興味が向くもの
人は誰しも観察対象を自然と「好き・嫌い・どちらでもない」の、おおよそ3種類に分けて認識し、それぞれの反応を示すものです。ところが乱暴な言い方をするようですが、実のところ大雑把に「関心がある」「関心がない」の2種類しかないと私は考えています。
「嫌う」という行為はエネルギーなどのコストをわざわざ投入するという意味で、自覚がないだけでお金や時間を費やす好きな事と同列扱いしているのです。
本当にどうでもよいと感じることに関わりを持ちそうになった場合、奪われるエネルギーを最小限で済ますためにも多くは軽い嘘などを駆使し(笑)摩擦最小限で切り抜けようとするものです。金銭報酬だけを目的に労働をした経験のある方ならすぐにわかる簡単な話です。
では「嫌う」という現象は何なのでしょう。私はそれを一言で表すのなら「自分自身の葛藤」だと思うのです。わかりやすい例を挙げてみましょう。本当にあくまでも例で、特定の誰かをイメージしたものではありません。
若い頃に異性の誰かから好意を抱かれた場合(ストーカーなどは論外ですが)自分には何の実害もないのにその相手のことを嫌っているような素振りをすることがあります。
男性なら「俺の彼女になりたければもっとおしとやかで気の利く女にでもなれ!」なんて強気な思いもありながら、「実際にそうなら花形スポーツ選手とでも付き合うだろう。パッとしない俺なんかに好意を示してくれるのは、これから先もあれくらい図々しくて単純なタイプしかあり得ない。つまり悔しいけど釣り合っているってことか?」…
女性なら「アンタみたいにブサイクで低所得な男ってサイテー。見た目はしょうがないとしても、私は年収1億以上の男しか興味ないの!」とか咄嗟に言ってしまうのが習慣化してしまったものの、家では夜な夜な一人ため息をついてカップラーメンをすする生活を長年しているうちに突然取り乱して「もう無職でも何でもいいから誰か私と結婚して~!」(笑)
つまり自分が理想とするところと今の自分の実態とのギャップを受け入れられないと、実態に即した人なり物事なりを拒否することで理想だけを維持しようとするのです。
理想を掲げること自体は悪いことではないのですが、実力を理想に近づける努力を継続する人が極端に少ないのでしょう。あるいは理想を掲げること自体が目的なので、目的を失わないためにも実態は理想とはかけ離れている方がよいのかもしれません。
私が何を伝えたいのか… あなたが嫌だと感じる物事や人物は、今のあなたの現実を象徴的に映し出している重要な何かなのです。あなたが不快に感じる何かは、あなたが認めたくないあなた自身の一部なのです。それらを認めて受け容れて初めて、努力を継続して状況を変えることができるのです。
一昨年、集中治療室で意識が戻ったばかりの頃の私は、あまりにも濃厚で大量の異次元体験記憶の整理に忙しく、この肉体に起こった脳幹出血に伴う小脳損傷という惨事が些細な事に感じました。それでも徐々に意識がはっきりするにつれ、寝たきりで操れない身体から常時猛烈な痛みや痺れを感じ取るようになってきたのです。
眼はほとんど視えません。食料を口から摂取しないので味覚も想像すらできません。でも周りの患者の苦しそうなうめき声ははっきり聴こえます。倒れて意識が遠のく中、一切無音の世界に入った瞬間ははっきりと憶えていますが、その聴力機能の喪失は一時的なもので済んだようです。身体を起こしてもらい車椅子に乗せられて行く先はトイレです。漏らした排泄物を感じ取れるまでに皮膚の感覚が戻ってきたのです。
そんな状況の中、ろくに見えない天井を仰いで覚悟を決めました。
「こんな肉体でもまだ少しは動くし思考ができる。ならば、これまでのような自由は利かなくてもせめて付きっきりの介護なしで暮らせる身体にまでは努力を継続しよう!」
私が本気で良くなると決めて入院したリハビリ専門病院では、患者の皆さんが辛くて嫌がっているというプログラムでは物足りなかったくらいです。おかげで話せてなんとか歩けるようになって退院しました。
徐々に和らいではきましたが、今でも常に痺れと痛みはあります。それでも毎日数時間は歩きに出ます。そうしないとすぐに歩けない身体に戻ってしまうのです。睡眠中も1時間おきくらいでトイレ(漏らしたくないから)。あらゆる影響から排泄制御はやはり難しいのです。それに数時間も連続で横になると、介添えなしでは起き上がることができなくなってしまうから丁度良いのです。
ポンコツとはいえ、今使っているこの肉体死を見届けることができるその日までは努力を継続して行くしかありません。でも、その甲斐あって一見は健康な人に見えるほど、介護なしで歩いたり話したりできているのです。
近頃では「好きなことだけやっていればいい」なんて言葉が流行っているようですが、もしかしたらその「好きなこと」とは、つい先ほどまで「嫌いなこと」として認識していたものを指しているのかもしれません。
今回の文脈からすると「あなたが興味の向くものに集中しましょう・お金のためとはいえ、どうでもいいと感じることに時間やエネルギーを注ぐことは不健康です、あなたはロボットではないのですから!」ってな感じでしょうか。