お知らせ

お知らせ
2019年07月29日

あの世の実情

「人とは非物質の霊魂と物質肉体との複合体なので肉体死を怖れる必要はない」
私はそのような事を繰り返し説いています。私は実際にあの世を今生でも体験済みですので、そこを訂正したりする必要はないのですが、あの世にもあの世の事情があるのです。

 

この世で「死」や「あの世」の教育を一切受けずに他界する現代人の場合、肉体死を迎えてもやはりスムーズ移行できないので、あの世での迎え入れを促す担当者が存在します。この世に肉体で生きていながらも、あの世で彷徨っている霊をサポートする訓練をしている人も存在します。

 

それでも一挙に億単位の死人が出るとなると、どうしてもあの世の混乱を招いてしまうため、徐々にスライドさせるよう配慮がなされているのです。ですから皆がこの世に肉体で生きているうちに、まともな「死」や「非物質」の概念を浸透させることがとても重要なのです。

2019年07月28日

種の保存

昨夜はなぜか胸騒ぎがして眠くならず、3時頃までPCに向かっていました。「それでもそろそろ寝るとするか」と横になって程なくグラグラ揺れる感覚があって、後に物理的な揺れと体感がありました。揺れている時間は長かったようにも思いましたが、報道では大した規模ではなかったようですね。

 

地球も生きていますから、たまにはくしゃみや咳をします。特に近況は地上で星をムズムズさせる事柄が相次いでいますから…

 

昨夜のようにいつも屁やゲップ程度で済ませてくれれば助かるのですが、この地上の状況からして下痢や嘔吐だってあるのです。人間以外はそれを感じ取るのが普通ですが、人だけはそれを霊能力・予知能力などと呼んで特別な扱いをしている劣等種です。

 

生物として備わっていて当然のものが現在は人だけに備わっていないのです。非物質霊魂が物質肉体に宿ったことで、生物をはじめ宇宙も何もかもが物質でできているなどという、とんでもない勘違いをしている人が現代人の主流です。PCだけ立派なモノを作っていても、ソフトウェアという概念がないが故にソフトメーカーも製品もない・・・
PCがあっても何の意味があるのでしょう(笑)

 

あらゆる種から奪って絶滅させることだけが種として優れている証拠だと考え、それを実践してきた人という種。こんなマヌケな種を、よくも地球はここまで放置しながら養ってくれたものです。

 

だから、そろそろ人類も目覚めて「人という種を存続させてもよいかもしれない」という方向に持って行けるかどうかの正念場なのです。

2019年07月28日

非物質エネルギーの解明

人の場合なら霊魂という呼び名があるからまだよい。星にもその他生物にも植物や鉱物や工業製品にも非物質エネルギーとしての側面があり、それらを感じられる人は現代でも存在しています。しかしそれらには名称すらないというのが現地球文明の実情です。

 

かつての地球には各地でそのような意識の開けたいろんな部族が存在していましたが、現在の文明人と呼ばれる特別に愚かな種の手によってほぼ絶滅されてしまいました。そして日本人とは基本的にそれでも生き残った僅かな種なのです。欧米に感化された現在でも、日本人であれば欧米人には理解できない非物質エネルギーを感じ取る潜在能力が今でも温存されているはずです。

 

私は今回、敢えて日本という不慣れな地に肉体で生まれました。そのようなスピリットは私だけではありません。たとえ他国に異なる人種で生きていても吸い寄せられるように今の日本に集まってきている人たちまでいるのです。私も脳幹出血で死後世界を体験してまで、まだこの国に日本人として肉体を有しています。

 

この世での計画未遂のままであの世に還ることはできなかったのです。

この世でのプランが完遂して安心して帰還できますように!
(いつになることやら…笑)

2019年07月27日

物質だけでも非物質だけでも片手落ち

現文明の地球人は皆が物質や金銭の価値観に染まってしまっています。物質世界を解明することによって宇宙や命をも解明できると妄信しています。

 

科学という言葉は物質の探求という意味になっていて、究極のミクロが物質ではないということが判明してからのここ百年近くは思考停止状態です。だとすると、生命や宇宙は俗に言う宗教やオカルトでないと説明できないし、現地球は物質的側面しか信奉していない学者ばかりだから困ってしまったのです。

 

生命や物質や宇宙とは物質的側面と非物質的側面とを併せ持っています。人で言えば肉体も霊魂も両方あるのです。ほとんどの人がお盆で死者の霊をお迎えしたりお墓参りをしているのですし、その感覚は異常ではありません。むしろ「科学的」と称して物質の解明だけに明け暮れている学者の霊性の低さが、近年のこの星の文明を低レベルなものに留めてきたのです。

 

霊魂を信じる庶民の感覚の方が、宇宙や生命の真相を探求するのに相応しいのですね。物質を探求するだけの片手落ちの行為を「科学的」と称する時代はもう終わりにしなければなりません。
人でも宇宙でも、それらの非物質側面の究明が求められているのです。

2019年07月24日

敵は外にはいない

約3年前に脳幹出血で意識不明の重体となった私は、寝たきりで発声も唾の飲み込みもできず、眼も視えず全身も動かず心臓と肺だけ動いていて「このまま死亡しなければ一生植物状態か」と医師にも憶測されるところまで行ったのに、あの世を体験した後に意識が戻って身体も少しずつ動くようになってから約3年が経ちました。

 

歩くことを中心に、人としての身体機能を取り戻すために連日訓練を積んできました。約一年くらいで視力を取り戻したときの歓びは大きなものがあり、未だに空や雲を眺められるだけでも感激です。ただ、立ったまま見上げようと首を上げるだけで転倒しそうになるため、夜空を見上げることはまだ危険で躊躇しています。

 

半年前に仲介屋の担当者とヨレヨレ歩いて探して決めた妻のサロン兼私の事務所には、これまでバスと電車を乗り継いで行っていたのですが、今日初めて徒歩で往復できました。健康な人の足で片道30分くらいですが私にはその倍くらいかかります。それでも躓くこともベンチに座り込んで休むこともなく歩いて移動できたことは感慨深いものがあります。倒れる前ならば100m走で10秒切ったくらいの快挙です(笑)。

 

傍からしてみれば「たったそれだけのこと」であっても、基準は自分の中にしかないので達成感も喜びも伴うわけです。

皆さんにお伝えしたいことは、他人との比較で勝ち負けを競うことの虚しさです。何であってもクリアする基準は各々が決めることであって、他人のモノサシでは意味をなさないということ。

すべては自分との闘いなのです。

2019年07月22日

そんな社会の形成でも皆が実現させたのです

昨日投票所となっている小学校に行って手にした投票用紙の紙質に、私は恐ろしさを感じました。

 

改竄することが前提のあれ、もはや紙とは呼べない(笑)。事実上買収されている報道機関も含めてどれだけの不正が実践されているのかを憶測すると、もはやこの文明は末期症状。

 

真剣に考えて投票している人も少しはいるので、国民皆を「頭の弱い家畜」として当然のようにバカにしてもてあそぶ集団が国家を運営しているという状況が、今の厳然たる事実です。

 

ここまで闇を前面に打ち出して政を行ってきた地球の過去はありましたが、地球の自浄作用が併せてはたらいて、決まって人口が激減して家畜自体がいなくなってしまい文明の変革を余儀なくされるような天変地異等がこの次元で起きました。今回は人災かもしれません。そのことを懸念せざるを得ないような実情ですね。

 

未だに個人の利害だけから既存政党に投票している愚かな人が減っているとはいえ存在しているのも事実。ですから何があっても自業自得というわけです(笑)。

2019年07月18日

選挙の意義

世の中が妙に静まりかえっているような感じがします。

 

「投票に行こう」「○○を当選させよう」とかの情報が氾濫していて、きっと皆さんも思うところ色々あって様子見になっているのでしょうか。

 

確かに自分が当選したいが故に出来もしないことを熱く語っている人も毎回のごとくいるでしょう。だから余計に皆が困惑しているのだと思います。

 

今は文明の大転換期だと薄々感じている人が多いだけに、皆が慎重で疑心暗鬼になっているとも言えます。しかし誰が当選してもそれが変革のきっかけにはなるのです。これまでのような政治家では本当にマズイと皆さん危機感を持っていることでしょう。ではどうすればよいのでしょうか?

 

既得権益を保持しようと躍起になって嘘をついて裏工作している人を失墜させることが、有権者にできる最大のことです。敗戦後の日本はアメリカの事実上の植民地でしたから、アメリカの決定事項を遂行できる人だけが日本でも陽の目を浴びてこられました。もうそのアメリカも国際警察として振舞う余力がなくなって自国のことで手一杯。離れた島国を制御することにも興味がなくなってどうでもよくなっているからチャンスなのです。

 

政界に長いこと居座ってきた愚かな政党や個人を引きずり降ろすことは国民の投票でも可能です。その努力を無効にさせるはずの裏工作が効かないくらい国民の熱もあがっているように思われます。政治屋じゃなくてまともな政治家なんてもし誰がやっても大損でしょう。

「もっとまともな人が国を動かすべきだ」との皆さんの熱い想いが反映されますように。

2019年07月15日

劇的変化の時

近頃、睡眠中の夢が忙しいです。今朝、この世界では眠りすぎで顔がむくんでいたので思わず写真撮影してしまいました(笑)。

 

私だけではなくて今の地球人全般の傾向として起きている現象だと思うので記事にしてみました。つまり、これまでは割と強固であった異次元との境目が脆弱になって行き来がしやすくなっているのかと思われます。夢での登場人物も明らかに現代地球人ではない種が混ざっていました。

 

長かった鎖国が解かれた時代に外国人を見た日本人が「南蛮人」とか呼んで騒いでいたような事が間もなく起こるのかもしれませんが、しばらくすれば慣れて当たり前になるのでしょう。今の国家や政治や経済とかのくだらない仕組みも新たに構築せざるを得なくなるでしょう。「人」という種の低レベルな一部のみが分裂していがみ合って作ってきた今のくだらない地球文明の仕組みは、崩壊してしかるべきです。

 

新しい時代の自分のありかたを決める覚悟はできていますか?

誰かが決めたことに多くの人が従っていただけで済んでいた、人であっても家畜のような時代はもうすぐ終わりです。

人とは知的生命体です。家畜と違って人生とは自分で切り拓くのが本来なのです。

 

既存の法制度では、選んだはずの上に立つ誰かに期待していても失望が待っているだけです。

牧場管理者が誰であっても家畜は家畜なのです…毛を剃られたり乳を絞られたり労働に駆り出されたり食材になったり皮を剥いで利用するために家畜は存在しているのですから。

 

その仕組みに抜本的に着手する時期がついに訪れるのです。

2019年07月12日

ささやかでも諦めないで継続する

3年前に脳幹出血で倒れて意識不明の重体になって以来、私は全身の感覚がほぼ失われてしまいました。

 

リハビリ病院で立ったり歩いたりの大雑把な練習をしている間も、風呂は危険だから監視されていて頭を係員に洗ってもらっていました。天気シェーバーで髭は雑に剃っていましたが、刃物は危険で厳禁。爪切りなんてもっての他でした。

 

退院する頃には少しずつ全身の感覚も戻ってきていましたが、退院後もシャワーは倒れないように手すりにしがみ付きながら介護用椅子に座って済ましていたし、爪切りも肉を切ってしまわぬよう雑に切るのが精一杯でキレイに切れたためしがありませんでした。

 

手のリハビリで布袋の中に入っている積み木の形を当てる作業もしていたので、正に乳児に戻った感覚(笑)。以後も一生他人の世話を受けて生きて行くことは避けたかったので、ここ2年は移動中にも手の指を動かす訓練をしたりと工夫して自分一人でできる事は常にしてきました。そしてついに今日、キレイに手と足の爪を切ることができたのです。

 

処方された錠剤の薬も、自分では飛んでいったり落としたりで飲む分がなくなってしまうので誰かに袋詰めしてもらっていたのですが、今日トライしてみたら自分で子袋に小分けできました。一度はあそこまで失っていた指の感覚が少しずつ取り戻せているのです。手すりにつかまっていないと直立することも難しかったのですが、直立も数分ならできるようになりました。

 

どんなに絶望的なダメージを受けても諦めずに希望を持って取り組めば徐々にですが何とかできるようになるということ、身をもって経験しています。

2019年07月11日

死ぬことを問題視しない生き方

ここ数年の私は、3年前の脳幹出血以来いつ死んでも何の不思議もないボロボロの健康状態が続いているので、元々の感覚が経験上の裏打ちを得た心境です。

 

それは「肉体死を問題視しないことがいかに重要か」ということです。

 

現代人のほとんどが肉体死を必要以上に怖れています。それは即ち、赤子の誕生は喜ばしいことではなくて確実に問題が発生することを意味しています。老人になっても皆が死を避けようと努力していたのなら、少子高齢化はごく当然のように加速してしまいます。

 

「勝ち組・負け組」という言葉が一般的に使われていますが、生死を超越したマクロ視点では、
長生きしてしまったら負け組、早死にできれば勝ち組という枠にもなりかねませんね。
ただ自殺で早死にしても、それは「反則技を使った」と一般社会でも扱われるでしょう。

 

肉体死を問題視しなければ、おおよそ全てに何も問題などありません。永遠の寿命を有しているかのごとく錯覚しているから、人生が問題で溢れかえってしまうのです。

 

現代地球人ならば数十年以内にほぼ死にます。どんなに大問題であると認識していることでも、そう遠くはない時に問題ではなくなってしまうのです。仮に周りで「死ね!死ね!」と口走っている人がいても、将来その人自身が死ぬ事は確実ですから、自然と解決してしまうのです(笑)。急いで自分がどうこうしようとは考えないで、のんきに構えていればよいだけのことです。もしかして自分の方が先に死ねるのかもしれません。すると楽しみにはなっても死の恐怖というものは自ずと消えて行くでしょう。

 

自分とは考えや行動が異なる人がいても、それが自然なことです。それを問題視しているうちは、自分だけが地上にいつまでも存在していていると錯覚している証拠です。一切のこだわりを捨てて、短い人生を軽やかに楽しく生きましょう。

2019年07月06日

沈黙

一度は熟読しましたが、改めて遠藤周作著の「沈黙」を読み返しました。私が生まれる前に既にこのような作品があったにもかかわらず、現在でもあらゆる宗教信者が世界中に存在しているという事実は、宗教とは人類にとっていかに重いテーマであり続けているものかを思い知らされる気分です。

 

90年代に他界している著者自身も、幼少の頃から親の事情でキリスト教徒とさせられたため、長年かけて募らせてきた宗教信仰への疑問や謎を作家になってからブチまけた感があり、多くの作品で布教者や信者の葛藤を描いているようです。

 

布教の野望を胸に日本で信者を増やそうとがんばっていても、日本で信者となった者は拷問を受けて殺され続ける姿を見せつけられる宣教師の苦悩を、ほぼ史実に沿って小説にしている作品です。

 

熱心な宣教師の祈りや願いにも神は一切応えることがないから作品名は「沈黙」なわけですが、いろいろと考えさせられる素材でいっぱいです。人は孤児であったとかでもない限り幼少期の親の影響から、いい大人になっても「見守ってくれている」「誰かが助けてくれる、救ってくれる」等の望みを抱きやすいのです。それが宗教ともなると「生きているうちには報われなくとも死後に天国で神(天使)が待っている」という扇動もできるのですから、この世での最強洗脳ツールともなってしまうのです。

 

肉体を脱ぎ捨てればこの世よりも想いが現象化しやすいのは事実ですからまるっきり嘘だとは言いませんが、この世で長生きして金銭や名誉や支配を得たい欲の塊みたいな人たちのツールとなってしまっていることが宗教の問題なのです。

2019年07月01日

知性とは何か

今年も半分が過ぎ、「何も変わらずのままだ」という人から「昨年以上に今年は変化が激しい」と感じる人まで様々でしょう。

 激しく変化していると感じている人たちへのメッセージです。

 

悪しき学歴社会の弊害で、現代日本人は「単語や用語等をたくさん知っているのが知的な人である」という概念を持っています。でも実は違います。

それならば、機械やコンピューターの方が概ね人よりも知的な時代に入っています。

 

人にとっての知性とは、言い換えれば「霊性・神性」であるのです。それはざっくり言えば宗教とは無関係に「知恵」とされているものですね。ところが大量の人を騙したり脅したり殺したりできることが知性であると履き違えた上、現在進行中でそれらを実践している地球上の愚かな種が「人」という種です。

 

何事も栄枯盛衰は必然。この星を舞台にさんざんとっ散らかして栄えてきた「人」という種が衰退して滅ぶことはとても自然なことでしょう。何も初めてのことではありません。たかだか数千年数万年の言い伝えや壁画等の記録にもそれらは遺されています。その度どのようにしてリスタートを切ったのかは低知性な現代人が知るはずもないでしょう。

 

ところが今回の文明の終焉は、いつもと同じく滅び行く獣(人)とは別に、それを乗り越える知的生命体が「人」という種から一定数出現するのではないか・・・大ざっぱに言ってそれがアセンションとか呼ばれて騒がれている理由です。

 

物質や時間や空間の認識が変わる人が出てくるという意味なので、これまで通りに直線時間軸上だけでカネや権力や名誉や性欲や食欲を満たしたくてほぼ獣として生きてきた人からしてみれば「何も起きなかった」「ただ皆も自分も死んでしまう」との認識となるのかもしれません。

 

新たな時空や非物質を認識するようになる人にとっては地上天国の始まりですね!

2019年06月25日

念の力

念の力は絶大です。多くの人にとって、心の底から実現しようと思えたことは大概が実現します。

 

私は表面上のことを言っているのではありません。本心で無理だと思っている事は実現しません。内面では「実現させない」という念の力がはたらいているからです。ところが面白いもので、本心を偽っている人ほど「○○したい・○○になりたい」とか言ったり書いたりするものです。

 

実現させてしまう人は、そうなることを前提に今できることを黙々と常にやり続けるだけで、他言や宣言をあまりしない傾向があります。他人に大口を叩いて自分を励ますような必要性を感じていないとも言えます。他人に話せば邪魔が入りやすいだけかもしれません。

 

ですから「金持ちになりたい」と言っている人は一生貧乏、

「健康になりたい」と言っている人はずっと不健康だったりします(笑)

そうではない自分が前提になってしまっているからです。

 

私が脳幹出血で倒れて意識不明の重体となった時も、医師をはじめ周りは死亡はもちろん厳しい未来を想定する人ばかりでした。だから、意識が戻ってからも寝たきりだった私はこれらのことを実践したのです。無理だとか危険だとかの反対意見を黙々と受け流して、数ヵ月後には医師が強要する車椅子にも乗っているフリをして乗らずに一人で車が通らない公園を歩いたり部屋でストレッチをしたり等のリハビリを一日も欠かさずに継続しているのです。致命的なダメージからどこまで回復するかどうかも根底は自分の自由意志の問題だと考えているからです。

 

全く動かない身体からのスタートでしたから、さすがに元のようになるとは思っていませんでしたが、3年近く経った今では喋りも飲食も排泄も、散歩もそこそこできて、倒れた日に生まれた息子に「ちょっと待って~」とか言いながら手を繋いでもらって買い物にも出かけています。

 

この身体機能の回復は、まさに念の力でしかないと思います。念いの強さこそが、脳を筆頭に全身のはたらきを促しているのです。脳幹が壊れたので知らぬ間に内臓のはたらきがデタラメとなっていたため、今年の年初に危険な状態となって入院しましたが、原因が解った今からはまだまだ回復が見込めそうです。これからも気長にこの身体と付き合って行くつもりです。

 

実例を挙げることで「人の念にはどれだけの力があるものか」を、皆様にも感じ取っていただきたいのです。

2019年06月24日

地震は何故起こる

今朝は東京でも地震があった影響なのか、夕方近くの昼に雨があがっていたので一人でいつものレストランに入ったらガラガラで、店員が「今日は朝から一日中こうで、時間が過ぎるのが遅い!」と嘆いていました。皆何かを感じて行動を控えたりしているのでしょうか?

 

今の人の多くが「何が何でも死にたくない」「他を殺そうが害そうが自分が物質肉体に留まって生き延びたい」と考えているようですね。その念いは昆虫動物植物他の獣でも今の人類ほど酷くはないでしょう。人はその結果殺し合いをして種が滅ぶというマヌケぶりを繰り返しています。現在も他の種を既に凄い勢いで絶滅に追い込んでいます。

 

地球さんにも自由意志がありますから、そのことを人類に気付かせたくて地震や津波や火山噴火等の自然災害を起こすのです。人工地震であろうと地球がそれに応じているわけです。この星の多様な種での生物実験は、人類に限ったことではありません。なのに人という種だけがこの物質世界で他の生命の存続まで勝手に消滅させているダントツ愚かな種であることは事実です。

 

地球人類全般がもっと顕著な気付きを得るまで、地球さんも手を緩めないでしょう。たかが低俗な人類のために、それこそ他の種までが大いに巻き添えをくらっているのです。そろそろ地球人類の大多数も、宗教で言う愛とか思いやりというような非物質知性を発揮するしかない時期が訪れています。

 

神とは特定の誰かに宿る外部の何かではありません。地球人類の誰にでも宿り得る非物質知性を長年「神」と呼んできたのです。自分以外の何かに神を求めるから、地球人類上には宗教が流行ったり人が低知性な動物のままなのです。人の誰もが神になる時代の到来です!

2019年06月24日

死の実態

今朝の地震で何か吹っ切れたようなエネルギーを感じての投稿です。

 

私が脳幹出血で意識不明の重体となって倒れていた翌日の、医師から「間もなく心肺停止の可能性が高い」と妻が説明を受けていた頃、私はベッドに横たわったままロープウェイに乗せられたみたいな(臨死)体験をしていました。

 

看護師(非物質存在)がベッド脇に立って付き添ったまま、私はベッドごと空高くどんどん上がって行きましたが、上がるごとにこの世とは異なる町並みや施設のようなものがあり、倒れる数ヶ月前に自分が監修を担当して出版された本『非物質ガイドとの探索1・2・3(ヒカルランド刊)』についての話題に脇の看護師みたいな人に触れられました。翼もなく足もあって現実的な女性の姿でした。添付はその記憶イメージに近い写真を今検索してみました。

 

その後ゆっくりとベッドごと再び降りて行き、脇に付いていた看護師も担当が替わりました。途中、数箇所とある非物質施設に寄って面白い体験もしたのですが、肉体の私は相変わらず危険な状態で、物質世界の看護師が痰を吸引しにやって来る時、あまりの苦しさに病院施設をヘリに乗っているみたいに上空から見下ろしている視点になったことも記憶しています。

 

意識が戻ってから病室に看護師が来て何かをしていても、眼がほとんど見えなくて全身の感覚もなくなっていたので、まだあの世にいるものだと思っていたのですが、そのうち手足を中心に凄い痛みと痺れが襲ってきたので「死に損なった」ことを自覚したのでした。宗教的な解釈をするのなら「天使や天国を見て経験して戻ってきた」ということですね。この世界では飲み込みもできない寝たきりの身体からの壮絶なリハビリが始まるのはこれからです。

 

明確に解ったことは、人は肉体死を迎えても自意識や非物質世界は継続しているということです。終わるのは物質肉体の機能と物質世界だけです。このことを皆が知れば、個人の生き方も文明のあり方も必ず変わるでしょう。

2019年06月22日

存在の意義

大人になるほど、人は自分の存在意義を問うものです。

会社や自治体や国から賃金をもらうということは、賃金を払う側にとって有用であることの証ですから、多くの人が経済的報酬を喜びます。しかし、それは単純な話ではありません。

 

戦争を起こして大量殺戮を実践するのは決まって国家であることを考えれば解る通り、人を騙したい殺したいという上の欲求を満たす働きをよくしている人が高く評価されている場合も多くあるからです。民間企業でも、金儲けのためだけに社会に害悪を垂れ流している組織は沢山あります。その場合、エリートほど罪深い業を背負っているわけです。

 

自分が属する組織の実情を知ったところで、辞めたり訴えたりする人は長年少なく、大抵が自分も黒く染まって仲間入りをするのです。それを社会適応と呼びます。動物として自分も生きて行くことが最優先されるからです。

 

でも近年は黒く染まりきれない、つまり社会適応できない世代の人たちが増えています。就職しない、してもすぐに退社してしまう、ひきこもる、自殺をする・・・つまり黒い社会に順応できない人が増えています。

 

これはマクロ視野では地球文明の明るい兆しであると私は捉えています。既存の人間社会の愚かさやバカらしさに付いて行けない人が行動に移してしているということです。この勢いが加速すれば、これまで政治や経済で活躍していた「自分だけよければ、カネや権力さえ手に入れば」といった程度の低い人たちも立ち行かなくなってくるでしょう。カネや権力だけを所持していて有名でも「まだこんな低知性な人が幅を利かせているんだ」となる社会風潮なのです。

 

その際に非難や攻撃をしているようでしたら「自分もそうなりたいのに羨ましい」と言っているようなものです。依然動物であり続ける人にかまっていないで、知的な種として自分にできる霊性を陥れないことを実践しましょう。

 

人とは本来、知的生命体なのですから。

2019年06月18日

獣の生存と知性

物質肉体に霊魂を宿す際、自我(エゴ)というテーマが必ず付いてまわります。地上で生活している皆さんにとってもきっと大きなテーマでしょう。

 

2~3年前に脳幹出血で植物状態の寝たきりとなった私も意識が戻ったかと思われた時に自我(エゴ)というものを失ったままだったため、その数ヶ月前に他界したある著名人に肉体を半年ほど明け渡してしまったことがありました。

 

一度は喋ることも歩くこともできなくなった私は喋ったり歩いたりするリハビリに集中したのですが、喋り方やしぐさがその他界した方の生前にそっくりだったようで、その方を知っている人には「生きて戻ってきた」と思えるほど似ていたようです。幸い生前も基本優しくて穏やかな気質の方だったので、大きな問題もなくて済みました。食の嗜好まで生前の彼と同じ甘党になったので体重が数ヶ月で20kg増えたくらいでしょうか(笑)

 

結論、自我(エゴ)を失うと地上では生きて行けなくなってしまうのです。人は弱肉強食の獣だからこそ物質肉体で淘汰されずに生きて行けるのです。逆の言い方をするのならば優しくて思いやりばかりが先んじていたのでは、すぐに殺されたり損のしっぱなしとなってしまいがちなわけです。身体機能だろうがカネだろうが権力だろうが、「力がある」というだけで思いやりがなくて低知性な人が社会で幅を利かせているという獣のような実例は誰でも多く挙げられるでしょう。

 

獣が知性を与えられたという矛盾に満ちたテーマを、果たして人類は乗り越えられるのでしょうか。

2019年06月01日

面白くてためになる!?

4月に登壇した「サトルエネルギー学会」での私の講演の様子が会報誌に掲載されました。

 

これからも講演の機会は増えるかと思いますので、更に面白くてためになるお話ができるよう工夫して参ります。

みなさまどうぞ宜しく!

2019年05月30日

気の毒な人

数年お付き合いした税理士と今月で完全にお別れとなりました。年間契約顧問料という名目で決算申告の事務処理をお願いしていたのですが、数年前は「ただの事務屋じゃないので年間何度かは会ってアドバイスをする」という話で割高な請求でした。その実、契約最終年の今年はメールや郵送が何度かあっただけで面会は0回でした。

 

これからもカネを落とし続けてくれるのなら多少の相手はしても、もうカネを落とさないとわかったら約束も守らない… これって実際によくいるタイプだと思います。普通ならば間を置いて再びカネを落とすようになったり、自然と誰かを紹介してもらっても当たり前であるはずの人にまで嫌われてしまっては、詰まるところ自分が損をするだけの話ですから「気の毒な人」なのです。

 

カネが欲しいだけの動機で仕事をしていると、誰でもこういった事態に陥りがちです。やはり知的生命体ならば、意義ややりがいを感じながら仕事をすることが重要です。飲食やレジャーや異性の気を惹くために、つまり今の人間社会で言うならばカネを得るためだけに仕事をするのならば、それは知的生命体じゃなくてもその他の動物で充分なのです。

2019年05月27日

子供のエゴ

2歳の息子はスーパーに散歩しながら買い物に出る事が大の楽しみです。そしていつも買ってきたお菓子などを開封するのを楽しみにルンルンで帰ってきます。その時に私は「何をそんなに楽しみに持ってきたのだろう…」と思って食う気はないのに観察しようと手を伸ばします。すると息子に「みず君(自分のこと)のお菓子だからカズはダメ!」とか言われて諦めていました。「2歳でもイッチョマエにエゴが芽生えているんだなぁ」とか感じて(笑)

ところが私が関心を示さなくなったらそれも面白くないのか、近頃は頼みもしないのに自分から声を掛けてきて私の口に菓子を運んでくるのです。かまってくれなくなったのが寂しいのでしょう。

大人でも、我が張っている人というのは寂しくて相手にして欲しいだけなのかもしれませんね。それでもケチとか自己中とか周りに悪いイメージしか与えられませんが!爆

2019年05月21日

リーディング(チャネリング)

約30年ぶりにエドガーケイシーを塾読しました。私が高校生の頃は、まだ「バシャール」をはじめとするチャネリング本は出回っていませんでしたから、ケイシー関連の著作で「リーディング」(後の世ではチャネリングと呼ばれるもの)の様子を読んだ高校生の私は興味津々でした。

 

エドガーケイシーは1900年前後にアメリカに実在していた人物。

何の教育も訓練も受けていない中卒の労働者なのに、あらゆる医師に診てもらっても原因も治療法も見出せないような難病患者を前にしてトランス状態となって、患者の不具合の原因や治療法を膨大な数の患者に対してアドバイスしていたという人物です。

その魔法のような能力を疑う医師や教育関係者も傍で一緒に記録を取っていたため、医師でもないのに実質膨大なカルテが残っているのです。

 

久々に読んで改めて思うことは「所詮はサルの仲間である多くの人間に知性を求めること自体にムリがある」ということと、「神でも霊でも宇宙人でも呼び方はまちまちだが、人間以外の非物質知性とつながることができる人ならば喩え相手が人間でも知性を求められる可能性が高い」ということです。

 

ですから私は10代の頃から、よく言えば神がかった人、俗に言う「変な人」とばかり好んで付き合ってきました。

他ならぬ私自身も普通の人から見れば「変わった人」であるという証拠です(笑)。

 

妻は霊能者で占い師ですから本人の生まれや環境とはあまり関係なく飛び抜けて個性的です。

霊と自由にアクセスできるということは、人間でありながらも知的な存在たり得るというわけです。

 

妻との間に息子が誕生しましたが、その出産当日に私は脳幹出血で倒れ、しばらく植物人間みたいになり、意識が戻ってからも数ヶ月間はリハビリ病院に入院して立ったり歩いたり話したりする訓練を受けていました。

そこへも妻は赤子を抱えてよく見舞いにきてくれました。2~3年経った今では喋りや文書作成は少しできるし、一度は寝たきりだったものがノソノソなら歩くこともできます。

普通は息子の出産日に夫が死にそうになったらパニクったりしそうですが、平静に育児をしながら見舞いにきてくれたりしたので、私も少しは元に近付けたのです。

これまで死人の霊とも普通にかかわってきたのですから、身近な人が肉体死を迎えようとも大した問題とはならないのでしょう。助かります。

 

息子も2歳半を越えたので良く喋ります。人間の営みというものをそこそこ理解できているようで、近頃は感情を込めて「ごめんね」とか「ありがとう」という言葉も発します。誰が教えたわけでもないのに不思議です。夢をよく見るのか深夜に喚いて暴れることもたまにありますが、「大丈夫だよ」とあやすとすぐにまた眠ってくれるのでありがたいです。

せめて自分の子供くらいはサルではなく知的生命体として育ってほしいものです。

 

エドガーケイシーに限らず、騙して奪う以外のことに興味を持って他人に貢献している人はどこでもいつの時代でもごく一部存在しています。

自分の生きているうちにそれが多数派となって「かつてはサルに似た人間という生物が地球を支配したつもりになっていがみ合ったり殺し合ったりしていた醜い時代があった」と過去形で語られる日が訪れることを楽しみに、人間のあり方を共に探求しようじゃありませんか!

2019年05月13日

不完全だから人生は面白い

私はあまり小説を読まないのですが、三島由紀夫氏だけは例外で、ほとんどの作品を読んでいます。特に晩年の作品「豊穣の海」四部作は夢中になって読了しました。

 

私が生まれて一歳を迎えた直後に氏は自衛隊市ヶ谷駐屯地で派手な割腹自殺をしました。私は成人してからそのことを気にかけていたのですが、作品全般から滲み出る氏の知性教養からして、私には氏の自殺の動機を理解することが難しいのでした。この本の作者も他界して10年弱が経過しているようですが、若かりし頃に歌舞伎作家としての晩年の三島氏と仕事での親交があったようで、よくある見聞きしただけの推測論よりも核心に迫っていると私は感じました。

 

三島由紀夫氏はある意味潔癖症で、人間の醜さや愚かさを受け入れられなかったのだろうと思います。老いる前の才能溢れるうちに氏の考える美しい死に方を実践したのでしょう。

 

私の強い自殺願望が収まったのはまさに死に損なった近年のことです。脳幹出血によってあらゆる身体的不具合が一生ものとして与えられ、人間の不完全性やマヌケさというものを身をもって体験させられ、完璧主義どころではなくなってしまったのです。寝たきりの植物状態から喋ったり歩いたりできるようになっただけで喜んでいられるのです!(笑)

 

いろんな事で完璧を求めがちだった健康な頃に比べると、今の私は自分にも他人にもあらゆる部分に寛大でいられます。こだわりがほぼなくなってしまったのです。一度は失った視力を用いて読書をしたり熱帯魚観賞をしたり、また同じく失った聴力は完全に復活して音楽の素晴らしさを堪能できています。ただ当分手足は元の様には動かせないので、かつてはできたような楽器を演奏することはまだおあずけです。

 

誰でも自分の不完全性を理由に色々と諦めていることでしょう。でも人間であるからには常に不完全なのです。だからこそ完全をめざして、一生何らかの努力を続けられるのだと思うのです。

2019年05月07日

多くの人の錯覚を解く

中学の頃でしょうか。理科の授業で「あの星は光の速さで○百年の距離にある」的な授業があって、私は本能的に「デタラメ言ってるんじゃないよ!」と感じました。先生も子供の頃から授業でそう習ってきたから教師になっても子供にそう教えているだけのことでしょうから、厳密には「騙されてんじゃないよ!」でしょうか?

 

アインシュタインがそう語っていたことを知ってはいても、光の速さを実感できた人も何百年もかけて星間移動をした人も原則いません。科学とは全てがそんな具合で「誰かがそう言っていたことを真実だと仮定して計算するとこうなる」的なことばかりです。

 

私が幼稚園児の頃に本を読んでいると「ピラミッドは偉大な王の墓で、膨大な労働力を駆使して作られた」的な記述を見たときに「そんなアホな、それはアンタの乏しい想像力の産物でしょ」くらいに感じたのをきっかけに、中学生くらいの頃には「特に理科や社会の授業はカルト宗教信者を輩出すべく洗脳を強いられている」としか捉えられなくなってしまいました。

 

高校生になると、県立や市立学校の教員職に就くタイプがどんな人か察しがつくようになったので、私は本物のバカにされないためにも高校卒業以降は学校には一切通っていませんし、肩書きや資格とは無縁の人生を送っています。それが故に不利なこともありましたが、人並なバカにはならなくて済んだという利点もあります。

 

日本が高学歴社会ならば、高洗脳社会でもあるわけです。会社などの組織に属すると、原則は洗脳された信者ばかりが在籍しているわけで、どこにいても私には息苦しかったので、ことごとく長続きはしませんでした。そこで「40歳までには起業しよう」と若い時期に決めて実践したまでです。

 

皆さんが絶対に正しいと思っていること、何気なく当たり前に継続していることなど、目覚めてみれば「とんでもない事をしていた」という事は、まだまだ沢山あるのです。

 

私は皆さんにそんな気付きをコツコツ与えられる人物となるよう、今でも精進しています。

 セイジョウ石井

2019年05月05日

孫はなぜカワイイ

私自身は子供が苦手な若い頃を過ごしていたので、結婚や家庭というものに関心を持ったのは40代になってからです。それは20代からの借金苦をはじめとする色々な苦労の体験を経て自分が精神的な成長を遂げてきたので、子供とかかわる事で子供を見て「このクソガキ!」とか思うことも減って自然とそうなってきたのです。

 

子育ては実際、特に自分が若い時期なら大変でしょう。しかしそんな苦労を乗り越えて子供を育てた経験があればこそ、孫が可愛らしく感じられるのだと思うのです。自分が若いうちは「労働力と時間を奪われている」としか感じられない大変な事でも、それほど苦には感じない自分に成長できているのです。これは子育てに限らず、何でも苦労を乗り越えた先に楽しみや歓びが待っているということです。

 

逆に言えば何も克服しないで避けたり逃げたりしているうちは、歓びの体験も訪れないということです。

昨日、孫とも思われかねない、はしゃぐ生意気な息子(2歳)の相手をしていた私は、わざわざそんなにもったいない退屈な人生を送る選択をするな!と言いたいのです。

正に「苦労は買ってでもせよ」というわけですね。

2019年05月01日

半田広宣のヌーソロジーに魅力を感じる理由

現代の時代に生きるほぼ全員が「生きる死ぬとはどういうことか」「いわゆる現実と呼ばれる世界とは別に夢や幻想、今では仮想現実の世界もあるし、何が真実で何をどうすればよいのか」といった戸惑いの中で人生を送っているものかと思われます。

 

他ならぬ私自身もそうでした。子供の頃から抱えていた「生死とは何か」「現実だとされている全てが錯覚なのでは?」「どうして生きているの?」といった人間の「どうして?」「どういうこと?」に答えを見出せないまま30歳近くになっていました。

 

私が子供の頃から特に感じていたことは、本でも映画でも写真でもテレビでもあらゆる景色でも自分の視界は常に平面ヴィジョンを見ているだけ、瞳を閉じても考えたり想像したりいくらでもできるのに、人間も含めて世界や宇宙空間までが立体の物質で出来ているなんて嘘ではないか?」というものでした。

 

どんな本を読み漁ってもその答にあたるものは見出せませんでした。ただバシャールというチャネリング本だけは真相に近いニュアンスを醸し出していたので30年前くらいから愛読していました。
「やっぱりサル同然の地球人に答を求めても無理か…」そんな諦観が多くを占めるようになった20年前くらいに半田コウセン氏の著作に出会ったのです。同じ太陽系内の冥王星のオコツトと
名乗る異星人が情報源のチャネリングという体裁を採った本でしたが、かなり理論的に私がそう感じる理由を説明できていました。
やはり同じ頃に映画マトリックスが上映されました。どちらも私の感覚を上手く表現できていて、私は「ついにその時代が来る!これを解説できる人物が地球上にいないのならば自分がそうなれば良い」と思い直して今に至ります。

 

新しい概念の説明には、既存の用語や概念を引用できないというハンディをいかに克服するのかが鍵だと私は読んでいます。映画マトリックスを見た時に「映像や脚本や音を駆使すれば不可能ではない」と希望を抱きました。しかし予算や時間の都合を考慮して今の私にできることは専門用語を用いずに深い話を優しくすることです。そんな機会を多く創出できるよう以後も努めます。

 

その点、半田コウセン氏の新刊「奥行きの子供たち」では、誰もが知っているであろう映画を引用して会話形式で文明論が展開されているので、多くの方に一読を推奨したいです!

 

2019年04月30日

知性とは?

半田広宣氏の新作をじっくり読了しました。半田コウセン氏の著作の初版を手にしたのは20年前。ずっと愛読してきて、霊能者である今の妻と初めて会った日の6年前にも手渡したくらいの愛読書でした。

 

ちなみにコウセン氏の旧友であるマロさんという、数とカタチの研究者が同著作に登場していて、なぜかそのマロさんが私にとってはコウセンさん以上にインパクトがあり、今の妻が当時住んでいた名古屋の近所にマロさんも在住で、マロさんと妻が直前に知人となっていたことから、妻と初めて会ったその日にマロさんにも同席いただいでコウセン氏の話でも盛り上がっていたのでした。昨年末も東京にレクチャーでいらした際に我が家で宿泊して2歳の息子とも遊んでもらいました。

そして6年前、そのマロさんが登場しているコウセン氏の著作を後に妻となる占い師に手渡しました。コウセン氏は福岡に在住なので私が会えたのは後日に東京でとなります。私はその頃静岡県に住んでいました。私は何度かお会いしただけですが、彼の提唱する「ヌーソロジー」に入れ込んでいた私はこの思想を普及させるべく、あれこれ偉そうに提案していたのでした。

 

そしてこの度出版の運びとなった新作のコンセプトである映画を題材としたこれも、「有名な映画で良質なものもあるから映画作品に喩えてヌーソロジー解説をしたら良いと思う」と熱く語っていたので、我が事のように喜んで熟読しました。

たまたま20年前の同時期に公開された映画「マトリックス」、私も「なんて上手くこの世の錯覚を表現しているんだ!」と感心して何度も見ました。「2001年宇宙の旅」もDVDソフトを買って長年鑑賞してきました。新作著書ではその両作品が話題になっています。

 

私も霊能者の彼女と結婚して2年半前に息子が誕生しました。その息子の誕生日当日に私は脳幹出血で意識不明の重体になり、数週間植物人間となっていわゆる臨死体験的なものも経験しました。今のように再び起き上がって歩いたり喋ったりという人間としての機能を取り戻すのに必死だったこの2~3年、東京の講演ついでにリハビリ病院にまで見舞いに来ていただいたコウセン氏のためにもヌーソロジー的な概念を私なりに普及させるよう工夫しています。そうこうしているうちに息子はもう2歳半。走ったり話したりしています。コウセン氏の言う「奥行きの子供たち」となりそうな気配です。

 

物質科学が万能であるかのごとく歪んで発展してしまった今の地球人類が、サルや獣とは異なる知的生命体へと進化するために必要なことは、つまるところ「死の理解と克服」だと私は考えています。嬉しいことにコウセン氏の考えもそこに辿りついていることを垣間見ることができる著作でした。

 

20年ほど前のコウセン氏の著作はチャネリングの形式が採用されていて、冥王星のオコツトと名乗る宇宙人とコウセン氏のやりとりが軸になっています。私の解釈では便宜上そうなっているだけで、遠く離れた、いわゆる宇宙人との物理的な交流(テレパシー)ではなく、コウセンさんの非物質知的側面の表れであるのだと私は解釈していました。エササニという遠い星にいる物理的なバシャールと名乗る宇宙人的な存在が地球にいるダリルアンカと交信しているのではなく、ダリルアンカの未来生が過去生の地球人であるダリルとやり取りをしている…つまりは時と空間を越えて自問自答している様子を、「知的生命体が物質である」と勘違いしている地球人にも理解できるよう、便宜上宇宙人であるという設定がなされているのと同じことです。

 

私は今生肉体死を経験するというあまり無い経験をして、それでもまだ肉体を持って生き続けています。話も今では普通にできます。

記憶も明瞭にあるこの貴重な経験を活かして、地球人類の概念を刷新するため、以後も私なりに工夫して発信をし続けようと決めています。この本、あらゆる人にオススメです!

2019年04月08日

サルから知的生命体へ

興味があってもお越しできなかった読者のために、私が一昨日の講演でお話した内容の概要をかいつまんでここに書きます。

速い話が「長い間サルみたいな動物として存在した地球の人間というものでの生存形態の文明実験が終焉する時代を迎えている」という話です。

 

獣は物質としての生存維持を目的に繁殖して、他の存在を駆逐したり騙して搾取したり利用することが重要でそのために懸命な努力をしてきました。大衆は自分が一部の人に搾取利用されていることがわかっていても、同じく自分の物質的死を怖れて物質の肉体を維持するためにそれに耐えてでも生きようとしてきました。

 

ところが明らかにそうではないスピリットが肉体を持つ時代に入っているのです。優しくて性欲がなかったりアブノーマル性的嗜好でお金とは無関係な事に興味を持つ。搾取利用されるだけの家畜的な生き方をよしとはしないで、むしろ簡単に自殺を遂行する。要するに獣としての生存本能が廃れているのです。カネや名誉や権力のために人生を犠牲する人は減る一方です。

 

これは明らかにこの星の文明実験プログラムが書き換えられているのです。知的生命体をサルに宿らせること自体に無理があったと判断されたのでしょうか。

 

まだしばらく生存するとして、人間とは、生と死とは何かという概念を塗り替える必要が多くの人に求められるでしょう。人間がサルから知的生命体にシフトしようとしている劇的瞬間なのだと私には感じられるのです。

2019年04月07日

講演会ご報告

昨日4/6(土)の講演は無事に終了しました。お越しくださった皆様、ありがとうございました。

自分の講演時間の1時間はあまりにも短くて言いたい事をあまり言えていない感もありましたが、今地球で起きている文明の変化や地球人類の向かっている方向性のお話を全般的にしました。皆さん黙々と真剣に聞き入ってノートをとられていた方も多く、長年この「サトルエネルギー学会」に出入りしてきた(20周年だそうです)会員の方々も懇親会に参加されて色々意見をくださいました。

私の考え方や話の内容の独自性に感心されて未来を嘱望される嬉しい意見が多く、私も「子供の頃から自分が感じていたこの星の疑問や解決法を探求してきたことは無駄ではなかった」と嬉しくなりました。私の話す時間がもっと欲しいということはお客様も感じていたらしく、主催側も感じてくださって、「近日もっと何時間も話す機会を設ける」と言ってくださいました。

ありがたく嬉しい一日となりました。頼んでもないのに勝手に私のことを「サトルエネルギー学会」に話してこのような展開を導くきっかけを作ってくれた山田さんにも感謝です。わざわざお越しくださった知人友人の皆様もありがとうございました。

また次の予定が決まったらここでも告知しようと思います。これをお読みくださっている皆様、これからもよろしくお願いいたします。

 石井数俊(セイジョウ石井)

2019年04月04日

個人か星の仲間か

今日も妙な天気でしたね。最近朝晩は急に冬かと思う寒さになったり昼に陽が当たると暑いくらいだったり、桜も満開じゃなくても散っていたりするので観察していて面白かったです。私はいろんな木があっても良いと思います。

 

皆が一気に満開になったり散ったりするよりも、枯れた木みたいにしょぼいのがあったり花が咲かない木が混じっているのもそれはそれで楽しめると思います。全部が一気に咲いたり散ったりは軍隊教育の成果みたいで私はおぞましい感があります。日本人の国民性からするとそれを良しと感じる人が多いのでしょう。少し危険ですね。

 

2012のアセンションとかで世間が騒がれていた時期に、それこそ雨後の竹の子のごとくそれ関係の書籍が出版されていて、私はほぼ全部を読破したと思います。(笑)その中には「○○人が覚醒しなければアセンションは失敗に終わる」みたいな著述も多かった記憶があります。私は「これじゃアセンション宗教だなぁ」と感じて読んでいたのですが(笑)この星に生まれてどう生きてどう死のうが個人の問題なのであって、誰々のせいで成功した失敗したというのは幼稚すぎる発想だと私は思います。できれば明後日4/6(土)の講演でもそれについて触れてみようと思います。

2019年03月29日

誰も避けられない肉体死

今日、退院後の経緯を検査するために病院に行ってきました。

 

一週間以上入院する不便さを考えたら月に数日病院で時間が潰れることもそんなに苦になりません。シラフでもフラフラして徐々に歩けなくなった主要因である血液中の健常者には必要不可欠の要素も複数の対策で人並みに回復していることが確認され、ゆっくりでも歩けるように今はなっていて、まだしばらくは生きて行けそうです(笑)。実に絶妙なバランスで生きているのが人間なわけですが、今度また内蔵の暴走で何が不足して何が過剰になるのかも見当がつかないのです。しかし気にしていても仕方ありません。定期的に検査したり突如体調不良に襲われて否応無く発覚するでしょうから、気楽に構えておきます。元々長生きしたくもないのですから!笑

 

死を怖れることと同じ問題です。どんなに心配しても人は死ぬ時には必ず死にます。それで死なないのなら気にかける価値もありますが、産まれて生きているからには「いつどんな風に」の部分で個人差があるだけで死は確約されているのです。でもそれは動物の肉体としての話です。知的生命体として素晴らしい活躍を遂げる人でずっと自分の死を心配して生きている人は少ないでしょう。

 

自分の肉体死が大きなテーマになりすぎないことが「充実人生」の鍵である。それが真実だと私は思います。