お知らせ

2018年 4月
2018年04月30日

上限のない知性

「人間がどれくらいの次元変化を認識できているのか?についての確認のとりようがない」という問題、皆さんもぶち当たっているはずなんです。

 

朝ベッドで目覚めた際、会社に出勤しようと急いで髪や髭や服装を整えているうちに毎日の習慣をこなしているだけの感覚が蘇り、1時間前の自分の五感がどうであったのかを突き詰めて考えることもなく、遅刻しないで無事に出勤することに意識を向けて毎日必須の異次元体験が例のごとく蔑にされている…だいたいそんな具合じゃないでしょうか?

 

睡眠中のアナタは毎日どこで何をしているのでしょう。アナタの肉体はベッドで横たわって呼吸を継続しながら心拍を繰り返していることでしょう。暑さ寒さをはじめとした寝苦しさがあれば意識が肉体に戻ってくることもあります。しかし毎晩アナタは原則肉体のあるその場所にはいないのです。

 

誰もが毎日異次元を往来しているのに、その事実を軽視しています。それは「ちょっと考えてみても答えが出そうにないから」といった理由からなのでしょうか。

 

誰もが平行した宇宙で生活しています。ところが多くの人は特定の会社があったり特定の家族がいたりする世界をメイン宇宙としていて、他の宇宙とは関与しないように努力しているように私には見えます。

 

その限定した世界観が死を怖れさせているのです。

 

複数、それこそ無限にある人生や宇宙観における自分の肉体死は特別に絶対視されることがありません。人生では唯一の世界観に逃げ込むことさえ止めれば、肉体死さえも大した問題ではなくなるのです。そしてそれでこそ知的生命体なのだと私は思うのです。

 

肉体死を無暗に怖れて生きているのは、知性とは無縁な獣の生き方なのだと思います。ですから私は人間に多くの宇宙を、無限の世界を知っていただきたいのです。そして肉体死を絶望視することのない、肉体死を回避するためだけではない、知的な人生というものを皆さんに送ってほしいのです。

 

私が開催しているイベントでは、参加者の皆さんが異次元の存在を肯定的になって帰られます。毎日睡眠をとっていることの意味を再認識しているのです。その感覚に慣れてくれば、複数の宇宙を同時認識して生きる知的生命体の醍醐味を味わえるときが遠からずやってくるのです。

 

人間のしくみは自ら探究しなければ得られないものでできています。それが、どこの書物にものっていない異次元の無限の知性なのだと思います。

2018年04月30日

理想的な人との出逢い

夫婦や恋人になる男女ばかりではありません。この世の中で何かを成し遂げようとしたなら、仕事でも趣味でも特定の誰かに期待したり依存したり邪魔に感じたりといった関係は生じてしまうものです。

 

人間一人きりで成し得ることは原則何もありません。天涯孤独な個人プレーだけを自負している人だとしても、その人物を陰で支えたり持ち上げたり引っ張り上げたりする誰かが存在しなければ、その人物の成し得る何かが世に出て行くことはないのです。

 

そこで重要なのが人間関係の構築です。「自分にぴったりの理想的な人物との出会いが人生成功の大きなカギを握っている」と考え、いつか訪れるその日を待ちわびながら準備に勤しんでいる人も若いうちは多いことでしょう。

 

しかし、自分にぴったりの誰かがあなたとの出逢いをたまたま待っている確率は、いかほどでしょうか? そもそもそのような人物はこの世に存在するのでしょうか?

 

理想的な相手とは、自ら築く人間関係のことであると私は考えています。それは「自分にとって理想的な相手が現れる」のではなくて「相手にとって理想的な自分にどれだけなれるのか」なのです。

 

誰を相手にしていても、自分と似ている部分と異なる部分があることでしょう。その相違部分を理由に「だからアタナとは合わない」と思ってしまうかどうかです。

 

互いが量産マシンでないかぎり何から何までが同じということはあり得ないのですし、その相違を楽しみに感じるのか不快に感じるのかの問題なのだと思います。

「考えや価値観が似ているそっくりな人とこそ一緒に過ごすべきだ」という幻想を抱いているかぎり、仕事でも趣味でもしっくりくる人間関係はずっと構築されないでしょう。

 

気候天候から人間関係まで、快適に思える条件が自分にあてがわれる可能性は誰にとっても常に低めです。でもそれがこの世のゲームなのです。「条件が不利だから遠慮願いたい」と億劫に感じるのか「そこまで難しい条件ならばクリアし甲斐があるじゃないか」と活気付くのか…

 

後者が常にパートナーに恵まれているように見える、というだけのことだとセイジョウ石井は考えています。そしてそのような人柄の相手に対してはついつい貢献したりサポートしたり、尽くす傾向が皆さんにあるのではないでしょうか。

 

出逢うことが叶えば自分の本領が発揮できる…そんな誰かを待ち続けている言い訳だらけの人生は、はっきり言って単なるイジョウな妄想癖だと思います!笑

2018年04月27日

イベントのご報告

4/25と26、二日間連続で「非物質の自己に気付くワークショップ」を開催し、参加者の皆さんにご満足頂いて終了できました。ありがとうございます。

 

人生のあらゆる悩みや苦しみは「鏡に映る物質の肉体が自分の全てである」という思い込みや勘違いに起因しているため、非物質である自分の本質に触れることで人生のテーマが変わって行くのです。「参加者全員にそのことを充分認識してもらえた」という意味です。

 

いまだに肉体容姿にこだわって整形やファッションに夢中になっている人や、どれだけのカネを得ることができるのか?だけを重要テーマとして人生を送っている人達も存在します。いずれにしても「物質として入手可能な何かが自分の人生を豊かにするわけではない」ということを学ぶ時期が、誰にでも訪れるのです。

 

つまるところ「いかに生きるのか?」…誰にしてみても人生、この一言に尽きるわけですね。

 

今回初めて導入を試みたシャーマンドラムの鼓動が、皆さんを効果的に異次元へと誘うことを確証できたので、次回も積極的に導入してみようと思います。

 

日常的に異次元に出入りしている自分という存在を認識できたなら、固有名詞で呼ばれている肉体に付随する自分のほんの一部を絶対視することはなくなります。小さな自己認識のままで悩み苦しんでいる暇はなくなるのです。

 

そんなきっかけ作りを一緒にしてみませんか?

次回日程はまだ確定していませんが、お気軽にお問い合せください。

2018年04月15日

期限の自主設定

社会人でしたら「自分の与える印象次第で、社の売り上げや自分の報酬が左右される」…それは仕方ないとしても、まだそんな状況でもない学生でさえ、周りの皆や親にまで好印象を与えるよう努めている人が多い、それが今の世の中です。

 

それは、逆に捉えるなら「一般的に深い関係だと自分では思っていても、長年どっぷりかかわってみなければ相手の人柄云々は語りようがない」ということです。

 

それでも原則はあります。「人間(自分)は、いわゆる悪い事、ずるい事、ひどい事をしてしまいがちだ」と考える人は、自分が「いい人だ」と思われることに比重を置いて暮らしています。つまり「素の自分では人に嫌われてしまう」と考えているのです。

ですから、凶悪事件が起きて周辺住民にインタビューすると「きちんと挨拶もできて普通の印象だった」みたいな声が決まって上がるのです。

 

自分にそのような罪悪感というかコンプレックスがない人ほど、自分に対する他人の評価や印象を気にも留めないで、やりたい事に熱中したりします。

すると「失礼なことでも平気で言う」「損な性格をしている」などと陰で囁かれたりするのです。でも実際は普段どんな人が相手でも、愛情いっぱいで接していたりするのです。

 

上述はもちろん極端な例でして、「人柄がよさそうな相手には気をつけろ!」とか「無愛想なら確実に人柄がよい」と言いたいわけではありません(笑)。何にだって例外はあります。

 

では、セイジョウ石井は何が言いたいのか?

それは「重要な物事とは気長に接する心構えが大切だ」ということです。

私が感じるのは、現代の皆さんは何かとイジョウに結論を急いでいるのです。

 

「諦め」「失敗」「未達」「挫折」等で表される結果は、全てが期限設定の問題であると思うのです。淡々とコツコツ重ねれば数十年で達成できることでも、途中で期限をきめて切れば全てが失敗という扱いとなります。

 

勉強でもスポーツでも金儲けでも、競うことが目的のゲームなら時間を設定しなければゲームにはなりません。それで言えば人生そのものだって、肉体だけで考えれば「死」を迎えるまでの究極の時間設定ゲームでしょう。

 

「人は非物質だから肉体死は実は大した問題ではない」という趣旨をお伝えしたくてあれこれ書いている一連のここのお知らせですが、仮に「肉体死が全ての終わりである」と定義している人からしてみても、肉体人生は平均で80年以上あるのです。

その間に何を成し遂げたいのかは人それぞれですし、人生の時期によって目指す方向があれこれ変わって行くのも、これまた万人共通でしょう。

しかし人生の本質的な事で「数年以内に結果を出す必要がある」なんて事はおそらく滅多にないし、それは「急がなければならない」という環境からの刷り込みによる勝手な思い込みなのであって、実は大したことではないテーマだ、という場合がほとんどなのだと私は考えます。

 

誰にしてみても周りからの影響でそう考えるようになったのでしょうが、結論は本人が期限設定を決めているのです。何をしても多くは失敗に終わるような設定をしているというわけです。

 

実は、「焦り」が本領発揮の大きな阻害要因となります。「常に当たり前にしていることが、焦った途端に上手くできなくなった」…そんな経験に皆さんも覚えがありませんか?

 

一生焦っていては、どれもこれも本領発揮できないまま肉体人生の幕を閉じることとなります。そして皮肉にも、そうなる見込みが濃厚と判断したある時期から、今度は焦って肉体死に向かう人が多いのです。

それが自殺という形を採ることは少なく、病死がほとんどです。「どうせもう自分なんか生きていたって…」そのような想いが病を創出して、物質実現化しているのです。

 

ですから私セイジョウ石井は「もっと大きく広い視野で人生を捉えましょう」と強く提唱しているのです。

2018年04月12日

ヒマが怖い理由

常日頃から「忙しい、忙しい」と言っていて、それでいてせっかく予定が空いている日があると、それだけで不安になって何でもいいから予定を入れてしまう人、けっこういらっしゃるみたいですね。

予定に穴が開くことの、何がいったい不安なのでしょう。

それは自分自身と対峙することが怖いのです。つまり人生について考えることから逃げているのです。

 

予定に追われて忙殺されていれば、目の前のスケジュールをこなすことだけで日々が過ぎて行きます。そして結果的に、頭も身体も自由がきかなくなる肉体死を迎える間際になって、はじめてあれこれまとめて直面させられることとなるのです。

 

しかし、そもそもそのようなタイプの人はずっと「死」をタブー視しているので、健康な間はそんなこと考えたくもないし気付きたくもないのです。

 

セイジョウ石井は、常に肉体死を怖れている人に対して「人生では常に病や死を想定して生きろ!」と言いたいわけではありません。私は保険会社や葬儀会社や医者や銀行や会計事務所のマワシモノではありませんから(笑)。

 

「肉体死とはどういうことなのか」を全く知らないまま無闇に死を避けていること自体がイジョウで、そんな態度こそが「死」に対する恐怖を自ら増幅させているのですよ! ということを述べているのです。

 

皆さん小さい頃にお化け屋敷に入ったことがおそらくあるでしょう。明るい会場で準備をしている様子を見ていたなら、多くの場合は粗末な材料で作ったセットの中で、オッサンがお化けのフリをして飛びかかる練習をしている…だいたいそんなマヌケなものです。

 

それが「真っ暗で、どこに何があって、いつ飛び出してくるのかもわからない!」という理由で、絶叫したり、腰を抜かしたり、入口に入ることすらできない人が出てくるのです。

 

ですから私には、肉体死を必要以上に怖れている人たちが「刺激的なアトラクションとして人生をスリル満点に楽しみたい人々」にも映るため、「肉体死を怖れることは、こんなにマヌケなことなんですよぉ」なんて具合に勝手に種明かしをして、その人の楽しみを奪ってしまうのもいかがなものか?

…そんな葛藤も実は常にあるのです(笑)。

2018年04月08日

記憶のありか

今日、1歳半の息子を連れて妻と近所の公園に行き、子供用電動(バッテリー)列車に乗りました。ミニ車両なので扉がなくて跨いで車両に乗り込む他ないため、今の私には文字通りハードルが高く(笑)今まで見送っていたのですが、体調も陽気もよい本日、初めてチャレンジしたのです。

 

息子の横で一緒に揺られていると、私が1~2歳頃の、記憶にないはずのビジョンがあれこれ蘇ってきました。

 

既に他界している私の父は、自身が末っ子として生まれた直後に母親を亡くしており、5人いた兄も皆腹違いで冷遇されていたが唯一、歳の離れた姉が母代りとなって育てられたため「子供(私)が生まれたことを大変喜んでいた」と、同じく他界している母から、私が若い頃に聞かされたことがありました。

 

そんなことを思い巡らせていると、1~2歳の自分が父の横で遊園地の乗り物に乗って騒いでいる場面がフラッシュバックしたのです。

 

「記憶とは脳の機能である」となっている現代で主流の考え方は、人間をまさに機械として見ているからそのような発想になるのです。だとしたら、PCのハードディスクやCPUがどうのこうの… 機械の性能ばかりがフォーカスされるのです。

 

確かに従来の受験などで必要とされる暗記力は左脳スペックに大きく依存しています。ところが動画や音楽など情報量が多い場合、異次元に存在しているデータベースに右脳でアクセスするのが人間本来のやり方なのです。

 

今では一部学習塾でも取り入れられているくらいの右脳活用法ですが、対象は児童ですし、相変わらず受験のためだけにそれが活かされているのです。

 

私が毎回イベントで皆さんに体験してもらうのが、実は受験のためではない大人対象の右脳開発なのです。異次元の自分自身へのアクセス方法のコツを解説しているのです。

 

異次元の非物質界は「空間」ですらありません。そこに長短や大小の概念はないのです。

 

そして更には「時間」の概念もありません。この物質世界では数千年前の出来事や数十年後の事でも、今として認識されます。

 

ですから「いつどこでの体験なのかもわからない、たった今さっきの経験が、実は過去や未来の自分であった」ということが普通に起こるのです。

2018年04月06日

まずは視野を拡げましょう

子供は何事にも没頭します。その反面すぐに興味対象が移ります。

大人だって同様に常に今を生きるのが自然なのです。

大人になると多くの人は労働をします。仮に興味がなかろうがやりたくなかろうが、継続を求められるのが労働というものです。

利潤追求だけが目的の組織からしてみたら「この時点ではまだ機械じゃ間に合わない」「機械を購入するよりも人件費の方が安くあがる」と判断した上で、その人材のスペックを見極めて採用しているのです。

「興味がなくなった」「他の事をすることにした」等の理由で辞職されては「無理してでも高額マシンにしておけばよかった」となるわけです… マシンならばしばらくは修理交換保証がありますから(笑)。

こんな具合で、実質はマシンとしての適性と耐性をチェックするのが受験システムです。つまり、企業や役所は人間らしくなくてももっぱらオーダーに忠実な人材を求めているのです。

だから不祥事とされるような物事が発覚したときに、その人間性を問う事は順序が逆でナンセンス。人間らしさの多くを欠落させることに成功したからこそそのポジションに付けた人間なのです。

そのことに気付かない人が世の中にいることが私には驚きです。

皆さん一人ひとりが意識を変えることでしか、社会システムを変える方法はありません。

システム上層部に乗っかっている誰かにそれを期待すること自体がかなりの矛盾です。

まずは視野を拡げましょう。

2018年04月05日

チャネリング

今日はセイジョウ石井の「チャネリング」についての見解を述べます。

 

今となっては、世に出回っている「チャネリング情報」は実に膨大な量です。その質もピンキリでジャンルも多岐にわたります。

テレビが希少な時代に街頭で流れる番組を群がって見ていた人々は、その内容を吟味したり真偽をはかったりはしなかったでしょう。ただ単に見て驚いて喜んで楽しんでいたのだと思います。

 

これをチャネリングに喩えると、チャネラーが希少な時代は、もの珍しさだけでもその現象に飛び付く人がいるということです。日本では昔から東北で「イタコ」沖縄で「ユタ」、広くは巫女と呼ばれるような人々のことですね。

 

しかしテクノロジーの進化で受信の精度は上がり、発信局も増え、ケーブルや衛星放送においては「アニメ専門」「時代劇専門」「エロ専門」「ギャンブル専門」など、まさに呆れるチャンネル数であり、それもネットPCだけじゃなく、移動中にでもスマホで皆が何でも選べる今となっては、むしろシャットアウトの術の方が大切なくらいです。

 

その内容について一律に優劣を語るのは、もはや古い人だけ。一見同じように見える人同士でも趣味嗜好では細かく分類されてしまっています。そしてそこに関してはチャネリングも「ご多分に漏れず」です。

 

白い羽の天使系の名や宇宙人の名を語る者には根強い人気傾向があるため、黒いグループも白っぽい名を語って物質世界を操ろうと、激しい顧客争奪戦となっています(笑)。

 

チャネラーも読者も随分と翻弄されているようですが、それも物質世界で肉体を持って基本は盲目に生きているゲームの醍醐味ですから、私はどうこうしようとは少しも思いません。

 

雨後の竹の子のごとく出てくるチャネリング情報のなかでも、バシャールのそれはなぜ未だに皆にシックリくるのか?

1980代後半からあれこれと読み比べて(その頃は書籍しかありません)石井が達した結論があって、今でもそれをモットーとしています。

 

それは「ほとんどのチャネリングは非物質存在に肉体を明け渡しているだけの憑依現象だ」ということです。

 

バシャールのチャネリングをしているダリルアンカの様子だって一見は同じようですが、割と早期から「私は未来の自分から過去の自分に情報提供している」旨を触れており、直線時間軸の縛りから解放された視点でみれば、単に「ある人物の発信する著作」でしかないのです。

 

そこが、巷に溢れている過去の著名人の名を語る憑依現象とは一線を画すところなのです。

 

私自身は、非物質の何者かに憑依されないよう常に細心の注意を払って肉体人生を送っています。ですから発信する文章でもイベントでも、読んだり聞いたりする人が結果的に他者に憑依されることのないよう対策を立てています。

 

ですからセイジョウ石井のイベントでも毎回、他者ではなくて「非物質の自分とのアクセス」を強調している次第です。俗に言われるおどろおどろしい霊現象とは無縁ですのでご安心ください。むしろ敏感な人でも憑依されないようコントロールできることを目指しているのです。

 

私が監修を手掛けて一昨年ヒカルランドから出版された「真名圭史著・非物質ガイドとの探索」シリーズ三部作にも、7人の非物質キャラクターが登場しますが、それらは全員、著者「真名圭史」氏のガイド(潜在意識)なのです。

著者であるペンネーム「真名圭史(まるの日圭)」氏のチャネリングスタイルに惚れ込んだ私が、自ら申し出て動いて出版を実現させてもらった本なのです。

 

チャネリング情報自体は非物質ですから「誰の著作なのか」は総じてそれほど重要ではないですが(ただ、いずれにしてもチャネラーの器以上の情報は降ろしようがないわけですから、チャネラーの教養や徳などの人格はチェック必須です)物質世界と非物質世界の関わりや仕組みについて、日常生活に根差した解説を試みた三部作です。

アマゾンキンドル読み放題にも含まれているようですから、電子版含めて読了された方とでしたら、もっと突っ込んだ話題にも入れます。

 

もし読まれたのでしたら遠慮なく是非ともコメントをください。できる範囲でお答えいたします。もちろんイベントでは更にじっくり解説しています。

 

2018年04月02日

新しい生活

今日から新生活が始まった方は多いでしょう。私の一歳半の息子も今日、保育園に初登園して大はしゃぎ、帰ってきてからもご機嫌です。

近況、進学・進級・就職・昇進・降格・配属移動・卒業・退社などが自分には何もなかったとしても、それらに関わる人が周りに一人もいないということはないわけです。視野を広げてみれば、自分の過去を思い出したり未来を想像したりして、やはり何らかの節目にはなっているのです。

息子の生まれた日に脳幹出血で倒れて呼吸以外は何もできなくなったその時の私は、まさに「死に損ない」の状態でした。

意識が戻ってもほとんど動けずベッドで横たわって全身がひたすら痛くて辛いだけの朦朧とした頭で「どうやらまだしばらくこんな肉体で生き続けることになってしまうらしい…」くらいの思いがすぐに湧きました。

 

しかし「どうせ生きるのなら」と覚悟を決め、かつてに近い身体機能を目指してリハビリに明け暮れて、常時襲いかかる全身の痺れや痛みに耐えてきました。

 

常に頭から離れない自殺願望にもめげず(身体が動かなければ自殺すらできない!爆)、その辛さに耐える最大のモチベーションが、今回の私の場合は倒れた直後に生まれてきた息子でした。

「息子があれこれ視覚認識できるようになるまでに、このデタラメ万華鏡のような視界を少しでもマシにしよう!」

「息子がしゃべり始める頃までに、きちんと誰にでも聞き取れるような発音をして会話できるようにしよう!」

「息子が歩けるようになるまでに、まず私自身がちょっとした手荷物を持ってでも歩けるようになろう!」

 

車椅子から立てるようになってから、まずは杖代わりにベビーカーを押して私がヨチヨチ歩行訓練を始めました。目が殆ど見えないので妻も必ず同伴です。

 

その他諸々、全てにおいて具体的な肉体機能再生の設定を自分でして、着々とクリアしてここまできたのです。

 

しかしその進捗にも限界がきはじめていました。肉体機能改善の加速度が落ちてきた私に反して息子が急に元気に走りだすようになってしまったのです。


肩車はもちろんのこと、子供を抱えて歩くことがまだ私にはできず、咄嗟に身体を動かせないし早歩きさえできない私と息子が二人きりでは危険が多すぎます。ここ半年はそれなりに私がこなしてきた、妻が不在時のベビーシッターも役不足になりつつあったのです(笑)。

 

ギリギリなタイミングでの待機児童からの脱却!

我ながらよくもここまで大きな事故なくやってきたものです。

 

子供を週に5日も預けることができるこれからは、時間確保が容易になる私自身にとっても大変助かります。独自のリハビリ内容も時間をかけてグレードアップできますし、あまり身体を使わない範囲でなら、仕事らしい事に費やせる時間も格段に増やせます。子供の保育園入園が、実際私個人にとっても大きな喜びとなっているのです。

 

どんなに羨ましがられているような人でも、とても他言できない苦しみを沢山抱えているものです。
逆にどんなに悲劇的に見える中からでも、いやむしろそれだからこそ、希望や楽しみや喜びをふんだんに感じながら人生を送ることができるのです。

私は気休めで言っているのではありません。自分の体験から実際そうであったことを淡々と語っているのです。

  セイジョウ石井