生死を語ることは正常で健全なこと
私の幼少期からの最大の疑問であり成人してからも最大の関心事、それは肉体死です。
子供の頃のそれは純粋な疑問でしたが「肉体死とは何か」がおぼろげに見えてくる思春期以降は「死をタブー視する社会」そのものの方が断然大きな謎となりました。
社会人としていろんな職種で働きながら探究を続けてみると「それが何故でどういう仕組みなのか」ということもわかりました。
「カネに支配された世の中を変えたい」という動機で、例えばよくいる政治家や宗教家のように「そのためにはまずカネや権力を手に入れる」という考え自体が矛盾していて私には興味が持てなかったため、それこそ社会の一般常識からすると「どこにもまともに勤め上げることのできないロクデナシ」みたいな半生を送ってきました。
その間も「人間の死」に対する興味については包み隠さずに堂々と語っていたため、相手が直接言葉にしないにせよ異常者扱いをされる傾向がありました。
生と死は表裏一体。死をタブー視している人は生をタブー視しているのです。死の事を考えたくない人は生きる事もあまり考えたくないのです。そこが罠です。「とにかくカネを稼がなきゃいけない。死を避けて生きて行くためなのだから仕方がない」・・・
だからこそ、この世は金銭奴隷で溢れ返っているのです。
そこで私は数年前に決めました。「異常者扱いをしたい人には勝手にしてもらうこととして、【肉体死とは何か】に関心を持っている、すなわちセットである【人生をいかに生きるか】(「いかに稼ぐか」ではありませんが、結果的にはそこに繋がります)を真剣に模索している人に提供できる、宗教ではない何かをコツコツ発信しよう。人間にとって本来それは正常なことなのだから!」
本名を隠したいわけではないのですが、もっと親しみやすい名がよいとの意見もあり、これまでの私の強い想いも込めてペンネームは【正常石井】です。
漢字にすると色んな連想をさせてしまうので(笑)カタカナで【セイジョウ石井】。
興味を持ってくださる方、これからもセイジョウ石井を宜しくお願いします。