お知らせ

2018年11月24日

寿命があるからこそ

私が2歳の息子のことを投稿しているのを見て「子煩悩だな」と思われている方も多いでしょう。どう思われようと自由ですし、その事を正直気にも留めていません。

 

私が倒れて意識不明となった日に生まれた息子を後日私が認識できた時、「コイツの存在をまだこの世で認識できているのなら、どこまで関われるようになれるかを確かめてみよう」猛烈に痛くて苦しいだけでほとんど動かない身体で私はそう誓いました。

 

その甲斐あって、医者には危険すぎて止められるようなリハビリを連日こなし、今では眼もまあまあ見えるし話せるし歩くことができて、糞尿を漏らす機会も随分と減りました。

 

「いつかやろう」と思えば、何もできないまま人生は幕を閉じます。健康な人でさえもそうなのですから、ましては死に損ないの私なら・・・生きていたとしたら二年経った今でもベッドで何も出来ずに呻いていたことでしょう。

 

それでは生きていても意味がない、私はそう考えるのです。肉体を去る時に納得の人生であれば、肉体年齢なんて無関係です。むしろ無駄に長生きをするほど虚しさは募るでしょう。だから自分が危険なことを理由に何かを止める事は元々あまりありませんでした。

 

いつまでも今の肉体生命があるかのごとく錯覚しているから、何もしないし死ぬのが怖いのです。結論、人間は数えられる日数で必ず肉体死を迎えるのです。

 

これは今生きている誰にでも共通している事項です。愚かな大いなる勘違いをして無駄に生きようとする人が多いから、食肉にもならない家畜として扱われてしまうのです。