生きる張り合いを与える
人は老いると自然と周りを気遣って生きるようになります。「誰にも迷惑かけないで生きる」ということが価値が高いと子供の頃から決め込んでいる人が多いからでしょう。果たして本当にそうなのでしょうか?
私も思春期はよくそう考えていました。「患うことなく即死したい」それが中学生頃からの大きな願望でした。ところが皮肉なことに未だ叶っていません。脳動脈破裂というそれこそ死んで当然の症状に幾度か見舞われながらです。
2歳下の弟が先天性知的障害だったので、私は障碍者が収容された施設を常に観察して育ちました。小学生ながら「稼ぐという概念さえ持てない子供が存在し、国なり親なりの庇護を受けてまで生きる意味はどこにあるのだろう?」という問題と常にぶつかっていました。
答えは私なりに出ていました。それは「迷惑をかけること自体が目的だ」というものです。
他人の世話をすることが迷惑だとしか思わない人は経済力でカバーできる部分も多いでしょう。経済とは無関係に学びが多いのは事実なのです。やむを得ない事情でもない限り人は忍耐を積極的に学ぶことはしません。
私が小脳にダメージを受けたことの動物としての機能低下は自慢ではありませんが凄まじいものがあります。何もかもが普通にはできないのです。先日、2歳の息子に「カズ(私)は自転車乗らないの?」と鋭い質問を受けました。「小脳という頭の一部が壊れてしまったので、倒れないで歩くことでも難しいんだよ」と答えましたがわかったのでしょうか?笑
誰でも、生きているだけで誰かかに迷惑を必然的にかけています。思い当たるかと思いますが、面白い人や輝いている人は迷惑だったり面倒だったりもするものです。だたそれを上回る魅力があるのです。迷惑をかけたくない=魅力がない・それだけの存在価値が私にはないと宣言しているようなものですね。
迷惑そうにしていて実は喜んでいる人は多いのです。皆に生きるハリアイを与えるようにあなたがすれば良いのです!