世代による価値観
突然おかしなことを言うようですが、私は自分で自分の肉体が生きているのか死んでいるのかが、よくわからないのです。
それは決してケンシロウを相手に闘ったからではありません(笑)。夢を見ている最中や瞑想中の体験などでは肉体や物の質感が充分にあっても、こちらの世界に戻ってきたら「あれは夢で、これが現実である」との割り切りルールを自分で作って受け容れてきたまでのこと。
私の身体の強健さを自他共に認めた中学生の頃から今に至るまで、常に定期的に湧き上がってくる何とも言えない感覚があります。「ツライ・悲しい・苦しい」等の気持ちとは違って、無理に言葉にするなら「何から何までが不思議でならない感覚」でしょうか…。中年になってこの肉体が集中治療室に運ばれて、ほぼ機能停止するような経験を度々してきて、そんな時にこそ強く記憶に残る濃厚体験を別次元でするのですから、尚更です。
もう約30年も前のことですが、霊魂としての自分の存在だけは確信できていた高校生の私の感覚からすると、生物が物質として存在すること。その物質生物である人間が、肉体生存に不可欠とされる物(カネ)を追い求め続けて一生を過ごすこと。全宇宙を物質として説明している現代の宇宙観・世界観・人間観を当然の事として受け入れている人が大多数で社会が成り立っていること…等々の解せない不思議だらけで、それらを探究したい情熱以外に欲求らしきものが皆目見当たらず、そこから20年間は常に身の振り方に窮していました。
「とにかく物質だけではない生命とは何か?」との疑問探究以外には期待も希望もないのですから、私の肉体生命維持欲求が希薄なのは一貫していました。しかし、肩書きでも名誉でもカネでも色でも健康でも何でも強く求めることがない分、失うことのショックも小さいため、衝動的に何かをしでかす確率は案外と低いのです(笑)。
ところが前世紀から今世紀に入る節目に世に出た映画「マトリックス」を観た時、私は大きな喜びを感じました。絶対唯一だと思い込んでいる現実が幻想である可能性を見事に描写している内容だったからです。作った人たちはもちろん、それに気づいている人たちがこの世界にも一定数はいるであろうと憶測される作品だったからです。
あれから17年、映画に限らず今ではあらゆる作品にその概念が盛り込まれています。つまり、子供の頃からそんな感性を培った世代が大人になっています。お金に繋がる地位や名誉や評価・家や車などの物的資産所有・性的快楽・飲食や観光旅行などの享楽…等々に興味の薄い人たちが増えているのです。
それらを動機に頑張ってきた世代が作った世の中のしくみに乗っかれない人々が溢れ出てくることは当然です。高校卒業後の私は家賃を払うために朝まで掃除のバイトをしたりの生活でしたから、それほど贅沢なひきこもり生活はできませんでしたが、男性ほぼ全員が学生か公務員か会社員か自営・経営かのどれかに該当していた時代でも、既にどこにも属さない中途半端人生を選択していた「ひきこもりフロンティア」(笑)の自覚はあります。
お伝えしたいことは、物質的価値観に埋没できない人々が急激に増えているということです。幻想に全てを捧げる生き方ができないことは誰にでもわかることです。
何が現実で何が幻想なのか。
その定義が相違したままでは、話し合いの土俵にも立てないわけですね。
簡単に説明できることではありませんが、25(日)その価値観の違いをわかりやすく解説いたします。俗に「ひきこもり」と呼ばれているものは、どんな現象なのか?
社会でバリバリ活躍している人でも遠慮なくお越しください。
「ひきこもり代表」として(笑)いろんな質問にもお答えいたします!