ひきこもり
一言で「ひきこもり」といっても、私はそのひきこもり度合いにかなりの幅があるものだと感じています。皆さんはどうお考えでしょう。
政府や社会が「ひきこもり」だと認定?するレベルは「少なくとも半年や一年など年単位の期間、学校へも職場へも通わず、社会的な接点を持つことなく家ですごしている状態」を指すようです。
相手が家族でも誰でも一切接したり話したくないケースから、ちょっと買い物に出るくらいは平気だという人もいるでしょう。たとえ重度ひきこもり中でもトイレには仕方なく行くのと同じように、電車や車で通学通勤していながら「実質ひきこもり」という方々が大勢いらっしゃるような気もします。
昔から世界中で言われている通り、他人は自分の鏡でもあります。つまり程度の差こそあれ、周りに映し出される自分の姿に耐えられない心境だということですが、どういう理由で鏡に写りたくないのか…それには人それぞれの背景があるため、なかなか画一的に扱えるテーマではないのです。
自己像を初めて知らされたショックで収縮したのか、元々持っていた自己像と周りの評価との相違があまりにも大きかったために愕然としたのか、自覚があって防御していた部分が露呈されてしまい情けなくていられないのか…
実に様々なパターンがあるでしょう。
対人間や対社会で生じる「ひきこもり」ですが、本人の能力なり哲学なり技術なり、これまで蓄積してきたもの、してこなかったものに端を発しているのは確実な現象なわけです。綺麗な言い方をすれば「醜悪な人々に囲まれたこんな穢れた世の中で自分はとてもやって行けない」という口実にもなりますが、それも「対人免疫力を養いそびれた」と言ってしまえばそれまで(笑)。
30年前なら肩書きや資格等で組織的に守られて生きて来られた人々が大勢いたでしょうが、今やそれだけで守られる人は著しく減ってきている世の中です。かといって雑誌やネットでもてはやされるような人生に該当する人はごく一部です。
「普通に生きるのが難しい時代」なのではなく「何が普通の生き方なのかを見極めるのが難しい」時代になったのですね。
6/14(水)と6/25(日)は、そんなマクロ観点からのお話がメインとなるでしょう。