お知らせ

2017年 8月
2017年08月31日

規格外

今ではどうなのか知りませんが、私の小学生時代には負けず嫌いな子供がたくさんいました。では、どうして負けると悔しいと感じるようになるのでしょう。

よく思い返してみるとクラスでも一人っ子は珍しいほうでした。兄弟姉妹がいれば「○○ばっかりズルイ~」みたいな感情が元で言い合いになったりと、物心つく頃から自分と誰かとを比較する機会が日常に溢れているのが一般的だったからでしょう。親や先生から褒められたり認められるときも、決まって何らかの外部基準や他人との比較で「同じようにできている・落ちこぼれてはいない」ことが理由である場合がほとんどです。

他人との比較が意味を成さないような独創性を肯定して子を育む親や教師などは原則いなかったわけです。その子の適性や特異な才能を誰かに見出してもらえたのなら、かなりラッキーでしょう。英才教育という言葉は前からありましたが、残念ながら親の都合で子供をより強くコントロールするパターンが多かったように思います。

結果として、スペックにこそ差があっても規格製品のような人間が量産され、まるで生産ラインから出荷されるがごとくほとんどの学生が卒業すれば企業や役所に就職するのが当然でした。それが軍隊でなくなっただけでも進歩なのでしょうが、労働生活を長年続けた末にその苦しさや理不尽さから病む人々が多い中、病んでしまう前に勇気を出して声を上げたり人生進路を変更する人たちだってあちこちにいます。

でもこれら人生の選択は、実のところ「他人より飛び抜けて優秀(個性的)でありたい」というような欲求に基づいているわけではなく、むしろ反対の「皆と同じカテゴリに収まりたい、規格外の扱いを受けたくない」という強い無個性の欲求からきていると私には感じられるのです。

人によっては幼児の頃から深く気にも留めずに口にしている言葉「ズルイ」とは「それじゃ悪平等にならない・例外が認められている」というようなニュアンスなのかもしれません。どんなに馬鹿らしくても、くだらなくても、不条理でも、辛くても、そのことに全く興味がなかった場合でも、大勢の皆と同じであることを最優先する人間の生態は、未だに私にとっての大きな謎です。(笑)

しかし、そうではない人たちが増えてきています。他の多くの人がどうであれ、独自の感性や能力や考え方で発言をしたり行動したりする人、大きな組織への所属欲求のない人たちです。同時に物的所有欲求も淡い傾向にありますが、個人や少数派となればもちろん何事も責任は自分自身が負わなくてはならないわけですから、組織ではありがちな看板依存や責任転嫁の発想を持たない人物である可能性が高いのです。

そんな人たちには、必ずと言ってよいほど「ひきこもり」期間があります。既存のレールに乗っかっていては進めない人生を歩むのだから、物質的なこと以外にも準備が要るのは当然のことです。そのような人たちの存在比率が上がることに伴って、人間社会も徐々に変革して行くのです。

常に情報操作されているからには表面化することも少ないでしょうが、これは既にかなり進行している現象だと私は捉えています。

2017年08月21日

毎日が初体験

普段の生活の中で「人生初の○○!」なんて言葉を聞くと、よほど特別な事でもあったのかと思ってしまうものです。「でもそれは違う」と私は思います。見逃していて気付けないだけで、誰にとっても毎日が人生初の物事で溢れ返っているのです。

仮にあなたという人間の容器(肉体)の中身(霊魂)が入れ替わったとしたら「毎日が同じ事の繰り返しでウンザリだ…」と思って気にも留めていなかった事柄が「なんて変化の可能性に富んでいて刺激的なんだ!」と感じることでしょう。

「新鮮」とは「慣れ・飽き」があるからこそ感じられるものだと多くの人が考えがちですが、慣れや飽きとは、自らが改善や発見を放棄することから芽生える現象なのです。他人からは全く同じことの繰り返しに見えても、本人は毎回とても新鮮な気づきを得ているのかもしれないのです。

そんな中でも象徴的な変化を迎える時というものが確かにあって、その部分だけを切り取って大きな変化が生まれたように認識してしまうのが人の常なのです。もちろん好奇心も向上心もなく惰性で暮らしているだけの人には、そんな節目が訪れようもありません。許されているのならそのようにして生きるのも個人の自由ですから、それをとやかく言うのも大きなお世話でしょう。ただ、日々を新鮮な気持ちで送り、定期的に達成感を伴うような変化を人生で味わいたければ、今している事を常に楽しめるような創意工夫を心がければよいのです。

息子が誕生した同日に倒れ、後日に意識が戻った初期の頃に私が思ったこと、それは「脳幹損傷までしても死ねなかったのか… 以後もしばらくこの肉体で生きるとするならば、全身が痛くてしびれて尿意便意も全く感じず、眼もほとんど見えず、まともに喋ることも起き上がって立つこともできないこの身体を、息子が歩く頃までには普通に話したり歩いたりできるところまでは機能回復させよう!」と決めました。

何とか歩けるようになってからは、室内での単独リハビリとは別に、糞尿漏らしリスクを考慮しながら独り毎日1~2時間はノソノソ歩き続けてきました。そして倒れて約一年後の今日、ついに息子と二人きりでの公園散歩が実現したのです。

ここまでには「パンツを汚さずに帰ってこれた。一度も倒れずに歩けた。片足で5秒も立っていられた。階段を少し昇れた。少し降りれた。転ばずに振り向くことができた」…等々の些細な達成の喜びがずっと積み重なっていたわけで、それらは見ている人には判らないことなのです。自分が崩れたり倒れたりのリスクが一定以下になったから、今日初めて子連れ外出にトライしたというだけのことです。

この経験から私が皆さんに伝えられることは「どんなに些細な事でも大切に積み重ねて行けば、達成の喜びはずっと続く」ということ。そこには他人の視線や思惑など、全く関係がありません。

 

2017年08月18日

醜さの理由

私は人間の欲求というものについて10歳頃から何かと不思議に感じ、自分のできる範囲で色々と検証してきました。大人になって皆さんが知る有名な話で「まずは生理的欲求を充たしてから…」ということは、おおよそ子供にでも体感からわかることです。

どんなに物事に夢中になったとはいえ「丸三日何も食べていないことに気付いた」とか「便意を催したが50時間は我慢できた」とか「溜め込んだ宿題を済ませるまで100時間以上睡眠をとらなかった」などという子供はいないわけです。幸い私は極寒や空腹に耐えなければならない家庭環境ではなかったため、贅沢な話それがどんなものかを知りたくなったのです。

そこで自分の生理的欲求の実験調査です。どこまで眠らないでいられるかを試そうとがんばって起きていても、いつの間にか眠っていて気付けば朝!何度チャレンジしてもこれは同じでした。

排泄も、トイレで用をたしてから「そういえば!」と思い出すくらい当たり前に身体が動いてしまいます(笑)。

空腹は多少制御できました。ボクシングのマンガに影響され「ハングリー精神を養う」などと小学生にとって無意味でアホなことを公言して、数日間飲み物だけで過ごしたことがありました。後で思えば学校の先生には「子供なのにいったいどんな給食も喉を通らないほどの悩みがあるのだ?」と勘ぐられるのも当然で、誰も居ない部屋に呼び出されて「忍耐力を鍛えている」などと釈明する私に怪訝な表情をしていた先生の顔が忘れられません。

暑さ寒さは慣れてしまえば最もなんとかなったように思います。単純に、子供は大人に比べて生命力が強いというだけのことかもしれませんが…(笑)

話を戻しますと「人間は生理的欲求を充たすことが第一だ」の部分については皆さん異論がないでしょう。実は例外もあるのですが、ここでは「肉体を持つからには原則そうである」とさせてもらいます。それから順次続くとされる「安全・社会所属・評価・自己実現などの欲求は、人によってまちまちである」というのが私の見解ですが、今回の話の趣旨はそこではないため割愛します。

私の言いたいことは「どんな人でも原則、生理的欲求を阻害されると醜さ満点の反応をしやすい」ということです。本能欲求に忠実に生きている人ほどそうなりやすいわけですが、わかりやすく言うと「間接的にでも食欲や性欲や睡眠欲を邪魔する行為には容赦ない」みたいなことです。

動物としての側面を持つのが肉体をまとった人間ですから、その方の普段の人柄がどうであろうとも、そこで急変してしまうのが悲しくも多くの肉体人間なのです。それが今の社会のしくみですとお金を使って欲求を充たすことがほとんどですから、稼ぎに響く勝敗や出世などが絡む場合に動物的本性がむき出しとなりやすいのですね。

複数の動物が同じ獲物を咥えて引っ張り合っている姿が、経済競争の名の下に顧客獲得合戦をしている人間の姿とまんま重なるのです。現実は綺麗ごとでは済まされない、獲物をゲットできなければ動物も人間も生きて行けなくて当然だというわけです。

動物だけれども他の動物よりも複雑な手段を使って生理的欲求を充たし、歪みをとことん溜め続けるているのが人間でしょう。少なくともほぼ全員がそれを容認して参画しているから、維持できている人間社会のしくみです。そんな獣のような人間の行いを見ていると、私は醜さを感じずにはいられないのです。

そんなヤワなことを感じていたのでは、この世界では弱者で終わって当然… 実際、とんでもなく醜悪な人間が大手をふって活躍してきた歴史があります。でもそれは物質面での話です。人間と他の生物とでは非物質面に著しい違いがあるのです。

肉体生命維持のためならなりふり構わず必ず何でもするという醜い人間ばかりではありません。必然的に無名となってしまうわけですが、いつでもどこでも美しい生き方をしている人間だって存在しています。

人間の非物質側面に皆が気付けば、物質人間社会だって大きく変容せざるを得ないと思うのです。

2017年08月15日

「私は宇宙人」だというあなたへ

『美しい星』。最近映画化された元となった作品のようです。映画はだいぶ脚色された娯楽ものになっているようで興味がないのですが、原作は熟読してみたい!というわけで、私のお盆期間のお楽しみでした。

まずは「今から半世紀以上前の作品なのにスゴイ!」です。今でさえ自称常識人からはコメディの扱いを受けても仕方のない内容なのに、やはり三島由紀夫はかなり先を行っていた真理探究者なのだということだけでなく、それを作品として堂々と発表していた姿勢に感服です。地球人として生まれた複数の宇宙人の苦悩や葛藤を描いた作品ですが、この一点だけで作家人生を棒に振る可能性だって十分にあったでしょうに…

学校教育のおかげで読書なんて大嫌いになっていた私でしたが、これを中学生の頃にでも読んでいたのならどれだけ地球で生きることの参考になっていたことか、と思うと悔しくもあります。まあ、情報入手を模索しながら試行錯誤して不器用に年齢を重ねてきたこと自体に人生ゲームを面白くする要素があったので、読んだのがなるべくして今になったのでしょう。

思春期に陥りやすい、私も一度は通った道「自分は地球人じゃないからこの惑星に馴染めない~」的な感情を下手に刺激するぐらいなら、はっきり言って読まない方が良いです。私がそんな考えを実際どのようにして改めたのかを書いてみます。参考になる方がいらっしゃるかもしれませんから(笑)。

私は海や湖が好きで、身体を悪くする前はよく一人で釣りに出かけていました。独り大自然と向き合っていると、思考の枷が外れてよいアイデアが湧くことが多いからです。

ある時、私に釣られた魚が「自分は普段この海域にはいないんだ。たまたま変な所に迷い込んでわけもわからず泳いでいたら、今釣られてしまった」と言い訳したような気がしました。食材確保が目的ではないのでリリースしたにしても、そんな事情は無関係。釣られたことは釣られた、というのが事実です。

それと同じで、地球人に見える容姿で人間の生活様式を取り入れて暮らしているのなら「私は宇宙人だから」みたいな言い訳をしたところで何の役にも立ちません。明らかに宇宙人であることが地球人にも判る何かを提示すれば特例が生じるのかもしれませんが、ヒラメの大群にカレイが混じっていた事実が判明したところで、それが何?ですよね(笑)。

自分の特性が周りと違うことに早目に気付けたのなら、それはチャンスです。自分にはできても周りの人にはできない何かを磨けばそれが特技や職業となって、皆にも喜ばれるわけです。

でもその反対をやってしまう場合が多いのですよね、学校教育の害です。「皆にはできる何かが自分にはできない」という部分に焦点を当ててしまうのです。そんな事があまりにも重なると「本質的に皆とは種が異なるから」という口実に持って行きたくもなるのです。

何県民でも日本人です。つまり地球人はみんな宇宙人です。何県で働くにしても「私はこことは違う○○県出身だからそれができない」などという言い訳は通じないのです。

特定宇宙人の名誉毀損とならないようにするためにも(笑)、私は「何星人か」を重要視しないように努めて地球人をやっています。

2017年08月11日

誕生して死亡すること自体が人生の意味

「人間の生死にどんな意味があるのか」ということについて、いくら熱く語ったところで正解はないでしょう。存在する人間の様々な生き方のあらゆる視点から「だからこそ意味がある」と力説することもできますし、「はじめから意味なんてない。気付いたら生きてるんだから、無駄な事をつべこべ言うな!」という人も少なくありません。

私の見解は、この空間と時間という制約だらけの物質次元に肉体として登場して去って逝くわけですから、人間を肉の側面から見るのなら、この世界独特の縛りである「場所と時代」にはどうしても大きな意味を感じてしまうわけです。それは現代日本で言うならば「何年何月何日に何県何市で誕生して、同じく何時どこで肉体死を迎えたのか」ということになりますね。

昨年の今日、出産予定日の妻と一緒に救急搬送された脳幹出血中の私は、集中治療室で五感を順次喪失しながらも近くの病棟で産声を上げるであろう息子のことを想い、そのことの妙にしみじみ感じ入りながら意識を失って行きました。心肺停止を予測されながら、そこから1~2週間は植物状態でこの世とあの世の間をウロウロしていたわけですが、皆が仕事まで休んで霊を迎えるお盆と呼ばれる時期だけに、世界の境目が薄くなる時期でもあるのでしょう。

何はともあれ、息子は今日無事1歳を迎えました。その間私も同じく寝たきりからのリスタート。口以外からチューブで物質的栄養を摂取し、糞尿垂れ流しで奇声を発するだけの状態から、起き上がり・立ち・歩き・手指の使い方・口と舌の動かし方を訓練をするといった、同じプロセスを並行して成長した同志と過ごし、はや1年たったのです!

「この世に物質で出てきた屈辱とその克服のための模索は、肉体死まで続く上限のない課題である」そう以前から覚悟はしていましたが、まさか一つの肉体でこのレベルの学習をリピート体験するとは思いもよりませんでした(笑)。

肩車などはできないでしょうが、公園で軽いボール投げみたいなことはできるような身体を取り戻すように地味な訓練を継続します。

この話をここまで読んだ方なら、もうおわかりでしょう。

人間はどんな境遇であろうと、考え方と取り組み方次第で、全てが達成の喜びと学びの感謝へとすりかわってしまうのです。

2017年08月10日

次回の異次元リアリティ認識イベントは9/10

第9回【高次元波動体験会】を、本日から丁度一ヶ月後の9/10(日)に開催いたします。

クリスタルボウル演奏による誘導ですと特に、よりリラックスした深い体験ができるとのことで近況は多くの皆さんに横になってもえるようギャラリースペースにフロアマットを広げての開催でした。次回は久々に地下サロンでの開催ですので、横になって堪能できる方は一部となりますが、実は座して寛ぐ方が異次元旅行らしい体験ができたりもします。

身体を横にして寛ぐことは誰もが原則毎晩しているわけですが、出先でも横になればやはり本当の睡眠になってしまう場合があります。睡眠中の夢に近いファンタジーを見聞きして還ってきても「それがこの肉体物質次元にどんな意味があるのか」という観点からすると、その場で周りの人に聞かれてでも自分の入手した情報の意味を知りたい!という体験ができるとも限らない部分が…(笑)。

多くがチェアやソファとなる次回はその分、皆さんにも解説しやすい生活直結型のヒントやメッセージが多くの方に降りてくることでしょう。俗に言うスピリチュアルイベントに好感を持てない方にこそ、是非とも体験していただきたい『異次元リアリティ認識イベント』です。

日時:9/10(日)13:30~17:00  参加費:当日受付時に5千円
お申込みは下部【お問い合わせ】をクリックしてお名前をお知らせください。
会場は新橋日比谷通り沿いのビルで、お申込者には詳細をご案内いたします。

 

2017年08月07日

正直者がバカを見ない社会の実現

昨日で第3回目を終えました【ひきこもり講演会】。

私の定義する広義の「ひきこもり」とは、家に閉じこもって日々を過ごしている物理的な状況だけを指すわけではありません。その欲求は強くあっても叶わないお勤めの人(笑)も含めた「利潤追求のためには仕方がないという理由で人間らしさが大きく損なわれている経済社会は、どう考えてもおかしい」という考えの人たちです。そんな趣旨説明的な講話もしますので「講演会」としていますが、実質は参加者の皆さんによる「意見交換会」です。

「こんな世のしくみの中でも、知恵をはじめとして皆で出し合えるものを活用し、何ができるのかを語り合ってみましょう」という集いですね。組織化は権力構造を生みますから、皆が互いに尊い固有の人間存在としてのネットワークづくりです。個別には「金を稼ぐための人生」から卒業できている方も(既にガッポリ儲けたという物理的な意味ではありません!笑)世間にはそこそこいらっしゃいますが、まだまだ「お金の為だから」と割り切って何でもできるわけではない人は、厳しい状況を味わっている場合が多いことでしょう。

「人間としての大切な何かを失ってまでは稼ぎたくない」あるいは「稼ぐ必要があるため仕方なくだが人間性を犠牲にしている自覚がある」人たち皆がささやかな行動を起こせば、それだけで充分に社会が変わるでしょう。

そのささやかな行動とは例えば「社会に上手く順応できない人たちのことも尊重する」ということです。そこには、法律とは無関係に人間としての尊厳を捨てきれない人たちが多分に含まれているからです。これには「自分は社会不適合者の烙印を押された」と自虐的になることを防ぐ意味もあります。真はその逆の「カネや名誉の為に人間性を歪めることができない」ことである可能性が高いのです。

実際に、小さな嘘ひとつつくことすらできなくても長年続けられる仕事なんて、今の日本にほとんどないでしょう。そんな人たちが生きて行けない社会の方をこそ、行政などに頼らず変えて行きましょう!という話です。

2017年08月04日

ひきこもりメジャー化とは

物理的な危害は別として、傷つきやすい自分が一方的な被害者であるかのように振舞うことも、気にしないで生きることも、その人の自由選択だという意味のことを前回書きました。その感傷度合いも訓練で可変するというようなことも書きました。

そこで皆さんに最も勘違いしてほしくない重要なことが「だったら鈍感になればよい」ということではないということです。事実、ほとんどの人が「鈍感になる」ことで社会適応しているように見受けられるからです。

素直さや純真さを失って感性が鈍くなれば、確かに些細なことでは感動や喜びを感じられなくなる分、傷ついたり落ち込んだりもしなくなるわけです。ですから皆さんは、深く考えるまでもなく徐々に感覚を麻痺させて生きて行くようになるのが現代社会人の多数派でしょう。ところがそのやり方で社会順応して生きて行くと、かつての自分なら「そんな非道な…」「そんな残忍な…」と感じたことでも平気でやってのける人となって、更なる歪みを内側に溜めたりするわけです。

人間とは、自分以外の何かに反映させることでしか自分を認識できません。たまたま自分に向けられた言葉や行為は、それを発した人自身にとって重要な意味を持つものなのです。そのようなことが理解できるようになると、これまでとはまた別の捉え方をするようになりますし、別の感情が湧くようになるのです。これらのことは容易に理解できるものではないのかもしれませんが、じっくり時間をかければ誰にでもわかるようになる真実です。 

いずれにせよ「合法なのか・非合法なのか・いかに合法に見せるのか」を基準として、金儲けだけを目的に生きる人たちが闊歩し、それにつき合わされている大多数の民によって成り立っている現代社会。「外れたら生きて行けない」と信じ込まされる中、そこから外れて生きている人はまだ一部。これからどんどん増えるであろう、レールから外れる人々それぞれが多方面で活躍し、それらの人々が主要となって構成する世の中ならば、本来の人間らしい世界となるでしょう。

そのことを私は象徴的に「ひきこもりメジャー化計画」と謳っているのです。

2017年08月03日

傷つく生き方

ひと頃よりは減りましたが「傷つけてしまった」「傷つけられた」などのセリフがドラマや映画や小説によく出てきます。それに合わせて日常でも「傷つけ…」の言葉を使っている人も多かったように思います。

それが殺傷事件などを指している場合はニュース報道くらいでしょうから、心や気持ちのことを言っているわけですが、はたして「心が傷つく」とは何を指しているのでしょう。いつもの私の言い方ですと「非物質としての人間が傷ついたり傷つけられたりする」ことを意味するわけです(笑)。

私は決して茶化しているわけではありません。「経歴や名誉に傷がついた」といった種の話ならば、例えば「高額な所有車に傷がついた」と同等で物質的な傷にも近いものがあります(それでも憤慨される方は大勢いらっしゃいます)が、「物質肉体ではない人間の何かが傷つけられる」ということを主張したり屈辱と捉えたり罪悪と考える感覚が誰にでもあるということは、いかに非物質としての人間存在を重視しているのか!ということでもあります。

おそらく現代人は「人間とは何なのか」についての認識の個人的差異があまりにも大きいため、自分がちょっと影口をたたかれている事実を知っただけで大きく落ち込んだり怒り出す人から、不可抗力で全てを失っておきながら(実際殺されてしまう人も多い、それが地球文明の特色です…)そんなそぶりは微塵も見せないで短期間で立ち直る人まで、実に様々な許容範囲があります。人間の遺体を目撃しただけでショック状態に陥ってしまう人から、連日遺体の処理をするのが仕事の方も実在するわけです。

それが良いか悪いかは別にして、物質肉体人間として以上に、非物質としての傷つきかたは慣れや鍛錬でだいぶ変わってくるのは事実です。

「自分は繊細で傷つきやすいから」と自らを型に嵌めて「世間や周りの人がいかに自分を傷つけるのか」と感じて苦しんで生き続けるのも、「傷付いたと感じている人たちに手を差し伸べるのに忙しくて、自分が感傷に浸っている暇などない」という人生を送るのも、個々人の自由なのです。

ただ、「人間とはそういうものだ」ということを
知っておくことは大切だと思うのです。