お知らせ

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2018年05月20日

高次元体験

昨日開催した【高次元体験会】では、前回に一回だけ初めて導入した家崎耕平さんの奏でるシャーマンドラムを本格導入し、海外在住者複数を含めた参加者の皆さんを異次元に誘導しました。結果は良好!

 

やはり音楽に限らずビートを使うことで人を異なる次元にもっと導きやすいみたいです。毎回のことながら、ほぼ全員が異次元体験をして内容をご報告くださいましたから、私も解説や人生アドバイスのし甲斐がありました。

 

更に素晴らしいやり方を常に模索しながら気付けば数年で十数回も開催継続してきた異次元体験会ですが、今回は前回からの開催ブランクが最短の一か月以内、内容も皆さんが最もスムーズに異次元旅行できた印象があります。

 

イベントの趣旨には初回からブレはなく、一貫しています。異次元を気軽に体験できる瞑想を通じて「死」に対する無駄な恐怖感を取り除き、「生き方」をより充実させるきっかけを得て欲しい… その一点です。

 

自分のしている事の内容や方向性に更なる確信を持てた昨日、次回の日程も最速での確定です。次回は7/14(土曜)日中、同じく新橋での開催です。詳細告知は数日内に再びイベントページ等で!

 

2018年05月18日

意識状態

一昨年の夏に脳幹出血による意識不明の重体で集中治療室にいた私は、医師から「おそらく間もなく死亡するであろう」と予測されていたようですが、その時の私の非物質意識は忙しく活動していました。あまりにも膨大な情報量なので簡略に説明できるものでもありませんが、皆さんにも理解しやすいであろうごく一部をここで公表しましょう。

 

病室からそのまま上空500mほどの位置に自分が浮いている景色が見えました。羽をばたつかせていたとかではなくて静かにホバリングしていたイメージです。ほどなく下界には存在しないようなかなりの高さの高層ビル上層階で空飛ぶタクシーみたいなものに乗車しようと何ヵ所かで試みるのですが、なぜか乗り物が見つかりません。仕方なく地上に近い標高を走るタクシーに乗車しています。それでもタイヤが地面に接している様子はなく、浮いた状態で移動していたようでした。

 

今住んでいる場所を説明して行ってもらうのですが、街の様子は数百年先設定の映画シーンのような無機質な雰囲気です。家らしき場所に到着したのですが私は家の中に入れません。施錠のようなセキュリティが今の下界で普遍的なものではなく、その辺りが原因で開錠できなかったような印象です。

 

この世界での私の父が、引っ越しをした直後に突然死を迎え、その際に旧住居の室内を意識体でウロウロしていたことを妻の霊視で確認済みなのですが、人間は肉体死を迎えると一旦は家路に着く習性があるようですね。どこが自分の家なのかという定義が曖昧な人は帰る場所に難儀するのかもしれません(笑)。

 

つまり私は一旦、医師の予想通り他界したのですが、行った先で何らかの理由で次のステップに入る事ができず、仕方なく肉体のある世界に戻って来たのかもしれません。肉体意識が戻ってしばらくは、全身のしびれと痛み、目がほぼ見えない、手足も動かせない、といった現実よりも「今自分はどこの世界にいるのか?」という不可解さが大きくて、何かを心配したり困ったりしている余裕はありませんでした。

 

臨死体験中の意識体での活動は、生きている肉体意識での感覚以上にリアリティがあったため、肉体意識で捉える自分や世界の実情が軽薄に感じられたとでも申しましょうか…これは事故や病気で死にそうな人に限った話ではなく、外見や物質的状況からは判断できない意識状態のお話なのです。

 

服装や髪形やメイクをはじめとする物質的なことに無関心な方々は、それくらい濃厚な非物質リアリティを生きている可能性があるのです。これは誰にとっても自分の人生にも当てはまることでしょう。俗に言う「なりふり構わず」とは、そんな濃厚な意識状態なのです。

 

見た目や物質的なことに意識を奪われていませんか? それらを生業にしている方には恐縮ですが、人間の本質は非物質の意識体なのです。肉体の外見などで悩んでいるのならば、言葉は悪いですが今はそれだけ軽薄な人生になっている証拠なのかもしれません。そうは言ってもシャワーや着替えをして清潔を保つことは重要ですよ!笑

 

明日開催するイベントも、参加者に濃厚な意識体験をしてもらうことが目的です。外見云々で言うのならば、そもそも人間ではない自分を認識する参加者も毎回いらっしゃるのです。

 

2018年05月16日

人が発するエネルギー

私は一歳の息子にとって厳しい父でしょう。躾に必要だと思えばよく怒鳴ったり頭を叩いたりもしています。私は身体が悪くて家にいる率も高いので、一緒に過ごしている時間もとんでもなく多いです。

 

私は睡眠中の手足の痺れや痛みが辛いため、原則一緒に寝ることはないのですが、私が寝ているといつの間にか息子がすぐそばに来て寝ていることがよくあります。私は母ではないですからもちろん乳をあげたことはないのに…です。「何が理由なのだろう?」と謎ですが、おそらくオーラが心地よいのでしょう。

 

大人でも、エロい理由ではなく近くで一緒にいるだけでも心地良い人がいませんか? 逆に至近距離にいるだけで不快な人物だっているはずです。この辺の事は、あまり敏感でも公共交通機関などを利用できなくなるため、私は鈍感になるように努力していた時期が長かったのですが、今でも人が大勢いる場所は苦手です。

 

オーラとは、人が発している非物質エネルギーのことです。小さな子供のうちはきっと敏感に察知しているのでしょう。霊視ができる人で、対象となる人物のオーラに過去や未来の映像を見ているタイプも実在します。発しているエネルギーの種類や大きさや濃度も人によってまちまちです。ただ息子は私の発するオーラが今のところ気に入っているのでしょう。

 

このような事をいくら説明してもわからない大人が沢山いるかと思えば、皮肉にも説明なんてできっこない子供が当たり前に感じ取っているのですから面白いものです。

 

そもそも論理的に説明ができないような事実を、まぐれや偶然や無かったことにしている大人が多いだけなのかもしれません!笑。 

何度か死に損なったりしながらもそこそこの期間を生きてきて私が感じるのは、やはり「人間として大切なものは全て科学的な説明がつかない」ということです。

 

プログラムが必須のロボットと、不可解な生物人間とは根本的な違いがあったということですね。人間を機械に見立ててプログラムしてきた近年の人間社会の歪みがあらゆるところで噴出しています。これは人間という存在の認識を見誤ってしまった当然の結果です。

 

現状の人間社会、文明がイジョウである、そのことを認めざるを得ない今だからこそ「人間の探求」や「定義のし直し」が求められているのだとセイジョウ石井は考えています。

2018年05月15日

他人よりまずは自分

今日は現代社会での処世術としても有効なものの考え方を1つお教えしましょう。それは「自分以外の誰かを特別に尊重しないこと」です。逆の言い方をするのなら「自分の価値を他人に比べて低く見積もらない」ということです。

 

家庭でも仕事でも趣味でも、誰かが自分に対してとった態度や放った言葉などが原因で気分を害したり浮かれたり落ち込んだり舞い上がったり…つまり対人刺激によって人間の気分は上下するものです。モノを相手に自分の気分に波が出るのは、対象物を擬人化しているからです。「家電製品までが私の事をばかにしている」といった具合です(笑)。

 

相手が一人でも複数でも相手の存在が自分よりも意義深いと想定していると、相手の反応を過大に解釈してしまうのです。「自分の価値なんて誰がどう言ったかによってどうにでもなってしまう些細なものだ」そのように常に自分を過小評価していると、いつも他人の顔色を窺って生きる人生となります。

 

仕事の立場上やむを得ないこともあるでしょう。私は何も「他人をバカにしろ」と提案しているわけではありません。「必要以上に自分で自分をバカにするな」と言っているのです。自分の価値はまず自分が決めるのです。それが人に伝わって行くようになるのです。

 

謙虚な人柄で有名な歴史上の偉人で「私には価値がない」と考えて何かを成した人はおそらくいないでしょう。「どんなに時間がかかって些細なことにせよ、私の信念はきっと物事を動かす」そう考えて生きていたのです。そのような自己信頼があれば、実際の多少の非難や悪口も気にならなくなるものです。

 

しかしそのためには、しっかりとした自分の考えを持って行動を起こして継続している必要があります。他人の評価を気にし過ぎる人は自分の信念がなく、これといった行動も起こしていないから根本的に自己嫌悪感が強くて、他人からの評価ばかり気になってしまうのではないでのしょうか。「少しでも隙があれば皆が自分をバカにしたがっている」きっとそんな被害妄想と折り合いをつけながら暮らしているのでしょう。

2018年05月14日

平和の創出

皆さんは自分が位置している場所というものを常に意識して生活していることと思います。地図で表示するなり、今時なら正確な座標を数値で表示することだって可能ですよね。ですから日常の活動範囲を越えた出張や旅行で大きく移動するとなると、大変だったり楽しみだったり特別な感情も湧いてくるものです。

 

実は場所(位置)も、時間と同じで単なる錯覚だとしたらどうでしょう?

 

私は日常的な習慣である瞑想中はもちろんのこと、俗に言う臨死体験みたいなもので自分があらゆる時代や場所に存在していたという経験を何度かしたことがあります。この身体は病院の集中治療室で横たわっていただけだと思いますが…

 

元々若い頃から私は人間が非物質存在だと考えていたので、時間と同じで空間というものの錯覚に魅力を感じたことがあまりありません。「自分がどこにいようと、本来はどこにでも行ける」とでも申しましょうか、仕事の出張以外では旅行というものをしたことがほぼありません。肉体が物質的などこに位置しているのかにそれほど重要な意味があるとは思えないのです。

 

睡眠中に異次元でよく大旅行を経験しているのも関係しているでしょう。例えば海底深くから雲の上までつながっているビル一本がまるごと大都市のような空間で自分が忙しく活動している事を認識していますので、それに比べるとこの世界のどこへ出かけても「ショボいな~」くらいの感想しか持てないのです。

 

この世界とは別の異次元世界でも確かに自分の生活が継続しているのです。つまり、次元を超えた対比みたいなことをしてしまう癖があり、今この星で特定の名前で呼ばれている自分の世界だけに意識をフォーカスできないのです。

 

何を取っても「沢山ある自分の中の僅か一部分」的な感覚が常に付いてまわってくるのです。それは評価をうけること、病気になること、結婚して子供ができること、カネを稼ぐこと、肉体死を迎えること…「自分のしている何もかもが他人事のようだ」まさにそんな感覚です。

 

はじめから「守るものが何もない人生」とでも言いましょうか。だから脅したり騙したり殺したりしてまで何かを維持したがっている誰かの状況を見かけると「この人は凄い錯覚の深さだなぁ」と感心してしまいます。自分の肉体生命やカネや名誉をはじめ、そんなにまでして手に入れたい、手放したくない何かがあるなんてこと自体が不思議なのです。

 

ただ私にあるのは「そんな局所的な部分に執着する必要なんて人生には何もないのですよ~」とお知らせしたい気分です。それは「もっと広くて多角的な視点を養いましょう」という意味です。何をするにしたって「特にどうってことはない」という気楽な感覚で取り組めば、何でも楽しめるし結果も良好となります。

 

戦争をはじめイザコザは何でも全て、はっきり言って誰かのどうでもよい事への執着心から生じていると私は感じています。社会情勢とは関係なく、いつでもどこでも自分が平和を創造するコツ、それを一緒に体験してみませんか? 

次回の瞑想会は19日(土)の12時からです。楽しみにお待ちしています。

2018年05月13日

異次元の自分

いつも私は異次元の自分を認識する大切さを話しています。脳で明晰に認識するところまでは行かないにしても、異次元に存在する複数の自己とリンクすることで情報が統合されて人生がスムーズになるからです。

 

誰しも「どうして自分にはこんな側面があるのだろう」というような不可解な要素を持っています。その理由が引き出されることが多いのです。時空を越えた異次元での話は過去や未来もなくなってしまいますが、私のイベントでは普段の思考回路で言うならば「過去生・未来生」を含む、普段は全く意識していない今とは別の自分の人生に接触することを促しています。

 

誰もが有する直線時間で言う過去生や未来生は今生と多大な影響を与え合っています。時間を越えた世界の話ですので因果関係ともまた異なるのですが、「同居人が与える影響」とでも喩えられるでしょうか。

 

実際の自分との同居人ならば皆が気にして選んだり関係解消したりするのですが、自分の過去生や未来生となるとノータッチの人がけっこういるのです。過去や未来はどうにもならないとでも思っているのでしょう。そんなことは知りようもないと考えているのでしょうか。何度も言いますが実際は過去でも未来でもないのです。

 

直線時間が錯覚である事実は、おそらく論理的に納得しようがないでしょう。だとしても他人を説得する必要もないことです。しかし誰でも時間の錯覚から抜け出る感覚が養われると、簡単に言えば過去を変更したり望む未来を容易に実現させられるようになります。

 

そんな感覚を皆さん自身に体験から養っていただこうとシリーズ開催しているのが「波動体験会」なのです。次回で13回目となる開催の会場はいつもの新橋、5/19(土)の昼からで決定しました。今度はまた誰がどのような異次元体験をするのかが楽しみです。

 

おぼろげな記憶となりがちな異次元体験を具体的な情報として引き出せるのかどうか、そしてそのメッセージをどう解釈するのか…それもイベント現場での私の役目です。抽象的でもよいならば参加者全員が毎回異次元にアクセスしています。これを読んで気になる方、遠慮なくお問い合わせください。

2018年05月11日

地味な社会変革者

物事を常に俯瞰していないと手段が目的となってしまうのが人間の悲しい性です。例えば現在の日本社会に暮らせば、生きて行く手段として家賃や住宅ローンや食費や光熱費や交通費などが必要となりますから金銭を手に入れようとします。すると知らず知らずのうちに金銭を求めるという行為そのものが人生の目的となってしまっているのです。

 

稼ぐのか貰うのか盗むのか拾うのかはともかく、あなたはカネを得ることを目的にプログラムされたマシンではなかったはずが、いつからか実質そのようになって生きてしまう場合が多いのです。

 

そうなってしまう理由のひとつには、人生の目的など考えないまま大人になってしまうことが多いからです。私は特に目的のない人生だって、その都度その都度の思い付きや行き当たりばったりの人生だって大いに結構だと思います。

 

ただ、名の通った高校や大学に進学する目的は何でしょう。今ではそうでもない世の中となってきましたが「安定した高収入の職に就くため」が基本だと思うのです。塾や予備校を含めて受験勉強とはカネ稼ぎマシンとして落ち度のない人間を作ることです。

 

でも本当のところは、受験産業に携わっている人々が儲けるためにがんばっているだけの実状に乗せられているのです。飲食でもファッションでも医療でも軍事でもスポーツでも音楽でも、どの業界をとっても同じ事です。

 

カネを得るためだけに凌ぎを削っている大人たちに囲まれて育った子供たちも、気付けばカネを得るためだけの大人となっている…至極当然のことですよね。

 

そんな世の中は根本的におかしいと感じている若者が増えてきています。思想を振りかざすわけでもなく、ただ社会参加しないのです。

 

学校へも行かず、会社にも行かず、起業もせず、異性との交際もせず、友人との交流もほぼなく、親や国家や自治体などの保護だけに依存して生きている不安定な人が結構な数実在します。

 

生きること自体が嫌なのでしょうか?それともそんなに人間っぽい問題ではなくて、単にプログラムされ損ねたマシン人間なのでしょうか?

 

いずれにしてもそのような人々が増殖しているのが事実なのですから、世の中のしくみは確実に大きく変わります。無職者も深刻ですが労働現場の人手不足も深刻です。雇用や労働の概念があちこちで覆っているのでしょう。

 

自分が社会的に何もしないでどこにも属していない環境とは、まさに人間社会や世の中を俯瞰している状況ですよね。親ならば心配の種でしかないでしょうが、政党や国会議員や企業や学者などには無関心な彼らが今後どのような存在となって行くのか、私はとても楽しみです。

 

政治家でも企業人でも学校教師でもない自分の声をそのような人々に届かせることで社会変革を後押しできると考え、私は各種のイベントでひきこもりについて語っています。個人的なカウンセリングも常時承っています。

 

ひきこもりとは、攻撃性の無い社会変革者でもあると私は考えているのです!

2018年05月11日

異次元体験

寛ぎを邪魔するものは何でしょう。場所ですか?空腹や満腹ですか?インテリアですか?気候ですか?騒音ですか?体調不良ですか?

 

何の話かと言いますと「寛いで暮らしていますか?」ということです。

 

誰もが「寛ぎ」という単語を使います。しかし私はリゾート地や飲食店で人が寛いでるという印象を受けたことがほとんどありません。病院のベッドでならあります(笑)。他人に見られたら寛げないから皆さん一人っきりの時に寛いでいるのでしょうか。

 

気がかりなことが何かあったら寛げない…それは普通のことです。休暇には期限の終わりがある、肉体を維持しているのなら空腹はもちろん痒いだの痛いだの痺れるだの何らかが毎日あります。たとえ安らげる時があっても束の間ですよね。

 

ところが深い睡眠中は違います。無理な姿勢で寝ていても気付かずにそのままで身体の痛みや不具合を発症した経験が誰にでもあるでしょう。別次元に行っているためこの世界の心配事とは無縁なのです。逆に眠りにつけないとか眠りが浅いという事も起きるわけですが。

 

そんな寛ぎの心理状態を覚醒中でも意図的に作るのが瞑想だと考えてください。

 

瞑想とは、経済や身体状況等の心配事を一切忘れて別次元にて戯れることができる行為です。そこでは閃きやアイデアに溢れているのが普通です。ただ目を閉じてじっとしていれば必ず誰でも行ける世界でもありません。きっかけや慣れが必要でしょう。

 

私の開催するイベントでも、体験する異次元訪問を参加される皆さんが大変に喜んでいます。次回の異次元体験会の開催日は5/19(土)の昼で急遽決定いたしました。皆さんとお会いできることを楽しみにしています。

 

2018年05月09日

本当の個性とは

発言を聞いても行動を見ていても「この人、なんかイヤだなぁ」…いけないと思いながらもそう感じてしまう人がどこかにいませんか?

それは家庭内か職場内かテレビ出演者か街中で出会った誰かなのか、どこで遭遇するのかはそれぞれでしょう。ただ言えるのは、時期的なものである場合が多いのです。

 

同じ人物を一生不快に感じ続けるということは意外とないものです。「この世の中の誰もかもがクソみたいな人ばかり」そう感じる時期もあれば、砂漠やジャングルで長い期間独り寂しく遭難していて、誰かもわからない人間を見かけただけでありがたさに涙が溢れることだってあります。

 

他人とは、自分の反映でしかないのです。自己をどう認識しているのかによって自分以外の人がどうにでも映るのです。その状況が生涯変化しない人は原則いないという意味です。

 

わかりやすい例をあげると、自分が金銭を得るために意図していなくて無自覚だとしても自然環境の汚染や破壊に貢献しているのが一般的な人間です。その観点からすると経済活動をしている人が皆クズに思えてきます。そして他ならぬ自分自身も生業を立てるために経済社会に組み込まれて日頃ゴミや排泄物を出しているのが普通です。

 

かかわる人物を一人残らずあげつらって悪口を言うのが趣味みたいな人がいるかと思えば、全ての出会う人から素晴らしさを引き出して長所を指摘して「世の中には感謝すべき人しか存在しない」そんな人間観の人だって実在します。

 

その点ではどれが良いとか何が悪いとかはまるでないと私は思います。どんな生き方が楽しいのか、学びが多い人生なのか?というテーマなのだと思います。

 

何でも肯定的に解釈していては問題改善はしようがありません。何でもOKの人にとってはそもそも問題などは存在していないのでしょうから!笑 逆に何にでもケチばかりつけていてはおそらく楽しい人生にはならないでしょう。何につけてもバランス感覚ですよね。極端は基本避けるべきだと考えます。極端な生き方とは、実は本人も苦しいし周りも大変な目に遭うでしょう。極端を続けると結果的に寂しい人生となりやすいということです。

 

一時的な自分の価値観や感情で人物や物事を判断しないことです。後日「どうしてあの時に自分はあんな事をしてしまったのだろう」と思える事態を積極的には引き起こさないことに繋がります。かといって私は「だから何でもあやふやにしておけ」と言いたいわけではありません。

 

「あの時の自分はどうしてあんな事すらできなかったのだろう」という後悔を抱えて生きている人も実は多いのです。これが自己否定となって周りの人間や物事を醜く映し出すようになってしまうのですから。

 

究極的に自己中心的な人とは穏やかで大らかで、細かい事にこだわらない人だと私は考えます。自分の人生哲学のようなものがそれなりにあればこそ周りに振り回されることもなく常に穏やかでいられるのです。他人の介在で人生が左右されにくいということです。そして穏やかで大らかで特異な主張もしないならば誰からも好意を抱かれやすいので他人から促される事案は多くなり、本人が望むならば人とのご縁で人生が急展開もするわけです。

 

「特別なアピールをしているわけでもないのに上手に世渡りしているなぁ」そんな人、誰か思い浮かびませんか? そんな方は棘がないだけで充分に個性的な人だと呼べるのです。

 

外見を筆頭に極端であることが「個性的」とされる風潮がありますが、個性を確立できている人物は実のところ地味で寛大だったりします。バランス感覚を充分に養っているからです。

 

目立つ人は、むしろ無個性で自信が何もなく「何かの模倣をしているだけ」の場合が多いと私は感じます。

 

個性とは、一見したところの印象とは別の非物質部分に表れるものなのです。外見に惑わされてしまってはいけません。一目で個性的だと思わせる人は、変わっていたとしても(それも個性には違いないでしょうが)人間的にはそんなに個性的ではなかったりもするのです!笑

 

2018年05月08日

見えない大きな変化

若い自分に会ったとして、何か言ってあげたいことはありますか?

 

例えば三十年前の自分に出会ったとしたら、今の自分はどんな反応を示すのでしょう。「このような話にはのるな」とか「あのような人とはあまり親しくなるな」とか、選択しないようにする助言はいくつか思い浮かんだにせよ、積極的に何かを選択するよう勧める案件は意外と出て来ないのではないでしょうか。

 

何年前だろうと、今とこれからもずっと「やってみないことにはわからない」のがこの世界の面白さだと私は思うのです。

 

肉体寿命や健康状態、人間関係に金運、誰だって「どうなるのかわからない」からこそ興味が持続している部分が大きいのです。にもかかわらず、多くの人が大きな変化を嫌って拒んでいるのも事実です。

 

厳密には「拒むフリ」をするのが人間の習性というものなのか…近頃そのように強く感じます。一歳の息子をシャワーに誘うと必ず拒みます。そのくせしてシャワーに誘われることを心待ちにしているのです(笑)。

 

身体の悪い私は転ばないように自分がシャワーするだけで精一杯なので服を着せる担当なのですが、風呂から出た裸の息子に肌着を着せようとすると猛烈に嫌がって逃げるのです。真剣に追う事の出来ない私が諦めて腰を据えていると「おい、追いかけて肌着を着せろよ!」と言わんばかりに自分で肌着を持って寄って来るのです。

 

一歳ですから本能のままに行動しているだけで特に策はないと思いますから、常に楽しみにしている事を嫌がるフリをして楽しんでいるのです。これは大人にも等しく見られる傾向ではないか?という話です。

 

何かを提案されて「やった!」と思ったのに何故だか自分は嫌がった態度に出ている…そして「そんなに嫌なら」と引っ込められてしまう(笑)そんな事が皆にあるのではないですか?という話です。

 

この事を考慮すると人間関係は面白いものです。多くの皆が本能的に説得されたがり病、もしくは無理矢理強行されたがり病なのです。

 

大きな変化はワクワク要素で沢山ですが「わからない」という不安要素にもなります。おおよ子供はわからない事を楽しみに感じますが、大人になると「わからない」事は心配の種となります。だから大人になると変化を避けるようになるのです。

 

変化がほとんどない人生を選ぶことのできた時代が終わります。これからは組織に属していても大きな変化を体験することになるでしょう。子供目線では皆がワクワクの時代です。大人目線では不安な時代の到来です。

 

変化を怖れて変化が最少で済む生き方を選んでいる人だって、いつだって大きな変化を起こすことができます。変化への対応を常に求められている人達は元々大勢います。変化とは物質的なことばかりではありません。同じ場所で同じ職業同じ家族構成なのに大きな変化を遂げることだってあります。

 

私は常に心の変化、エネルギーとしての変化について語っているのです。

2018年05月07日

思いもよらぬ出逢い

自分の考えや想いを表現することにおいて得意な人と苦手な人がいると思います。自分を認知してほしいと考えるかどうかですね。ですから得意でも不用と考えて表現しない人がいますし、苦手でも必要だと考えて一生懸命に表現している場合もあります。

 

これも経済社会だからこそテーマになることだと思います。商品を買ってもらうためにはまず商品を認知してもらう必要があります。商品化されていないのに「売ってくれ」と申し出る人だっています。

 

物質の商品ばかりではありません。「そんな知識や経験や実績のある人物を求めていた!」つまり人間自体が商品となる可能性も高いのです。

 

親が裕福だったり既に身分や収入を確約されているような人は、表現力に乏しくなる傾向があるわけです。それに対して「自分(の商品)を誰かに高く買ってもらえるよう、できるだけ目に留まる努力をしよう」となれば、表現力も自然と高まるわけです。

 

表現しないことには存在自体を認知してもらえないわけですからね。

 

そこで意外なのは「誰が何を欲しがるのかは予測がつかないものである」ということです。特定の何かを常に欲しがる素振りを見せておきながら一生手に入れない人もいますし、本人の口からまったく聞いたこともない突拍子もない何かを衝動買いすることもあります。

 

私はそれが「ご縁」というものだと思うのです。本人にも説明のつかない霊感というかエネルギー的なものを感じて咄嗟に特定の何かを引き寄せてしまうことがあるのです。

 

つまりここで私が言いたい事は、顕在意識上は自分が何も求めていないとしても、自分を表現する事は予想以上に大切であるという話です。

 

金銭的なことだけではなく、偶然の出逢いで人生が一変することはよくあるのです。厳密には「偶然に見える必然」と言うべきでしょう。一切の自己表現を拒んでいたのでは、その「偶然に見える必然」を逃してしまうことにもなりかねないのです。

 

俗に言う「目立ちたがり屋」であっても、金銭や名誉を求めてそれをしているとはかぎりません。ましては石や木ではなく人間として存在しているのですから、レベルやセンスはまちまちでしょうが自由に表現することは健全なことだと考えます。表現する者を快く思わないならば、自分が表現することを抑圧している証拠なのかもしれません。

 

どんなにささやかな事だったり時間がかかってしまっても結構ですから、自己表現をもっとしてみましょう。思いもよらぬ面白い事態が訪れる可能性が高いのです!

 

 

2018年05月06日

ハンドパワー

誰もがオーラを発しています。全身から出ていますが掌からは特に放射されています。掌から強めのエネルギーを発している人は、特に「ハンドパワー放射」などと説明しなくても、身体を癒したり、料理して食事を美味しくしたり、奏でる楽器の演奏で聴衆の心を魅了したり、描く絵で観る者に感動を与えたり、そのエネルギーを活用した仕事や趣味を持っていたりします。

 

「非科学的な話」ですよね!笑

 

科学とは物質のことをあれこれ追究しているのだと思いますが、再三私が語っているように人間の本質は非物質です。人間だけじゃなくてあらゆる生物や自然物は非物質であることが本質です。

 

裏を返せば「人間やあらゆる自然物は科学進歩に伴って本質が解明されることがない」わけです。

 

オカルトとか霊力とか奇跡とか迷信とか呼ばれていた科学的根拠のないものの方が、よほど真実を語っていたりするわけです。

 

あらゆる非物質の法則も解明されて説明可能となれば科学となるのでしょうか。ここが難解なところです。上述のハンドパワーにしてみても、優劣の問題ではなくてエネルギーの大きさや種類が人によって異なるからです。実験や証明をしようとする人によって結果が異なる事を「科学的」と呼ぶ日は来ないような気もします。

 

要するに「科学的」かどうかは重要でないという話です(笑)

むしろ非科学的な事に興味を注いで探究すればするほど人間や宇宙や世の中についての理解が深まるでしょう。

 

そしてその場合のポイントがあります。深まった人間観や宇宙観や世界観はあなた自身のものなのです。他人は他人の観点で人や宇宙や世界を観ているのであって、どれが正しいとか誰が誤りだとかいう問題は存在しないのです。

 

その多様性を許容できるかどうか…それが「人としての器量・人徳」などに繋がって行くのでしょう。私はそう考えています。皆さんはどう考えますか?

2018年05月05日

眠りの探究

人間は目を閉じることで無限に広くて深い世界に移行できます。眠ってしまうことも含めて(笑)

 

子供の頃の私にとって、眠りにつくという行為は神聖な日課でした。夜の9時頃には目を開けているだけで辛いほどに眠気が襲ってきました。畳の和室で寝かされていた私は、少しでも神聖な環境を実現しようと押入れの上段に布団を敷いてもらって寝ていた記憶があります。目を閉じるとすぐに異次元に誘われるシンボルがパターン化されて数種類表れていました。

 

しかし幼稚園や小学校に行っても睡眠という行為が話題に上ることはあまりありませんでした。皆が多くの睡眠時間を確保しているにもかかわらずです。「真っ暗だ・何も憶えてない」などと興味なさそうに語る周りの様子に始めは驚愕していましたが「きっととても個人差のある秘密の時間なので公に語ってはいけないことなんだ」そんな風に自分に言い聞かせて自分も睡眠について語ることはしなくなりました。

 

大人の親や先生ですら睡眠の意味について語ったことがなかったのです。体を休めると言ったって、原則呼吸も心臓も止まったりはしないのです。毎日欠かさず、皆いったい何をしているのでしょう?

 

大人になってから「瞑想」というものの存在を知りました。「眠気に襲われて仕方なく」ではなく、眼を閉じて異次元を積極的に堪能する行為です。音楽鑑賞をしていたり、大自然の例えば水面や上空などをぼんやり眺めていると、眼を開けたままでも異次元を堪能できることに気付きました。

 

「どうやら食事や排泄を継続させるために働いてカネを得ることだけが人生の全てではない」…二十歳頃にはそれが確信に至っていました。

 

人間とは面白いものです。よく「食って行く」という表現がされます。確かに住む場所がなかったり飢えが原因でポロポロ死人が出ている国や地域が現存します。その反面、日本のように食い過ぎによる肥満や病気と闘っている人だって大勢存在します。

 

しかし目を閉じた先の無限世界はどちらの環境下の人にも等しく存在しています。

 

肉体死のことを「永遠の眠りにつく」という表現をします。今は生きていてもあと何十年以内には肉体死を迎える人が使う言葉であるというところに滑稽さがあるのですが、その「眠り」について皆が深く探究することがない事実は、「肉体死の意味」について皆があまり探究しないことと強い関連があると私は考えています。

 

ですから瞑想ワークショップでは、自ずと死生観や人生観が主体のお話となるのです。

2018年05月04日

他人の目

自分が笑いのネタとなったりするのが不快だという人が一定数います。わかりやすく言うと「凄い・カッコイイ」などと語られるのなら気分がよいけれど「くだらない・バカだ」などと扱われると心外だということです。

 

悲しい事実ですが、多くの人は「自分よりレベルが下だ」と感じる相手には警戒心が解けて心を開きますが「自分よりも先を行っている」と感じたら警戒することはあっても心を閉ざして親しくは感じないものです。

 

ですから人心掌握術としては「アイツはアホ」とか「大したことない」とか「しょうもないヤツ」と思わせることができるかどうかで好感を抱いてもらうところがあります。

 

前提がアホなら些細なことでも「意外と凄い」となりやすいですし、何かと人生のハードルが下がるというわけです。関西を中心に自分が面白い人だと思われたい願望というものは、敵対心を抱かれないようにするための人間の防衛本能なのか?などと私は若い頃まじめに考えていました。

 

静岡県出身の自分には、常に笑いを取ろうとがんばっている関西人などには理解に苦しむ部分が多く「その熱意はいったいどこから湧いて来るのか」とよく不思議に感じたものです。

 

ただ確実に言えることは、笑いを取ることに喜びを感じる人は円滑な人間関係の構築に興味があるということでしょう。自分を受け入れてほしいという願望があるということです。

 

そこが私には欠落していた部分でした。自分が人間であることを常に不快に感じていたし、狭い世界に閉じこもって人間関係をできるだけ広げたくなかったのです。生きる喜びが見事にない閉鎖的な期間を長らく過ごしていたのです。

 

今は何も期待せず何も幻滅せず…そんな感じです。人間存在だけは長年探究してきましたから、それらを活かした何らかを寿命の続く限り続けて行くのでしょう。自分がどう思われようともほぼ気になりません。

 

他人の目が気にならなくなる…どうやらこれは大きな武器になるようです。

2018年05月03日

生きる価値

生活している中で日々心地よさを感じているのか?、それとも自分の生きている後ろめたさのような、説明のつかない充たされない気分を常に感じているのか?

 

これは上手く言葉にできなくても重要な課題ですよね。

 

子供の頃に読み聞かせられる偉人伝で「これだけのハンディを克服してこんなにも世の中に貢献した」的な物語がよくあります。後々はそのような偉人伝にまとめられる人であっても、当時の多くは「こんなに自分勝手でなりふり構わず周りに迷惑をかけて好きなように生きた人がいた」みたいな印象が強かったのだと思います。

 

自分の社会的存在意義を気にして生きていると「自分には価値がない」という罪悪感のようなものに襲われるのが人の常なのでしょう。

 

皮肉にも、自分に強い無価値観をもっている人ほど努力してカネを稼いだり異性にもてるようにして自己の存在意義を誇示しているように見えますし、自己愛が強いと他人から評価されることへの関心があまりないようにも思われます。

 

自分の存在意義をどう把握しているのか?
…結局はそこの問題なのではないでしょうか。

 

これは実に難しい問題です。経済社会における人間の存在と、金銭とは無関係の人の存在意義とでは、だいぶ定義が異なっているような気がするのです。好印象を抱いている人への好感の理由が、実は自分への経済メリットでしかなかった…突き詰めて考えれば残念でもそんな事だってあるでしょう。

 

経済観念から逃れられない考えで行くと「報酬をもらって当然の行為をこっそり無償で行っている」のなら価値の高い行為であり「誰にでもできることをしているだけなのに金銭報酬を得ている」のは悪く言われることがないとしてもヤレヤレな行為なわけです。そのどちらかに当てはまる行為を自分がしている事実で自分の価値を決めている側面は誰にでもあるでしょう。

 

では経済価値とは無関係な人間の価値とは何でしょう?

 

「人間として存在するだけで充分な価値がある」権利を主張する言葉はあったにせよ、今の日本社会でそのように考える人は少ないでしょう。そこで「価値のある何かをしなくてはならない…」思春期頃にはそのように考える人が多いのではないでしょうか。

 

その頃は既に経済価値観に染まっていますから「学生でなくなったら年収○○以上」とか「結婚するなら資産家の人と」などと普通に考えるようになっています。人の価値が経済価値とリンクしていて当然なわけです。

 

改めて考えると凄いことなのですが、人間の存在価値を経済価値と切り離して考えることが原則ない…そんな世の中に皆さんが普通に暮らしているということです。

 

「親なり会社なりからもらっているカネ、何らかの手法で稼いでいるカネがその人間の価値である」という思想、けっこうイジョウだと思いませんか?

 

カネやモノの所持や所得とは無関係な人間の存在意義を堂々と語り合える、そんなセイジョウな世の中で暮らして行きたい。私は常にそう考えています。

2018年04月30日

上限のない知性

「人間がどれくらいの次元変化を認識できているのか?についての確認のとりようがない」という問題、皆さんもぶち当たっているはずなんです。

 

朝ベッドで目覚めた際、会社に出勤しようと急いで髪や髭や服装を整えているうちに毎日の習慣をこなしているだけの感覚が蘇り、1時間前の自分の五感がどうであったのかを突き詰めて考えることもなく、遅刻しないで無事に出勤することに意識を向けて毎日必須の異次元体験が例のごとく蔑にされている…だいたいそんな具合じゃないでしょうか?

 

睡眠中のアナタは毎日どこで何をしているのでしょう。アナタの肉体はベッドで横たわって呼吸を継続しながら心拍を繰り返していることでしょう。暑さ寒さをはじめとした寝苦しさがあれば意識が肉体に戻ってくることもあります。しかし毎晩アナタは原則肉体のあるその場所にはいないのです。

 

誰もが毎日異次元を往来しているのに、その事実を軽視しています。それは「ちょっと考えてみても答えが出そうにないから」といった理由からなのでしょうか。

 

誰もが平行した宇宙で生活しています。ところが多くの人は特定の会社があったり特定の家族がいたりする世界をメイン宇宙としていて、他の宇宙とは関与しないように努力しているように私には見えます。

 

その限定した世界観が死を怖れさせているのです。

 

複数、それこそ無限にある人生や宇宙観における自分の肉体死は特別に絶対視されることがありません。人生では唯一の世界観に逃げ込むことさえ止めれば、肉体死さえも大した問題ではなくなるのです。そしてそれでこそ知的生命体なのだと私は思うのです。

 

肉体死を無暗に怖れて生きているのは、知性とは無縁な獣の生き方なのだと思います。ですから私は人間に多くの宇宙を、無限の世界を知っていただきたいのです。そして肉体死を絶望視することのない、肉体死を回避するためだけではない、知的な人生というものを皆さんに送ってほしいのです。

 

私が開催しているイベントでは、参加者の皆さんが異次元の存在を肯定的になって帰られます。毎日睡眠をとっていることの意味を再認識しているのです。その感覚に慣れてくれば、複数の宇宙を同時認識して生きる知的生命体の醍醐味を味わえるときが遠からずやってくるのです。

 

人間のしくみは自ら探究しなければ得られないものでできています。それが、どこの書物にものっていない異次元の無限の知性なのだと思います。

2018年04月30日

理想的な人との出逢い

夫婦や恋人になる男女ばかりではありません。この世の中で何かを成し遂げようとしたなら、仕事でも趣味でも特定の誰かに期待したり依存したり邪魔に感じたりといった関係は生じてしまうものです。

 

人間一人きりで成し得ることは原則何もありません。天涯孤独な個人プレーだけを自負している人だとしても、その人物を陰で支えたり持ち上げたり引っ張り上げたりする誰かが存在しなければ、その人物の成し得る何かが世に出て行くことはないのです。

 

そこで重要なのが人間関係の構築です。「自分にぴったりの理想的な人物との出会いが人生成功の大きなカギを握っている」と考え、いつか訪れるその日を待ちわびながら準備に勤しんでいる人も若いうちは多いことでしょう。

 

しかし、自分にぴったりの誰かがあなたとの出逢いをたまたま待っている確率は、いかほどでしょうか? そもそもそのような人物はこの世に存在するのでしょうか?

 

理想的な相手とは、自ら築く人間関係のことであると私は考えています。それは「自分にとって理想的な相手が現れる」のではなくて「相手にとって理想的な自分にどれだけなれるのか」なのです。

 

誰を相手にしていても、自分と似ている部分と異なる部分があることでしょう。その相違部分を理由に「だからアタナとは合わない」と思ってしまうかどうかです。

 

互いが量産マシンでないかぎり何から何までが同じということはあり得ないのですし、その相違を楽しみに感じるのか不快に感じるのかの問題なのだと思います。

「考えや価値観が似ているそっくりな人とこそ一緒に過ごすべきだ」という幻想を抱いているかぎり、仕事でも趣味でもしっくりくる人間関係はずっと構築されないでしょう。

 

気候天候から人間関係まで、快適に思える条件が自分にあてがわれる可能性は誰にとっても常に低めです。でもそれがこの世のゲームなのです。「条件が不利だから遠慮願いたい」と億劫に感じるのか「そこまで難しい条件ならばクリアし甲斐があるじゃないか」と活気付くのか…

 

後者が常にパートナーに恵まれているように見える、というだけのことだとセイジョウ石井は考えています。そしてそのような人柄の相手に対してはついつい貢献したりサポートしたり、尽くす傾向が皆さんにあるのではないでしょうか。

 

出逢うことが叶えば自分の本領が発揮できる…そんな誰かを待ち続けている言い訳だらけの人生は、はっきり言って単なるイジョウな妄想癖だと思います!笑

2018年04月27日

イベントのご報告

4/25と26、二日間連続で「非物質の自己に気付くワークショップ」を開催し、参加者の皆さんにご満足頂いて終了できました。ありがとうございます。

 

人生のあらゆる悩みや苦しみは「鏡に映る物質の肉体が自分の全てである」という思い込みや勘違いに起因しているため、非物質である自分の本質に触れることで人生のテーマが変わって行くのです。「参加者全員にそのことを充分認識してもらえた」という意味です。

 

いまだに肉体容姿にこだわって整形やファッションに夢中になっている人や、どれだけのカネを得ることができるのか?だけを重要テーマとして人生を送っている人達も存在します。いずれにしても「物質として入手可能な何かが自分の人生を豊かにするわけではない」ということを学ぶ時期が、誰にでも訪れるのです。

 

つまるところ「いかに生きるのか?」…誰にしてみても人生、この一言に尽きるわけですね。

 

今回初めて導入を試みたシャーマンドラムの鼓動が、皆さんを効果的に異次元へと誘うことを確証できたので、次回も積極的に導入してみようと思います。

 

日常的に異次元に出入りしている自分という存在を認識できたなら、固有名詞で呼ばれている肉体に付随する自分のほんの一部を絶対視することはなくなります。小さな自己認識のままで悩み苦しんでいる暇はなくなるのです。

 

そんなきっかけ作りを一緒にしてみませんか?

次回日程はまだ確定していませんが、お気軽にお問い合せください。

2018年04月15日

期限の自主設定

社会人でしたら「自分の与える印象次第で、社の売り上げや自分の報酬が左右される」…それは仕方ないとしても、まだそんな状況でもない学生でさえ、周りの皆や親にまで好印象を与えるよう努めている人が多い、それが今の世の中です。

 

それは、逆に捉えるなら「一般的に深い関係だと自分では思っていても、長年どっぷりかかわってみなければ相手の人柄云々は語りようがない」ということです。

 

それでも原則はあります。「人間(自分)は、いわゆる悪い事、ずるい事、ひどい事をしてしまいがちだ」と考える人は、自分が「いい人だ」と思われることに比重を置いて暮らしています。つまり「素の自分では人に嫌われてしまう」と考えているのです。

ですから、凶悪事件が起きて周辺住民にインタビューすると「きちんと挨拶もできて普通の印象だった」みたいな声が決まって上がるのです。

 

自分にそのような罪悪感というかコンプレックスがない人ほど、自分に対する他人の評価や印象を気にも留めないで、やりたい事に熱中したりします。

すると「失礼なことでも平気で言う」「損な性格をしている」などと陰で囁かれたりするのです。でも実際は普段どんな人が相手でも、愛情いっぱいで接していたりするのです。

 

上述はもちろん極端な例でして、「人柄がよさそうな相手には気をつけろ!」とか「無愛想なら確実に人柄がよい」と言いたいわけではありません(笑)。何にだって例外はあります。

 

では、セイジョウ石井は何が言いたいのか?

それは「重要な物事とは気長に接する心構えが大切だ」ということです。

私が感じるのは、現代の皆さんは何かとイジョウに結論を急いでいるのです。

 

「諦め」「失敗」「未達」「挫折」等で表される結果は、全てが期限設定の問題であると思うのです。淡々とコツコツ重ねれば数十年で達成できることでも、途中で期限をきめて切れば全てが失敗という扱いとなります。

 

勉強でもスポーツでも金儲けでも、競うことが目的のゲームなら時間を設定しなければゲームにはなりません。それで言えば人生そのものだって、肉体だけで考えれば「死」を迎えるまでの究極の時間設定ゲームでしょう。

 

「人は非物質だから肉体死は実は大した問題ではない」という趣旨をお伝えしたくてあれこれ書いている一連のここのお知らせですが、仮に「肉体死が全ての終わりである」と定義している人からしてみても、肉体人生は平均で80年以上あるのです。

その間に何を成し遂げたいのかは人それぞれですし、人生の時期によって目指す方向があれこれ変わって行くのも、これまた万人共通でしょう。

しかし人生の本質的な事で「数年以内に結果を出す必要がある」なんて事はおそらく滅多にないし、それは「急がなければならない」という環境からの刷り込みによる勝手な思い込みなのであって、実は大したことではないテーマだ、という場合がほとんどなのだと私は考えます。

 

誰にしてみても周りからの影響でそう考えるようになったのでしょうが、結論は本人が期限設定を決めているのです。何をしても多くは失敗に終わるような設定をしているというわけです。

 

実は、「焦り」が本領発揮の大きな阻害要因となります。「常に当たり前にしていることが、焦った途端に上手くできなくなった」…そんな経験に皆さんも覚えがありませんか?

 

一生焦っていては、どれもこれも本領発揮できないまま肉体人生の幕を閉じることとなります。そして皮肉にも、そうなる見込みが濃厚と判断したある時期から、今度は焦って肉体死に向かう人が多いのです。

それが自殺という形を採ることは少なく、病死がほとんどです。「どうせもう自分なんか生きていたって…」そのような想いが病を創出して、物質実現化しているのです。

 

ですから私セイジョウ石井は「もっと大きく広い視野で人生を捉えましょう」と強く提唱しているのです。

2018年04月12日

ヒマが怖い理由

常日頃から「忙しい、忙しい」と言っていて、それでいてせっかく予定が空いている日があると、それだけで不安になって何でもいいから予定を入れてしまう人、けっこういらっしゃるみたいですね。

予定に穴が開くことの、何がいったい不安なのでしょう。

それは自分自身と対峙することが怖いのです。つまり人生について考えることから逃げているのです。

 

予定に追われて忙殺されていれば、目の前のスケジュールをこなすことだけで日々が過ぎて行きます。そして結果的に、頭も身体も自由がきかなくなる肉体死を迎える間際になって、はじめてあれこれまとめて直面させられることとなるのです。

 

しかし、そもそもそのようなタイプの人はずっと「死」をタブー視しているので、健康な間はそんなこと考えたくもないし気付きたくもないのです。

 

セイジョウ石井は、常に肉体死を怖れている人に対して「人生では常に病や死を想定して生きろ!」と言いたいわけではありません。私は保険会社や葬儀会社や医者や銀行や会計事務所のマワシモノではありませんから(笑)。

 

「肉体死とはどういうことなのか」を全く知らないまま無闇に死を避けていること自体がイジョウで、そんな態度こそが「死」に対する恐怖を自ら増幅させているのですよ! ということを述べているのです。

 

皆さん小さい頃にお化け屋敷に入ったことがおそらくあるでしょう。明るい会場で準備をしている様子を見ていたなら、多くの場合は粗末な材料で作ったセットの中で、オッサンがお化けのフリをして飛びかかる練習をしている…だいたいそんなマヌケなものです。

 

それが「真っ暗で、どこに何があって、いつ飛び出してくるのかもわからない!」という理由で、絶叫したり、腰を抜かしたり、入口に入ることすらできない人が出てくるのです。

 

ですから私には、肉体死を必要以上に怖れている人たちが「刺激的なアトラクションとして人生をスリル満点に楽しみたい人々」にも映るため、「肉体死を怖れることは、こんなにマヌケなことなんですよぉ」なんて具合に勝手に種明かしをして、その人の楽しみを奪ってしまうのもいかがなものか?

…そんな葛藤も実は常にあるのです(笑)。

2018年04月08日

記憶のありか

今日、1歳半の息子を連れて妻と近所の公園に行き、子供用電動(バッテリー)列車に乗りました。ミニ車両なので扉がなくて跨いで車両に乗り込む他ないため、今の私には文字通りハードルが高く(笑)今まで見送っていたのですが、体調も陽気もよい本日、初めてチャレンジしたのです。

 

息子の横で一緒に揺られていると、私が1~2歳頃の、記憶にないはずのビジョンがあれこれ蘇ってきました。

 

既に他界している私の父は、自身が末っ子として生まれた直後に母親を亡くしており、5人いた兄も皆腹違いで冷遇されていたが唯一、歳の離れた姉が母代りとなって育てられたため「子供(私)が生まれたことを大変喜んでいた」と、同じく他界している母から、私が若い頃に聞かされたことがありました。

 

そんなことを思い巡らせていると、1~2歳の自分が父の横で遊園地の乗り物に乗って騒いでいる場面がフラッシュバックしたのです。

 

「記憶とは脳の機能である」となっている現代で主流の考え方は、人間をまさに機械として見ているからそのような発想になるのです。だとしたら、PCのハードディスクやCPUがどうのこうの… 機械の性能ばかりがフォーカスされるのです。

 

確かに従来の受験などで必要とされる暗記力は左脳スペックに大きく依存しています。ところが動画や音楽など情報量が多い場合、異次元に存在しているデータベースに右脳でアクセスするのが人間本来のやり方なのです。

 

今では一部学習塾でも取り入れられているくらいの右脳活用法ですが、対象は児童ですし、相変わらず受験のためだけにそれが活かされているのです。

 

私が毎回イベントで皆さんに体験してもらうのが、実は受験のためではない大人対象の右脳開発なのです。異次元の自分自身へのアクセス方法のコツを解説しているのです。

 

異次元の非物質界は「空間」ですらありません。そこに長短や大小の概念はないのです。

 

そして更には「時間」の概念もありません。この物質世界では数千年前の出来事や数十年後の事でも、今として認識されます。

 

ですから「いつどこでの体験なのかもわからない、たった今さっきの経験が、実は過去や未来の自分であった」ということが普通に起こるのです。

2018年04月06日

まずは視野を拡げましょう

子供は何事にも没頭します。その反面すぐに興味対象が移ります。

大人だって同様に常に今を生きるのが自然なのです。

大人になると多くの人は労働をします。仮に興味がなかろうがやりたくなかろうが、継続を求められるのが労働というものです。

利潤追求だけが目的の組織からしてみたら「この時点ではまだ機械じゃ間に合わない」「機械を購入するよりも人件費の方が安くあがる」と判断した上で、その人材のスペックを見極めて採用しているのです。

「興味がなくなった」「他の事をすることにした」等の理由で辞職されては「無理してでも高額マシンにしておけばよかった」となるわけです… マシンならばしばらくは修理交換保証がありますから(笑)。

こんな具合で、実質はマシンとしての適性と耐性をチェックするのが受験システムです。つまり、企業や役所は人間らしくなくてももっぱらオーダーに忠実な人材を求めているのです。

だから不祥事とされるような物事が発覚したときに、その人間性を問う事は順序が逆でナンセンス。人間らしさの多くを欠落させることに成功したからこそそのポジションに付けた人間なのです。

そのことに気付かない人が世の中にいることが私には驚きです。

皆さん一人ひとりが意識を変えることでしか、社会システムを変える方法はありません。

システム上層部に乗っかっている誰かにそれを期待すること自体がかなりの矛盾です。

まずは視野を拡げましょう。

2018年04月05日

チャネリング

今日はセイジョウ石井の「チャネリング」についての見解を述べます。

 

今となっては、世に出回っている「チャネリング情報」は実に膨大な量です。その質もピンキリでジャンルも多岐にわたります。

テレビが希少な時代に街頭で流れる番組を群がって見ていた人々は、その内容を吟味したり真偽をはかったりはしなかったでしょう。ただ単に見て驚いて喜んで楽しんでいたのだと思います。

 

これをチャネリングに喩えると、チャネラーが希少な時代は、もの珍しさだけでもその現象に飛び付く人がいるということです。日本では昔から東北で「イタコ」沖縄で「ユタ」、広くは巫女と呼ばれるような人々のことですね。

 

しかしテクノロジーの進化で受信の精度は上がり、発信局も増え、ケーブルや衛星放送においては「アニメ専門」「時代劇専門」「エロ専門」「ギャンブル専門」など、まさに呆れるチャンネル数であり、それもネットPCだけじゃなく、移動中にでもスマホで皆が何でも選べる今となっては、むしろシャットアウトの術の方が大切なくらいです。

 

その内容について一律に優劣を語るのは、もはや古い人だけ。一見同じように見える人同士でも趣味嗜好では細かく分類されてしまっています。そしてそこに関してはチャネリングも「ご多分に漏れず」です。

 

白い羽の天使系の名や宇宙人の名を語る者には根強い人気傾向があるため、黒いグループも白っぽい名を語って物質世界を操ろうと、激しい顧客争奪戦となっています(笑)。

 

チャネラーも読者も随分と翻弄されているようですが、それも物質世界で肉体を持って基本は盲目に生きているゲームの醍醐味ですから、私はどうこうしようとは少しも思いません。

 

雨後の竹の子のごとく出てくるチャネリング情報のなかでも、バシャールのそれはなぜ未だに皆にシックリくるのか?

1980代後半からあれこれと読み比べて(その頃は書籍しかありません)石井が達した結論があって、今でもそれをモットーとしています。

 

それは「ほとんどのチャネリングは非物質存在に肉体を明け渡しているだけの憑依現象だ」ということです。

 

バシャールのチャネリングをしているダリルアンカの様子だって一見は同じようですが、割と早期から「私は未来の自分から過去の自分に情報提供している」旨を触れており、直線時間軸の縛りから解放された視点でみれば、単に「ある人物の発信する著作」でしかないのです。

 

そこが、巷に溢れている過去の著名人の名を語る憑依現象とは一線を画すところなのです。

 

私自身は、非物質の何者かに憑依されないよう常に細心の注意を払って肉体人生を送っています。ですから発信する文章でもイベントでも、読んだり聞いたりする人が結果的に他者に憑依されることのないよう対策を立てています。

 

ですからセイジョウ石井のイベントでも毎回、他者ではなくて「非物質の自分とのアクセス」を強調している次第です。俗に言われるおどろおどろしい霊現象とは無縁ですのでご安心ください。むしろ敏感な人でも憑依されないようコントロールできることを目指しているのです。

 

私が監修を手掛けて一昨年ヒカルランドから出版された「真名圭史著・非物質ガイドとの探索」シリーズ三部作にも、7人の非物質キャラクターが登場しますが、それらは全員、著者「真名圭史」氏のガイド(潜在意識)なのです。

著者であるペンネーム「真名圭史(まるの日圭)」氏のチャネリングスタイルに惚れ込んだ私が、自ら申し出て動いて出版を実現させてもらった本なのです。

 

チャネリング情報自体は非物質ですから「誰の著作なのか」は総じてそれほど重要ではないですが(ただ、いずれにしてもチャネラーの器以上の情報は降ろしようがないわけですから、チャネラーの教養や徳などの人格はチェック必須です)物質世界と非物質世界の関わりや仕組みについて、日常生活に根差した解説を試みた三部作です。

アマゾンキンドル読み放題にも含まれているようですから、電子版含めて読了された方とでしたら、もっと突っ込んだ話題にも入れます。

 

もし読まれたのでしたら遠慮なく是非ともコメントをください。できる範囲でお答えいたします。もちろんイベントでは更にじっくり解説しています。

 

2018年04月02日

新しい生活

今日から新生活が始まった方は多いでしょう。私の一歳半の息子も今日、保育園に初登園して大はしゃぎ、帰ってきてからもご機嫌です。

近況、進学・進級・就職・昇進・降格・配属移動・卒業・退社などが自分には何もなかったとしても、それらに関わる人が周りに一人もいないということはないわけです。視野を広げてみれば、自分の過去を思い出したり未来を想像したりして、やはり何らかの節目にはなっているのです。

息子の生まれた日に脳幹出血で倒れて呼吸以外は何もできなくなったその時の私は、まさに「死に損ない」の状態でした。

意識が戻ってもほとんど動けずベッドで横たわって全身がひたすら痛くて辛いだけの朦朧とした頭で「どうやらまだしばらくこんな肉体で生き続けることになってしまうらしい…」くらいの思いがすぐに湧きました。

 

しかし「どうせ生きるのなら」と覚悟を決め、かつてに近い身体機能を目指してリハビリに明け暮れて、常時襲いかかる全身の痺れや痛みに耐えてきました。

 

常に頭から離れない自殺願望にもめげず(身体が動かなければ自殺すらできない!爆)、その辛さに耐える最大のモチベーションが、今回の私の場合は倒れた直後に生まれてきた息子でした。

「息子があれこれ視覚認識できるようになるまでに、このデタラメ万華鏡のような視界を少しでもマシにしよう!」

「息子がしゃべり始める頃までに、きちんと誰にでも聞き取れるような発音をして会話できるようにしよう!」

「息子が歩けるようになるまでに、まず私自身がちょっとした手荷物を持ってでも歩けるようになろう!」

 

車椅子から立てるようになってから、まずは杖代わりにベビーカーを押して私がヨチヨチ歩行訓練を始めました。目が殆ど見えないので妻も必ず同伴です。

 

その他諸々、全てにおいて具体的な肉体機能再生の設定を自分でして、着々とクリアしてここまできたのです。

 

しかしその進捗にも限界がきはじめていました。肉体機能改善の加速度が落ちてきた私に反して息子が急に元気に走りだすようになってしまったのです。


肩車はもちろんのこと、子供を抱えて歩くことがまだ私にはできず、咄嗟に身体を動かせないし早歩きさえできない私と息子が二人きりでは危険が多すぎます。ここ半年はそれなりに私がこなしてきた、妻が不在時のベビーシッターも役不足になりつつあったのです(笑)。

 

ギリギリなタイミングでの待機児童からの脱却!

我ながらよくもここまで大きな事故なくやってきたものです。

 

子供を週に5日も預けることができるこれからは、時間確保が容易になる私自身にとっても大変助かります。独自のリハビリ内容も時間をかけてグレードアップできますし、あまり身体を使わない範囲でなら、仕事らしい事に費やせる時間も格段に増やせます。子供の保育園入園が、実際私個人にとっても大きな喜びとなっているのです。

 

どんなに羨ましがられているような人でも、とても他言できない苦しみを沢山抱えているものです。
逆にどんなに悲劇的に見える中からでも、いやむしろそれだからこそ、希望や楽しみや喜びをふんだんに感じながら人生を送ることができるのです。

私は気休めで言っているのではありません。自分の体験から実際そうであったことを淡々と語っているのです。

  セイジョウ石井

2018年03月31日

桜が満開だと思っていたら、既にだいぶ散って緑の葉が出てきている枝も増えています。

 

「桜の咲くことが、どうしてそんなに飲み食いしてまで騒ぐほどのことなのだろう?」

 

長年私は不思議に思っていました。だって自然界には他にも美しいものがいくらでもあるというのに、桜だけが特別視されているのが不思議だったのです。

 

でも近年はわかるような気がします。(でも人が集まるような花見には相変わらず参加しませんが…笑)

 

何がわかったのかと言うと、桜はまるで人間の生のように、その儚さにおいて圧倒的なのです。

 

冬の間の桜の木はとても寂しくて、目に留めている人はほぼいません。まるで長年ぱっとしなくて脚光を浴びることのない人生のように… それが一気に人目を惹く景観を作り出すのですから。

 

しかもその期間は短くて、あっという間に散って地味な木に戻りますから、タイミングが重要なわけです。

 

当たり前な自然現象だとわかっていながら、皆さんその貴重さを堪能しているのですね。

 

一歳半の息子の歩行練習と私のリハビリを兼ねて桜に関係なく連日公園に足を運ぶのですが、満開の桜を見ても「そんなの当たり前のことだ」と言わんばかりに興味を示さない息子が、落ちてくる花びらにはとても強く反応するのです。

 

動いているからという理由ではありません、動くものは他にも色々ありますから。

 

空を指差して次々と散ってくる花びらを指摘しては、地に着いた花びらに直接触れて何かを話しかけているのです。

 

これは、花びらが非物質エネルギーを発散している証拠です。純粋な子供にはわかるのです。

 

それを見て、私は「まさに肉体人生と同じだ!」と思ったのです。

 

見た目はどうであろうとも、桜の木は年間を通じて桜の木として地道に生存しているのです。そして数日だけ一見華やかな姿になります。しかし地味で目立たない長い時期に耐えるからこそ花を咲かせることができるのです。

 

すぐに散ってしまうのも悲しいことでもなんでもありません。「花は桜でも木は桜じゃない」と思い込んでるから切なくなるのです。

 

人間の肉体死も同じです。誰もが順番に肉体死を迎えます。天変地異や疫病や戦争で一気にほとんどが散ってしまうことだってあります。

 

「どうせ散ってしまうのだから根元から木をなぎ倒しても同じこと」というのはナンセンスな話です。肉体死を無闇に恐れたり、死をタブー視しているというのは、そんなナンセンスな話なのです。それでは綺麗な花を咲かせるはずもないのです。

 

2018年03月27日

人の評価

前回、「人に評価されたいのも自由」と触れました。そこで今回は「人の評価」そのものについての話題です。

あまり深く考えないで日常的に「高い評価を得ている」と聞くと、よい印象を持つ人が多いようです。なぜそのようになるのでしょう? 

誰もが、経済価値最優先の社会に染まってしまうと人間のことも経済的価値でしか見なくなり、自分自身も経済的価値を高めることを目標として生きるからです。だから年収○○円とかが人間の価値だと本気で思っている人もいるのです。

ところがそこには大きな矛盾があります。経営側からしたら低コストで生産性の高い従業員(ロボット)が高評価となるに決まっているのですから、高い評価を得たければ安月給で馬車馬の如く働けばよいだけになってしまいます。それは自分自身を安売りして消耗品のように疲弊するだけなの行為…なのにもかかわらずです。

逆に、ある人が生み出す何かが万人から高い評価を得たのなら、それを作り出した人が低評価であり続けることはないでしょう。しかし企業からしてみたら仮に生産性が周りの100倍の従業員がいたとしても、コストも100倍レベルでは当然低評価!笑

結論は、自分の経済的価値を高める方法は直接的に人の評価を求めないことなのです。そんな事にも気付かないというのは、幼少期から刷り込まれた競って評価される観念が邪魔をしているだけなのです。

多くの親にとって子供が有名大学や有名企業に所属することは気持ちの良いことですからたくさん投資します。(それももはや投機となる時代ですが…笑)
塾や学校はたくさん儲けようと、有名校に合格する生徒を一人でも多く輩出することに躍起です。

ひきこもりとは、子供たち本人が金儲けと見栄の道具にされているくだらなさに気付いて、ささやかな反逆が始まっている証なのです。カネ最優先のイジョウな大人社会が変わらなければ、次世代は育ちようがありませんね。

 セイジョウ石井

2018年03月25日

胸にしまう

学校では、先生や親からの評価を常に気にして生活するようシステム化されています。その延長で、社会人になってからも職場の上司などはもちろん、それら染みついた習慣からなのか利害関係者以外の目まで過剰に気にして暮らしている人々が多いようですね。

評価されたいのも、人目を気にしてコソコソするのも、誰からも良く見られたいと考えるのも、その人の自由ですから別段問題はありません。しかし、常に遠慮することなく堂々と発言して行動する人に対する自分の態度には、多くの皆さんが難しさを感じているように思います。(無意識に反抗することも含む)

学校でも職場でも、組織に属しているからには周りへの配慮がない自分勝手な行動を慎むべきなのは当然の事としてです。

よくある例では、常々自分が言いたくても我慢していたことを誰かが言った場合に
1.「よくぞ言ってくれた!自分も日頃からそう思っていたんだ」
2.「それは言ってはならない!誰もが言いたいのを我慢しているのだから」
3.「へぇ、そんなこと言ってたんだ」とか、まるで関心のない人(笑)、
4.「胸の内にしまっておけばよいことなのに…バカだな~」(多いタイプかと思われます)

他人がすることへの自分の反応はかなりの自由裁量があります。

まさに学校教育の弊害でしょうが、選択の余地がない命令や二択三択なら得意でも「どうしようと全くのあなたの自由です」という状態が最も困る!という人が多いのです。

だからこそ「ひとまずしまっておく」ということになって、そればかりが長年あれこれ続き、物質ではないため気付きにくいのですが心の中はガラクタだらけになってしまうのです。

どこに何が入っているのかもわからない大量な収納ケースを大事に内に溜め込んだまま人生を送っている…いつの間にかそうなっているのです。そして中身が腐って内臓疾患等で肉体を脱ぎ捨ててはじめて身軽になろうとするのです。

健全に肉体人生を送るのなら「しまい込まないこと」が鍵です。子供のように一喜一憂していればその場その場で処理して終りです。後悔や恨みや復讐など、後ろ向きなエネルギーとは無縁になればよいのです。

セイジョウ石井は、子供のようにすぐに泣き喚くことを勧めているわけでは決してありません。感動や悦びなら、しまっておくことも楽しみだったり生活の知恵と呼べるものでしょうが、日々確実に溜まる汚れを長年大事に保管しておくのはイジョウだと言っているのです。

対処は簡単。定期的に洗い流せばよいだけなのです。「人との楽しい時間(楽しいフリではありません)が日常的に過ごせている」「頻繁ではないが信頼できる相談相手がいる」といったことが大事ですが、独りでも夢中になって没頭できる何かがあるのならばそれで洗浄できます。

そして行き着くのが「瞑想」的な事なのです。非物質存在の自由度を知れば物質世界に囚われて悩み苦しんでいることがバカらしくなります…あなたも確実に非物質の存在なのですから!

人が非物質の存在であること、そのことを「肉体死を迎えてからでなければ気付いてはいけない」というルールはないのです。

 

2018年03月24日

植物という存在

私が考える地球のメイン物質生命体は植物です。

水の星ですからもちろん水中にも繁殖し、巧みな方法で陸上にも潤いを継続的に与え、あらゆる陸上生物を養っています。決して人間のような暴力を振るうことのない、物質を伴う非物質知的生命体です。

物質の栄養源としてだけではなく、「波動」である非物質知性(情報)をあらゆる生物に提供し続けている植物の実体については、物質主義で総じて低知性な物質地球人の中でも気付き始めている人が増えています。(現代人的な表現ですと「薬品」ということです)

大型植物の大きさや寿命だけを考えても、その知性は人間などと比べるまでもないことですが、人間でも非物質的な側面が退化していない方ですと、時間軸縛りの範囲内でも「あら、久しぶり。前に会ったのは2千年前だったかしら?」というような植物との会話が成立するのです。

早送り映像でもわかる通り、植物だってちゃんと動きます。ただし生物全般的にそうですが、知的であるほど物質の性質が希薄となり、同じ物質でも運動能力を発達させなくなるため、身体の動きは少なく遅くなります。必要なら消滅したり瞬間移動すれば良いだけですから!笑

ただ残念なのは、ほぼ獣の資質だけで生きている先進国を中心とした今の人類は、おとなしくて無抵抗の地球のメイン生物である植物を大量殺戮し続けていることです。皆さん知っての通り、地上は本来のフサフサからしたらほぼハゲ、海中汚染も凄まじいレベルです。

「非物質が本質なのだから物質として星が丸ごと全滅したとしても些細な問題だ」と言ってしまえばそれまで(笑)ですが、だからといって私が「なるようになれ~」とも思えないのには理由があります。

それは「非物質の存在が物質に閉じ込められていると感じながらも、どれだけ非物質の性質を体現できるのか」というゲームができなくなってしまうのが問題だと考えるからです。

例えると「音楽(霊魂)そのものが好きなんだから会場(肉体)なんてあろうがなかろうか関係ない」とか言ってみても、世界中の演奏ホールやライブハウスがなくなってしまったら音楽という娯楽なり癒しなり芸事自体が消滅してしまうと思うのです。

わざわざこんな説明をしなくても、物質肉体を維持しようとするのはほとんどの人にとって当然のこと。だったら地球生態系の基礎である物質植物を地球から追いやらないことです。そんなこともわからない低知性は「どうせ数十年もしたら自分は死んで何もかもが無くなるのだから」というイジョウな死生観が全ての原因なのです。

  セイジョウ石井

2018年03月22日

生態系

「百獣の王であるライオンだって簡単に殺すことができる人間は凄い、だから生物界の頂点に君臨している」…小学生の頃に地球の生態系について教わった内容はだいたいそんなものだったと思います。

何より面白いことは「いかなる生物も物質としての生存だけを目的にエサを求めて生きている」というのが前提となっていることです。故に殺傷能力に長けている生物が強く、その最たる存在が人間である、だから人類がもっとも優秀で特別な種である、というわけです。

しかし子供なりに生物飼育や自然観察をしていると、中学くらいには「実はその逆なんじゃないか?」という思いが募るのです。

その内容は「プランクトンから始まってあらゆる生物は他の種を生かすエサとして自身を提供することを目的に生存しているようなものだ。しかもその先エサとして枯渇してしまわぬよう、どの生物も種の保存に工夫を凝らしながら!」ということ。

では、猛獣の餌食になるとかの特殊事例を除けば、異種はもちろん同種内でさえもひたすら殺して奪うことだけを繰り返している人間という種の存在理由はどこにあるのだろう…?

今しているように他の種を凄い勢いで絶滅させ、しまいには地球と人類そのものを消滅させることが目的で存在している!?

私の結論を簡単に言うなら「その答え探しを続けているうちに肉体死を迎える不思議な生物」です(笑)。

真面目な話、生態系や食物連鎖などの観点から確実なのは「物質的な存在理由が人間にはない」ということです。裏を返せば人間は非物質的に存在する事で意味を成す生物なのです!

ということで、非物質世界の探索に明け暮れた私の思春期から今に至るまでの探求成果を、近年コツコツ発表しはじめたところです。肉体死を迎えてからそれをやっても、近況世に溢れていて多くの人にとっては謎が謎を呼ぶだけとなりがちな「チャネリング」になってしまいますからね。

人を獣と同じ物質だと捉えているのが多数派、というイジョウな社会で「人は非物質の知的生命体です」と繰り返すこととなったセイジョウ石井の思想的背景でした!笑

2018年03月20日

星の運行

各種の惑星や恒星や衛星など、常に星の配置を気に掛けては体調や気分のすぐれない理由や日常的アンラッキーに納得している方々が、二十世紀末から急増しているように思います。それこそ地球人類の滅亡から個人的肉体部位の痛みや重さなど、その予告や現状説明を試みるサイトは概ね大繁盛?です。(笑)

アストロジーは数千年前から盛んでしたし、その数学的緻密さと絶妙さ、古代遺跡の物的証拠から検証される天体観測技術が「人類の星への興味は大昔からのものであった」ことを示唆しており、そのロマンに私自身も若い一頃は随分と魅了されたものです。

しかし近年は「人や宇宙とは本来非物質の知性である」というスタンスを取っていることもあり、私は「人生と物質的な星の運行とはあまり関係がない」という姿勢です。

厳密には肉眼の瞼を閉じて異次元を旅していても、多くの人にはよく色彩や図形や星が見られることから「星の軌道や星そのものが非物質である」という観点で今でも興味津々なのですが、セイジョウ石井としては「望遠鏡観測から予想される物質情報に踊らされているようでは知的生命体とは言えない」との思いが強くあり、敢えてそんな捉え方をしているのです。

詳しく説明しましょう。星占い好きな方、あまり気を悪くなさらないでください。(笑)

まず「何月何日、一生に一度きりの金運チャンスが訪れます」とか発信する人は原則いませんよね。なぜなら「全財産を宝くじに投入したのに結果破産だ!どうしてくれる!!」とかなって困るだけだからです(笑)。

でも「人間関係に亀裂が生じます」とか「思わぬ身体的不調に襲われるかもしれません」とか「不可抗力で経済ダメージをうけるかも?」などと発信していれば、「凄い!本当だった!」となります。だってそれが現代人の日常なのですから(笑)。

あとは、期待でも予測事態の阻止でも、エネルギーを過剰に向けるだけでスムーズに行くはずのものさえうまく行かなくなるのです。何をするにしてもリラックスが最重要です。リラックスを妨げるような情報の遮断が適切にできているのかどうか?です。

たかが予測とはいえ良からぬ事が起きそうな気持ちが少しでも入れば、人にはそれを物質世界に実現させる能力があります。

つまり理想的な事でも過剰エネルギーを注いでダメにしてしまい、避けたい事でも心配することで実現させてしまう…笑

それよりも、誰にも振り回されず自分のフィーリングを信じて常に今を感じて行動している人生の方が面白い、セイジョウ石井はそう考えるのです。

そうすれば誰かの発信する情報を鵜呑みにして右往左往しなくても、星さんからの警告メッセージだってちゃんと自分自身で受け取れるようになるのです。実際にそのようにして私は発信をしています。

小脳損傷で一度は起き上がりさえもできなくなった身体から私が歩く練習をしていた経過を見ていた医師が「車椅子なしではとても無理。建物から外には出るな」と言っている段階で、私は強硬退院しました。そりゃ病院からしてみたら、少しはよくなるはずの患者の中から死者を出したくはないでしょうから。

退院してからだって、私は決して無理をしていません。生れたばかりの赤ちゃんを踏んだり上に倒れたりしたくはないですから(笑)。ただ、この今の肉体ではどこまでが無理で、いつ何をどこまでできるようになるのかは、非物質の私だけが知っていることなのです。

いくら医師が「何千人も診てきてわかっていることだから」と言っても、私のスピリットを見ているわけではないのですからね。それは機械になら当てはまることですが、本質が非物質の人間には該当しません。人間の場合には何においても呆れるほどの個人差があって当然なのです。

ですからセイジョウ石井は皆さんにも「自分で自分の星読みをしてみること」をオススメします。すなわちそれがイベントで推奨している「瞑想」みたいなことです。反対に、周りの人にはできても自分にはできないことだって誰にでもあるのです。私の場合はそれが組織へのお勤めでした。どんなに頑張っても数年で壊れてしまうのです。

それこそ、皆がそれぞれ違う星のもとに生まれているのは事実です。生年月日だけでなく時空を越えたところでの話です。その肉体は、あなただけの星なのです。そこに優劣はありません。さて、あなたはどんな星でしょう?