お知らせ

2018年09月22日

生きようと決める

成人した頃から、私は周りの人の肉体生死にあまり関心がありませんでした。ただどんな死因にせよ肉体死を常に待ち焦がれていたため、口には原則出しませんでしたが他人が早死すると「いいなぁ」と感じたり、長生きしている人を見ると「気の毒だなぁ」と思ったりはしていました。

 

自殺は次元を超えたルール違反だから厳禁である、と自分に言い聞かせて葛藤したことは十回単位でありました。ですから両親が他界した後でもあった2年前に自分が救急車で運ばれ、目が見えなくなり耳が聞こえなくなり全身の感覚が無くなって行く時に「ついにこの瞬間がきた!」と達成感を味わった直後に肉体意識を失ったことはよく憶えています。

 

不安も全くなく本当に苦痛の無い、脳幹大量出血によるピンピンコロリがついに実現したかと思われたのでした。そしてその数時間後に息子がこの世に誕生しました。

 

ところが翌日になっても私の肉体はなぜか生存を維持しており、植物人間として生命維持をするのかどうかを検討中の状況下、なぜか意識が戻ってしまったのです。

 

飲み込みも何もできない植物のような身体に人間の意識が宿るとどうなるのか… 特にリハビリ序盤の拷問のような体験をこの二年間味わってきました。

 

さきほど異変を感じて目覚めると、また息子が横にくっついて寝ていました。そこで想いを新たにしました。

 

ボケ老人のような頭脳で寝たきりだった頃の私でも想いはあったはずですが「生きてるだけでこんなに痛くて苦しいけれども、コイツの成長を自分が肉体で生きた状態で少し見届けたい」という積極的な肉体生存願望を、私は40代後半で初めて持ったのです。

 

そのためにはほとんど見えない目を見えるようにすること、奇声を発してるだけじゃなくてちゃんと言語を話せるようになる、指を使えるようになる等々のリハビリ目標もできたし、併せてノソノソ歩くことさえできるようになったのです。

 

私が今ここまで健常者に近付けたのは、倒れた同日に誕生した息子の存在が決定的だったことは明確。そして2歳になったばかりの息子が私を生きるよう励ます行為を試みている!

 

私はこれからも肉体的障害を乗り越えて何かをすることになりそう。その内容はどうやら「人間が生きる・死ぬ」ということについての情報発信のようです。