お知らせ

2017年06月01日

「分離から統合へ」とは

ここ数十年「分離から統合の時代へ入る」などとあちこちで頻繁に謳われています。

二極化・陰陽・白黒・明暗・昼夜・光と影… 生まれてからこのかた、そうであることが当然で暮らしてきて慣れきった概念が「そうではなくなる」という説明は、それが何であろうとも難しいものです。新しい概念というものは、体験してみてはじめて「こういうことなのか!」と理解できるのであって、事前に言葉を並べて説明してみた場合は「ふぅ~ん」ぐらいの反応でも「これでも伝わったほうだ」と楽観視できければ説明を試みる気にもなりません(笑)。

 ではここで極端な例を挙げましょう。「幸せになろう」とか「必ず幸せになる」でも「幸せでいるのが当然」でもこの際、言い方は脇に置いといて「幸せ」と定義している時点で「幸せでない=不幸」という状態との対比となっていて、これは二極化の考えに基づく発想なわけです。つまり「統合」も「分離」に対する分離用語!(笑)

「幸せなのか不幸なのか」が全く気にならない、問題にならない、比べることがない、その概念すら湧き起こらないのならば、それは分離の思考を脱した証拠です。これは「健康⇔病気」「成功⇔失敗」「金持ち⇔貧乏」「男⇔女」「美人⇔ブス」「オシャレ⇔ダサイ」「利口⇔バカ」「デブ⇔ヤセ」「ノッポ⇔チビ」「ジジババ⇔ガキ」…等々の俗語を含め、何にでも当てはまることです。

そうはいっても文章を書くからには、私もそのような対義語が存在する単語を頻繁に使わざるを得ません。ですから「言葉」そのものが「分離思想の産物」のようなものであると私は認識しているのです。

では、分離を象徴する「言語」に対する非分離の概念は何かといいますと、強いてあげるならそれは「テレパシー・想い」のようなものですね。それこそ言葉にした時点で安っぽい分離ツールになってしまうような気もしますが、意味が近い単語ですと「愛」だと思うのです。「愛」を真剣に「性欲・所有・制御・執着」などの同義語だと捉えている人も結構たくさんいる疑惑の単語(笑)ですし、対義語で「憎しみ」なんて言葉が出てくるのは更なる勘違いだと思えて少し悲しくもなります。

欧米的分離の思想が浸透した今の日本では「愛していると言葉で表現してほしい」的な場面がドラマでも現実でもあるように思います。「愛」以外の利害関係事は言葉にすることが重要である場合も多いと考えますが、TVなどで洗脳された人が「愛を言葉にする」というその行為をバロメータにしているケースもあるようですね。でもかつての日本には「想いを言葉にすると軽薄な記号になってしまう」という感覚を持った人がきっと多かったのでしょう。

そもそも、愛を「測る」という概念を持っていること自体が究極の分離思想ですから、両者共にそうでなければマッチしないことは確定しているわけで、どうでもよい事なのかもしれません(笑)。

さて本題です。これら二分や対立を象徴する言葉の中で私が最も重要視している言葉が「生死」です。

現代人なら「生」と「死」が全くもって真逆の現象だと捉えていることでしょう。自分自身や家族に向けられることの多い考えでしょうが、肉体での生が絶対的に重要であり、そのためなら本当に何だってする。肉体死こそが最も避けるべきことであり、確実に訪れるその時を怖れて忌み嫌い、想定すらしたくない…

この考え方が変わるとき、他のあらゆる事柄も変わります。少し考えれば誰にでもわかることですが、この上ない分離の思想に乗っかった人生では万事が分離の思考でしか捉えられない!これは当たり前すぎることです。

何十年も前に丹波哲郎氏がいつも言っていた「死ぬのは怖くな~い」が腑に落ちた場合ほどの最強人生はないでしょう。しかも、生きている万人が手に入れることのできる素晴らしい心境なのです。私は何も肉体死を勧めているわけではありませんので誤解なきよう。むしろ逆の効果が出るでしょう。長寿で活躍する人は皆、生と死を分離して捉えてはいないのです。どんな窮地に陥ったとしても、死んだところで全てが解決するわけではない!という意味でもあるのです。

使いたくはない言葉ですが(笑)「生きている皆が心豊かで健康長寿となり、争いという概念が消える」方法でもあるのです。「争いの概念をなくす」ことに難しさがあるのではなくて、その前に万人が「肉体死は怖くない」と思える人間本来の死生観を、宗教ではない形で普及させることがポイントなのです。そうすれば現在ある文明社会や環境の問題を問題として維持してきた努力が自然とアホらしくなるのです。

「どうせ死ぬのだから…」は肉体だけの話です。肉体は自分のほんの一側面でしかないことをよく理解できたとき、はじめて無制限に穏やかで寛容な気持ちとなれるのです。誰かやどこかや何かに依存することも無くなるのです。現在の人類の愚かな行為はすべて、自分の肉体死を必要以上に怖れることで成り立っているのです。