お知らせ

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2019年01月07日

危険というもの

今日はそろそろ新しい事務所に具体的アイデアを盛り込むためにも散策に出掛けました。立地は駅から近いのですが、とても静かだったので起伏が激しい土地を敢えて選んだので、私のように身体が悪い人には危険な場所だとわかっていました。

 

案の定何度も転んで手は傷だらけ、足も捻ったのか激痛で眠れないので(笑)起きてこれを書いています。

 

この2年以上、「もし倒れたりで重症になると危険だから」という理由で基本差し控える事ばかりでしたが、それでは小脳をダメにした私が健康体に近付くはずもなく、未だにほぼ寝たきりかもう死んでいたでしょう。

 

リスクを負わないでリターンを求めるなんて「脳みそが年中お花畑でなければできない」と元々感じるタイプだったので、自然と経た経緯でした。

 

これは健康な人にも当てはまることです。リスクを避けることばかり考えていれば当然何もできないまま歳を重ねます。達成や喜びをはじめ何も得るものはないでしょう。

 

人それぞれですが、私は、そんな人生こそが最もリスキーだと感じているのです。

2019年01月04日

美しい生き方

もうすっかり正月気分も抜けている方が多いでしょう。私も久々に息子の保育園登園のおかげで自分の時間を確保でき、自分と向き合う時間を作れました。

 

ここ2年、この世田谷公園にはいつ倒れて再び重症になるかもわからない状況で私は通っていました。最初は眼も見えないし坂や階段も無理なので、噴水を眺めているつもりでイメージトレーニングをしていたというわけです。

 

ただ耳は割と早く普通に戻っていて、ミニSLが走っていることは認識できました。そこに私が倒れた日に生まれた息子と乗車することを夢見て通っていたのが、ついに約一年前に叶いました。息子はまだ一歳だったので我ながら上出来です。

係員には赤ちゃん以上に介護の必要なオッサンの乗車に協力してくれた姿勢に感謝です。やはり区がやっているから福祉の心があるのでしょうね。

 

手すりがあれば一人で噴水のベンチまで行くことができ、眼もそこそこ見えるようになった今になって静かに過ごすと、やはり想いが次々と湧いてきます。身体が悪いことも歓迎すべき事ではありませんが、カネの為に醜い生き様を晒していることも気の毒な事です。

 

好んで醜い生き方をしているつもりの人は少数でしょう。「そうせざるを得ない」といった感じでしょうか。しかしそれも間違いなく自分で選択したのです。

 

美しい生き方をして豊かな人だっています。

どちらにせよ自分の自由意志でそうしているのです。

搾取からは金銭以外で恨みや憎しみしか生まれません。

2018年12月26日

生死の本質

今年も残すは数日です。思い返せば子供の頃からグレゴリオ暦に侵されて育った今の私たちは、皆がカレンダーに追い立てられて暮らしています。

 

ただ死に向けて忙しく日々を消化していた周りの皆を見て、私は中学生の頃から人間社会に対する底はかのない不安や不自然さを感じるようになりました。何を考えても「みんなどうして生きていたいのか?」という問題に行き着くのです。

 

それが高校生頃には「生きたいのではなく、死ぬのが怖いから避けているだけだ」との確信に変わっていました。

ただ死ぬのが怖いという理由だけで生命維持に努めているとは、何たる下等生物なんだ!笑

 

「少しでも人間を高等生物に近づけることができるはずだ」これを自分が生き続ける動機にして30年程が経過しました。近年は意識不明の重体になったり、大抵の事をするのが難しい身体になったりしても、まだしぶとく生きています。

 

暦で計られる時の謎や、存在するようでしない空間の不思議にも、自分なりにだいぶ理解が進みました。後は平均的な生活を送る皆に伝える術がどれだけあるかどうか?です。

 

とりわけ小脳を潰して全身の感覚を一度は失ってしまったことによる体験は貴重です。
私が倒れた日に生まれて共に乳児期を過ごした息子の存在はとても大きい。意識が戻って数ヶ月は糞尿を漏らしても気付かない私のマヌケさも、「ああ、コイツの今は俺と同じなんだ…」と、汚れたオムツをしたまま喜んで遊んだり飲み食いしている息子に妙に共感したものです!笑

 

死ぬということ、この世に出てくるということを、オッサンになってから再度経験させてもらったわけですからね。それがどういう事なのかを伝える術は多いと自負しています。

ご興味のある方、以降もお楽しみに~

2018年12月16日

幼児期の繊細さ

小さな子供にとって、一瞬でも「自分が受け容れて貰えなかった」という事実は重大事件です。

 

他人の状況や気持ちに察しがつくようになれば学習してクリアできることですが、まだ自分のことだけしか考えていない時期は要注意です。

 

「自分は他人に拒まれた・無視された・関心を持たれなかった」…幼児期のそれ系の印象は、後々かなり引きずります。自己を肯定できるようになれないのです。

 

いい歳をして幼稚なのも厄介者だし実際に多いのですが、幼児期に周りがどう関わっていたのかによって幼稚な大人が養成されてしまいます。

 

写真は、息子が気まぐれで妻のそばに駆け寄ったら事務仕事を突然邪魔された妻の冷たい態度にひどく悲しんでいたので、私が事情を説明しているところです。「オマエのことを嫌っているわけではなくて、突然邪魔をしたオマエの問題なんだよ」ってな具合ですね。

 

良く納得できたようで安堵の表情です!笑

 

2018年12月10日

自分の欲求

誰かが書いたり話したりしたことに対して「素晴らしい」とか「なるほど」と仮に思ったとして、その内容は書いたり話したりしているその人にとってのことです。

 

何をどうしたらよいのかは人によって万別ですし、同じ人でも時期によって異なります。

 

ですからその時に内から湧き出る自分の声じゃなければわかりません。私達夫婦がやっている瞑想セッションでは、その皆さんの隠された欲求を引き出すことから全てが始まります。

 

多くの皆さんは自分の欲求を隠したり誤魔化して生活しているのです。

 

お問い合わせは妻のホームページからでも遠慮なくどうぞ。

数のものがたり

2018年11月29日

誰への不平不満?

私が10代からよく感じていたことがあります。常に評価を求めているような人は、基本「皆は私より優れているけど私は皆に比べて劣っている」という考えが根底にあります。

 

私の率直な意見を述べると、「この人に評価されるなんて残念だ… と思うことは多くあっても、無視されたりどんなにバカにされても気にも留めていない」という人だけが突出した結果を残す傾向にあると感じています。

 

自分のことを悪く言われても怒ることもないわけですから、決して傲慢ではありません。

我慢するわけじゃなくて自然と他人を嫌ったり恨んだりはしない平和主義ともなり、チヤホヤされても舞い上がる事もなく、むしろ謙虚なタイプだと思います。

 

だから、他人の事をとやかく言っている本人が、自分に対する不平不満をこぼしているようにしか見えなくなるのです。そんな人を相手にするのもばからしいですよね。

 

問題を起こしているのは他の誰でもありません。 
自分
自身の自己評価がほとんどなのです。

2018年11月25日

どっちでもいい

若い頃から色々な書物を漁って、医師から見ても「死亡でしょ」と思われる状態を何度か経験してきた私には「人間とは肉体という物質でもあり、非物質のエネルギーでもある」という事を疑いなく確信しています。

 

ただ、マクロで考えると「どっちが正しくてどちらが誤りである」というような性質の話ではないので、このテーマは扱いが慎重にならざるを得ないのです。

 

「物質肉体で生きているうちが人間の全てである」と多くの皆が勘違いする事を前提としてゲームが成り立っている世界なのも事実。その前提をわざわざ崩すと、ある見解では「この世界のゲームを台無しにする暴君が出現した」という事にもなりかねないのです。

 

でも私は、子供の頃から死の恐怖を植え付け洗脳してまで肉体生命の存続だけに価値があるように仕向けるのはいかがなものかと思うのです。自分はそのおかげで「肉体人生とは長く維持する価値はない」ものだとばかり十代の頃から感じていました。

 

「そういう価値観に仕向けたがるのは実はそうじゃないからだ」としか思えなかったのです。戦死や過労死をするまで人間を酷使するためには、そこが重要なのだと高校生頃には気付けたのです。

 

肉体人生に良いも悪いもありません。誰もが色んな体験をするためだけにこの物質世界に訪れているのです。

2018年11月24日

寿命があるからこそ

私が2歳の息子のことを投稿しているのを見て「子煩悩だな」と思われている方も多いでしょう。どう思われようと自由ですし、その事を正直気にも留めていません。

 

私が倒れて意識不明となった日に生まれた息子を後日私が認識できた時、「コイツの存在をまだこの世で認識できているのなら、どこまで関われるようになれるかを確かめてみよう」猛烈に痛くて苦しいだけでほとんど動かない身体で私はそう誓いました。

 

その甲斐あって、医者には危険すぎて止められるようなリハビリを連日こなし、今では眼もまあまあ見えるし話せるし歩くことができて、糞尿を漏らす機会も随分と減りました。

 

「いつかやろう」と思えば、何もできないまま人生は幕を閉じます。健康な人でさえもそうなのですから、ましては死に損ないの私なら・・・生きていたとしたら二年経った今でもベッドで何も出来ずに呻いていたことでしょう。

 

それでは生きていても意味がない、私はそう考えるのです。肉体を去る時に納得の人生であれば、肉体年齢なんて無関係です。むしろ無駄に長生きをするほど虚しさは募るでしょう。だから自分が危険なことを理由に何かを止める事は元々あまりありませんでした。

 

いつまでも今の肉体生命があるかのごとく錯覚しているから、何もしないし死ぬのが怖いのです。結論、人間は数えられる日数で必ず肉体死を迎えるのです。

 

これは今生きている誰にでも共通している事項です。愚かな大いなる勘違いをして無駄に生きようとする人が多いから、食肉にもならない家畜として扱われてしまうのです。

 

2018年11月12日

誕生日

成人してからの私は自分の誕生日を気にしたことがありません。当日中に気付いた場合には「あぁ、私はまだ肉体で生きているんだ」とは思いました。

 

当然の話、誰にだって誕生日と命日はあります。「そんな当たり前の事に振り回されていったいどうする!」というのが今でも本音です。

 

「息子の誕生日、よりによって父親の命日と同日にしてやりたくはない!」意識不明となっても私はそこを意識していたようです。息子の誕生日を2回祝った時、どちらも自分の命日を祝った実感があったのです。

 

死の床に伏してその瞬間を迎える際に「いい人生だった」と思うか、「もっとああすれば、これをしなければ」との想いが湧くのか… 短命だろうと長寿だろうとつまるところそこに人生が象徴されているのだと私は考えます。

 

「死にたくない」と強く思う人が多いとして、生きて何をしたいのかにもよりますが、不本意な人生だったと本人が総括していることだけは確実です。

 

気持ちよく他界するためには一日一日を一生のつもりで、目立つ必要はありませんが悔いの無い人生を送る。それ以外に方法はないのです。

 

そんな日々を送れているのかどうかに改めて注意を向けられる!それが誕生日の最大の意義である。 私はそう考えます。

 

2018年11月06日

食に関する所感

息子はフルーツが主食です。朝はフルーツだけ、夜もまずはフルーツ、昼は給食で皆と同じですが息子は豆が大好きなので牛乳でなく豆乳にしてもらってます。でも帰ってきて給食について言葉にするのは「ぶどう・りんご・なし・かき」とかの果物名ばかり(笑)。

 

肉は大抵吐き出してしまいます。野菜タップリの餃子なら食べます。親の指針や食性とは無関係です。本人が食べたがって喜ぶのが果物だというだけです。あとは納豆・豆腐・味噌汁が好きです。

 

私も近年歳のせいか肉は欲しません。食べても大抵体調不良で後悔します。でも料理のダシを取るのが魚肉なしでは厳しいと感じます。

 

魚肉食を悪く言う人が結構いますが、植物だって生物を殺して食していることには変わらないので何でもいいと私は考えます。成人後は基本身体を作る必要がないわけですから、ずっと若い頃と同じ食生活というのはおかしいとは思います。

 

私が重要視しているのは「摂取しない方が良いものは確かに沢山ある」ということです。

 

同じ地球上でも「一生肉だけ」「野菜だけ」「ほぼ穀物だけ」「ほぼ果物だけ」「昆虫メイン」…地域によって人種によって昔から色々あるのです。だから「これが良い」「これはダメ」とか言うのは宗教と同じだと思っています。

 

今の日本は医療や食に関してほぼ皆がカルト宗教信者みたいなものです!笑

 

果物をドレッシングや調味料なしで食していれば確かに堅いですね。人の手にかかった農作物ですから言えばきりがないですが、それは食物でなくても空気でも水でも手に触れる食物以外の何でも同じことです。神経症みたいになれば「生きていない方が良い」って結論しかなくなります!笑

 

身体が欲しているのを感じる・身体が拒んでいることに気付く・これが最も重要かと思います。

 

2018年11月04日

深い想い

私が倒れて意識不明になってから意識が戻って程なく、私と入れ替わりで誕生した息子に病室で接触しました。眼も見えないし手足も動かないし思考もボンヤリでしたから記憶にはほぼありません。とにかく全身が猛烈な痛さで辛いことは自覚できていて「しまった!死に損ねた」という想いだけは強くありました。妻の話では、わたしが奇声を発して嗚咽していたそうです。

 

なぜかその時、私がどこかの次元の思考で決めたことがありました。膨大な臨死体験記憶を整理しながらその隙間でちょっと考えただけなのですが「全身が動かないのでは自殺のしようもない。視えないコイツもまだ何の生物かもわからない。生きていることがどんなに辛く厳しくても、せっかくこの世に出てきたコイツの人間らしいところを自分がこの世で見届けられるまで生きてみよう!」そう自分に誓ったのです。

 

必然的に私の目標は定まります。一生身体が不自由なのは当然。でも「視える・話せる・歩ける」くらいは自分の意志次第だろう。明日には死ぬかもしれないのは誰だって元々同じです。

 

 

今日の午前、私がいつも通り数時間リハビリに出て帰ってくると「おかえり~」という妻の声に続いて息子が「カズ~待ってたよぉ」と言ったのです。

 

「ただいま」「おかえり」等の単語は0歳から発していましたが、大人でも発しそうな言葉をちゃんと聞いたのは2歳2ヶ月の今日が初めてでした。それで思い出したのです。

 

痛み苦しみに耐えてリハビリを続けてきた今の私は結構普通に話して、まあまあ視えて、ノロノロですが歩けます。空いているバスや電車で座ってなら移動もできます。そして今では息子の方が身体能力は断然高くて言葉も発しているのです。

 

最初に前提条件として勝手に決めてしまっていますから2年経って気付けばそうなっているわけです。それを世間の常識に照らし合わせて医師の言うことを聞き入れていたらこうはなってないでしょう。

 

表層意識はさておき、誰に言わずとも深いところで誓ったことは叶えてしまうのが人間なのです。その反対のことも常に深いところの思いが叶った結果なのです。

 

2018年10月24日

レンタマン?

少し困ったことに、私の身体は2年前の意識不明状態に陥ってからというもの憑依体質になってしまいました。死人が私の身体を使いたがるという意味です。

 

元々、私は人間の生死に特別な関心があったわけですが、肉体死は迎えたけれど完全に非物質化していない人の影響をあからさまに受けると不都合しかない、という認識でしたので、できるだけ幽霊系を察知しないように努めてはいたのですが、やはり今回の私のように肉体エゴを捨てて身体から出てしまうところまでやると、制御不能になってしまう部分もあるようです。

 

この世にウラミツラミのある不成仏霊ではないだけありがたいのですが、この物質世界を変貌させたい欲求がある方からのアクセスが多いようです。

 

肉体意識での自覚はないとしても、非物質的な合意がなければ起きない事かと思われます。

 

倒れる前にはこの身体には入っていなかったエネルギーが介入してくる私の特徴としては、全身が痺れて上手く動かなくなる、しっかり寝ていても異常に眠くなる、喋りや動きが入って来た方の生前に似てくる…などがありますが、最も判りやすいのは食性の変化です。

 

退院後1年間程、とある方にどっしり居すわられたのですが、その方は生前大食いの甘党で有名な方だったので、私ほとんど身体を動かせなくなったくせに、私が意識不明になる前は無関心だったシュークリームやらロールケーキやらを毎食後に自分で買いに出てまで口にしていて、内情を理解している妻も協力的に買ってきてくれるようになり、半年で20キロも太りました。

 

やはり、食べることは肉体がないとできないことですからね(笑)。一時、私の身体を提供してあげたわけです。ところが最近、急に甘いものに興味がなくなってきたから「納得されて退出したのかな?」と思ったわけです。

 

同時に不慣れなエネルギーのアクセスを感じているので、「新しいお客さんか!?…もう入室拒否にしちゃおうかなぁ」ってところなのですが、鍵を閉めていてもこじ開けようとしている感じで、不快でもないのです。

 

仮に病院に行っても事情を理解できる医師はいないでしょうし、宗教はもっと関わりたくないしなぁ…笑

2018年10月23日

生きにくさは生きる動機になる

私は小学生までは割と調子づいた友人の多い子供でしたが、中学頃から人間社会に幻滅し高校頃には大の人間嫌いになっていました。大人になってから誰かと居て楽しかった事はほとんどありません。(楽しいフリをすることはよくあった)

 

孤高に過ごせば楽しかったり嬉しかったりする事も沢山ありましたが、人間と関わると決まって寂しさや虚しさを感じてしまい、成人以降はできるだけ一人で過ごしていました。それでも所得を得るために勤めたり、親の手前結婚をして離婚もしました。

 

私は7年前にクモ膜下出血で倒れて頭蓋骨を開く手術で生還し、2年前の息子が誕生した日に脳幹出血で倒れてあの世を体験しました。医師の誰もが「これは死亡するであろう…」と踏んでいたのに生き続けてしまったのです。

 

肉体意識は戻ってもほぼ植物状態。これ以上の拷問はないであろうという全身の猛烈な痛み痺れに耐えてリハビリに精進し、今では食べたり話したり、オムツは必須ですがゆっくりなら歩くこともできる状態。痛みも大分緩和されています。

 

ここからが本題ですが、今は2歳になった息子だけは避けていません。数十年ぶりに私が人間に好感を持っているのです。私の身体では正直1時間相手をするだけで結構な厳しさですが、リハビリだと捉えて割り切れば何時間でも乗り越えられるのです。保育園にベビーカーでノソノソ迎えにも通っています。

 

ここ二年が肉体では人生で最も辛かった時期にもかかわらず、最も生きようとする意志がありました。今でも長生きは望みませんが、若い頃ほど肉体死を切望してはいません(笑)

 どんなに些細な事からでも喜びを感じることができるようになったからです。

 

そんな「逆境をものともせず上手に生きて行くコツ」みたいなものを、これからは皆さんにお伝えすることを楽しみに生きて行きます。

2018年10月22日

人それぞれの事情

今、私の住んでいる賃貸物件は要介護者や小さな子供に優しいバリアフリー物件です。家の中に段差がないのはもちろん、バスルームやトイレにもしっかり手スリがついていて、団地敷地内に児童公園があるくらいです。

 

建物入口にも必ず階段とは別にスロープや手すりが付いていて車椅子の出入りも多く、私のように不自由な身体をしていても、重くなければ一人でゴミ出しに行けるくらいで大変助かっています。自分の住む棟にはエレベーターが二基あって、うち一基は車椅子OK手スリ仕様なので転んで大怪我をしなくて済んでいる大きな要因です。

 

はっきり言って割高な賃貸物件ですが、若い頃から死ぬことは楽しみにしていたものの、まさか自分が手スリがないだけで転んだり、転んでも受け身が取れないような身体に40代でなってしまうとは予想してなかったので、ありがたくも複雑な心境(笑)。

 

ところが住んでみて意外な障害が…

 

同じ棟の同じ階のエレベーター前だけが建物の構造上お一人様仕様の部屋らしく、私でも妻でも息子を連れてエレベーター前まで行くと、若い入居男性が留守でない限りわざわざ中から出てきて陰険な顔をして「静かにしてください」と言いに来るのです。

 

叫んだり大声を出しているのならわかりますが、せいぜい「エレベーター来た」とか小声で喋るくらいです。そもそも下の児童公園からはその何倍も大きい子供の声がいつもこだましているのです。私も妻も根に持たれるのがオチなので「スミマセン」くらいしか言わないようにしています。でも、その男のために息子の口に毎回ガムテープを貼るわけにもいきません。

 

周りの他の子連れ世帯と会話してみても「あの人怖い」と言っています。私は真剣に危険な予感がしたので管理事務所に相談しました。すると事務所側の返事は「家賃の滞納とかしてくれれば私達も動きようがあるのですが…」でした。

 

子供が嫌いなら、この辺にお一人様専用物件はいくらでもあるのに、何故わざわざ割高な家賃を払ってまでここに、しかもエレベーター前に住んでいるのでしょうか。謎が多すぎます!笑 

 

平日はワイシャツを着て定期的に出かけているようなので、どこかしらに雇用はされているようです。大きなお世話ですが、人柄は問われない職業だってありますからね(笑)。

 

例え入居審査に「子供は嫌いじゃないですか?」なんて記載がなくても、児童公園付きで敷地内に管理事務所まである賃貸物件での出来事です。

 

気にしても仕方がないので「快晴の天気予報を見て出かけたら一日中しとしと雨が降っていた」くらいのことでしょか!笑

 

本当に様々な人がいるものです。

 

出来る事としては「他人のフリ見て我がフリ直せ」だけですね!笑

2018年10月21日

本来の自分らしさ

よく、「自分らしく」とか「本来の自分の姿」等の謳い文句を見かけますが、私はその度に思うことがあります。

 

商売上のキャッチコピーなのだとわかってはいても、それを読んだ人の中には「今のこれは本来の自分の姿ではない」とか「私ももっと自分らしく生きなきゃ」とか思ったりする人も実際にいるんだろうなぁ、ということです。

 

他人の営業妨害が目的でこれを書いているのではありませんが(笑)人は誰でもこれまでに積み重ねてきたものや手放してきたものの結果として今があるわけで、大凡いつでもその人の実力が出ているものです。

 

テストの一夜漬けみたいなことで取り繕える部分も多少はありますが、ランダムな話をしたり一定期間のお付き合いがあれば、その人の教養、センス、価値観などの人柄や人間性は、いずればれてしまうものです。

 

ですから私が最も重要だと思うことは、何をしてどんな状態にあっても「これが私の今の実力なのだ」と肯定することなのだと思います。

 

どんなに不本意で情けない結果を招いても、そこから目を逸らしたり誤魔化したり言い訳をしている時点で、それが「本来のその人らしさ」なのです!笑

 

今までの人生、どういう考え方で何をしてきましたでしょうか。その結果が今のアナタです。人は大凡、常に本来の自分らしい結果を出しています。

 

その自分らしさ(実力)も、常に変化しているということなのです。

 

2018年10月18日

思い通りにならない幸せ

何でも思い通りになる人はそんなにいるものではありませんが、色んな事が思い通りに行かなくて悔しかったり切ない思いに浸っている人はいつでもどこでもとても多いわけです。

 

しかし結論から先に述べますと、思い通りにならない経験をしていた時期があるからこそ思いが叶っている状態に喜びを感じるわけです。これは負け惜しみでも慰めの言葉でもなんでもありません。この物質世界に肉体で生まれてくる最大の意義を見出せるところです。

 

想いが全ての非物質世界にいたのでは、体験を通して理解する、楽しむということは不可能なのです。ですから皆さんわざわざ不便な世界に肉体という物質に宿ってまで、何でもすぐには思い通りにはならない経験を積んでいるのです。

 

何でも思い通りになってしまったらそこに喜びはありませんし、そもそも何をしにこの物質世界に出てきたのか?という話なのです。でも実際には「どうして生きているのかがわからない」という人が圧倒的に多数で、一定の年齢からはそれを考えることも止めて動物かマシンのように惰性だけで生きているのです。その惰性もつけられなくて死んで行く人も多いのが実態です。(表面上は病死だったりします)

 

 そのような内容を語っているだけでは闇をまき散らす宗教となってしまうのがオチなので(笑)私は異次元を普通に認識できている妻と共に皆さんにそのことを自ら実体験しながら認識してもらう試みを続けています。

 

何も特別なことではありませんし、怖がる必要もありません。

 

 

2018年10月11日

多次元の自己

同日の前の記事の続きです。

「乳幼児期は基本的に大人の認識している世界とは別の次元に存在している」という話でした。

 

私がそう考える根拠は「1~2歳頃のこの世界の記憶だけが欠落している」と前述しましたが、実はもう一つ根拠があります。

 

それは3歳頃から、元いた世界にわざわざ夜な夜な出向く必要が出てきたからです。その過渡期の記憶は曖昧なところがありますが、幼稚園に通う頃からのこの世界の記憶は今と変わらない鮮明さとなったのです。

 

つまり、自分の意識が基本的にこちらの世界に属するようになってしまったのです。しかし私の場合そのまま数年は自発的な儀式のように毎晩あちらの世界に戻っていたかと思われます。それはこの世界には「夢の記憶」として持ち込まれるというわけです。

 

この私の経験と実績を活かして数十年後となった現在取り組んでいるのが、異次元を認識できる妻と共同で行っている「グループセッション」です。

 

偏って凝り固まってしまっているこの世界だけのアナタではなくて、もっと普遍的なアナタを認識してもらうためのセッションです。

2018年10月11日

別世界の認識

私は異次元世界での人間の活動の様子をビジョンで見ることがよくありましたが、何故かその世界ではどこにも小さな子供が存在していたことがありません。

 

私は子供の頃に記憶力が強かった故、塾に通ってもいないのに気付いたら高校は進学校に在籍していて(そんな意志はなかったという意味です)前途多難な十代後半を迎えてしまいました。大学には進学したくないし、かといって就きたい職業もなかったからです。

 

そんな調子で「気付いたら大学生になっていた」「気付いたらここの社員になっていた」というような人生を極度に怖れていたというのもあります。

 

しかし記憶力が強いはずの自分に1~2歳頃の記憶が全くないことを不思議に思っていました。若い頃の私は、その事を「乳幼児の存在とは、大人には存在しているように感じられるだけで、大人と同じ世界には存在していない」と結論付けました。脳の発達と記憶とは無関係だと私は考えているからです。

 

実際に自分にも子供ができてそこをじっくり検証できるはずだったのですが、息子の誕生日に自分が意識不明の重体となってしまい、思考や発言が人並みになっているのかが怪しい今では(笑)私なりにじっくり息子を観察してきたつもりでも、世間一般のそれとは大きく隔たりがあるでしょう。

 

だから妄想だと思われても構いませんが、やはり大人と乳幼児が認識している世界は別物であると感じます。

 

ただ子供は、本質ではありませんが、大人の認識している物質世界に物質として存在しているかのようにも見せています。その実、大人とは別の非物質世界にも存在しています。

 

ガチガチの物質世界だけを本質だと思っている大人からしたら「非物質世界」である、という意味です。

あくまでも認識して受け容れている波動世界との相対的な別世界です。ですから、非物質世界を当然の事として認識できている場合でも、相対的な別世界は多層的にずっと存在します。

 

つまり、多層だけど多重でもあるのです。現代の先進国に住む人々には、それぞれの世界に意識をフォーカスする訓練が欠落しているのです。

 

それにしても、自分が認識できなければ「ない」としてしまうのは、あまりにも傲慢で稚拙な態度ですよね!笑

 

体験して認識しましょう。

2018年10月10日

遠慮なく豊かに生きる

「遠慮」という言葉を聞いて皆さんはどんなイメージ?

ビシッと断ったりするよりもやわらかに避けたい場合とか… 何かに対して「私は関心ありません」とハッキリ言うよりも角が立たない言葉は「遠慮します」笑

 

でも味をしめて頻繁に使うと自分の好みや考え方・生き方を曖昧にする言葉という側面もあります。

私の考察では「敵をつくらないようでいてそれ以上に仲間をつくらない言葉」というイメージ。

 「私はかかわりたくない」と「私は自信がない」をダブルで発しているような効用のある言葉!笑

 

言葉だけの問題ではなく、常に遠慮気味な態度の人は全般的にチャンスを逃す⇒チャンスそのものが来なくなる⇒誰も相手にしなくなる…の傾向があるように思います。

 謙遜・配慮・気遣いはまた別の話。「遠慮」は排除や否定を意味してしまうのです。

 

小さな子供はあまり遠慮をしません。他人からの印象を気にして何かをしている時点でもう子供じゃない(笑)

私の息子は、0歳の頃から私が朝は歩くことも難しい身体であることを察していた。どんなに遊んで欲しくても朝は私を放置していてくれます。その分、夜は容赦がなくて毎日が「ねぇ、一緒に遊ぼう~」モード。

 

息子が常に遠慮していたとしたらどうでしょう。私が息子を心配しなくてはならなくなります。

 遠慮がちに生きるという行為から生まれる事は何かと言うと「大きな問題を抱えているのではないか?」とか「ばれたら困る隠し事があるんじゃないか?」等の疑惑がほとんどであって、他に得るものは何もない。

 

しかし今は実際に大人の多くが遠慮がちに生きている。 私にとってはそれが人間社会の不思議さ!

 「豊かさ」を求めている人が少ないのか、求めてはいけないとでも思っているのか…

言い方を変えるなら「あらゆる事との関わりを最小限にするのが豊かな人生だ」と定義している人が多いのでしょう。

仮に面倒なことがあっても、関ることこそが人生を豊かにするのではないでしょうか?

2018年09月30日

ゴミ問題の解消

現代の生活スタイルですとゴミは必ず出ます。

 

物質的に過剰ではない質素な暮らしをしていれば、ゴミは基本出ません。食物となる植物や動物も魚も基本「捨てる部分がない」暮らしは当たり前だったのです。

 

近年では例えば毛皮が欲しくて獣を撃ち殺したとして、皮を剥いだら残りは単なるゴミです。人間の糞尿はかつて肥料として、ハッキリ言って宝でした。それを排泄する人間は虫けら以下の扱いを受けていても!です。

 

それがいつからか「汚物」として面倒なゴミの扱いを受けています。「あんなのクソだ!」と言い放てば、早く片付けたい全く無用な最低の存在を意味しますよね。

 

私が生まれた頃は近所の畑の隅によく肥溜がありました。遊んでいた子供が落ちると大笑いのネタになっていたその場所や周辺にはカエルやミミズなどの生物が沢山いて、小学生になると私はそれをライギョやフナの釣り餌にしていていました。

 

自然の食物連鎖や循環というものについて常に意識が向いていました。「自然とはものすごく合理的で良くできている循環の仕組みだ」と、子供ながらに関心していたものです。

 

排泄する糞尿もゴミとなったならば、それこそ人間だけは生きていても無用な生物!?笑

 

近所の農家では豚も飼育していて、売り物にならない野菜を餌にしていたようです。その奥にはなぜか長年更地のままの場所があって、父の話では「昔は地域で出た人間の遺体を皆あそこで焼いていた」と聞いてからは、「生きて糞してるうちは価値があるけど、人間だけは死ぬことで何の役にも立たない生物なのだなぁ」と感慨深くなっていました。

 

私が成長してからは逆に「人間だけは、物質で存在している事にじゃなくて非物質のエネルギー存在として価値がある」という結論に達したのですが、今の文明にはそこが決定的に欠落しています。

 

肉や骨や内臓や脂肪の塊としての存在を継続させたい意思が必要以上に強い割には、エネルギー体としての在り方には極端に無頓着なのです。あらゆる歪はそこから生じています。そしてゴミ問題が正にそこなのです。

 

ゴミを減らす意思が金銭損得絡みでしかないのです。人間だけは自然のあらゆる循環から外れてしまっているのです。

 

今回この事に思いを馳せたのは、生後数ヶ月で立てなくても転がり始めてからずっと、息子がゴミに凄い意識の向けようだからです。小さなゴミを見つけては直ぐに口に含んでしまう(飲み込みません)のを筆頭に、今でも紙パックジュースを飲み終わるとまずは「ゴミ」と言ってゴミ箱に走るのです。

 

数ある好きな乗り物の名称の中でも「ゴミ収集車」を覚えて連呼する子供なんて面白いですよね!笑

 

こんな世代が普通に生まれてきているのなら、近年深刻化しているゴミ問題が解消される日も遠くはないと思われます。すぐにできる事は実践しながらも「我々にどんなサポートができるのか」です。

 

星の自然環境と上手く適合して生きる事から、人間だけを以後も除外しておく必要はないと思うのです。

2018年09月29日

時間と空間のない世界

お客様からのお申し込みがあって都合がついた場合、曜日不定ですが毎週必ず瞑想会を行っています。霊能者で占い師でもある妻も一緒になって、お客様2名の計4名グループで開催しているのですが、毎回皆様に「人間は次元を股にかけた非物質生命体である」ことを実感していただいてます。

 

肉体のある物質世界と異なる次元世界を体験するということは、大きな特徴としてまず時間の概念がなくなるということ。大凡10分の瞑想を行うのですが、ほとんどの方は「たった10分で体験できるはずがない」という体験をします。この世界で言ったら「過去や未来を沢山体験する」ということですね。

 

そしてもう一つの特徴は「大きさや距離の概念がなくなる」ということです。よくあるわかりやすい例は「宇宙空間を移動する」とか「肉体器官の中を漂う細菌の視点になる」とかです。

 

「時間や空間の無い世界」と、いくら説明したところで経験したことがなければわからないのです。食べた事のない物の味覚や食感や好みを語りようがないのと同じです。

でも食べた事もないのに勝手に決めつけたりは結構しますよね?笑

俗に言う「死後の世界」とか「深い瞑想体験」については、その決めつけをしている人が多いのです。死ななくても体験して理解できるのに…です。

 

興味がおありでしたら、気軽にお問い合わせください

2018年09月27日

子供はどこまでわかっているのか

大人は「まだ2歳の子供だからわからないだろう」とか「一週間もすれば忘れるだろう」などと考えがちです。そう考える理由は自分が2歳の頃の記憶がないからです。

 

私は「記憶できるということと感じたり思ったりすることとは別物である」と小学生の時から考えていました。なぜなら同じ授業を受けていたのにそれを記憶していない人もいるし、特に音楽や図工で「これで何も感じないし、思うところも何もないのか?」という不思議な人をたくさん見たからです。

 

「人間とは、外見は似たような生物だけど、中身には随分と個人差があるのだなぁ」と小学生なりに度々思っていたわけです。

 

防犯カメラに犯罪行為が録画されていても、撮影機器は何も思ったり感じたりしないでしょう。ところがたまたま見て見ぬフリをしていた人は、何も語らなくても一生で最も強烈な感情や考えが湧き上がっていたのかもしれません。

 

憶えていない語れないことが認識できていない証拠とはならないのです。証明できないのをいいことに「記憶にございません」と堂々と解答する大人もいるわけですが(笑)記憶は改ざんされますし、いずれにしても事実認識と記憶とは全く無関係なわけです。もっと言えば事実も1つではないのです。

 

だからリハビリを続けながら2歳になるまでの息子を観察していた私は「コイツはいったい今どこまでわかっているのだろう?」という事が最大の関心事でした。それが近日になってにわかに態度に出すようになって「どうやら、かなりわかっているらしい」と私が掌握し始めたのです。

 

何も慌てるような事はありませんが、子供が自分の所有物であるという感覚が私には全くありませんから、これまで以上に一人前の人間として対処することとなりそうです。

 

人間の子供の可能性を潰すことなく拓いて行きたいですね、もちろん自分自身の可能性もです!

2018年09月26日

物質にも心

息子は歩けるようになってからというもの、近くの公園に行くと真っ先に写真にある機関車の展示コーナーに直行します。私はSLオタクでもないし、動く本物はおろかまともな模型すら見せたことはありません。なのにいたく気に入ったらしく、乗り物はいっしょくたに「ブーブー」だった時期に列車だけは「電車・新幹線・機関車」と勝手に使い分けるようになりました。

 

動いている車や電車に興味を示すのはわかりますが、こんな古ぼけた金属の展示品に興味を示す理由を考察してみました。

 

やはり「波動」以外には思いつかないのです。これの現役時代の頃に乗り物を扱う人間の感覚は、牛や馬や犬に対するそれと同じで愛情や感謝や愛着を皆がもっていたことでしょう。起動原理が爆発ではなくて水蒸気であることも大きいと私は思います。

 

機械とはいえ人間に愛され続けて喜んで動いてきたのと、コストや性能ばかりを気にして消耗品として扱われるのとでは大違い。この展示車両からは「走れなくてもまだ人間を喜ばせたり感動を与えたりは出来るんだ!」という機関車の気概とでも言うべき前向きなエネルギーが発せられていて、子供はそれを感じているのでしょう。

 

物質にも心があるということ、それを小さな子供はちゃんと感じているということを思い知らされます。人間の感謝というエネルギーを長年チャージしてきたので、今でもそれを放出できているのでしょう。大人(バカ)になってしまうと「そんなの関係ない」話でしょうが(笑)とても大切な事ではないでしょうか。

2018年09月22日

善か悪か

先日の講演会で私は「善と悪、陰と陽みたいな二元世界のこの世の中では、どちらかに意識を向ければそちらに力を与えることとなって…というのが常かと思いますが、石井さんはその辺をどうお考えですか?」というような質問を受けました。

 

現文明を象徴するとてもよい問いかけだと感じたのですが、この応答だけで1時間とかを使い兼ねないため(笑)やんわり流してしまいました。よって興味がある人のためにも概略を記します。私も若い頃はそこをよく考えたりしていたからです。

 

同じ事柄でも喜ぶ人も悲しむ人もいる、ということは成長に連れて誰もが気付く部分だと思います。私も幼稚園児の時にテレビを見ていて「平和を乱す敵の悪者を正義の味方がやっつける」みたいな価値観を刷り込まれてしまったわけですが、「やっつけるつもりで敵の存在を暴いて戦っている正義の味方こそが迷惑者で、悪者と思っていた敵は自分たちとは異なるアプローチで平和を守っていただけだった」というオチの可能性に気付くのは、高校生くらいになってからだと思います。

 

それでも「この世界は二元」という考え方自体に疑問を挟む余地があまりありませんでした。

 

でも実際は「(今の日本国もそうしているように)地球から搾取を続けて破壊する」「地球を守る」「どちらにしても争いの口実でしかないので気にしないようにする」「神の再臨で奇跡が起こる」「そんな事に興味がないしどうでもいい」「人類が滅ぶ事こそが最善」「地球ごと無くなるのが理想だ」「巨大な宇宙船が飛来して宇宙人が助けてくれる」等々、実に呆れるほどの価値観や考え方があるわけです。

 

私が言いたい事は「ネガティブ・ポジティブ」をはじめ二元論で考えていること自体が既に自分が洗脳されている証拠であるということです。

 

意味づけを勝手にしているのはそれぞれの立場の人間なのであって、人間が勝手に意味づけしたことで事態が善悪や陰陽にコロコロ変わっているわけではありません。

 

「物質肉体」と「霊魂などとも呼ばれる非物質エネルギー」とは、どちらが本当でどちらかが人間だという話ではないのです。誰でも肉体がなくても非物質意識活動をするし、物質としても存在している間は食事や排泄を繰り返して肉体を維持するよう努めています。

 

どちらも真実の人間です。ただ、個の肉体に普段から宿っているエネルギーは圧倒的に制限されているという特徴があるのみです。

2018年09月22日

生きようと決める

成人した頃から、私は周りの人の肉体生死にあまり関心がありませんでした。ただどんな死因にせよ肉体死を常に待ち焦がれていたため、口には原則出しませんでしたが他人が早死すると「いいなぁ」と感じたり、長生きしている人を見ると「気の毒だなぁ」と思ったりはしていました。

 

自殺は次元を超えたルール違反だから厳禁である、と自分に言い聞かせて葛藤したことは十回単位でありました。ですから両親が他界した後でもあった2年前に自分が救急車で運ばれ、目が見えなくなり耳が聞こえなくなり全身の感覚が無くなって行く時に「ついにこの瞬間がきた!」と達成感を味わった直後に肉体意識を失ったことはよく憶えています。

 

不安も全くなく本当に苦痛の無い、脳幹大量出血によるピンピンコロリがついに実現したかと思われたのでした。そしてその数時間後に息子がこの世に誕生しました。

 

ところが翌日になっても私の肉体はなぜか生存を維持しており、植物人間として生命維持をするのかどうかを検討中の状況下、なぜか意識が戻ってしまったのです。

 

飲み込みも何もできない植物のような身体に人間の意識が宿るとどうなるのか… 特にリハビリ序盤の拷問のような体験をこの二年間味わってきました。

 

さきほど異変を感じて目覚めると、また息子が横にくっついて寝ていました。そこで想いを新たにしました。

 

ボケ老人のような頭脳で寝たきりだった頃の私でも想いはあったはずですが「生きてるだけでこんなに痛くて苦しいけれども、コイツの成長を自分が肉体で生きた状態で少し見届けたい」という積極的な肉体生存願望を、私は40代後半で初めて持ったのです。

 

そのためにはほとんど見えない目を見えるようにすること、奇声を発してるだけじゃなくてちゃんと言語を話せるようになる、指を使えるようになる等々のリハビリ目標もできたし、併せてノソノソ歩くことさえできるようになったのです。

 

私が今ここまで健常者に近付けたのは、倒れた同日に誕生した息子の存在が決定的だったことは明確。そして2歳になったばかりの息子が私を生きるよう励ます行為を試みている!

 

私はこれからも肉体的障害を乗り越えて何かをすることになりそう。その内容はどうやら「人間が生きる・死ぬ」ということについての情報発信のようです。

2018年09月17日

大切な事はデータ化できない

大人には大きな勘違いが数多くありますが、その中でも大きいと私が常々感じているのが波動の感知です。

 

波動は優劣や善悪とは無関係です。でも私は波動をあらゆる事の指標にしてきました。「どうやって波動を感じているのか?」という質問には残念ながら答えようがありません。

 

強いて言うなら、例えば「高級食材ばかりで作ってあるはずの料理が大した味ではない」とか、逆に「たまたまあった冷蔵庫の残り物で作っただけなのに激ウマ」というようなときは、波動を感じているのだと思います。

 

音楽ならば「ノイジーで騒がしいだけの曲なのに凄い魅力を感じる」場合もあるし、「洗練された楽曲や演奏者達なのに退屈なだけだ」といった事もあるでしょう。

 

ただそう感じる、それだけです。波動を数値化して測定を試みる事も私にとってはナンセンスな発想だし、何より不可能だと思います。それでも数値化して納得したい人がオモチャを開発して実際に使用することも自由だと思っています。

 

実際その場に行ってみればなぜだかわかる。どういうわけか、実際その人に会ってみればわかる…人間とは本来そういう生き物なのです。

 

自分が偽っている部分を隠したい人は、事前に文字で自分のことをアピールする場合が多いです。「会わずに済むのなら好印象を与えただけで終わり」「会っても先入観が良ければ欠点に気付かれずに済む」などの考えがあるのでしょう(笑)。

 

しかし付き合いが濃くなれば、取り繕っていた部分もいつか必ず露呈されます。それが人間の性質です。

2018年09月13日

一見不本意なこと

今日は妻が息子を連れて両親と旅行兼仕事に出かけていて一泊してくるようです。特に病院で自分だけが外泊したことはあっても、自宅で独りっきりで過ごすことは数年ぶりです。こんな贅沢をほとんど毎日していた時期もこの人生では長かったわけでして、思う所が大いにあります。

 

今はやっと2歳になった息子の相手を中心に自分の時間は限られているのですが、既に死んでいるはずの自分の肉体に多くを求めても仕方がありません。何をしてもしんどい私の身体は、逆に言うと何をしても結構なリハビリ運動なのです。つまり常時リハビリ中でその時は辛いことに目を潰れば、日常でかつてのように出来る事は増えて行く一方なのです。

 

これが毎日一人で過ごしていたらどうでしょう。痛くて辛い事を口実にほぼ寝たきりの毎日のはずです。今のように必要なら移動して人前で活舌よく話しているはずもありません。だから一見不利だと思える条件が自分を成長させてくれている事はよくあるのです。

 

私が小学校に上がった頃、切り替え自転車がブームでした。周りのクラスメイトは仮面ライダー気取りでガチャガチャギアチェンジしながら自転車に乗って移動していましたが、私だけは常に毎日数キロ走っていました。なぜなら私の自転車だけカッコ悪かったからです。

 

父がイギリス出張のお土産で自転車を買ってきてあったのです。大人になればわかる事なのですが、タイヤの小さい白っぽいオシャレなシティサイクルで「お前には皆より立派な外国産自転車があるだろ」という事で新たには買って貰えず、恥ずかしかった私は「脚力がつくから」と苦しい言い訳をして自転車集団の中を一人走り回っていたのです!笑

 

おかげでスポーツテストの50M走は学年で一番になってしまい、陸上部でもないのにどっかの会場の大会に出場させれたこともありました。子供ながらの恥ずかしさと見栄からきた副産物です。

 

皆さんも思い返せば色々とあるはずです。私がリハビリ病院を退院する際、車椅子は常時必須とのことで自宅近所の介護センターで車椅子リースと介護担当者を決められましたが、私は車椅子を一度も使っていません。

 

医師からしてみたら担当していた患者が退院後すぐに大けがをしたり死亡されたくはないから、自己防衛からもそう言うであろうことはわかっていました。そこで揉めても医師の言う通り、後数ヶ月は低レベルなリハビリを続けさせられたでしょう。ですから、そうするように見せかけて安心させることも大切なのです。

 

患者や生徒やお客様のためにではなく、誰だって何の仕事でも「自分のため」にしていることなのは当然のことです。少し悲しいようですが、それくらいのことは押さえておかなければ「単なるバカ」として生きることにもなりかねません。

 

若い時期は特に「アイツのせいで…」と思いたくもなる境遇に直面するでしょう。でもそれを「アイツのおかげで…」へと変える能力は誰もが持っているのです。自分が倒れた日に生まれた息子に手がかかって忙殺されていたからこそ、医師には信じられないような私の後遺症からの回復なのです。

2018年09月10日

人間という存在について

先週の木曜日、「サトルエネルギー学会」の主催する「サトルサロン」で講演をさせてもらいました。

 

この学会とのお付き合いは初めてですし、お越し下さる皆様にも私の考える人間というものの実体像がわかりやすいように学校では教えてくれない「人間とは何か」について浅く広くお話しさせてもらいました。

ほんの一部だけですが録画映像がありますので、よろしければご覧ください。

 

あまり聞いた事がないであろう種類の話だけに、皆さんが真剣に聴いてくださっている様子でした。

 

どんな種の娯楽でもないですし、誰もが飛び付く話ではないでしょう。むしろ避けて通っている話題!笑

 

ただ、私が幼い頃から感じていた「こんなに需要が大きいはずのテーマなのに、供給している人がほぼいないのはおかしい」という不思議を少しでも解消するため、残されたこれからの肉体人生のエネルギーをここに費やして行くつもりです。

 

どうぞ宜しくお願いいたします。

2018年08月31日

誰だって激変します

さっき、いつの間にか妻が撮った一枚ですが、感慨深くてとてもスルーできない画像でしたので投稿します。

 

経緯をご存知ない方にしてみれば「なんのこっちゃ」ですので(笑)説明いたします。

 

2年前、私が意識不明の重体で救急車にて運ばれた時に同乗していた妻のお腹にいたこの息子は、その数時間後に搬送先の病院で産まれました。

 

すぐに死亡するかと思われた私は後日、肉体意識を取り戻してしまいます。何もおめでたい事ではありません。聴力はそれなりにあったようですが肉眼の視界が呆れるほどデタラメ、全身は痛いだけで触覚はほぼなし、飲食はできず、ただ動かない身体を動かそうとして奇声を発するだけのグロテスクな生物… 

 

自殺未遂ではありませんがハッキリ言って死にそびれただけです。

 

ただ、妻が赤子を連れて無事に産まれたことを知らせに来てくれた(それを私が認識できるようになって初めて)時に喋ることのできない肉体の私は嗚咽していたそうです。

 

その時の意識面での私の動きはこうでした。まずは「私の状況はさておき無事に産まれて母子共に元気でよかった」ということ。そしてもう一つは「死に損なったことを悔やんでも何も始まらない。コイツがこの世界を認識できるようになる頃までには自分も見たり話したり歩いたりできる状態になっておこう」と決めたのでした。

 

リハビリは毎日痛いし辛いしで嫌がる方が多いそうですが、私は自分で決意した「見る・話す・歩く」に少しでも近付くためならばちっとも苦になりませんでした。そして2年後の今は「話す」に関しては実際にクリアしています。

 

歩くことは何とかできていますが、私が早歩きさえできないことや、毎日朝のリハビリが終わるまでは歩くことも難しい身体であることを息子なりに理解しているようです。見ることについてもムラはありますが、少なくとも至近距離なら息子の姿を確認できています。

 

指の感覚があまりない割にはマウスやキーボードもそれなりに扱っています。

 

ですから、健康な人が見ても何てことない添付の写真を眺めるだけでも「寝たきりだったはずの自分が座っている」「見えなかったはずがPCモニターを見ている」「全く感覚のなかったはずの手でPCを扱っている」「同じく寝たきりだった赤子が隣で画面を覗き込んで指差して何か言っている」等々のあまりの変化ぶりから言葉にならない感慨に耽ってしまうのです。

 

私は何も特別なことをした自覚はありません。ただ「決めて、その実践を続けている」それだけです。

 

よろしければ、何らかの参考にしてください。

 

2018年08月21日

肉体種の保存

「死ぬ気になれば何だってできる」そんな言葉を聞いたことがあるでしょう。

 

一般的には確かにその通りの部分もあって、もしもの事ばかり考えている人ほど出来るはずの事まで出来なくなってしまいます。でもそれは、生きるためにがんばっている日常があり、肉体死を迎える事が最悪の事態だと考えているという前提があります。

 

どういうことかと言いますと、根底で「死にたい・生きていたくはない」と思っている人ほど、ほんの些細な事でも億劫になる傾向があるのです。

 

ちょっと恐ろしさを感じる人も多いでしょうが、今の社会を牛耳る側の立場にある人から見て「なんだその情けなさは!甘いな~。そんなんじゃ生きて行けないぞ!」という感じの若者がいたとして、「生きて行けない?ってことはがんばらなきゃ自殺しなくても死ねるんだ。ラッキー!」が本音だったらいかがでしょう。

 

簡単に言えば肉体生命のバイタリティの問題ですね。

 

端的な例は、出世競争に明け暮れているような人なら銃を突きつけられたら基本的に「金なら出す。命だけは助けてくれ~」となりますが、それが「殺してくれるの?ありがとう」と相手に言われたらどうでしょう(笑)。

 

ハッキリ言うと、外見は似たように見えても死生観が大きく異なる種が同時に生きているのが今の人間社会なわけです。「名誉やカネやセックスや御馳走をたくさん得るためならどんなにひどいことでもやってしまう」という人はもはや絶滅危惧種です(笑)。

 

精子が減っているとか草食系だとか言われ始めてそれなりの年数が経っていますが、グルメだって似たようなものでしょう。生殖機能としては肉体人間は今でも大多数がオスかメスかのどちらかに生まれついているのでしょうが、動物としての種の保存をするために生まれてきているような人間はとても少ないように私は感じます。

 

いっぱい繁殖してほぼ絶滅して…というような文明実験の繰り返しというベタな経験をするために肉体で出てきているとは限らないという意味です。

 

総じてこれは福音だと私は捉えています。だって、毎度おなじみの大量殺戮や脅しで肉体人間を制御しきることが難しい時代に、今の私たちは存在しているということなのですから!