お知らせ

2017年 6月
2017年06月30日

8/6(日曜)13:00【第3回ひきこもり講演会】開催決定のおしらせ

学校や職場に通えない状態のひきこもりの場合、今ある社会に適応させようと無理やり引っ張り出すことが問題解決とはなりません。なぜなら、現状の世の中に馴染めない原因は優劣の問題などではなく「人としての倫理観や感性を周りに合わせて要領よく歪めたり偽ったりできない」ことが理由である場合が多いからです。

今の世の中、事実そのままだけを表現していても成り立つ職業や立場が、いったいどれくらい存在するのでしょう…
現在金銭報酬を得ている人で、自分の思いや考えが100%外に漏れても何ら不都合のない方って、どれくらいいるのでしょう…

まだ立ち上げたばかりのひきこもり講演会ですが、嬉しいことにこのような趣旨に賛同してくださる方が多いようでして、地方開催の要望を含めた以後の予定を訊かれます。そこで早速、次回開催の日程を決定いたしました。ただ、今はまだ足場固めの段階ですので、申し訳ございませんが次回の開催地も東京です。出張講演も順次できるよう準備を整えてまいりますので、遠方の皆さんも楽しみにしていてください。もちろんお越しいただくのは大歓迎です。

いろんな職歴を経た後に法人コンサルティングでも感性を培ってきた私「石井数俊」と、個人や家族の深刻な相談に長年向き合ってきた占い師である妻の「西きほ子」、共にひきこもり実績ありの夫婦がお送りするコラボ講演&質疑応答です。

ありがたいことに、会場である新橋のアートギャラリー管理者様からも「これは素晴らしい試みだ!」とのご理解とご協力をいただき、次回の参加費に反映させることができました。

世の中のありようを変えようと、団結して闘ったり騒いだり、あるいは孤軍奮闘したり、特定の何かや誰かに依存するやり方はもう古い・・・かといって諦めているわけではない!そうお感じのあらゆる職業年齢性別の皆さんとお会いしてお話できることを、夫婦で心待ちにしております。

日時:8/6(日)13:00~16:00 

会場:アトムCSタワー・B1Fサロン(東京都港区日比谷通り沿い)

参加費:1名2千円(同伴者2人目以降は1名1千円)

お問い合わせ・お申込みは下部【お問い合わせ】クリックしてください。
仮名やペンネーム等でも大丈夫です。妻の西きほ子へのアクセスでも結構です。

2017年06月28日

成長の確認

過去を振り返っては「どうしてあれをやってしまったんだ!」「なぜあんな事を言ってしまったのか…」、逆に「なぜ見送ってしまったのか」「どうして黙っていたんだろう」などと思う機会があるのは、いけないことでも何でもなくて自然なことです。数十年前の事をそう思うのか、昨年の事を思うのか、先月の事なのか、先週の事なのか、昨日、いや、それともついさっきの事(笑)なのか?

「しまった!またやらかしてしまった」と思う内容が毎回似通っていたとするなら、それは学習能力なり悪癖なりを見直すべきサインの場合もあるでしょう。しかし「あの時はそれがよかれと思って選択・行動したのだが、今思えばもっと他に採るべき手段があった」と気づくのは、自分が変化しているのだから当たり前のことです。

それが成長なのか劣化なのか、強気なのか弱気なのか、楽しみなのか悲しみなのか、喜びなのか落胆なのか、好奇心なのか無関心なのか、怒りなのか寛容なのか…どう捉えるのかは人によって、同じ人でも時期や状況によって異なるのでしょうが、変化している事だけは確実なわけです。

この物質世界で絶対不変の法則は万物が変化することだけです。
言葉遊びではありません。

生まれた赤ちゃんが50年経過しても乳児のままだとか、500歳でも食欲性欲モリモリなんて人間が実際にいたら困ったものですよね。ところが多くの人間は、不変のものなど何もないとわかっていながら不変を求める愚かさを有しています…例えば「永遠の若さ」ですとか(笑)。

肉体的な美容や健康というテーマが経済を活性化していることぐらいは誰もがご存知でしょうが、それ以外でも、人間が組んだあらゆる社会システムに不変願望が盛り込まれていることが、大きな矛盾として否応なく噴出してくるのです。

ごく一部の仕組みを作る側の「手に入れやすい、そして一度手に入れたらずっとオイシイ」などという、宇宙と自然の理に反した事を実現させようとの考えに基づいた、はじめから理論破綻しているシステムに則って人間社会が運営されているわけです。

そこまでしても、せいぜい100年前後で肉体が分解されるのが物質人間です。寿命がいくら伸びたところで基本は同じです。しかし、スピリットには時間や空間の制約などないのです。

「このことを理解できれば、肉体での一生を虚しいことに費やして死期になって後悔しなくても、もっと変化を楽しむ別の生き方があるんですよ!」ということをお伝えしているのです。そしてそのことは、現代人が「昔の人・原始人・未開人」などと呼んでいる人たち皆が理解して人生を楽しんでいるのです。

 

2017年06月25日

【第二回ひきこもり講演】ご報告

予定していた通り、25日の13:00から【第二回・ひきこもり講演会】を開催いたしました。お越しくださった皆さん、ありがとうございました。

「私にはひきこもっていた時期があった」と説明くださる方から「そうは思われていませんが、私はずっと昔から今でもひきこもり中です」と告白される方、「離れて住む家族のひきこもり問題に対処継続中」と仰る方まで状況は様々です。その多様性ゆえに仕方がないこととはいえ、世間での「ひきこもり」の定義づけの曖昧さをはじめとして、活発な意見交換がなされました。

第一線で活躍することを皆がよしとしていた、一昔前でしたら戦線を離脱する人はあまり出ないし、戦線離脱しそうな人を引き止めたりするのが人情でした。ところが今は、配属された戦場の第一線には興味が湧かず、それ以前に戦場に赴くことすらしない人が続出している世の中です。

これは明らかに、人間の生き方や働き方が大きく変わっていることの証です。戦を好まない人を悪く言って戦場に引きずり出せば済む問題ではありません。

今ある社会のしくみが変わることを待ち望んでいる大勢と、今の利権を何が何でも維持したいごく少数とのせめぎ合いは、いつの時代どの場所でも存在していたテーマです。しかし、こんなに静かで摩擦の少ない形でジワジワ拡がり続ける社会現象となったのは初めてのことでしょう。

とても壮大すぎて誰も手を出したがらないのですが、誰もが大きく影響される問題。

まだ始まったばかりです。穏やかに、でも堂々と、この「ひきこもり」をテーマに向き合って行きます。賛同される仲間をお待ちしています。

次回の日程は、決まり次第お知らせいたします。

2017年06月23日

損得勘定は不可能

都市部で生活している人ほど、日々の生活の中で「無駄な…」「もっと有効な…」といった類の思いがひっきりなしに湧いてきて、自分の事でも他人の事でもあれこれ考えたり気になったり口を挟んだりしていることでしょう。

今の日本は基本的に資本主義経済です。何もかもが出資した人の利益を生むための活動であり、損失を出さない(自分のお金でなければ平気で出します!笑)ための努力と工夫、「効率」がテーマの競争社会であることが前提です。

誰もが子供の時からそのような大人や社会を見聞きして育ちますから、大人になるほど「得」になると思う行為には時間やお金やエネルギーを費やしますが、「損をすることはあっても得にはならない」と推測することには無関心。得するとは思えないそれを知ったところで「関わらないようにするのが賢い生き方だ」と考えるわけです。私も思春期には「悲しい現実だけれども、この世の中はそういうものだ」と、与え合うことで成り立つ理想社会とは切り分けて捉えていました。

ところが、人生経験の中身によって個人差はあっても、年齢を重ねる事で判明してくる「この世の法則」とでもいうべきものがあります。それは何が無駄で何が有用かは、その時点ではわからないという法則です。その時にその事があった意味は、まさに肉体死を迎えてみるまで総括できないのです。

改めて考えてみれば、万人が納得の法則ですよね。その時々で少なからず誰もがしてしまう損得勘定。これ、実は肉体をもつ人間には不可能な事なのです。「こうなるとわかっていたのならば」…肉体をもつ皆が、何かしらそういう思いで暮らしているのではないでしょうか。

人生の全てが計算通りに推移したのなら、もう神か仏です。逆に言うと、経験と学びを与えるため、人間にはそれができないようになっているのでしょう!にもかかわらず、得をすると思い込んで行動してバカをみたり、損をしたくないとの思いが足枷となって行動せずに大きな宝を逃して生きているのが、私を含む凡人の実情(笑)。

それでも、試練を多く乗り越えて生き抜いてきた老人は、若年者の合理的思考では及びもつかない「生きる知恵」を有しているものです。昔から世界のどこでも「こんなヨボヨボの年寄りが?」(失礼!)てな印象の老人が地域の長だったりしたのは、そんな事情があるからなのですね。いくら知識だけを詰め込んだところで「賢人」にはなれないのです。

何度か救急車で運ばれて頭蓋骨をくり抜いたり植物状態になって生命維持を危ぶまれたりした末、思考力は戻ったにせよフラフラ歩くのが精一杯の身体となった今、私はたったの半世紀も生きてないくせに、すっかり老人の気分(笑)。

ひきこもりとして扱われている人は「学校や会社に行ったところでする事は山ほどあれどする事など何もない」…総合的にそう判断しているのかもしれません。更に言うなら、生きていること自体に何のメリットもないのでは…そう感じている人も少なくありません。学校でも職場でも、毎日通う場所ではすぐに役立つとはかぎらない生きる知恵など誰も授けてはくれません。

それが社会風潮だからとはいえ「損得勘定以外に生きる指針はない」という価値基準を植え付けられても、そこに賛同できない人々が利害を超えた何かに興味や関心を向けるのは自然なことです。

明後日25(日)新橋13:00~。ぜひお話を聴きにいらしてください。
ひきこもりとは、善悪・正誤・優劣・加害被害などの単純構図ではないこと、即効性がないとしてもジワジワ効いてくる克服法がテーマです。そしてよろしければ、あなたのお話もお聴かせください。

 

2017年06月22日

世代による価値観

突然おかしなことを言うようですが、私は自分で自分の肉体が生きているのか死んでいるのかが、よくわからないのです。

それは決してケンシロウを相手に闘ったからではありません(笑)。夢を見ている最中や瞑想中の体験などでは肉体や物の質感が充分にあっても、こちらの世界に戻ってきたら「あれは夢で、これが現実である」との割り切りルールを自分で作って受け容れてきたまでのこと。

私の身体の強健さを自他共に認めた中学生の頃から今に至るまで、常に定期的に湧き上がってくる何とも言えない感覚があります。「ツライ・悲しい・苦しい」等の気持ちとは違って、無理に言葉にするなら「何から何までが不思議でならない感覚」でしょうか…。中年になってこの肉体が集中治療室に運ばれて、ほぼ機能停止するような経験を度々してきて、そんな時にこそ強く記憶に残る濃厚体験を別次元でするのですから、尚更です。

もう約30年も前のことですが、霊魂としての自分の存在だけは確信できていた高校生の私の感覚からすると、生物が物質として存在すること。その物質生物である人間が、肉体生存に不可欠とされる物(カネ)を追い求め続けて一生を過ごすこと。全宇宙を物質として説明している現代の宇宙観・世界観・人間観を当然の事として受け入れている人が大多数で社会が成り立っていること…等々の解せない不思議だらけで、それらを探究したい情熱以外に欲求らしきものが皆目見当たらず、そこから20年間は常に身の振り方に窮していました。

「とにかく物質だけではない生命とは何か?」との疑問探究以外には期待も希望もないのですから、私の肉体生命維持欲求が希薄なのは一貫していました。しかし、肩書きでも名誉でもカネでも色でも健康でも何でも強く求めることがない分、失うことのショックも小さいため、衝動的に何かをしでかす確率は案外と低いのです(笑)。

ところが前世紀から今世紀に入る節目に世に出た映画「マトリックス」を観た時、私は大きな喜びを感じました。絶対唯一だと思い込んでいる現実が幻想である可能性を見事に描写している内容だったからです。作った人たちはもちろん、それに気づいている人たちがこの世界にも一定数はいるであろうと憶測される作品だったからです。

あれから17年、映画に限らず今ではあらゆる作品にその概念が盛り込まれています。つまり、子供の頃からそんな感性を培った世代が大人になっています。お金に繋がる地位や名誉や評価・家や車などの物的資産所有・性的快楽・飲食や観光旅行などの享楽…等々に興味の薄い人たちが増えているのです。

それらを動機に頑張ってきた世代が作った世の中のしくみに乗っかれない人々が溢れ出てくることは当然です。高校卒業後の私は家賃を払うために朝まで掃除のバイトをしたりの生活でしたから、それほど贅沢なひきこもり生活はできませんでしたが、男性ほぼ全員が学生か公務員か会社員か自営・経営かのどれかに該当していた時代でも、既にどこにも属さない中途半端人生を選択していた「ひきこもりフロンティア」(笑)の自覚はあります。

お伝えしたいことは、物質的価値観に埋没できない人々が急激に増えているということです。幻想に全てを捧げる生き方ができないことは誰にでもわかることです。
何が現実で何が幻想なのか。
その定義が相違したままでは、話し合いの土俵にも立てないわけですね。

簡単に説明できることではありませんが、25(日)その価値観の違いをわかりやすく解説いたします。俗に「ひきこもり」と呼ばれているものは、どんな現象なのか?
社会でバリバリ活躍している人でも遠慮なくお越しください。
「ひきこもり代表」として(笑)いろんな質問にもお答えいたします!

2017年06月17日

「ひきこもり講演会」開催の御礼

今週14日(水)「ひきこもり講演会」の第一回目が無事にシリーズのスタートを切りました。お集まりいただいた参加者の皆さん、誠にありがとうございます。

初の試みで平日正午の前後を跨ぐという時間設定でしたから、予想通りの少人数。結果的に少数精鋭メンバーとなった(笑)ならではの、皆が旧知の仲であるかのような率直で活発な意見交換ができまして、4時間があっという間でした。

現在の社会システムからして「一般的な職」として認知されているあらゆる方面の主導を握っている人たちは、競争を勝ち抜くなり定めとして道が用意されていたりして優位に立てた人です。

例外はありますでしょうが、原則「劣」や「弱」(これもあくまで現代人の見方でしかないのですが…)を対象に虐げたり踏み台にしたり搾取したりと手段は様々ですが、少なくとも前世紀までにおける「優」や「強」の立場となることは、大なり小なり「他人を利用」することができる自分勝手な精神構造があってはじめて成し得ることです。

「世渡り上手」とか「要領がよい」などと言われる成功や出世に必要となる性質は、綺麗ごとではない現実社会の闇の実情を早かれ遅かれどれだけ受け容れられるのかにかかってくるわけです。社会人経験をどっぷりとは積んでいなくとも、フィクションでありながらもその多くは実話を参考にして作られている、映画やドラマや小説からでもわかること。

「いくらカネのためだとはいえ自分にはそんなことできない」みたいな気持ちが頻繁に湧く人ほど、生きにくい社会なのは確実なのです。逆に言えば「カネのためなら何だってしますよ~」って人には生きやすい社会のしくみ(笑)。

ここまで読まれて「そんなにネガティブな見方をしているから成功できないんだ…」みたいに感じられた方は、俗に言う「ポジティブシンキング」類の影響を受けたか、元々楽天的な性分なのかもしれません。しかし現実社会のあり様を「おかしい」と感じて馴染めずに生きて(肉体死を選ぶ人もいますが)いる、不器用で要領の悪いひきこもりは潜在数を含めれば膨大な数なのですから、これこそ現実です。

「ものは考えよう」なのは事実ですし、私も思考転換を積極活用してこの物質世界に暮らしています。しかし物質世界の主導者が「カネにならないから」という理由で見事に「問題を問題としては捉えない」「見て見ないふりをする」「改善解決のポーズをとるだけ」という誤魔化しで長年ここまで来た結果が、現在の全ての社会状況を招いていると思うのです。

歪んだ社会に沿った歪みを後から来る人間に植え付け続けることは、もう限界でしょう。かといって「社会を変えよう!」などと声をあげているだけでは何も変わらない虚しさ…そう感じている方、今は見えないけれど大きな何かを一緒に築いてみませんか? 

次回で第二回となる「ひきこもり講演会」&意見交流会は6/25(日)13:00から。

場所は新橋のアートサロンで、明るい未来の社会像をゆったり語り合いましょう。

2017年06月13日

紙一重

茶化すように使われることの多い「バカと天才は紙一重」。きっと皆さんこの言葉の意味を噛み締めるような経験がどこかでおありなのではないでしょうか。それが自分のことであるならば「諸刃の剣」にも似たような意味があります。

私は実弟が先天性の重度知的障がい者ということで、私自身も小学生の頃から小高い丘の上にある養護施設に出入りしていました。入居者ではない私が施設敷地内に入ると、何者かがいきなり顔面に石を投げつけてきて額から流血するという手荒な歓迎を受けた事もありましたが、大人になって思えばそれは第三の眼を開く強制儀式だったのかもしれません(笑)。辛い思い出はそれぐらいです。

そこにいた人々は子供から中年まで幅広かったのですが、初めて接した時の慣れない発声や身のこなしに異様さを感じる他にはこれといって危害を加えられることもなく、私にはただ「一般の学校や職場に通って同じような事を日々繰り返すことができない、何らかの要因を抱えている人たち」という捉え方をしていました。

実は、障がい者とは逆のパターンもあるようでした。例えば、初めて会ったのにもかかわらず、長年私たち家族のスパイをしていたのではないか?と思うほどの詳細情報を10歳前後の子供がマシンガントークしながら歩み寄ってくるのです。抑揚の無い無感情な超高速の喋りはまさにマシンです。話せないし字も書けない弟から情報を引き出すことは常識的に無理です。こんな凄い人が学校や会社にいたら、もうオカルトの世界ですよね(笑)。

他にも、10歳過ぎても三輪車しか乗れなくていつも独り言をつぶやいていた子供が、彼の自宅からも施設からも数十キロは離れた場所にある私の自宅に、私一人だけが在宅していた僅かな時間を狙っていたかようにいきなりやって来て「○○君(弟)いる?」と話しかけてきたのです。しかも私が気付いた時、彼は既に私の部屋の扉を開けて顔を覗かせていたのです。呆気にとられていた私は我に帰って、出て行った彼を探したのですが、もう姿はありません。彼はテレポーテーションを常用していたのでしょうか…

ですから私は、今の社会では「一般的にはないはずの何かを有している」場合でも、「持っていて当然とされるものを持っていない」場合と同等の扱いを受けてしまうという前提に立って人間社会を観察しています。

そのような話に興味がおありなら、明日14(水)25(日)「ひきこもり講演」に是非お越しください。生まれつきの霊能力で苦しんできた妻とのコラボです。

実際に引きこもっているのは、どの立場の人なのでしょう!?

2017年06月11日

自己表現

「自己表現」とは、文字通り自己を表現する行為を指す四字熟語です。

一般的な学校や会社に通った経験がある人がイメージする自己表現とは、文章を書いたり話をしたり絵画や音楽や造形美術などの作品を通して訴えたりするような、何らかのメッセージ性があってこその「自己表現」だと思うことでしょう。

ですから、数歳の子供が日記に「今日の○○先生は機嫌が悪かった」や「お昼ご飯はまずかった」とか「○○ちゃんはすぐにばれるウソをつく」などと書いても(笑)立派な自己表現だとは思われないし、自己表現ができる大人になるまでの訓練時期だと捉えているわけです。

ここに大きなテーマがあります。

会社や国や自治体(時代によっては軍隊…等々)に属して働くようになる人間を養成するのが学校の目的だとすると、ある程度の表現能力は欲しくても自己表現は原則タブーなわけです。

自分のことを「ウチ・わたくしども・我々・弊社・我ら・我が○○」などと呼んで、自らが所属組織の一員でしかないことを強調する文化の中に浸って暮らしを成り立たせている人が大多数なのです。外部に対して「実を言いますと…」とか、内部に対して「私の本当の気持ちは…」なんて言い出す人がポロポロ出現したら、維持できない組織がほとんどでしょう(笑)。

つまり「いかに自分を表現しないでやりすごせるのか!」が重要な、ガマンの人生を多くの人が歩んでいるわけです。そんな実情にある立場の人から「自己表現をちゃんとしましょう」などと言われても、「支離滅裂」という四字熟語の意味に精通するぐらいの話です(笑)。

誰もがタテマエとホンネの使い分けができて当然の時代から、「ウソをつけない、ウソで固められた社会に参画できない人々」の比率が格段にアップした時代に突入しているのかもしれません。そのような人達のことを「要領の悪いバカだ」などと一部の例外者扱いで一笑に付してもいられない社会変革の時に入っているのです。

今あなたの周りに存在する通勤も通学もしない人は、表向きの現象がヒキコモリだとしても本質は当事者各自だけの問題ではない!だからといって見て見ないふりをしているのは決して得策ではありません。それは例外案件ではなくて既に一定の比率を占めているのですから、かかわる皆さんが前向きになれるようなお話会を開催します。
第一回は6/14(水)、参加費500円です。気軽にお問い合わせください。

2017年06月08日

愛がすべて

今の世の中、何らかの数値達成や特定の状況変化を目標に頑張っている人も、逆にそのように目指すべき目標が無いことを気にしている人も、「目標」という単語に無反応な人は少ないでしょう。ところが根本に立ち返って考えてみると、具体的な目標とまでは言わなくても、名前があって暮らしている万人に確実に該当する人生の目的とは、物質地上世界で肉体を有して生きることです。

皆さんは当然であると感じているのかもしれませんが、実はものすごく特殊である「物質世界での生活」というものは、肉体のない一般的な知的生命体では経験できない条件に溢れています。

その最たるは「時間・空間」という縛りの体験です。

それがどういうことなのかを卑近な例で挙げるなら、目の前にDVDソフトが何百枚もあったとして、それぞれの作品の凄さ・楽しさ・爽快さ・悲しさ・虚しさ・怖さ・感慨深さ…等々の説明書きをどんなにじっくり読んだところで「実際に作品を視聴してみなければ価値は生じない」という意味です。それがどんな内容であっても、各作品の視聴体験そのものに意味があるのであって、誰がどんな作品を製作しようと、どの作品を視聴してどんな感想を持とうとも、全くもって各人の自由です。他人の作品をどうこう言う必要もありません。

人間にエゴがあるということは、それぞれ個別に独立した作品があるということ。 

皆さんが子供の頃から「命の大切さ」のような言葉を見たり聞いたりして育ってきたと思うのですが、私が思春期の頃には「そう言いながらも、地球人類とは常に殺戮や環境破壊に励んでいる変わった生物である(笑)」という事実の不思議さに圧倒されました。でもそれは「命」の定義から由来しているのです。

 「物質肉体でなければ生命ではない」という思想を信奉している人々によって発展してきたのが今の文明なのです。

人間の氏名をはじめとする固有名詞がこれだけの意味を持つのは、時空に縛りつけられた物質世界だけです。ですから「その氏名で呼ばれる肉体が機能しなくなれば生命ではない」という奇怪な考えが普遍的となるのが今のグローバル社会なのです。自然下に生きる動植物にとっては、その物質死も含めての生命の営みですが、人間のペットとなって名前がついた時点で「肉体死は悲惨だからと無闇にそれを避けようとする」人間のエゴシステムに組み込まれますから、外見は自然動物であっても非物質的には種類が異なる生物と考えるのがよいでしょう。

物質世界で使われている言葉「愛・慈悲・ワンネス」のような表現は、物質偏重の思考から抜け出せて初めて理解できることです。人間の五感では動いていることが認識できないような土も空も石も水も、物質はもちろん非物質もすべて「命」であり、生きています。個別の認識ができない世界では当然、すべてがつながっていて切り離すことは不可能です。そのことを「宇宙はすべてが愛でできている」というように表現されるのです。

だから「愛がすべて」なのですね。
宇宙を構成する材料「愛」の基本は非物質ですが、そこには一部物質も含まれるということです。

2017年06月04日

ひきこもり

一言で「ひきこもり」といっても、私はそのひきこもり度合いにかなりの幅があるものだと感じています。皆さんはどうお考えでしょう。

政府や社会が「ひきこもり」だと認定?するレベルは「少なくとも半年や一年など年単位の期間、学校へも職場へも通わず、社会的な接点を持つことなく家ですごしている状態」を指すようです。

相手が家族でも誰でも一切接したり話したくないケースから、ちょっと買い物に出るくらいは平気だという人もいるでしょう。たとえ重度ひきこもり中でもトイレには仕方なく行くのと同じように、電車や車で通学通勤していながら「実質ひきこもり」という方々が大勢いらっしゃるような気もします。

昔から世界中で言われている通り、他人は自分の鏡でもあります。つまり程度の差こそあれ、周りに映し出される自分の姿に耐えられない心境だということですが、どういう理由で鏡に写りたくないのか…それには人それぞれの背景があるため、なかなか画一的に扱えるテーマではないのです。

自己像を初めて知らされたショックで収縮したのか、元々持っていた自己像と周りの評価との相違があまりにも大きかったために愕然としたのか、自覚があって防御していた部分が露呈されてしまい情けなくていられないのか… 
実に様々なパターンがあるでしょう。

 対人間や対社会で生じる「ひきこもり」ですが、本人の能力なり哲学なり技術なり、これまで蓄積してきたもの、してこなかったものに端を発しているのは確実な現象なわけです。綺麗な言い方をすれば「醜悪な人々に囲まれたこんな穢れた世の中で自分はとてもやって行けない」という口実にもなりますが、それも「対人免疫力を養いそびれた」と言ってしまえばそれまで(笑)。

 30年前なら肩書きや資格等で組織的に守られて生きて来られた人々が大勢いたでしょうが、今やそれだけで守られる人は著しく減ってきている世の中です。かといって雑誌やネットでもてはやされるような人生に該当する人はごく一部です。

 「普通に生きるのが難しい時代」なのではなく「何が普通の生き方なのかを見極めるのが難しい」時代になったのですね。

6/14(水)6/25(日)は、そんなマクロ観点からのお話がメインとなるでしょう。

 

2017年06月01日

「分離から統合へ」とは

ここ数十年「分離から統合の時代へ入る」などとあちこちで頻繁に謳われています。

二極化・陰陽・白黒・明暗・昼夜・光と影… 生まれてからこのかた、そうであることが当然で暮らしてきて慣れきった概念が「そうではなくなる」という説明は、それが何であろうとも難しいものです。新しい概念というものは、体験してみてはじめて「こういうことなのか!」と理解できるのであって、事前に言葉を並べて説明してみた場合は「ふぅ~ん」ぐらいの反応でも「これでも伝わったほうだ」と楽観視できければ説明を試みる気にもなりません(笑)。

 ではここで極端な例を挙げましょう。「幸せになろう」とか「必ず幸せになる」でも「幸せでいるのが当然」でもこの際、言い方は脇に置いといて「幸せ」と定義している時点で「幸せでない=不幸」という状態との対比となっていて、これは二極化の考えに基づく発想なわけです。つまり「統合」も「分離」に対する分離用語!(笑)

「幸せなのか不幸なのか」が全く気にならない、問題にならない、比べることがない、その概念すら湧き起こらないのならば、それは分離の思考を脱した証拠です。これは「健康⇔病気」「成功⇔失敗」「金持ち⇔貧乏」「男⇔女」「美人⇔ブス」「オシャレ⇔ダサイ」「利口⇔バカ」「デブ⇔ヤセ」「ノッポ⇔チビ」「ジジババ⇔ガキ」…等々の俗語を含め、何にでも当てはまることです。

そうはいっても文章を書くからには、私もそのような対義語が存在する単語を頻繁に使わざるを得ません。ですから「言葉」そのものが「分離思想の産物」のようなものであると私は認識しているのです。

では、分離を象徴する「言語」に対する非分離の概念は何かといいますと、強いてあげるならそれは「テレパシー・想い」のようなものですね。それこそ言葉にした時点で安っぽい分離ツールになってしまうような気もしますが、意味が近い単語ですと「愛」だと思うのです。「愛」を真剣に「性欲・所有・制御・執着」などの同義語だと捉えている人も結構たくさんいる疑惑の単語(笑)ですし、対義語で「憎しみ」なんて言葉が出てくるのは更なる勘違いだと思えて少し悲しくもなります。

欧米的分離の思想が浸透した今の日本では「愛していると言葉で表現してほしい」的な場面がドラマでも現実でもあるように思います。「愛」以外の利害関係事は言葉にすることが重要である場合も多いと考えますが、TVなどで洗脳された人が「愛を言葉にする」というその行為をバロメータにしているケースもあるようですね。でもかつての日本には「想いを言葉にすると軽薄な記号になってしまう」という感覚を持った人がきっと多かったのでしょう。

そもそも、愛を「測る」という概念を持っていること自体が究極の分離思想ですから、両者共にそうでなければマッチしないことは確定しているわけで、どうでもよい事なのかもしれません(笑)。

さて本題です。これら二分や対立を象徴する言葉の中で私が最も重要視している言葉が「生死」です。

現代人なら「生」と「死」が全くもって真逆の現象だと捉えていることでしょう。自分自身や家族に向けられることの多い考えでしょうが、肉体での生が絶対的に重要であり、そのためなら本当に何だってする。肉体死こそが最も避けるべきことであり、確実に訪れるその時を怖れて忌み嫌い、想定すらしたくない…

この考え方が変わるとき、他のあらゆる事柄も変わります。少し考えれば誰にでもわかることですが、この上ない分離の思想に乗っかった人生では万事が分離の思考でしか捉えられない!これは当たり前すぎることです。

何十年も前に丹波哲郎氏がいつも言っていた「死ぬのは怖くな~い」が腑に落ちた場合ほどの最強人生はないでしょう。しかも、生きている万人が手に入れることのできる素晴らしい心境なのです。私は何も肉体死を勧めているわけではありませんので誤解なきよう。むしろ逆の効果が出るでしょう。長寿で活躍する人は皆、生と死を分離して捉えてはいないのです。どんな窮地に陥ったとしても、死んだところで全てが解決するわけではない!という意味でもあるのです。

使いたくはない言葉ですが(笑)「生きている皆が心豊かで健康長寿となり、争いという概念が消える」方法でもあるのです。「争いの概念をなくす」ことに難しさがあるのではなくて、その前に万人が「肉体死は怖くない」と思える人間本来の死生観を、宗教ではない形で普及させることがポイントなのです。そうすれば現在ある文明社会や環境の問題を問題として維持してきた努力が自然とアホらしくなるのです。

「どうせ死ぬのだから…」は肉体だけの話です。肉体は自分のほんの一側面でしかないことをよく理解できたとき、はじめて無制限に穏やかで寛容な気持ちとなれるのです。誰かやどこかや何かに依存することも無くなるのです。現在の人類の愚かな行為はすべて、自分の肉体死を必要以上に怖れることで成り立っているのです。