お知らせ

2017年07月03日

母の偉大さ

世の中には実に様々な商売や職業、知って呆れるほど多様な考え方に基づく色んな人間の生き方が存在します。ある人にとっては「まさかそんな人生を送っている人がいるなんて…」という生き方が、他のある人には「そんな事も知らないで生きている人がいるのか!」だったりするわけです。

現在でも歴史上でも、一般的に認知されている職種や功績や人名は、人間ひとりひとりが本当に果たしている役割の中でも一部でしかありません。どういうことかと言いますと、全てが経済原理に則って動かされている社会では、金銭報酬を得るためにする仕事が職業として確立しているのみで、給料がもらえない、お金を稼げない、お金を払う人がいない物事を扱っている状態は、少なくとも一般的な地上の人間には職業として見なされないわけです。

そんなことも知らずに過ごしていた私のマヌケな過去を綴ってみます。

自然に恵まれた田舎で世間を何も知らないまま育って上京してすぐ、対人スキルが全くなかった十代の私は22:00~7:00まで一人で大型飲食店舗を掃除するバイトを始めました。入れ替わりになる夜と朝の若い男女スタッフ達はいつも賑やかで「大変な仕事だよねぇ」と同情的に接してきました。人間と係わることが最大のストレスだった当時の私には、肉体的負荷は大きくても独りきりならば気楽で全く苦痛ではありませんでした。

毎日出る100キロ単位の大量のゴミを早朝に業者が回収しに来るため、丸一日裏に溜めてあったゴミをその収集時刻までに店先に出す作業がありました。某JR駅前の店舗だったので、まだ薄暗い空の下で駅に出入りする人がポツポツいるだけです。ぼーっと待っているのも辛いので、店舗前清掃のついでによく車の送迎レーンのゴミ拾いをしていました。するとどう見えていたのか、何度か見かける歩行者や客待ちのタクシー運転手などが「早朝からご苦労様です」「ありがとうございます」「なかなかできない立派ことで…」などと声を掛けてくるようになりました。

「店内での作業に比べたら、ほんの軽作業で暇を潰しているだけなのに、どうしてそんな大袈裟な反応を示すのだろう…」

そこから数年いろんな仕事でいろんな人と接して、アホだった私にもさすがにわかったのです。今している事が金銭報酬になるのかならないのか、割に合うのか合わないのかを考えてするのが、この世の一般的な仕事というものなのだと!(笑)

つまり逆に言いますと、人間の行為でもその事がお金儲けになっていなければ表に出てこない、というわけです。枠としては会社員・公務員・自由業・学生・主婦・無職などと大まかに分けられても、見えていないところで誰がどのような役割を果たすことで世の中が成り立っているのかなんて、地上の人間にわかるはずがないのです。

経済社会に毒された人間の相手の見方とは「自分にとって利用価値があるか」「自分の荷物にならないか」ぐらいです。そして、その読みも的を外れているのが凡人というものだと思うのです。

産み育てる子供を「どれだけ稼いでくれるようになるのか」との見方をしている母親は、いても少ないはずです。

出産や育児は損得でなされることではないからこそ存在する言葉「偉大なる母」
血縁関係などなくても、その役割を果たす人は常にいる、私はそう考えています。