比較にならない人生
昨日の補足説明です。
「基本的に似た者同士が優劣や勝敗を競っている」という話でした。
身長や体重が何cm何kgかの違いで大騒ぎすることがあっても、仮に数トンとか数十メートルの違いならば論点が別になってきます。実際に身長十メートル単位の人間の白骨は世界各地で発掘されていますが、現地球人は発表を伏せて全てなかったことにしています(笑)。
似たようなもの同士の比較ならばいくらでも論議できますが、想像を絶したレベルの違いとなると人は不思議と黙してしまうものです。
論じる必要がある立場の人にとっても不都合なので「なかったことにしている」という色んなことが、どこのジャンルでも多く見受けられます。
この世の中はそんなことばかりです。
他にもわかりやすい例でしたら、月給差が十万単位ぐらいまでなら比較して悦に浸ったり僻んだりもするわけですが、月額報酬の差が仮に億単位だったら、もう比較対象にはならないわけで、なんとなく「別の世界の人」くらいの認識になってしまうのがオチなのです。
男女が一緒になるだの別れるだのとの面倒に巻きこまれて日々を重たい気分で過ごしている方もいらっしゃるかと思いますが、現代でもパートナーが大勢いて、自分の子供の人数を掌握できていない人だって存在しています。
多くの人が、たまたま自分に与えられた環境が全世界であるかのごとく錯覚した狭い視野で生きているのが実態です。空間的にも時間的にも広い視野を養えば、これまで自分が大問題だとしてきた事が実に局所的な視点でしかないことに気付くのです。
私は「あなたの問題なんて大した事じゃない」と言いたいわけではありません。客観的な問題というものがどこかに存在しているのではなく、「自分の思い込みで特定の問題を創造しているのが一般的な人の特徴というものである」と言いたいのです。
各々の問題解決のためにお金を払わせたい人が、問題山積であるかのごとく大衆に情報を流布している部分もあります。ですからテレビも新聞も雑誌も見ないで世間話を聞かないだけでも、大半の問題はなくなるでしょう。
でもそんな仙人みたいな暮らしを実現すること自体がそれこそ問題になりますよね?笑
ぶっちゃけた話、問題とは人の思考が創出しているわけです。それは言い方を変えると「思考を変えれば問題は消えてしまう」ということです。
とりわけ死生観が変わると最も効果的ですから、私は瞑想イベントを続けてきました。「人間は肉体で生きていることだけに価値がある物質である」という思想の囚われから解放されることで、肉体人生の自由度が断然増すからです。
肉体を粗末に扱うこともむしろなくなります。なぜなら非物質の自分がこの世で活動するためには、器となる肉体が不可欠だからです。
カネや名誉を手にしていても「どこかが不本意な人生だ」と感じているが故に、自分の肉体を粗末にしている人がとても多いと私は見ています。
暴飲・暴食・睡眠不足・過労・等々は、どれも無意識で自分をいじめてゲームセットにしたい欲求の表れです。しかし肉体死を迎えたところで、終わるのはあなたの本質からしたらほんの一部分の物質経験だけです。
そんなことをするよりも、自分が本質的に喜ぶ経験を楽しみながら肉体人生を送ることを石井はオススメしています。それが何なのかは人によって実に様々です