ゴミ問題の解消
現代の生活スタイルですとゴミは必ず出ます。
物質的に過剰ではない質素な暮らしをしていれば、ゴミは基本出ません。食物となる植物や動物も魚も基本「捨てる部分がない」暮らしは当たり前だったのです。
近年では例えば毛皮が欲しくて獣を撃ち殺したとして、皮を剥いだら残りは単なるゴミです。人間の糞尿はかつて肥料として、ハッキリ言って宝でした。それを排泄する人間は虫けら以下の扱いを受けていても!です。
それがいつからか「汚物」として面倒なゴミの扱いを受けています。「あんなのクソだ!」と言い放てば、早く片付けたい全く無用な最低の存在を意味しますよね。
私が生まれた頃は近所の畑の隅によく肥溜がありました。遊んでいた子供が落ちると大笑いのネタになっていたその場所や周辺にはカエルやミミズなどの生物が沢山いて、小学生になると私はそれをライギョやフナの釣り餌にしていていました。
自然の食物連鎖や循環というものについて常に意識が向いていました。「自然とはものすごく合理的で良くできている循環の仕組みだ」と、子供ながらに関心していたものです。
排泄する糞尿もゴミとなったならば、それこそ人間だけは生きていても無用な生物!?笑
近所の農家では豚も飼育していて、売り物にならない野菜を餌にしていたようです。その奥にはなぜか長年更地のままの場所があって、父の話では「昔は地域で出た人間の遺体を皆あそこで焼いていた」と聞いてからは、「生きて糞してるうちは価値があるけど、人間だけは死ぬことで何の役にも立たない生物なのだなぁ」と感慨深くなっていました。
私が成長してからは逆に「人間だけは、物質で存在している事にじゃなくて非物質のエネルギー存在として価値がある」という結論に達したのですが、今の文明にはそこが決定的に欠落しています。
肉や骨や内臓や脂肪の塊としての存在を継続させたい意思が必要以上に強い割には、エネルギー体としての在り方には極端に無頓着なのです。あらゆる歪はそこから生じています。そしてゴミ問題が正にそこなのです。
ゴミを減らす意思が金銭損得絡みでしかないのです。人間だけは自然のあらゆる循環から外れてしまっているのです。
今回この事に思いを馳せたのは、生後数ヶ月で立てなくても転がり始めてからずっと、息子がゴミに凄い意識の向けようだからです。小さなゴミを見つけては直ぐに口に含んでしまう(飲み込みません)のを筆頭に、今でも紙パックジュースを飲み終わるとまずは「ゴミ」と言ってゴミ箱に走るのです。
数ある好きな乗り物の名称の中でも「ゴミ収集車」を覚えて連呼する子供なんて面白いですよね!笑
こんな世代が普通に生まれてきているのなら、近年深刻化しているゴミ問題が解消される日も遠くはないと思われます。すぐにできる事は実践しながらも「我々にどんなサポートができるのか」です。
星の自然環境と上手く適合して生きる事から、人間だけを以後も除外しておく必要はないと思うのです。