない。

 

しかし今は実際に大人の多くが遠慮がちに生きている。 私にとってはそれが人間社会の不思議さ!

 「豊かさ」を求めている人が少ないのか、求めてはいけないとでも思っているのか…

言い方を変えるなら「あらゆる事との関わりを最小限にするのが豊かな人生だ」と定義している人が多いのでしょう。

仮に面倒なことがあっても、関ることこそが人生を豊かにするのではないでしょうか?