お知らせ

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2018年03月11日

みんな宇宙人

私は「宇宙人」という単語を使う難しさを常に感じています。
個人的解釈がこれほど異なる言葉も滅多にないという思いもあります。
ただ、俗にこの言葉を使う一般的なニュアンスは解しているつもりです。

今の地球での一般常識を超えた容姿なり技術なりを持っているとか、つまり簡単には理解不能な人を「宇宙人」と呼んでいる場合が多いのでしょう。全般的に「規格外」の意味合いで使われてるのだといます。ですから説明のつかない度肝を抜かれるような何かを見せられたら「宇宙人だ~」で褒め言葉になりますし、「どうしてそんなバカな事を言い出すんだ!」というような場面でも「宇宙人だからしょうがない」とでも言っておけば角が立たなくてよい、便利な言葉でもあります(笑)。

「宇宙人」という単語の私的見解をいちいち説明するのも面倒ですし、まず嫌われるだけですから普段は私も気軽に「宇宙人」という単語を使って流してしまうこともあります。でも実は、その言葉の定義に重要な意味があると常々考えています。

仮に自分が小柄な黄色人種で農作物が主食だったとします。そこに身長体重が倍近くて常に肉の塊を食していて体臭のきつい白人が現われたとします。それでも同じ地球人だということは現代人だから解するわけです。実際に「南蛮人」と呼んで同類別種の生物として扱っていた時代があったのです。

宇宙人という言葉を出して騒ぐのは「自分が宇宙人以外の存在だ」と定義しているようなものです。秋田県民でも岐阜県民でも大分県民でも日本人であるように、地球人が宇宙人なのは当たり前過ぎる話です。

それより何より思うことは、皆さん物質形状に固執し過ぎなのです。手足が二本ずつあるだけでもかなり物質的には近縁です。その前にまず、地球の粗雑な波動に浸かりきっている人間の肉眼で視える知的生命体はかなり限定されてきます。俗に言うUFO自体も知的生命体ですから同じことです。

赤ちゃんに「脱糞とはどういう事なのか」をわからせるために目の前でケツを出して見せてやる大人がいるのと同じように、まるで粗雑な波動中の物質であるかのように存在を見せてくれる知的生命体は確かにいます。でも本当は、自分で便所に行けるようになればよいだけの話なのです。

それにはまず、「便所とは未知で恐ろしい場所だ」ですとか「誰々が一人で便所に行って用を足したなんてウソだろ!」などと特別視しているかぎりお漏らしが続くのです。

毎日当たり前に便所に行ける人にとって、脱糞放尿は特別な話題ではありません。常時いろんな知的生命体と交流している地球人は今も昔も普通にいます。それができるようになった本人には取り立てて騒ぐことではないから、普段は黙っているだけなのです。

あなただって非物質の知的生命体なのです!(一部、物質としてだけ制作された存在たち、ごめんなさい!笑)

2018年03月10日

人は動物とどう違うのか

「死ね!」という言葉。近頃は気軽に使われるようですね。

自分にとって最悪だと思う言葉を相手に浴びせることが目的なのでしょうから、その言葉を発する人こそ「さもなければ死ぬ」という状況下では「何でもする、頼むから命だけは助けてくれ~」となるはずです。

それが、戦争では「相手に殺される前に殺さなければ」という思考に自然とつながって参画者が集まり大量殺戮ゲームが成立するわけです。日本ではここ70年ほど経済戦争にとってかわってはいるものの、表向き殺傷能力のある武器を直接使わないだけで、生きて行くために仕方なく戦っているという意味では同じでしょう。

それらがアホらしくなって戦線離脱する人が今は急増しています。

他の生物と同じように、常に肉体生命の危機に晒されながらかろうじて生き残った生体が、肉体死を迎える前にせめて種を残して後を託す…人間もそんな時代が多いわけです。

ところが皆が物質的な豊かさを求め、叶え、種として過剰繁殖するにつれ肉体生命維持(種の保存)を疎かにするため、大量殺戮ゲームを始めたがる暴君が出てくるのです。

それが個人レベルではどう出るのかいうと「肉体死を避けるためなら何でもする」だったのが「あれもこれもしたくない」「子供がほしくない・家庭を築きたくない」「次世代のための環境保全なんて思いつきもしない」「むしろ肉体死を望む」人が増えるのです。それがこの星の現状であり、これは「熟している証拠」なのか「ほとんど腐っていてどうしようもない」のか、見解が分かれるところです。

私が何を言いたいのか…

「ここ数千年の地球にかぎって言うと、ほとんどの人間は知的生命体ではなくてアニマルとしての経験を積んで来た」ということです。言葉は悪いですが、労働力が家畜や奴隷から機械へ、更に人工知能へと大きくシフトしている今、資本主義が続く限り「ちょっとくらい器用で賢い奴隷でももういらない」となるわけです。

自分をサルやチンパンジーと同列の「動物」として認識しているかぎり、恐怖や不安は増すばかりです。ところがサルとほぼ同じ形をした人間ですが「その本質は非物質の知性」だと気付いたのならどうでしょう。

セイジョウ石井はそんな説明を試みています。

2018年03月08日

直線と曲線

自然のあらゆるものが奇跡で溢れ返っているのに、肉体死を免れる奇跡、あるいは大金が手に入る奇跡にしか興味のない人がとても多いイジョウな世の中にメッセージを発信する「セイジョウ石井」です。

インテリアでも服でも乗り物でも、何でも特に意識していない方が多いだけで、皆が直線と曲線の絶妙なバランスに「美しさ・優しさ・癒し・面白さ・不快感」等を感じている、私はそう考えています。それは自然に既にあるものを人工物にどう取り入れるのか?でしかないのですが…

その辺りの私的研究にもってこいなのが、趣味で私が数十年続けている鑑賞魚飼育です。

形のバランスだけではありません。色や大きさや性質など、それぞれの特性が活かされる組み合わせをいかに成立させるのか…まさに日々が実験です。

固定された四角い箱の中に、動きのしなやかな生物たちがゆらめく。それを眺めるだけでも私には歓びなのです。しかも、一年半前に視力を失って一度は全撤去したので、視えるようになってきた今は小さな水槽と魚でも大歓びの子供状態(笑)。

写真にある龍のように体をしならせて泳ぐ魚であっても、鱗はレンガを積んだような数学的緻密さでもってきちんとモザイク模様になっているのです。子供の頃から昆虫や魚類や植物を観察しては素直に「これの設計主は何者?」と、ずっと未知の存在に想いを馳せていました。

私は宗教とは無縁の環境で育ったのですが、宗教で言ういわゆる「神」的な非物質知性をずっと尊重していたのす。きっと誰もがそうだったのだと思うのですが、そんなことをいくら考えたところで、うっとうしく思われることはあってもカネにはなりませんからね(笑)。

実は、皆さんの肉体は自然生物を凌ぐ奇跡の集結です。運動能力はじめ機能面においては他の生物に比べてダントツ低スペックなのにもかかわらず…です。

たしかに物質としての比較でしたらダントツの貧弱生物ですが、非物質能力が幾重にも宿っていて、それを物質世界に活用できるという点で圧倒的な生物なのです。

その能力を現文明のように「大量殺戮兵器を開発使用できる」というような特性として活かしているのが残念なところです。知的生命体本来の特性を、カネと権力を得ること以外に向けられるのか?

それがとてもセイジョウな考えだと思うので「セイジョウ石井」はこのような発信をしています。「現文明を一旦崩壊させる以外に手はない」と、口にはせずともどこかで諦めているのは物質的な発想でしかないと私は思うのです。

効率優先の直線思考では「変えられない止められない」か「ぶつかって終わる」しかなくなるのです。だからこそ私は一見無駄に見える曲線をふんだんに盛り込んでいるのです。

「すぐにカネや名声には繋がらなくても、知的生命体らしい在り方を求めましょう」
セイジョウ石井がお伝えしたいのは、ただそれだけのことです。

 

 

2018年03月04日

3/3高次元波動体験会のご報告

昨日【第10回・高次元波動体験会】が開催され、おかげさまで無事に終了いたしました。遠方からご近所まで様々な場所からお越しくださった皆様、誠にありがとうございます。

 今回は、「私『セイジョウ石井』が、なぜ現社会をイジョウだと言っているのか?」「高次元波動とはどういう意味なのか?」の説明に十分な時間を費やした甲斐あって、人間型非物質存在よりも色彩や幾何学図形サインを受け取る率が高かったです。

おかげで、知的存在といえばヒューマノイド型ばかりだと思いがちな現代に生きる皆さまにも「知的生命体・知性とはどういうものを指すのか?」という話を複数の角度からできました。

参加者みなさんの体験が意味していたことが何だったのか…その場で全てまではわかりかねた部分も、以後ジワジワ判明してくることでしょう。それが明日なのか来週なのか来月なのか来年なのかは、参加者それぞれのお楽しみ!笑

2018年03月01日

わかってない!?

「親切ぶっている(偽善)」と思われることを恐れて些細な行動も起こせない人が標準となっているイジョウな世の中で、堂々と「確実に訪れる肉体死から逃げないで生き方を決めましょう!」と発信しているセイジョウ石井です。

気付けば3月ですね。以前、自分を理解してもらうコツを話題にしましたが、それとは逆の立場での発言で「あの人はわかってない」という、ほぼ決め付けに近いもの(笑)もあります。

私の経験では、早々と「わかった」と答える相手こそわかっていないことが多いようにも思えます。むしろ「どうでもいい・うるさい・めんどうくさい」と感じていると早く切り上げたくて、その場ではすごくよくわかったみたいな態度を示すケースはありがちです(笑)。

つまり、しっかり聴いていてその事に真剣に向き合っているテーマほど、安易な返答では済まされなくなるのです。

ですから、誰かに何かを言ったら相手が質問を返してきたり、あるいは敢えてしばらく沈黙してから代案を出してくるとかなら、それは言ったことが響いている証拠です。それが本来の人間の自然な振る舞いだと思うのです。

大佐か長官か部長か先生かそれは知りませんが、上司となる人は大抵が自分の言った通りにそのまま従う人を好むため、雇われている身なら誰もが自分の処遇を決める相手から言われたことには即従うことが賢いやり方となり、それが私生活でも習慣化している人がいるのかもしれません。数値化できない創造性などがある人は、属している組織が大きいほど才能の芽を伸ばすことが難しいのは当然のことです。

いずれにしても自分の人生の舵取りが人任せとなったまま何十年も過ごしていれば、当たり前ですが創造性どころか思考力も判断力も失って行きます。それを実感している人も多いでしょう。

少し話が逸れましたが、なぜ急にこのテーマを持ち込んだのかと言いますと、近頃一歳の息子と遊んでいていつも思うからです。

写真は、車のオモチャで一緒に遊んでいたのに息子がそれを突然ほったらかしにして別の行動に出たため「おい、終わりにするのなら片付けろ!」とかキツめに言っている私の画です(笑)。返事もなし、一切振り向きもしないのですが、ひとはしゃぎ終わると一人で黙って片付けをするのです。

つまり聞こえているし、わかっているのです。「ちゃんとわかった素振りを見せればご褒美がもらえる」といった発想がない(実際にしてないので)だけなのです。それを「もう、わかんないかなぁ」とかブツブツ言って毎回私が片付けていたら身につかない習慣です。

大の大人を赤ちゃんと比べるのもどうか?…そう感じる人もいるでしょう。

ところが歳を重ねて穢れる人が多いというだけで、人間の本質は老人も子供も大して変わらないと私は思うのです。むしろ受けた洗脳が少なくて、長期の執着を持たない分フラットで、相手が子供だからこそ学びが多いと考えています。自分自身のこの肉体人生も、何か大切なものを見失いそうになった時は自らの幼少期の記憶や感性を頼りにしてきました。

「相手がわかっていない」と決め付けることは、以後のあらゆる場面で「自分は要らぬことばかりしていた」という状況に自分自身を導くリスクの高い行為です。

「わかった」ということをすぐに表現しないからといって、その相手が本当にわかっていないとは限りません。自分の思い込みを口や態度に出すのは少し待ったほうがよいのでは?

でないと、アナタこそが「わかってないな~」と相手に思われているのかもしれません(笑)。

2018年02月27日

人は多次元多重構造

ほとんどの人が「生死とは何か?」という最も根源的テーマをゴマカシ続けてカネや権利を追い求めているイジョウな今の社会で、知的生命体としてセイジョウでニュートラルなメッセージの発信を試みる【セイジョウ石井】です。

本名は石井数俊ですが、ペンネーム【セイジョウ石井】としては第一回目のお知らせとなります。

私が書いたり話したり、あるいは誰かのサポートに携わったりで発信している内容の根底に一貫して流れているテーマは「人は多次元多重構造の生物である」というものです。

今の地球に暮らしている多くの人は「肉体という物質だけが生命である」と勘違いしています。先進国と呼ばれる物質主義の国々が武力で次々と侵略した土地で、そのような教育(洗脳)をした成果なのですから当然です。

そうは言っても、日本人でしたら事故死した肉体を「鮮度が落ちないように早く」などと急いで食卓に並べるようなこともないでしょう。あやゆる肉・魚・野菜には日々しているそれができないというのは「物質肉体が機能しなくなっても人間には非物質としての何かがある」ということを心底わかっているからです。

火葬して骨の粉になってからでも丁重に扱うのが普通ですし、他界した存在と何十年経っても心を通わせている人だって少なくありません。

ですからこの国では、実際に霊魂の存在を疑う人はほぼいないのです。ただ、そうであっては不都合な生き方をしているが人が今日では日本でも沢山いて、そんな人たちは「肉体が死んだら全てが終わりだ」と信じたいだけです。

それらが前提ではあるのですが、大事なのは「多重構造」であるということです。「肉体で生きている間も人の本質は霊魂である」ということです。

「死んでからも非物質の何かがこの物質世界に影響を与え続ける」といったニュアンスで漠然と捉えている人はいても、肉体で生きている人にそれら非物質の影響力を当てはめて考える人が少ないのです。

機械のようにすぐに不具合が出ては修理して…そんな肉体が人間の本質ではないのです。そこに「神」とか「仏」とか「光」などの単語や、それらの代弁者とされる固有名詞を使うと宗教になってしまいやすいので私は避けています。ですから、それは「非物質の自分自身」だと言っているのです。

「物質ではないとしたって自分自身が神や光だなんて傲慢不遜だ!」そう感じる人も多いでしょう。でもそれは単なる自己卑下です。対象が肉体で生きる人でも故人でも偶像でも「私なんぞが○○様にお声をかけていただけるとはありがたき光栄…」などと思わず口をついて出てしまうほどに「あなた様の偉大さに比べたら自分は取るに足らないちっぽけな存在」…どれだけそのように信じ込ませることができるのか…そこで貢がせる規模が決まるため(肉体生命の場合も多し)ここ数千年は王道の搾取方法として普及していて、知らず知らずのうちに皆が洗脳されているだけです。

とにかく人間は、肉体を持ちながらでもまるで物理制約がないかのように自由に生きることが本来誰にでもできる存在なのです。ただそのためには自分自身の多次元性を理解して、それらの繋がりをよくする必要がどうしてもあります。

しかし、あなたの本質からしたらほんの一部分だけとはいえ肉体を持って生きているということは物質制約ゲームにも参戦中であることをお忘れなく。物質的制約が緩くなるほど、あなたの一部をわざわざこの物質世界に投入してまで求めた肉体経験の醍醐味は減ってしまいます。

ここまで読んで「何のことだかサッパリ!」と感じた方がいても全く不思議ではありません。皆それぞれにタイミングというものが重要です。何事にもヒントが欲しい時期ってありますよね。解こうとするネタがない時にヒントをもらっても、それはただの迷惑行為ですから(笑)。

これはテレアポでも飛び込み訪問でもありません。無数にあるネット世界での、とある超マイナーなワンサイトです。お気に召さない方がいらっしゃったなら…簡単なことです。どうぞ穏やかにこのサイトを閉じてください。

以後も具体的事例を挙げて人間の多次元性をわかりやすく解説して行きます。ご興味のある方、不定期となりますがお楽しみにお待ちください! 

セイジョウ石井

2018年02月25日

生死を語ることは正常で健全なこと

私の幼少期からの最大の疑問であり成人してからも最大の関心事、それは肉体死です。

子供の頃のそれは純粋な疑問でしたが「肉体死とは何か」がおぼろげに見えてくる思春期以降は「死をタブー視する社会」そのものの方が断然大きな謎となりました。

社会人としていろんな職種で働きながら探究を続けてみると「それが何故でどういう仕組みなのか」ということもわかりました。

「カネに支配された世の中を変えたい」という動機で、例えばよくいる政治家や宗教家のように「そのためにはまずカネや権力を手に入れる」という考え自体が矛盾していて私には興味が持てなかったため、それこそ社会の一般常識からすると「どこにもまともに勤め上げることのできないロクデナシ」みたいな半生を送ってきました。

その間も「人間の死」に対する興味については包み隠さずに堂々と語っていたため、相手が直接言葉にしないにせよ異常者扱いをされる傾向がありました。

生と死は表裏一体。死をタブー視している人は生をタブー視しているのです。死の事を考えたくない人は生きる事もあまり考えたくないのです。そこが罠です。「とにかくカネを稼がなきゃいけない。死を避けて生きて行くためなのだから仕方がない」・・・

だからこそ、この世は金銭奴隷で溢れ返っているのです。

そこで私は数年前に決めました。「異常者扱いをしたい人には勝手にしてもらうこととして、【肉体死とは何か】に関心を持っている、すなわちセットである【人生をいかに生きるか】(「いかに稼ぐか」ではありませんが、結果的にはそこに繋がります)を真剣に模索している人に提供できる、宗教ではない何かをコツコツ発信しよう。人間にとって本来それは正常なことなのだから!」

本名を隠したいわけではないのですが、もっと親しみやすい名がよいとの意見もあり、これまでの私の強い想いも込めてペンネームは【正常石井】です。
漢字にすると色んな連想をさせてしまうので(笑)カタカナで【セイジョウ石井】。

興味を持ってくださる方、これからもセイジョウ石井を宜しくお願いします。

2018年02月24日

孫はなぜ可愛い?

ほとんどの方が息子や娘よりも孫の方が可愛いいと感じるようですね。財布の紐も緩みやすいみたいですし(笑)「目に入れても痛くない」なんて言われるほどです。

これまで個人的に聞いてきたその理由としては「その子がどんな人生を歩もうと、その頃には自分が生きていないので責任を感じない分、気軽にペットのような可愛いがり方ができる」みたいなものが多かったように思います。

それよりも単純に言うと「老いてくるから若さの価値が高い」という要因が私は圧倒的だと思います。つまり、自分の余命を意識しだすと自分を経由して誕生してくる命がとても嬉しく感じられるのです。ほぼ誰もが、親になる時期にはまだ暮らしを立てるのに手いっぱいで経済的不安や心配が先立ってしまい、手放しで喜んではいられないのが普通でしょう。

他ならぬ私こそ、孫がいてもおかしくない歳となった今でさえもこの世界での生き方をずっと模索しているようなものですから(笑)。

一年半前、救急搬送されたその日に私は集中治療室であらゆる肉体機能を順次失って、一般常識的には「残すは心肺停止のみ」状態となったのと同時に息子は誕生しました。意識が遠ざかりながらも最後の力を振り絞って瞳を上に向けると、大勢の医師が成す術なく脳幹出血中の私の周りを取り囲んでいるのが見えました。「よりによって誕生日が年月日でバッチリ父の命日なんて少し酷だったなぁ。息子よ、ごめん…」そんな風に思ったのをはっきり覚えています。

私が意識のない植物状態中でも妻は生まれた息子を抱いて見舞いに来てくれていたみたいですが「無事に息子が生まれて自分がまだこの世界にも存在している」ということを私が自覚できたのは、それから1~2週後です。立てない私のベッドに同じく起き上がれない息子を横たわらせ、何とも言葉にならない感慨に耽りました。オムツに糞尿垂れ流し、そこも一緒です!笑

ただでさえ自分の年齢からして孫でもおかしくない上、常識的に自分もそう大して生きられない、仮に長く生きても辛くて困難な余生であることは誰にも予想がつくわけですから、もう曾孫くらいの感覚です。しかしコップすらまともに持てない自分の身体で抱きかかえたりできるはずもありません。ベッド上でも自分が崩れて押し潰してしまわぬよう横から、ほとんど視えなくなった目で眺めることが精いっぱいでした。

あれから1年半、今では私と同じく歩けるようになった息子と妻と3人で公園に出かけ、噴水を眺めたりしているのです。これを実現するため、私は痛みに耐えて自己流リハビリを自発的に組んでここまで実践してきたのです。

息子は、肉体で生きる大きな動機付けを私に与えるために絶妙なタイミングでこの世界にやってきてくれました。そして私が肉体で生きる真の意義は、もちろん子供の相手をすることだけではありません。同じく苦しみながらも肉体で生きている方々が希望を抱くきっかけを自分も提供できると考えるためです。

仮に今がどんなに辛くても悲観しないでください。
常識的にそれが無理なら、非常識になればよいだけです。
いろんな人それぞれにいろんな常識がある…これは事実です。

あたかも自分以外の誰もがそうであるかのように錯覚している「常識」とやらに惑わされないでください。そんなものは存在しません。

この世でどんなに「権威がある・信用がある」とされる人が言っていることでも、それが当てはまらない多くの人にしてみたら、それは非常識です。

強いて言うのなら、生きている人が希望を持って生きる…それが常識です。常に苦痛や不安を感じているのなら、それは非常識な生き方をしているからです。「お金を稼ぐためには仕方がない」という理由で非常識な何かを続けているから、どんなに稼いでも不安で苦痛なのではないでしょうか。

何が常識なのかは、皆さんすでに深い所で知っているのです。
この世の仕組みは、その人の常識によって異なります。
解釈が異なるのではなくて、実態が人によって異なっているのです。

アナタの選んでいる世の中の仕組みはどんな仕組みですか?

 

2018年02月20日

興味が向くもの

人は誰しも観察対象を自然と「好き・嫌い・どちらでもない」の、おおよそ3種類に分けて認識し、それぞれの反応を示すものです。ところが乱暴な言い方をするようですが、実のところ大雑把に「関心がある」「関心がない」の2種類しかないと私は考えています。

 「嫌う」という行為はエネルギーなどのコストをわざわざ投入するという意味で、自覚がないだけでお金や時間を費やす好きな事と同列扱いしているのです。

本当にどうでもよいと感じることに関わりを持ちそうになった場合、奪われるエネルギーを最小限で済ますためにも多くは軽い嘘などを駆使し(笑)摩擦最小限で切り抜けようとするものです。金銭報酬だけを目的に労働をした経験のある方ならすぐにわかる簡単な話です。

では「嫌う」という現象は何なのでしょう。私はそれを一言で表すのなら「自分自身の葛藤」だと思うのです。わかりやすい例を挙げてみましょう。本当にあくまでも例で、特定の誰かをイメージしたものではありません。 

若い頃に異性の誰かから好意を抱かれた場合(ストーカーなどは論外ですが)自分には何の実害もないのにその相手のことを嫌っているような素振りをすることがあります。

男性なら「俺の彼女になりたければもっとおしとやかで気の利く女にでもなれ!」なんて強気な思いもありながら、「実際にそうなら花形スポーツ選手とでも付き合うだろう。パッとしない俺なんかに好意を示してくれるのは、これから先もあれくらい図々しくて単純なタイプしかあり得ない。つまり悔しいけど釣り合っているってことか?」…

女性なら「アンタみたいにブサイクで低所得な男ってサイテー。見た目はしょうがないとしても、私は年収1億以上の男しか興味ないの!」とか咄嗟に言ってしまうのが習慣化してしまったものの、家では夜な夜な一人ため息をついてカップラーメンをすする生活を長年しているうちに突然取り乱して「もう無職でも何でもいいから誰か私と結婚して~!」(笑)

つまり自分が理想とするところと今の自分の実態とのギャップを受け入れられないと、実態に即した人なり物事なりを拒否することで理想だけを維持しようとするのです。

理想を掲げること自体は悪いことではないのですが、実力を理想に近づける努力を継続する人が極端に少ないのでしょう。あるいは理想を掲げること自体が目的なので、目的を失わないためにも実態は理想とはかけ離れている方がよいのかもしれません。

私が何を伝えたいのか… あなたが嫌だと感じる物事や人物は、今のあなたの現実を象徴的に映し出している重要な何かなのです。あなたが不快に感じる何かは、あなたが認めたくないあなた自身の一部なのです。それらを認めて受け容れて初めて、努力を継続して状況を変えることができるのです。

 

一昨年、集中治療室で意識が戻ったばかりの頃の私は、あまりにも濃厚で大量の異次元体験記憶の整理に忙しく、この肉体に起こった脳幹出血に伴う小脳損傷という惨事が些細な事に感じました。それでも徐々に意識がはっきりするにつれ、寝たきりで操れない身体から常時猛烈な痛みや痺れを感じ取るようになってきたのです。 

眼はほとんど視えません。食料を口から摂取しないので味覚も想像すらできません。でも周りの患者の苦しそうなうめき声ははっきり聴こえます。倒れて意識が遠のく中、一切無音の世界に入った瞬間ははっきりと憶えていますが、その聴力機能の喪失は一時的なもので済んだようです。身体を起こしてもらい車椅子に乗せられて行く先はトイレです。漏らした排泄物を感じ取れるまでに皮膚の感覚が戻ってきたのです。

そんな状況の中、ろくに見えない天井を仰いで覚悟を決めました。

「こんな肉体でもまだ少しは動くし思考ができる。ならば、これまでのような自由は利かなくてもせめて付きっきりの介護なしで暮らせる身体にまでは努力を継続しよう!」

私が本気で良くなると決めて入院したリハビリ専門病院では、患者の皆さんが辛くて嫌がっているというプログラムでは物足りなかったくらいです。おかげで話せてなんとか歩けるようになって退院しました。

徐々に和らいではきましたが、今でも常に痺れと痛みはあります。それでも毎日数時間は歩きに出ます。そうしないとすぐに歩けない身体に戻ってしまうのです。睡眠中も1時間おきくらいでトイレ(漏らしたくないから)。あらゆる影響から排泄制御はやはり難しいのです。それに数時間も連続で横になると、介添えなしでは起き上がることができなくなってしまうから丁度良いのです。

ポンコツとはいえ、今使っているこの肉体死を見届けることができるその日までは努力を継続して行くしかありません。でも、その甲斐あって一見は健康な人に見えるほど、介護なしで歩いたり話したりできているのです。

近頃では「好きなことだけやっていればいい」なんて言葉が流行っているようですが、もしかしたらその「好きなこと」とは、つい先ほどまで「嫌いなこと」として認識していたものを指しているのかもしれません。

今回の文脈からすると「あなたが興味の向くものに集中しましょう・お金のためとはいえ、どうでもいいと感じることに時間やエネルギーを注ぐことは不健康です、あなたはロボットではないのですから!」ってな感じでしょうか。

2018年02月13日

僅かに見えて大きな違い

自分にとっては凄く大きな変化であっても、周りからしてみたら気付かないくらい些細な変化だったらしい… そんな経験を皆さん幾度となくされてきたのではないでしょうか。

「関心事が違う・同じ関心事でも視点が異なる」等々、いくらでも理由は挙がるでしょう。それが男女なら、その言い訳にいつも苦労している人も少なくないはず!

さて、いつもの観点で書きましょう(笑)

それは、外見上の変化などより内面の心理的変化から感じていることなのでパッと見でわからない、つまり本人だけが感じている大きな変化であることが原則だからです。どういうことかと言いますと、ベタな話ですと髪型や化粧を含めたファッションがまさにそうです。

すれ違って視線を外したり、逆に凝視してしまうような極端な例はこの際外しますが、例えば、ずっと嫌っていたデザインの上着がひょんな事から気になってしまい、買って身に付けて外出したとします。街では特に目立つこともない色と形と素材で、いつも会っている仲間は何も言わなくても「相変わらず無難で一緒にいて安心できるファッションだな」と感じていたとします。

ところが着ている本人からしてみれば、凄く思いきった格好で外出中なわけです。「過去のこだわりを払拭できた」とか「好みのセンスがこんなにも変わった」とか「昔ならユルせなかったこんな服を買ってまで着ている、寛大になった私」とか…笑

いずれにしても自分では心理的に凄い変化なのですから「アンタはこの大変化に気付かないってわけ!?」くらいに思ってしまうのですね(笑)

ファッション以外でも、いくらでも例を挙げられます。

そうです。「外見等の物質的変化はほんの僅かであっても非物質的には大きな変化」とは原則、本人にしかわからないのです。しかしそれは実際に途轍もなく大きいものなのです。ですから長年低頻度で接している人になら「あの頃から変わり出した」とわかることがあります。

そして、そのような機会を重ねて次第に見えてくることがあるのです。それは「誰にでもすぐにわかるような変化は真に深い変化ではない・人間の内面とは、他人にわからせようしても簡単にわかってもらえるはずがないし、また、そうする必要も全くない」…

上述を「若くして悟った」みたいに早とちりしてしまうのが「ひきこもり」だと私は思うのです。

そこでもうひとふんばりしてほしいのです。物質世界では時間が掛かりますが、ほんの僅かであっても「感じること・言うこと・すること」を変えて根気よく継続していれば、それは必ず伝わって結果的に人間関係を筆頭に大きな物理環境の変化を確実に起こします。

「ある特定人物を理解すること」は、万人にとってかなりハードルの高いことなのですから「自分を理解してほしい」など叶わなくて当然なのです。そもそも、大抵はそういう本人自身が自分を理解していないのですから!笑

ちょっと見での人の印象は、後で思えばほぼ誰でも「思い込みだった」と感じるものです。

ですから変な話ですが、私の記事を読んだりイベントにお越しくださった方々の反応は、薄い方が嬉しい部分もあります。仮に(本当に仮の話ですが)何かが見えたとか聞こえたとかで大騒ぎしている人が出たとしたら「物理現象に近い側面に注意を引かれて内面変化にまで導けなかったのか…」と思ってしまう(笑)ということです。(肉体をお持ちの方でも既に十分変化に富んだ領域に日常的に達していらっしゃる方で、遠慮なくごく普通に接してくれる方もいます。何事にも例外はあります)

自分が変化成長していることを誰かにわかってほしければ、その新しい自分がすることを継続することで物質世界に表現し続ける…回りくどいようでもそれ以外に方法はないのです。そしてそれがこの世界にいる意味です。すぐその場での反応を求めるのは、赤ちゃんだけの特権です(笑)

皆さんが後年になって思い返してみて「あの時期に出合ったあの人が今の自分に最も影響を与えた」という人物、誰かしら思い浮かぶでしょう。その方が他界しているケースも多いでしょうが、それが良い影響だったと思うのならおそらく、その方はこの世的に目立たない人である可能性が高いのです。赤ちゃんみたいに派手な何かに反応して騒いだりふてくされるのも素直で結構ですが、一見地味だからこそできる深くて静かな生き方に魅了される人が増えているように思います。

2018年01月30日

第一印象

新しく知り合う相手の第一印象次第で以後その人との関わり方が大きく異なる、というのが一般的でしょう。私のように「人間の本質とは…」みたいな事に常に興味を抱いている変わり者を除けば(笑)

だからこそ、初対面の人に自分が好印象を与えられるよう細心の注意を払うことを必須とする職種は多いですし、プライベートでも会う人会う人に「イヤな人・変な人」などと思われないよう努力するのも普通のことでしょう。逆の言い方をしますと、最初のイメージと長年付き合ってみた実態のギャップが大きい人がとても多いのです。これは善悪とも正誤とも無関係です。

 

経済最優先社会においては、悪印象を持たれた時点でお金を落としてもらえなくなるのですから、利潤追求が目的の組織、つまりほぼ全ての法人に属しているかぎりそのような教育を受けることが当然なのです。

ですから社会人として歳を重ねると、それなりに見えてくること。それは皮肉にも「正体がばれたらマズイ人ほど印象を取り繕うことに躍起だ」という事実です。誰だってこのことがわかってくると、法人であれ個人であれ相手の見方も変わってくるものです。特に近年、世の中そうなってきた感が私には強いです。みなさんはどうお感じでしょう…

これは、綺麗ごとを謳っている人ほど胡散臭く感じられる一方、一見飾ることなく地味であってもする事さえしていれば「嘘偽りがない」証であり、その、している事の質次第では信頼のブランドに充分なり得ることを意味します。

要するに「質」の時代に入ったのだと思うのです。身近の誰が何と言おうと、自分の提供する何かしら(物質とは限りませんし、それがいくつなのかもわかりません)の質を磨いて行けば間違いないのです。

取り繕うことは、努力虚しく何も実りません。しかしそれも経験してこその学びです。

今の社会システムに上手く乗っかって暮らせていても嘘偽りで固められた人生は、一生常に迷いの中にあるも同然… 本人が最も苦しいのです。

若くても飢えや病気で物質生命を維持できずにポロポロ肉体死に至って当然だった時代や場所は常にあったでしょう。しかし金銭名誉的に何ら困ってなくとも人生に迷っている方がこんなに沢山いた時代はあまりなかったでしょう。

迷うのも、本人が「迷い」を選択した結果なのですから、周りが「迷うな」と言うのも大きなお世話です(笑)。それに何より、迷っていられるだけの余裕がある!

だからこそ今の時代を肉体で生きることは面白いのかもしれません。

2018年01月26日

自分の正しさ

最近、「自分さえよければいい」人の典型的な行動を目撃したため、改めて思うところがあっての投稿です。

いったい何年ぶりなのか詳しくは知りませんが、先日東京都心でも雪が積もりました。
一昨年に一度寝たきりとなってから再び普通に移動できる身体になろうとして、ここ一年半あらゆるリハビリを試してきた私でしたが、雪道は未経験でした。それがまさか東京で試すことができたのです。

結果、いつもなら20分のところを60分かけて徒歩で転ばずに移動できました。
慣れない雪道は誰にとっても危ないのですから、状態の良い路面でも普段から転ばぬよう何とか歩いている私にとっては難関です。周りに歩行者や車がいたら大変な迷惑を掛ける可能性があるため、まだ暗い5時頃を選んで慎重に歩き出しました。

目的地であるファミレスに無事到着したので安心して充分な休憩を取り、帰ることとしました。
さっきはまっさらだった雪道も車や歩行者で徐々に踏み固められてきてだいぶ歩きやすくなっています。建物の管理人らしき人が雪掻きをしてくれている姿もちらほら見えます。「ありがたいなぁ」と思って歩を進めていると、「おや?」と思う光景に出会いました。

片側一車線でバスも通る、いつも「危ないな…」と感じて通っている狭い道が渋滞しています。「やはり事故かな?」
歩行者の幅は確保できていたので私が通りすぎると、ただででさえ雪で狭くなっている車道を汚い雪の小山が塞いでいます。そのすぐ脇の店舗(学習塾)主なのでしょう…店舗すぐ前の側溝に積もった雪が凍って流れないからスコップで車道にずらして山積みにしているのです。

果たして何のイヤガラセなのか? どっきり番組の収録なのか??

雪掻きをしているつもりのオジサンの表情は険しくて、周りの視線などおかまいなしでした。

周りに迷惑をかけている人を見かけて「相手が子供でも注意する大人がいない」なんて論議はよくあります。ところが大人が真剣にやっているところを見かけた場合の難しさをひしひしと感じました。

何をしていても、それはその人なりの「当然」なのだから…
個人のいがみ合いから国家間での大量殺戮まで、それぞれが異なる内容の正誤や善悪を主張して起こる…それが人間社会だと私は考えるからです。

たまたまですが、受験ビジネスの事業主にとって「自分の都合だけで努力するのではなくて周りを思いやる」などという思想は相容れないに決まっています。自分が枠に収まることだけが目的なのだから当然、枠からこぼれ落ちる者を気遣ってどうする!ですよね(笑)

極端な言い方をすれば「自分さえよければ他人のことなんて知ったこっちゃない」ルールで勝ち残った者が今の社会では優位に立っている傾向があるのです。

「迷惑をいくらかけてもよい強者を目指せ。ひたすら迷惑をこうむる立場(弱者)にだけはなるな」思想とでも申しましょうか(笑)

「人間は多層構造をしていて本質が非物質の愛だの智恵だの云々を語ったところで、物質肉体としては残念ながら弱肉強食の醜い獣でしかないのだ…」
色々と想起させられる早朝のワンシーンでした。

2018年01月02日

毎日が元旦

みなさん、あけましておめでとうございます。
この投稿は、せっかくのお正月ムードに水を差す目的で更新するわけではありませんので(笑)誤解なきようお願いします。

昨日は元旦でしたが、その他にも世間の多くの人に特別扱いされている日があります。たまたま現代の地球全域で広く使われいるグレゴリオ暦に基いた結果ですが、一部のサービス業を除く働く人の多くが連休になるという事が特別である最大要因でしょう。
普段はゆっくり過ごすことのできない人たちとも集まって、安心して飲食や宿泊をして過ごすことができるわけです。無条件でプレゼントや現金をもらえる子供はともかく、この毎年訪れる年末年始のプライベートな仕事がストレスとなっている方もいらっしゃるようですが…

ここで私がテーマにしたいこと「では、普通に過ぎ行く毎日は特別な日ではないのでしょうか?

もちろん、誕生日をはじめとする「○○した日」などの個別の記念日はあることでしょう。しかしそれらもカレンダーを基準にした、子供が宿題を思い出すように毎年巡って来る日なのです。私が言いたいのは暦を無視した日時感覚のことです。

春休みが終わったばかりの子供が「早く夏休みにならないかな~」と思うように、出勤しても「はやく勤務終了時刻にならないかなぁ」「まだ水曜か…はやく土曜にならないかな~」などの思いは明らかに「特別な日に対し、価値の低い特別でも何でもない時間を過ごしている」と捉えているからこそ湧き起こる考えです。

このように過ごした一年を振り返って「あっという間」だったとしても、それは単調な毎日に意識を向けないようにして早く過ぎ去ることだけを願っていた当然の結果です。なのに不思議と、このタイプには病や死を強く怖れている人が多いのです。そして人生の最期にはもちろん「自分はいったい人生で何をしていたのだろう…」となりやすいでしょう。

肉体を忙しく動かすという意味でなく、精力的に何かに打ち込んでそれなりの感触を得た人ならば「たったの1年だっけ?もう5年くらい前の事かと思った」となるのであり、そんな人は常に「いつ死んでも構わない」と考えるふしがあり、病や死を過剰に怖れないそんな姿勢が更に多くの物事を成し遂げやすく、実際に健康長寿で肉体人生を終える傾向にあるようです。

つまり、万人にとって本当は毎月・毎週・毎日が特別であるということです。カレンダーとは今の文明社会とやらを機能させるために要した統一基準です。皆にそれぞれの暦があるのが本来であって、地域性や人種によっても時間感覚は全く違うのです。ちなみに、何度もお話していますが非物質存在には時空感覚がありません。時空に縛られて錯覚している物質存在のために便宜上、直線時間やサイズというものが実存するようにコンタクトしてくれる優しい存在がいるだけです。

明日でさえ100%生きて会える保障は誰にもありません。それが生身の人間というものです。そのことを胸に刻んで、つまり一日一生という生き方が大切なのです。身近な人の突然死、自分自身が死んで当然の事故や病気に遭った場合、このことに気づきやすいでしょう。(死んでから気付いてもこの世界では肉体がないと何ともできないルールです! 他界して憑依したり霊障を起こさないでくださいね~笑 それ故に輪廻転生みたいな概念も生まれるのでしょう)

要するに「肉体死」という万人にとって確実な事象を正面から受け止められない人には「肉体で意識的に生きる」こともできないのです。

日々を振り返ることで学習し以後の成長の糧にはしても、失敗からくる羞恥心や罪悪感、被害意識からくる復讐心などを明日以降に持ち越さないことです。はじめのうちは解せなくても感情や気分は完全に自分次第なのです。日々心を清めて毎日を気分一新の元旦にすればよいのです。

連日同じ作業の繰り返しだったとしても寿命が尽きるまで新鮮な気持ちの毎日を意識的に過ごすのか。

あるいはそんな事には思いも馳せぬまま何事も他人や環境のせいにして惰性の日々を送るのか。

物質的にも精神的にも、今のあなたの状況はそれらの積み重ねであなたが創ってきたのです。

毎日を元旦の気持ちで生きましょう!

2017年12月09日

自分教信者

突如年単位の休暇ができたとして、その間も過去の同期間以上の収入があるとしたらどうしますか?

ばからしく聞こえてしまうため露骨に答える人はあまりいないでしょうが、結果的には「暇を潰すために散財し、預貯金(借金)を気にしながら過ごす」となってしまう方が最も多いはずです。

笑い事ではなく実際そのような方が世の中には常に一定比率で存在していて、その人たちがお金を増やそうと時間を潰してかえってお金を巻き上げられるようなしくみが社会のあらゆる箇所で機能しています。それはそれで、ケチで強欲な人ほど大金を寄付することとなるためバランスがとれているのかもしれません。

善し悪しは抜きで、これらの方々のおかげで日本経済は発展してきたのでしょう。どういう意味かと言いますと「暇すぎて時間をもて余すくらいなら、まだ働いていた方がよい」という人々に支えられて組織が繁栄してきたのは事実だからです。「企業戦士」などという宗教信者のような思想が普及して、憧れの組織に入信した末の過労死が美化されるような社会風潮まであったのです。

政治や宗教にのめりこむのは表向きNGとなった戦後でも、カネの為なら命を削って当然・・・ほとんどの地球人を「金銭教」の熱心な信者とすることに成功したのです。

ところが「ブラック企業」等の言葉が一般化するような今の世の中では、「カネと名誉のためなら何でも犠牲にする」といった金銭信者は減る一方です。次は何信者の時代でしょうか…

私は「自分信者」の時代に既に入ったと考えるのです。自分を信じることでもあります。

そこで重要なのは自分の定義です。鏡に映る物質の肉体が自分なのではありません。それは自分自身のほんの一部です。人間の本質は見えないし触れることもできない非物質存在です。

非物質の本当のあなたは、この物質世界の中を時間と空間の制約だらけで生きている肉体…そんな限定された存在ではありません。

既存の名詞を使うのなら、自分自身とは大人でもあり、子供でもあり、でもあり、でもあり、地球人でもあり、地球に縛られない未知の生命体でもあり、他人でもあり、死人でもあり、神や仏でもあります。

自分を大切にしている人は、他人も死人も神仏も、万物を大切にしていることになります。
誰かを軽蔑できるのは、自分を蔑視しているからこそです。
見える物も見えないものも例外なく全てが自分自身の一部、誰にしてみても自分=宇宙なのです。

「愛」という単語はだいぶ歪曲された使われ方をしていますが、本来そういうことを表す単語だと私は思うのです。すると「愛こそがすべて」という言葉の意味が通じます。愛=宇宙であるのです。

そのことをもっと理解してささやかでも伝え続けることができるよう、私はまだこの物質世界でも不便な身体を維持できるよう努めています。そして皆さんもきっとそうなのでしょう。

性愛や執着ではない「愛」を理解して実践することが人生の究極の目的だと思うのです。

2017年12月03日

変化の時期

自分が生まれ育ったその町の住環境が基準となって子供時代を送り、10歳前後に他の町や市や国や星の存在を知る… 過去を振り返れば、みなさん大凡そんな具合ではないでしょうか。
親の都合であちこち転々とされた方もいらっしゃるでしょう。時代に翻弄される象徴である戦争によるもの以外でも、概して子供には理解できない大人の事情によるものが引越しです。それらは、せっかくできた友達との別れをはじめとする辛い記憶として残っているのかもしれませんが、私は「見識を広める・視野が広がる」という観点では貴重な経験だと思います。

子供の自由意志だけで叶えられることではないという意味で、高校生になるまでは原則町を出ることがなく狭い世界しか知らずに育った私には、同じ10代半ばでも知っている物質世界の範囲が広い人が羨ましくもありました。それは何故かと言いますと、知識では吸収できても体感を伴う経験によってしか得られない感覚を、早い時期から養うことができるからです。その後の実体験からしても「暮らし」とはそういうものです。

その分、いつも空想世界では大きく羽ばたいて少年期を過ごすわけですが「おかげで想像力が豊かになった」と思う反面、同じ高校生でも空想壁だけではどうにもならない物質世界の生活力で随分と差が出てきているのです。「そんな物理的拘束がイマジネーションを逞しくしたからこそ、それを活かした職に導かれる」といった例も多いですから、私は一概にこれが問題であると言いたいわけではありません。

転居の変化は星の緯度や経度に伴う気候の違いに限ったことではなく、飲食物、話す言葉など、それまで微妙な違いだと思っていた生活習慣が実はとても大きな違いだったと認識できるのは、肉体ごと移動したからこそなのです。空気感なんて言葉が日常的に使われているくらいですから、その場所の空気が最も大きく影響するでしょう。

もちろんここでの空気は大気を構成する酸素や汚染物質等の量ではなくて物質としては説明のつかない何かを、便宜上「空気」と呼んでいるだけです。隣の家に移動するだけでも外国に行くのと変わらないくらい非物質エネルギーの変化が出ることもあったりするのです。

この話題を今出した理由は、ここ数ヶ月の私自身が土地のエネルギーに関する重大事を物理的に実行していたため、思いのほか継続的に消耗して情報発信が疎かになってしまったからです。それだけその事に意識を集中させたかったということです。

私が元々死にそびれ(笑)なだけに「リハビリに失敗して何かあったのではないか?」等と勘ぐった方がいらっしゃるかもしれません。実はむしろ反対で、移動などの日常的な負荷に耐えられる平均的肉体へと戻りつつあるということです。とは言っても戻りつつですので、かつてと比べたらまだヨレヨレですが…(汗)

話を戻しますと、いくら映像や音声を入手できても、その場に肉体と非物質の自分(セット一式)がないと得られない経験をするというのがこの物質世界の人間の面倒くささであり、面白さでもあるのです。体外離脱を制御できる人の場合はその限りではありませんが、逆に言えばそれではこの物質世界に存在する意味がなくなってしまいます。

ですから皆さん、肉体を有して生きる煩わしさを積極的に楽しめばよいのです。 

瞬間移動ができなくても乗り物での移動中に意外な喜びがあります。私のように自転車も乗れなくたって車椅子やヨレヨレ歩きでも紅葉は見られます。私のように漏らすリスクが高くても(笑)糞尿をたれる情けなさに気を取られないで飲食物を味わいましょう(量ではありません)。感じられる範囲で音や香りを堪能しましょう。どこかに痛みや辛さががあっても眠りに就ける時があるのなら、それも毎日必ず訪れる至福の瞬間です。

生活を変えることが上述の諸々の感覚を養います。すなわち幸福感度を発達させるのです。ですから場所だけでなく、若くて早い時期にあれこれ変化が多かった人ほど晩年は幸福感が強くなる傾向があるのです。

皮肉にもそれが裏目に出て「だからもう変化はしたくない」という頑固さに陥ってしまうケースもあります。それでも若い頃に変化を沢山経験していれば、晩年の変化にも大概が対処できます。

暮らしの変化に対して免疫がない人は「何歳になっても人生の節目を上手く乗り切ることができない」といった具合になりがちです。つまり、それは晩年になるほど「人生こんなはずでは…」と感じやすい人生であり、それが近年の親や教師が子供に強いている暮らしです。そして、その甲斐あってか(笑)十代二十代から実際に不幸感覚いっぱいで生きている若者も多いようです。

「若いうちに苦労は買ってでもせよ!」なんて言って貰える若者はあまりいないのでしょう。それこそ、実践してこなかった人には本当の意味がわかるはずもない言葉なのですから…

 

2017年11月04日

文化的生活

昨日は「文化の日」という祝日でした。元は「明治天皇誕生日」だったそうですが、それが日本国憲法制定の記念日に変わったようです(制定でなくて施行の日が憲法記念日)。戦争放棄や基本的人権を謳う憲法がそのまま平和や文化を重要視している、という意味から付いた祝日の名称なんですね。

ここで「文化とは何ぞや?」と哲学を論ずる気は毛頭ないのですが(笑)知的なことや美的なことに意識を向けて探究したり発信するなんて、確かに平和だからこそできることなのです。

自分が肉体を持つ人間として飢えや病苦にあえいでいる場合、モラルの低い人から順次なのかもしれませんが、最終的には大半が肉体生存を最優先するためになりふり構わない獣と化してしまう…現代の先進国ではそれが多数派の生命観でしょう。そこには文化も芸術もあったものではありません。

このような話を聞くと、多くの皆さんは国家間の戦争や疫病の蔓延等をイメージするのかもしれません。ところが実際は悲しいかな…そんな大仰な事でなくても簡単に平和を乱して、動物的で利己的な行動を取ってしまう人間性が映画やドラマでの格好の題材となっているわけです。

ごくありふれた家庭内や職場でも、人間関係トラブルに悩んでいたとしたらどうでしょう。知的好奇心を充たす何かに勤しんだり芸術的創作活動に打ち込んだりする気力など湧かない!となってしまうのが普通でしょう。物理的に危害を加えられたり罵声を浴びたりし続けても知的美的な何かに没頭できたのだとしたら、それはもう悟りの境地です(笑)。

現代日本は一見、誰もが文化的な暮らしをしているかのようです。ところが、所有していて当然とされる最先端を行くその文化的ツールが何であれ、特定企業の利益追求の産物なのであり、それが無くては生活に支障が出るようなムードに洗脳された皆が当たり前に利益貢献させられているのです。

家賃や食費や養育費などの生活費をギリギリで工面させられて暮らしている上、更にほぼ全員がローンを組んでまで高額商品を購入させられているのですからこれはもう、庶民のほとんどが心理的には常に戦争状態

多くの場合は学校を出て気付けば自分が既にその立場となってしまっていたのでしょうが、文化は本来、戦争とは反対の意味なのです。しかし皮肉なことに戦争が現代地球人の文化を象徴しているのです!

「ビジネス」という体の良い単語を使っていても顧客なり契約なり役職なりを獲った!獲られた!勝った!負けた!という毎日を送っている場合、常に静かな経済戦争に参画してるというのが実態です。都会の多くの人々が文化的とはおよそ縁遠い生活をしている…

それが激しくても静かでも、自分が参戦している最中は夢中になっていて何にも気付けず、多くは終わったり抜け出してからはじめて「なんて愚かなことをしていたんだ…」と気付くのが、争いというものなのです。

2017年10月08日

気にしない方法

前回の記事で気にしないことについて書きました。きっと「気にならないのならどんなに楽なことか!気になってしまうのだから仕方がない、だからこそ困っているのに…」と心で呟いている皆さんの声が聴こえたため(笑)続編です。

気になって気になってしょうがない、夜もろくに眠れない… 特別に神経質な人ではなくても、多くの人に経験のあることでしょう。

どうしても気になることがある場合の私の対処法は、どんなに壮大で時間がかかりそうな事でもすぐに、あるいはできるだけ早くそのことに着手してしまいます。気にしていながら手をつけずにいた場合は、結果がどうであっても後味が悪いからです。

「気になったから着手したまではよいが、まだ時期が早すぎた」という場合、それが確認できただけでも「その時期が来るまでの間は気にかけていても仕方がない」と納得できます。

気にしていながら行動に移せないという状態は「今それに着手しても自分の思惑通りの結果が出る確率が低い」と自分で判断しているケースが多いのです。それでしたら確率を上げる行動をすぐに開始すればよいわけで、気になる事の焦点をそちらに移動させればよいのです。気にかけている事柄をうまく運ばせるためにできる何かを実行するよう、意識を向け直すのです。

ですから、ひたすら気にかけているだけで何の行動も起こさない人とは、はっきり言って子供のように「努力や工夫はしなくても結果だけが欲しい」人なのであり、同時に大人らしく「この世の中にはそんなうまい話はない」とも思っている人であるということです。

結果を次々と出す人は、ここの認識や自覚がはっきりしている人です。

現実を変えるために取れる行動とは、ほとんどが小さな事ですがいつでも誰にでもいくらでもあります。その中身は人や時や場所によりますから、まさに様々とならざるを得ないためひと括りでは表現できないのですが、このことを個別に伝えることができた相手が一定期間で現実生活を変貌させて行く姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

「気にかけたり悩んだりしている時間やエネルギーがもったいない」そう感じるようになったのなら、しめたものです。

逆に捉えますと、気にかけて悩んでいられること自体がまだまだ切迫していない余裕のある状態ということなのであり、常に瞬時に決断して行動しなければならない過酷な状況に比べたら、ある意味贅沢なことなのですね。

 

2017年10月07日

気にしないとは

例えば、年齢や立場が自分より下の者が自分に対してきちんと挨拶してこなかったとします。

その相手がいつでもどこでもそんな調子ならば、上司なりお客様なりに気に入られることはないでしょうから、どこかで強く指摘されて気付くなどで改善しないかぎり、賃金を得て暮らすような人生はかなり難しいでしょう。そのような態度が些細な事であると思われるほどに卓越した特技や人間味などがあって、そんな調子で暮らしていても周りが目をつぶっているケースもごく稀にはありますが(笑)。

問題は、たまたまその時だけ自分への配慮が欠けているように映った場合、言葉や態度には表さないとしても「なんだ、こいつは挨拶もろくにできないのか!」などと自分が強く感じるかどうかです。

特定の相手が毎回必ずそうなのだとしたら、思いやりからも気になって本人なり周りの関係者なりに指摘したくもなるでしょう。しかし、たまたまそんな事があっただけなのだとしたら、それは偶然考え事をしていたタイミングにすれ違っただけなのかもしれません。それは挨拶に限らず、誰だって人間のする事には「見逃し・勘違い・うっかり」などということが付きものですから。

しかし、些細なきっかけが一度あっただけで「あの人、なんか好きじゃない」「アイツは失礼だ、けしからん!」などと決め込んでしまう人も少なくありません。そんな感情が湧く理由を少し考察してみましょう。

自分が本当はしたくない(必要だとか重要だとは思えない)、つまり腑に落ちていない何かを組織や誰かの都合で強要されて習得した場合、習得したかに見えたその後も実は身についてはいなくて、その人は常に不自然に意識してそのように振舞う努力をしているだけなのです。

それが心から納得できた何かなら、習得コストを惜しむこともなく進んで身につけ、短期間で新習慣にできます。ところがいつまでも「やらされ感」でしている事ですと、ちょっとした何かでも「不本意でも自分だってこのように振舞っているのに、アンタはそれをさぼるのか!」といった厳しい見方をしてしまいがちなのです。

言い方を変えれば、周りの期待に応えようと自分を偽って生きている要素が大きい人ほど他人に厳しく辛く当たる傾向があるということです。反対に他人に寛容な人とは、他者の意図や期待に応えようと自分を無理強いしていない、自然体で生きている人だとも言えます。しかし現代社会の中を後者のように生きることも、それはそれで多くの厳しさに直面することでしょう。

ですから、私の伝えたいことは「不本意な事ならば、やらないでいましょう」ではありません!

変化を起こすために新しい何かを習得するのならば、何事も納得して腑に落としてから「これが私の本意だ」という気持ちで取り組むことが大切だということです。そしてここでの留意点は「納得と完璧とは違う」ということです。

肉体を持つ人間に完璧はありません。すなわち完璧主義者とは皮肉にも一生自分で何事へも納得できないまま、他人へも不寛容に過ごす人生を意味します。

子供の頃の私には解らなかったのですが、今では「気にしない」「これでいいのだ」等のアニメの有名セリフは、本当に人生を楽しく豊かにする名言だと思えるのです。

2017年09月20日

感動のしくみ

私が脳幹出血で視聴覚・味覚・触覚・嗅覚をはじめとする感覚や、歩行はおろか起き上がりや飲み込み等の基本的な肉体機能を一旦は完全に失ってから、早くも一年以上が経過しました。

「死亡か植物状態のままか…」と一度は憶測されていたようですから(他人事のように!笑)よくもここまで持ち直したものです。おおよそどの機能も徐々に取り戻してきていますが、どれひとつ取っても元通りのレベルというわけには行きません。それでもやはり優先順位を決めて、諦めずに機能回復訓練に勤しむ日々です。

昏睡状態から意識がはっきりしてきて改めて想ったことは、他人に迷惑をかけて愚行を重ねながらもなんだかんだ自分はこれまで生かされてきたのだ…ということでした。そしてこれからも確実に異なる境遇で生きる…ということを想定して「読み・書き(入力)・話し・これらに関してだけはスローでもよいから何が何でも肉体機能を取り戻そう!」と決意しました。

昨年の今頃は、まだほとんど何も認識できないメチャクチャの視界で文庫本を眼前10センチ位まで近付けて読んでいたのですが、指の感覚もほぼないため、ページをめくるのも至難の業でした。発声で舌と口を動かす辛い訓練も楽しみになるほど連日積極的に取り組み、歩くための訓練の何倍もの時間をそれらに費やしたので、リハビリ病院に入院中のひと月はあっと言う間でした。

「やっと歩けるようになったかどうか?この状況で退院するのはあまりにも危険。あと3ヶ月は入院すべき」との医療常識を医師は私に語りましたが、私は周りの様子を観ていて「頭脳訓練に限ってなら、ここにそんなに長居していたのでは自分の目指すレベルには決して達しない」と判断して強行的に退院(笑)。

原則そこからは毎日、痛くてしびれる身体に鞭打って1~2時間は散歩を中心とした訓練、7~8時間は書物やPCに向かっていました。その甲斐あって、今では長時間読書も話すことも人並みにできます。歩きも一見は普通の人のように重心移動がスムーズになりました。

「歩行中に向こうから近寄ってくる人や車の数が早目に認識できるだけで、こんなに嬉しいものなのか!」ここ一年は遠くになるほど常に錯乱状態だった視界が最近急激に明瞭になってきて、日課の散歩が感動の連続…という私の近況です。人間のあらゆる機能は元々本当に凄いのです。乗物やコンピューターなどの工業製品について熱く語る前に、人間という存在について、誰もがもっと意識を注ぐことが大切だと思います。当たり前の事には何も感じなくなってしまうのが人の常なのです。

何事も失ってから気付く、というのが現代人の定番です。大抵が元通りにはなりませんが、元通りにはできないことに失った意義がある場合も多いのです。私は一度にあまりにも多くのものを失ったため、取り戻すと言うよりも全てを作り直すのに近い感覚です。つまり今は、何から何までがまるで創作の悦びであり、他人からしたら些細な日常が、私にとっては感動の連続です。

もしも今、あなたが大きな悲しみや落胆に遭っているのなら、それは大きな喜びや達成が待っていることを意味します。この世界で感動を得るためには、そのような条件が材料としてどうしても必要なのです。それが物質次元ゲームの妙なのです。

2017年09月07日

タイプ別、人への接し方

相手の出方を窺ってから、その相手への態度を決める人が一定数います。いや、現代のほとんどの人がそうなのかもしれません。しかも、どんな相手に対してどんな態度に出るのかがタイプによって異なるため、それを見た自分がおもしろがるのか不快に感じるのか、自分の視点によって随分と生活の気分が変わってくるのです。

例えば頻繁に同じ店に通っていると、あらゆる対人哲学を有している店員(本人にとっては哲学などというものではなく、自覚のない単なる習慣や無関心の場合もあります)が自分に接客してくるわけですから私はついつい観察して楽しんでしまいます。そこで自分が「接客のあるべき論」を強く持っていると、店に最も嫌われるクレーマーとして自分が扱われてしまう可能性があるため(笑)それを楽しめないのならば人間観察などしない方がよいでしょう。

当たり障りのない無難な客として自分が店に出入りを続けていると、店員によって主に4種類のタイプがあるように私には捉えられます。それぞれをA・B・C・Dとしてみましょう。

A:よく来てくれる常連さんということだけで好意を持って接してくるタイプ。客が何を買う、買わない、好みがどうかなどとは無関係に、顔を見る頻度が高いほど好感を持って便宜を図ってくれるようになったりします。もちろん人柄やフィーリングが合うのか合わないのかで親しくなる度合いにも差が出てくるのは仕方ないでしょうが、基本的には会う毎に徐々に親しみが湧いてくるタイプ。最も多いように思います。

B:口には出さないまでも「また来たか…」という感じで特別な対応などは一切せず、むしろクレーマーにはならないおとなしい客だと判断すると、初回ではありえないような雑な対応をすることもあるタイプ。普段は無愛想な人が仕事の義務感から表情や態度を繕っている場合、こうなりやすいです。気遣いに欠けた態度は気を許した証拠(笑)なのかもしれません。

C:落とすお金の額で態度を豹変させるタイプ。常に高額な支払いを請求される業種では逆に少ないタイプですが、平均客単価の何倍何十倍の購入をするお客を厚遇して、常にケチっているお客を軽視するタイプ。企業(商売)の運営目的がまずは利潤の追求なのですから、当たり前と言えば当たり前。良くも悪くも、経済社会ルールに則っているプロ精神だとも言えます。

D:相手や周りの状況がどうであれ、常に言動が一定で誰に対する態度にも一貫性のあるタイプ。資本主義経済では最も少ないタイプでしょう。その堂々とした生き方が特殊分野で功を奏す場合もありますが、一般社会には特に若い時期の適応が難しくなるため、無理にでも歪めて順応させるケースも多いかと思われます。

これらはあくまでも私の経験上から捉える、ざっくりとしたタイプ分けです。どこにも当てはまらない人や複数のタイプがかぶっている人だって当然います。あなたの仕事が接客やサービス業でなくても、学生や主婦でも、なるほど!と思うところがありませんでしたか?

仕事でも恋愛でも家族関係でも、自分や相手が上述の中でもどのタイプなのか、どのブレンドなのかを把握しておくと、なにかと便利だと思います。少なくともこれらを押さえておくだけで、自分自身が落ち込んだり相手に腹を立てるような機会が減ってくる効能は確実にあります。

ただし、皆さんに誤解しないでいただきたいのは、仮に今の自分がどのタイプだったとしても、それらの性格の多くはこれまでの家庭や学校環境、社会経験の産物なのであって、「性格なのだから変えられない」というものではないということです。

相手を変えようとする試みは、それが何であれ、ほぼ失敗に終わります。しかし自分の特性をよく理解して自覚が芽生えたのなら、自分で自分を変えることは何歳からでも十分に可能です。私はその自覚を導くためのお客様自身の理解をサポートできるよう、納得度の高い説明を提供することを仕事としています。

 

2017年08月31日

規格外

今ではどうなのか知りませんが、私の小学生時代には負けず嫌いな子供がたくさんいました。では、どうして負けると悔しいと感じるようになるのでしょう。

よく思い返してみるとクラスでも一人っ子は珍しいほうでした。兄弟姉妹がいれば「○○ばっかりズルイ~」みたいな感情が元で言い合いになったりと、物心つく頃から自分と誰かとを比較する機会が日常に溢れているのが一般的だったからでしょう。親や先生から褒められたり認められるときも、決まって何らかの外部基準や他人との比較で「同じようにできている・落ちこぼれてはいない」ことが理由である場合がほとんどです。

他人との比較が意味を成さないような独創性を肯定して子を育む親や教師などは原則いなかったわけです。その子の適性や特異な才能を誰かに見出してもらえたのなら、かなりラッキーでしょう。英才教育という言葉は前からありましたが、残念ながら親の都合で子供をより強くコントロールするパターンが多かったように思います。

結果として、スペックにこそ差があっても規格製品のような人間が量産され、まるで生産ラインから出荷されるがごとくほとんどの学生が卒業すれば企業や役所に就職するのが当然でした。それが軍隊でなくなっただけでも進歩なのでしょうが、労働生活を長年続けた末にその苦しさや理不尽さから病む人々が多い中、病んでしまう前に勇気を出して声を上げたり人生進路を変更する人たちだってあちこちにいます。

でもこれら人生の選択は、実のところ「他人より飛び抜けて優秀(個性的)でありたい」というような欲求に基づいているわけではなく、むしろ反対の「皆と同じカテゴリに収まりたい、規格外の扱いを受けたくない」という強い無個性の欲求からきていると私には感じられるのです。

人によっては幼児の頃から深く気にも留めずに口にしている言葉「ズルイ」とは「それじゃ悪平等にならない・例外が認められている」というようなニュアンスなのかもしれません。どんなに馬鹿らしくても、くだらなくても、不条理でも、辛くても、そのことに全く興味がなかった場合でも、大勢の皆と同じであることを最優先する人間の生態は、未だに私にとっての大きな謎です。(笑)

しかし、そうではない人たちが増えてきています。他の多くの人がどうであれ、独自の感性や能力や考え方で発言をしたり行動したりする人、大きな組織への所属欲求のない人たちです。同時に物的所有欲求も淡い傾向にありますが、個人や少数派となればもちろん何事も責任は自分自身が負わなくてはならないわけですから、組織ではありがちな看板依存や責任転嫁の発想を持たない人物である可能性が高いのです。

そんな人たちには、必ずと言ってよいほど「ひきこもり」期間があります。既存のレールに乗っかっていては進めない人生を歩むのだから、物質的なこと以外にも準備が要るのは当然のことです。そのような人たちの存在比率が上がることに伴って、人間社会も徐々に変革して行くのです。

常に情報操作されているからには表面化することも少ないでしょうが、これは既にかなり進行している現象だと私は捉えています。

2017年08月21日

毎日が初体験

普段の生活の中で「人生初の○○!」なんて言葉を聞くと、よほど特別な事でもあったのかと思ってしまうものです。「でもそれは違う」と私は思います。見逃していて気付けないだけで、誰にとっても毎日が人生初の物事で溢れ返っているのです。

仮にあなたという人間の容器(肉体)の中身(霊魂)が入れ替わったとしたら「毎日が同じ事の繰り返しでウンザリだ…」と思って気にも留めていなかった事柄が「なんて変化の可能性に富んでいて刺激的なんだ!」と感じることでしょう。

「新鮮」とは「慣れ・飽き」があるからこそ感じられるものだと多くの人が考えがちですが、慣れや飽きとは、自らが改善や発見を放棄することから芽生える現象なのです。他人からは全く同じことの繰り返しに見えても、本人は毎回とても新鮮な気づきを得ているのかもしれないのです。

そんな中でも象徴的な変化を迎える時というものが確かにあって、その部分だけを切り取って大きな変化が生まれたように認識してしまうのが人の常なのです。もちろん好奇心も向上心もなく惰性で暮らしているだけの人には、そんな節目が訪れようもありません。許されているのならそのようにして生きるのも個人の自由ですから、それをとやかく言うのも大きなお世話でしょう。ただ、日々を新鮮な気持ちで送り、定期的に達成感を伴うような変化を人生で味わいたければ、今している事を常に楽しめるような創意工夫を心がければよいのです。

息子が誕生した同日に倒れ、後日に意識が戻った初期の頃に私が思ったこと、それは「脳幹損傷までしても死ねなかったのか… 以後もしばらくこの肉体で生きるとするならば、全身が痛くてしびれて尿意便意も全く感じず、眼もほとんど見えず、まともに喋ることも起き上がって立つこともできないこの身体を、息子が歩く頃までには普通に話したり歩いたりできるところまでは機能回復させよう!」と決めました。

何とか歩けるようになってからは、室内での単独リハビリとは別に、糞尿漏らしリスクを考慮しながら独り毎日1~2時間はノソノソ歩き続けてきました。そして倒れて約一年後の今日、ついに息子と二人きりでの公園散歩が実現したのです。

ここまでには「パンツを汚さずに帰ってこれた。一度も倒れずに歩けた。片足で5秒も立っていられた。階段を少し昇れた。少し降りれた。転ばずに振り向くことができた」…等々の些細な達成の喜びがずっと積み重なっていたわけで、それらは見ている人には判らないことなのです。自分が崩れたり倒れたりのリスクが一定以下になったから、今日初めて子連れ外出にトライしたというだけのことです。

この経験から私が皆さんに伝えられることは「どんなに些細な事でも大切に積み重ねて行けば、達成の喜びはずっと続く」ということ。そこには他人の視線や思惑など、全く関係がありません。

 

2017年08月18日

醜さの理由

私は人間の欲求というものについて10歳頃から何かと不思議に感じ、自分のできる範囲で色々と検証してきました。大人になって皆さんが知る有名な話で「まずは生理的欲求を充たしてから…」ということは、おおよそ子供にでも体感からわかることです。

どんなに物事に夢中になったとはいえ「丸三日何も食べていないことに気付いた」とか「便意を催したが50時間は我慢できた」とか「溜め込んだ宿題を済ませるまで100時間以上睡眠をとらなかった」などという子供はいないわけです。幸い私は極寒や空腹に耐えなければならない家庭環境ではなかったため、贅沢な話それがどんなものかを知りたくなったのです。

そこで自分の生理的欲求の実験調査です。どこまで眠らないでいられるかを試そうとがんばって起きていても、いつの間にか眠っていて気付けば朝!何度チャレンジしてもこれは同じでした。

排泄も、トイレで用をたしてから「そういえば!」と思い出すくらい当たり前に身体が動いてしまいます(笑)。

空腹は多少制御できました。ボクシングのマンガに影響され「ハングリー精神を養う」などと小学生にとって無意味でアホなことを公言して、数日間飲み物だけで過ごしたことがありました。後で思えば学校の先生には「子供なのにいったいどんな給食も喉を通らないほどの悩みがあるのだ?」と勘ぐられるのも当然で、誰も居ない部屋に呼び出されて「忍耐力を鍛えている」などと釈明する私に怪訝な表情をしていた先生の顔が忘れられません。

暑さ寒さは慣れてしまえば最もなんとかなったように思います。単純に、子供は大人に比べて生命力が強いというだけのことかもしれませんが…(笑)

話を戻しますと「人間は生理的欲求を充たすことが第一だ」の部分については皆さん異論がないでしょう。実は例外もあるのですが、ここでは「肉体を持つからには原則そうである」とさせてもらいます。それから順次続くとされる「安全・社会所属・評価・自己実現などの欲求は、人によってまちまちである」というのが私の見解ですが、今回の話の趣旨はそこではないため割愛します。

私の言いたいことは「どんな人でも原則、生理的欲求を阻害されると醜さ満点の反応をしやすい」ということです。本能欲求に忠実に生きている人ほどそうなりやすいわけですが、わかりやすく言うと「間接的にでも食欲や性欲や睡眠欲を邪魔する行為には容赦ない」みたいなことです。

動物としての側面を持つのが肉体をまとった人間ですから、その方の普段の人柄がどうであろうとも、そこで急変してしまうのが悲しくも多くの肉体人間なのです。それが今の社会のしくみですとお金を使って欲求を充たすことがほとんどですから、稼ぎに響く勝敗や出世などが絡む場合に動物的本性がむき出しとなりやすいのですね。

複数の動物が同じ獲物を咥えて引っ張り合っている姿が、経済競争の名の下に顧客獲得合戦をしている人間の姿とまんま重なるのです。現実は綺麗ごとでは済まされない、獲物をゲットできなければ動物も人間も生きて行けなくて当然だというわけです。

動物だけれども他の動物よりも複雑な手段を使って生理的欲求を充たし、歪みをとことん溜め続けるているのが人間でしょう。少なくともほぼ全員がそれを容認して参画しているから、維持できている人間社会のしくみです。そんな獣のような人間の行いを見ていると、私は醜さを感じずにはいられないのです。

そんなヤワなことを感じていたのでは、この世界では弱者で終わって当然… 実際、とんでもなく醜悪な人間が大手をふって活躍してきた歴史があります。でもそれは物質面での話です。人間と他の生物とでは非物質面に著しい違いがあるのです。

肉体生命維持のためならなりふり構わず必ず何でもするという醜い人間ばかりではありません。必然的に無名となってしまうわけですが、いつでもどこでも美しい生き方をしている人間だって存在しています。

人間の非物質側面に皆が気付けば、物質人間社会だって大きく変容せざるを得ないと思うのです。

2017年08月15日

「私は宇宙人」だというあなたへ

『美しい星』。最近映画化された元となった作品のようです。映画はだいぶ脚色された娯楽ものになっているようで興味がないのですが、原作は熟読してみたい!というわけで、私のお盆期間のお楽しみでした。

まずは「今から半世紀以上前の作品なのにスゴイ!」です。今でさえ自称常識人からはコメディの扱いを受けても仕方のない内容なのに、やはり三島由紀夫はかなり先を行っていた真理探究者なのだということだけでなく、それを作品として堂々と発表していた姿勢に感服です。地球人として生まれた複数の宇宙人の苦悩や葛藤を描いた作品ですが、この一点だけで作家人生を棒に振る可能性だって十分にあったでしょうに…

学校教育のおかげで読書なんて大嫌いになっていた私でしたが、これを中学生の頃にでも読んでいたのならどれだけ地球で生きることの参考になっていたことか、と思うと悔しくもあります。まあ、情報入手を模索しながら試行錯誤して不器用に年齢を重ねてきたこと自体に人生ゲームを面白くする要素があったので、読んだのがなるべくして今になったのでしょう。

思春期に陥りやすい、私も一度は通った道「自分は地球人じゃないからこの惑星に馴染めない~」的な感情を下手に刺激するぐらいなら、はっきり言って読まない方が良いです。私がそんな考えを実際どのようにして改めたのかを書いてみます。参考になる方がいらっしゃるかもしれませんから(笑)。

私は海や湖が好きで、身体を悪くする前はよく一人で釣りに出かけていました。独り大自然と向き合っていると、思考の枷が外れてよいアイデアが湧くことが多いからです。

ある時、私に釣られた魚が「自分は普段この海域にはいないんだ。たまたま変な所に迷い込んでわけもわからず泳いでいたら、今釣られてしまった」と言い訳したような気がしました。食材確保が目的ではないのでリリースしたにしても、そんな事情は無関係。釣られたことは釣られた、というのが事実です。

それと同じで、地球人に見える容姿で人間の生活様式を取り入れて暮らしているのなら「私は宇宙人だから」みたいな言い訳をしたところで何の役にも立ちません。明らかに宇宙人であることが地球人にも判る何かを提示すれば特例が生じるのかもしれませんが、ヒラメの大群にカレイが混じっていた事実が判明したところで、それが何?ですよね(笑)。

自分の特性が周りと違うことに早目に気付けたのなら、それはチャンスです。自分にはできても周りの人にはできない何かを磨けばそれが特技や職業となって、皆にも喜ばれるわけです。

でもその反対をやってしまう場合が多いのですよね、学校教育の害です。「皆にはできる何かが自分にはできない」という部分に焦点を当ててしまうのです。そんな事があまりにも重なると「本質的に皆とは種が異なるから」という口実に持って行きたくもなるのです。

何県民でも日本人です。つまり地球人はみんな宇宙人です。何県で働くにしても「私はこことは違う○○県出身だからそれができない」などという言い訳は通じないのです。

特定宇宙人の名誉毀損とならないようにするためにも(笑)、私は「何星人か」を重要視しないように努めて地球人をやっています。

2017年08月11日

誕生して死亡すること自体が人生の意味

「人間の生死にどんな意味があるのか」ということについて、いくら熱く語ったところで正解はないでしょう。存在する人間の様々な生き方のあらゆる視点から「だからこそ意味がある」と力説することもできますし、「はじめから意味なんてない。気付いたら生きてるんだから、無駄な事をつべこべ言うな!」という人も少なくありません。

私の見解は、この空間と時間という制約だらけの物質次元に肉体として登場して去って逝くわけですから、人間を肉の側面から見るのなら、この世界独特の縛りである「場所と時代」にはどうしても大きな意味を感じてしまうわけです。それは現代日本で言うならば「何年何月何日に何県何市で誕生して、同じく何時どこで肉体死を迎えたのか」ということになりますね。

昨年の今日、出産予定日の妻と一緒に救急搬送された脳幹出血中の私は、集中治療室で五感を順次喪失しながらも近くの病棟で産声を上げるであろう息子のことを想い、そのことの妙にしみじみ感じ入りながら意識を失って行きました。心肺停止を予測されながら、そこから1~2週間は植物状態でこの世とあの世の間をウロウロしていたわけですが、皆が仕事まで休んで霊を迎えるお盆と呼ばれる時期だけに、世界の境目が薄くなる時期でもあるのでしょう。

何はともあれ、息子は今日無事1歳を迎えました。その間私も同じく寝たきりからのリスタート。口以外からチューブで物質的栄養を摂取し、糞尿垂れ流しで奇声を発するだけの状態から、起き上がり・立ち・歩き・手指の使い方・口と舌の動かし方を訓練をするといった、同じプロセスを並行して成長した同志と過ごし、はや1年たったのです!

「この世に物質で出てきた屈辱とその克服のための模索は、肉体死まで続く上限のない課題である」そう以前から覚悟はしていましたが、まさか一つの肉体でこのレベルの学習をリピート体験するとは思いもよりませんでした(笑)。

肩車などはできないでしょうが、公園で軽いボール投げみたいなことはできるような身体を取り戻すように地味な訓練を継続します。

この話をここまで読んだ方なら、もうおわかりでしょう。

人間はどんな境遇であろうと、考え方と取り組み方次第で、全てが達成の喜びと学びの感謝へとすりかわってしまうのです。

2017年08月10日

次回の異次元リアリティ認識イベントは9/10

第9回【高次元波動体験会】を、本日から丁度一ヶ月後の9/10(日)に開催いたします。

クリスタルボウル演奏による誘導ですと特に、よりリラックスした深い体験ができるとのことで近況は多くの皆さんに横になってもえるようギャラリースペースにフロアマットを広げての開催でした。次回は久々に地下サロンでの開催ですので、横になって堪能できる方は一部となりますが、実は座して寛ぐ方が異次元旅行らしい体験ができたりもします。

身体を横にして寛ぐことは誰もが原則毎晩しているわけですが、出先でも横になればやはり本当の睡眠になってしまう場合があります。睡眠中の夢に近いファンタジーを見聞きして還ってきても「それがこの肉体物質次元にどんな意味があるのか」という観点からすると、その場で周りの人に聞かれてでも自分の入手した情報の意味を知りたい!という体験ができるとも限らない部分が…(笑)。

多くがチェアやソファとなる次回はその分、皆さんにも解説しやすい生活直結型のヒントやメッセージが多くの方に降りてくることでしょう。俗に言うスピリチュアルイベントに好感を持てない方にこそ、是非とも体験していただきたい『異次元リアリティ認識イベント』です。

日時:9/10(日)13:30~17:00  参加費:当日受付時に5千円
お申込みは下部【お問い合わせ】をクリックしてお名前をお知らせください。
会場は新橋日比谷通り沿いのビルで、お申込者には詳細をご案内いたします。

 

2017年08月07日

正直者がバカを見ない社会の実現

昨日で第3回目を終えました【ひきこもり講演会】。

私の定義する広義の「ひきこもり」とは、家に閉じこもって日々を過ごしている物理的な状況だけを指すわけではありません。その欲求は強くあっても叶わないお勤めの人(笑)も含めた「利潤追求のためには仕方がないという理由で人間らしさが大きく損なわれている経済社会は、どう考えてもおかしい」という考えの人たちです。そんな趣旨説明的な講話もしますので「講演会」としていますが、実質は参加者の皆さんによる「意見交換会」です。

「こんな世のしくみの中でも、知恵をはじめとして皆で出し合えるものを活用し、何ができるのかを語り合ってみましょう」という集いですね。組織化は権力構造を生みますから、皆が互いに尊い固有の人間存在としてのネットワークづくりです。個別には「金を稼ぐための人生」から卒業できている方も(既にガッポリ儲けたという物理的な意味ではありません!笑)世間にはそこそこいらっしゃいますが、まだまだ「お金の為だから」と割り切って何でもできるわけではない人は、厳しい状況を味わっている場合が多いことでしょう。

「人間としての大切な何かを失ってまでは稼ぎたくない」あるいは「稼ぐ必要があるため仕方なくだが人間性を犠牲にしている自覚がある」人たち皆がささやかな行動を起こせば、それだけで充分に社会が変わるでしょう。

そのささやかな行動とは例えば「社会に上手く順応できない人たちのことも尊重する」ということです。そこには、法律とは無関係に人間としての尊厳を捨てきれない人たちが多分に含まれているからです。これには「自分は社会不適合者の烙印を押された」と自虐的になることを防ぐ意味もあります。真はその逆の「カネや名誉の為に人間性を歪めることができない」ことである可能性が高いのです。

実際に、小さな嘘ひとつつくことすらできなくても長年続けられる仕事なんて、今の日本にほとんどないでしょう。そんな人たちが生きて行けない社会の方をこそ、行政などに頼らず変えて行きましょう!という話です。

2017年08月04日

ひきこもりメジャー化とは

物理的な危害は別として、傷つきやすい自分が一方的な被害者であるかのように振舞うことも、気にしないで生きることも、その人の自由選択だという意味のことを前回書きました。その感傷度合いも訓練で可変するというようなことも書きました。

そこで皆さんに最も勘違いしてほしくない重要なことが「だったら鈍感になればよい」ということではないということです。事実、ほとんどの人が「鈍感になる」ことで社会適応しているように見受けられるからです。

素直さや純真さを失って感性が鈍くなれば、確かに些細なことでは感動や喜びを感じられなくなる分、傷ついたり落ち込んだりもしなくなるわけです。ですから皆さんは、深く考えるまでもなく徐々に感覚を麻痺させて生きて行くようになるのが現代社会人の多数派でしょう。ところがそのやり方で社会順応して生きて行くと、かつての自分なら「そんな非道な…」「そんな残忍な…」と感じたことでも平気でやってのける人となって、更なる歪みを内側に溜めたりするわけです。

人間とは、自分以外の何かに反映させることでしか自分を認識できません。たまたま自分に向けられた言葉や行為は、それを発した人自身にとって重要な意味を持つものなのです。そのようなことが理解できるようになると、これまでとはまた別の捉え方をするようになりますし、別の感情が湧くようになるのです。これらのことは容易に理解できるものではないのかもしれませんが、じっくり時間をかければ誰にでもわかるようになる真実です。 

いずれにせよ「合法なのか・非合法なのか・いかに合法に見せるのか」を基準として、金儲けだけを目的に生きる人たちが闊歩し、それにつき合わされている大多数の民によって成り立っている現代社会。「外れたら生きて行けない」と信じ込まされる中、そこから外れて生きている人はまだ一部。これからどんどん増えるであろう、レールから外れる人々それぞれが多方面で活躍し、それらの人々が主要となって構成する世の中ならば、本来の人間らしい世界となるでしょう。

そのことを私は象徴的に「ひきこもりメジャー化計画」と謳っているのです。

2017年08月03日

傷つく生き方

ひと頃よりは減りましたが「傷つけてしまった」「傷つけられた」などのセリフがドラマや映画や小説によく出てきます。それに合わせて日常でも「傷つけ…」の言葉を使っている人も多かったように思います。

それが殺傷事件などを指している場合はニュース報道くらいでしょうから、心や気持ちのことを言っているわけですが、はたして「心が傷つく」とは何を指しているのでしょう。いつもの私の言い方ですと「非物質としての人間が傷ついたり傷つけられたりする」ことを意味するわけです(笑)。

私は決して茶化しているわけではありません。「経歴や名誉に傷がついた」といった種の話ならば、例えば「高額な所有車に傷がついた」と同等で物質的な傷にも近いものがあります(それでも憤慨される方は大勢いらっしゃいます)が、「物質肉体ではない人間の何かが傷つけられる」ということを主張したり屈辱と捉えたり罪悪と考える感覚が誰にでもあるということは、いかに非物質としての人間存在を重視しているのか!ということでもあります。

おそらく現代人は「人間とは何なのか」についての認識の個人的差異があまりにも大きいため、自分がちょっと影口をたたかれている事実を知っただけで大きく落ち込んだり怒り出す人から、不可抗力で全てを失っておきながら(実際殺されてしまう人も多い、それが地球文明の特色です…)そんなそぶりは微塵も見せないで短期間で立ち直る人まで、実に様々な許容範囲があります。人間の遺体を目撃しただけでショック状態に陥ってしまう人から、連日遺体の処理をするのが仕事の方も実在するわけです。

それが良いか悪いかは別にして、物質肉体人間として以上に、非物質としての傷つきかたは慣れや鍛錬でだいぶ変わってくるのは事実です。

「自分は繊細で傷つきやすいから」と自らを型に嵌めて「世間や周りの人がいかに自分を傷つけるのか」と感じて苦しんで生き続けるのも、「傷付いたと感じている人たちに手を差し伸べるのに忙しくて、自分が感傷に浸っている暇などない」という人生を送るのも、個々人の自由なのです。

ただ、「人間とはそういうものだ」ということを
知っておくことは大切だと思うのです。

2017年07月27日

群れることの害悪

政治とかの話ではなく、皆さんは自分が多数派だというだけで少数派を無視したり軽視しているようなところはないでしょうか。

歩行者や自転車でのすれ違いの際、誰でも一対一でしたらお互いを配慮して難を感じることは滅多にありません。ところが相手が横並びで複数いる場合、人数が多いほど迷惑な状態を維持したまま近付いてきて、すれ違いが困難になる傾向があるのです。 近頃それを強く感じる理由が、今の私は歩行訓練を数日さぼっただけで身体が固まって歩くこともできなくなるため、ほぼ毎日1~2時間は歩く練習をしているからです。

重心移動などの半年以上の訓練が効いたらしく、私がゆっくり歩く姿を見られても、まさか身体が不自由であるとは思われないフォームになっています。でも実際は急に止まれませんしもちろん速く動けませんし方向転換も少しずつしかできません。視界も少しは良化しましたが常に乱れていますから、一歩家を出ればどこでもスリル満点のアトラクション状態。いとも簡単に転べても、受け身は取れず怪我は必至!(笑)

私の身体のことはさておき、道路通行に関することだけでなくて全てにあてはまることだと思うのです。その集団を構成している個々人が元々配慮に欠けた人物で、公共の場で常に迷惑行為をしているわけではないでしょう。集団となった時点でモラルや思考力が低下しているのだと私は考えます。

それが個人だと問題視されることでも自分が人数の多い側(法人でも)だと自分を含む集団の皆が傍若無人に振舞ってしまう…人間の不思議さですよね!などと語り出すと政治的な話となりますから(笑)。

皆さんも感じていることでしょうが人間同士のネットワークやコミュニケーションは生きて行くために必須ですし、複数人でのチームで何かをすることは大変でもあるが楽しくもあり、単独では成し遂げないことを実現させる、まさに人生の醍醐味であると私も考えています。

ただ「いかに集団組織に属さずにつながって生きて行けるのか」を皆がもっと真剣に考えて実践したならば、世の中のしくみは大きく変わります。いや、いろんな意味でその必要があって実際すでにそうなりはじめているということですね。

集団組織とは結局「重大な決定を能動的に自分がしなくてもよい」という依存傾向のある人々がどうしても集まってしまうものだと思うのです、つまり責任を取りたくない人。そのシステムに組み込まれている人たちに「世の中をどうこうしてほしい」などと期待するのはナンセンスでしょう…むしろ一番遠い所にいる人たちです!(笑)

特別立派なことである必要は何もないのですから、誰かにしてもらうことは考えないで自らができ得ることを皆がすればよいことです。そのときに、充分でき得ることを「そんなこと自分にはできない!」と決め付けている人が多いのは事実です。

その枷が外れるときが「人生の転機」と呼ばれているのです。

そして、その気になれば人生の転機はいつでも身近に存在しているのです。