深い想い
私が倒れて意識不明になってから意識が戻って程なく、私と入れ替わりで誕生した息子に病室で接触しました。眼も見えないし手足も動かないし思考もボンヤリでしたから記憶にはほぼありません。とにかく全身が猛烈な痛さで辛いことは自覚できていて「しまった!死に損ねた」という想いだけは強くありました。妻の話では、わたしが奇声を発して嗚咽していたそうです。
なぜかその時、私がどこかの次元の思考で決めたことがありました。膨大な臨死体験記憶を整理しながらその隙間でちょっと考えただけなのですが「全身が動かないのでは自殺のしようもない。視えないコイツもまだ何の生物かもわからない。生きていることがどんなに辛く厳しくても、せっかくこの世に出てきたコイツの人間らしいところを自分がこの世で見届けられるまで生きてみよう!」そう自分に誓ったのです。
必然的に私の目標は定まります。一生身体が不自由なのは当然。でも「視える・話せる・歩ける」くらいは自分の意志次第だろう。明日には死ぬかもしれないのは誰だって元々同じです。
今日の午前、私がいつも通り数時間リハビリに出て帰ってくると「おかえり~」という妻の声に続いて息子が「カズ~待ってたよぉ」と言ったのです。
「ただいま」「おかえり」等の単語は0歳から発していましたが、大人でも発しそうな言葉をちゃんと聞いたのは2歳2ヶ月の今日が初めてでした。それで思い出したのです。
痛み苦しみに耐えてリハビリを続けてきた今の私は結構普通に話して、まあまあ視えて、ノロノロですが歩けます。空いているバスや電車で座ってなら移動もできます。そして今では息子の方が身体能力は断然高くて言葉も発しているのです。
最初に前提条件として勝手に決めてしまっていますから2年経って気付けばそうなっているわけです。それを世間の常識に照らし合わせて医師の言うことを聞き入れていたらこうはなってないでしょう。
表層意識はさておき、誰に言わずとも深いところで誓ったことは叶えてしまうのが人間なのです。その反対のことも常に深いところの思いが叶った結果なのです。