お知らせ

2018年 11月
2018年11月29日

誰への不平不満?

私が10代からよく感じていたことがあります。常に評価を求めているような人は、基本「皆は私より優れているけど私は皆に比べて劣っている」という考えが根底にあります。

 

私の率直な意見を述べると、「この人に評価されるなんて残念だ… と思うことは多くあっても、無視されたりどんなにバカにされても気にも留めていない」という人だけが突出した結果を残す傾向にあると感じています。

 

自分のことを悪く言われても怒ることもないわけですから、決して傲慢ではありません。

我慢するわけじゃなくて自然と他人を嫌ったり恨んだりはしない平和主義ともなり、チヤホヤされても舞い上がる事もなく、むしろ謙虚なタイプだと思います。

 

だから、他人の事をとやかく言っている本人が、自分に対する不平不満をこぼしているようにしか見えなくなるのです。そんな人を相手にするのもばからしいですよね。

 

問題を起こしているのは他の誰でもありません。 
自分
自身の自己評価がほとんどなのです。

2018年11月25日

どっちでもいい

若い頃から色々な書物を漁って、医師から見ても「死亡でしょ」と思われる状態を何度か経験してきた私には「人間とは肉体という物質でもあり、非物質のエネルギーでもある」という事を疑いなく確信しています。

 

ただ、マクロで考えると「どっちが正しくてどちらが誤りである」というような性質の話ではないので、このテーマは扱いが慎重にならざるを得ないのです。

 

「物質肉体で生きているうちが人間の全てである」と多くの皆が勘違いする事を前提としてゲームが成り立っている世界なのも事実。その前提をわざわざ崩すと、ある見解では「この世界のゲームを台無しにする暴君が出現した」という事にもなりかねないのです。

 

でも私は、子供の頃から死の恐怖を植え付け洗脳してまで肉体生命の存続だけに価値があるように仕向けるのはいかがなものかと思うのです。自分はそのおかげで「肉体人生とは長く維持する価値はない」ものだとばかり十代の頃から感じていました。

 

「そういう価値観に仕向けたがるのは実はそうじゃないからだ」としか思えなかったのです。戦死や過労死をするまで人間を酷使するためには、そこが重要なのだと高校生頃には気付けたのです。

 

肉体人生に良いも悪いもありません。誰もが色んな体験をするためだけにこの物質世界に訪れているのです。

2018年11月24日

寿命があるからこそ

私が2歳の息子のことを投稿しているのを見て「子煩悩だな」と思われている方も多いでしょう。どう思われようと自由ですし、その事を正直気にも留めていません。

 

私が倒れて意識不明となった日に生まれた息子を後日私が認識できた時、「コイツの存在をまだこの世で認識できているのなら、どこまで関われるようになれるかを確かめてみよう」猛烈に痛くて苦しいだけでほとんど動かない身体で私はそう誓いました。

 

その甲斐あって、医者には危険すぎて止められるようなリハビリを連日こなし、今では眼もまあまあ見えるし話せるし歩くことができて、糞尿を漏らす機会も随分と減りました。

 

「いつかやろう」と思えば、何もできないまま人生は幕を閉じます。健康な人でさえもそうなのですから、ましては死に損ないの私なら・・・生きていたとしたら二年経った今でもベッドで何も出来ずに呻いていたことでしょう。

 

それでは生きていても意味がない、私はそう考えるのです。肉体を去る時に納得の人生であれば、肉体年齢なんて無関係です。むしろ無駄に長生きをするほど虚しさは募るでしょう。だから自分が危険なことを理由に何かを止める事は元々あまりありませんでした。

 

いつまでも今の肉体生命があるかのごとく錯覚しているから、何もしないし死ぬのが怖いのです。結論、人間は数えられる日数で必ず肉体死を迎えるのです。

 

これは今生きている誰にでも共通している事項です。愚かな大いなる勘違いをして無駄に生きようとする人が多いから、食肉にもならない家畜として扱われてしまうのです。

 

2018年11月12日

誕生日

成人してからの私は自分の誕生日を気にしたことがありません。当日中に気付いた場合には「あぁ、私はまだ肉体で生きているんだ」とは思いました。

 

当然の話、誰にだって誕生日と命日はあります。「そんな当たり前の事に振り回されていったいどうする!」というのが今でも本音です。

 

「息子の誕生日、よりによって父親の命日と同日にしてやりたくはない!」意識不明となっても私はそこを意識していたようです。息子の誕生日を2回祝った時、どちらも自分の命日を祝った実感があったのです。

 

死の床に伏してその瞬間を迎える際に「いい人生だった」と思うか、「もっとああすれば、これをしなければ」との想いが湧くのか… 短命だろうと長寿だろうとつまるところそこに人生が象徴されているのだと私は考えます。

 

「死にたくない」と強く思う人が多いとして、生きて何をしたいのかにもよりますが、不本意な人生だったと本人が総括していることだけは確実です。

 

気持ちよく他界するためには一日一日を一生のつもりで、目立つ必要はありませんが悔いの無い人生を送る。それ以外に方法はないのです。

 

そんな日々を送れているのかどうかに改めて注意を向けられる!それが誕生日の最大の意義である。 私はそう考えます。

 

2018年11月06日

食に関する所感

息子はフルーツが主食です。朝はフルーツだけ、夜もまずはフルーツ、昼は給食で皆と同じですが息子は豆が大好きなので牛乳でなく豆乳にしてもらってます。でも帰ってきて給食について言葉にするのは「ぶどう・りんご・なし・かき」とかの果物名ばかり(笑)。

 

肉は大抵吐き出してしまいます。野菜タップリの餃子なら食べます。親の指針や食性とは無関係です。本人が食べたがって喜ぶのが果物だというだけです。あとは納豆・豆腐・味噌汁が好きです。

 

私も近年歳のせいか肉は欲しません。食べても大抵体調不良で後悔します。でも料理のダシを取るのが魚肉なしでは厳しいと感じます。

 

魚肉食を悪く言う人が結構いますが、植物だって生物を殺して食していることには変わらないので何でもいいと私は考えます。成人後は基本身体を作る必要がないわけですから、ずっと若い頃と同じ食生活というのはおかしいとは思います。

 

私が重要視しているのは「摂取しない方が良いものは確かに沢山ある」ということです。

 

同じ地球上でも「一生肉だけ」「野菜だけ」「ほぼ穀物だけ」「ほぼ果物だけ」「昆虫メイン」…地域によって人種によって昔から色々あるのです。だから「これが良い」「これはダメ」とか言うのは宗教と同じだと思っています。

 

今の日本は医療や食に関してほぼ皆がカルト宗教信者みたいなものです!笑

 

果物をドレッシングや調味料なしで食していれば確かに堅いですね。人の手にかかった農作物ですから言えばきりがないですが、それは食物でなくても空気でも水でも手に触れる食物以外の何でも同じことです。神経症みたいになれば「生きていない方が良い」って結論しかなくなります!笑

 

身体が欲しているのを感じる・身体が拒んでいることに気付く・これが最も重要かと思います。

 

2018年11月04日

深い想い

私が倒れて意識不明になってから意識が戻って程なく、私と入れ替わりで誕生した息子に病室で接触しました。眼も見えないし手足も動かないし思考もボンヤリでしたから記憶にはほぼありません。とにかく全身が猛烈な痛さで辛いことは自覚できていて「しまった!死に損ねた」という想いだけは強くありました。妻の話では、わたしが奇声を発して嗚咽していたそうです。

 

なぜかその時、私がどこかの次元の思考で決めたことがありました。膨大な臨死体験記憶を整理しながらその隙間でちょっと考えただけなのですが「全身が動かないのでは自殺のしようもない。視えないコイツもまだ何の生物かもわからない。生きていることがどんなに辛く厳しくても、せっかくこの世に出てきたコイツの人間らしいところを自分がこの世で見届けられるまで生きてみよう!」そう自分に誓ったのです。

 

必然的に私の目標は定まります。一生身体が不自由なのは当然。でも「視える・話せる・歩ける」くらいは自分の意志次第だろう。明日には死ぬかもしれないのは誰だって元々同じです。

 

 

今日の午前、私がいつも通り数時間リハビリに出て帰ってくると「おかえり~」という妻の声に続いて息子が「カズ~待ってたよぉ」と言ったのです。

 

「ただいま」「おかえり」等の単語は0歳から発していましたが、大人でも発しそうな言葉をちゃんと聞いたのは2歳2ヶ月の今日が初めてでした。それで思い出したのです。

 

痛み苦しみに耐えてリハビリを続けてきた今の私は結構普通に話して、まあまあ視えて、ノロノロですが歩けます。空いているバスや電車で座ってなら移動もできます。そして今では息子の方が身体能力は断然高くて言葉も発しているのです。

 

最初に前提条件として勝手に決めてしまっていますから2年経って気付けばそうなっているわけです。それを世間の常識に照らし合わせて医師の言うことを聞き入れていたらこうはなってないでしょう。

 

表層意識はさておき、誰に言わずとも深いところで誓ったことは叶えてしまうのが人間なのです。その反対のことも常に深いところの思いが叶った結果なのです。