お知らせ

2018年07月19日

比較してしまうのは

「相対の世界を超越する」って、どういう意味なのかわかりますか?

 

誰しも何事に対しても快適ゾーンを持っています。それは生活習慣から自然と培われてしまうものだと私は考えますが「快適だとする基準を離れると不満に感じる」ということです。

 

それは裏を返すと、快適ゾーンとの乖離が著しく大きいと、もう「快適・不満」の問題ではなくなってしまう、ということです。例をあげてみましょう。

 

自分の快適気温(室温)が20℃だとすると、30℃では暑く、10℃では寒く感じるわけです。しかし、年中50℃の気候で暮らしている人からしてみれば30℃は涼しくて快適、マイナス10℃に慣れきっている人には10℃でも暑くて不快だったりするのです。

ところが仮に100℃やマイナス100℃の状況下になれば、普通の人間ならばすぐに失神や死亡をするわけです。

 

温度は健康問題や生存安否にもかかわるテーマですから、あまり実験したり極端な考えを持つことは止めておきましょう(笑)。

それでは「恥ずかしい・怖い」などの感情が湧くことについてはいかがでしょう。

 

人それぞれに「これは恥ずかしくてできない」「それは怖いから回避しよう」「そんなの絶対に無理」などの基準があるわけですが、法律で定められているわけでもないケースがほとんどです。基準が人それぞれに設定されていて、多くはそれらが変更されることのないまま長年の判断基準となっているのです。

 

自分で「そんな恥ずかしいことはできない」「そんな恐ろしい危険は冒せない」「自分には不可能だ」と勝手に決めている基準には、実は呆れるほどの個人差があるのです。

例えば10人の前に出て話をすることが一大事の人もいれば、100人の前で話すぐらいでは物足りないという人も実際にいます。

 

これは「怖い」「恥ずかしい」と感じる基準が長年変わらない人が多くいる一方、人生の途上で自分の限界基準をどんどんスライドして行く人もいるからです。自分の中の警告ブザーがやたらと鳴る人が多いのですね!笑

 

それをブーブークッションぐらいの扱いにできれば、失敗しても大半は笑って済まされるし、自分も上限なく成長できると思うのです。

 

近年、私はその顕著な例を自分自身であれこれ体験しています。

近況連日の猛暑は、雪や凍結にも馴染みのある日本で暮らす皆さんにとって凄まじいものがあります。普段は健康な人でも倒れたりするわけですから、二年前に脳幹出血で死に損なって一時は植物状態となった私にとっては10分の散歩でも大旅行です(笑)。

 

それでもリハビリペースを落としたくはない私は、今朝も公園散歩に出かけました。飲食店で充分な休憩をとってから、ネットでなくリアル書店を無性に訪れたくなったため、汗だくになって中古大型書店に徒歩で立ち寄り、文庫本を数冊買って帰りました。

 

汚い話で恐縮ですが帰ってから汗だくのズボンを脱ぐと、自分の下着が汚物まみれになっていたのです。2年前の意識が戻ったばかりの頃は全身の感覚がなかったので介護パンツも履いていましたし、よくあった事なのですが、皮膚や筋肉の感覚が徐々に戻りはじめてからは滅多になくなった事です。

 

あまりの暑さで肉体感覚が麻痺したことに重ねて元々が汗でヌルヌルビチョビチョですから気付けなかったのです。2年以上前の健康な自分でしたら、その情けなさやらマヌケさから怒りが込み上げてきたのかもしれません。

 

しかし極めて切ない経験を「これでもか!」としてきたこの2年間で私の許容量は格段に上がりましたから、他人のコントを観ているみたいに我ながらそのマヌケさに笑いが込み上げてきました。

 

添付の写真は最近のものですが、私が倒れた日に誕生した息子を抱えてテレビを見ている様子です。

退院後すぐの私にとっては息子を落とさないで抱えること自体が高度な技でした。視力もほぼ失ったので、肉眼をテレビに向けてもビジョンは捉えられませんでした。それが二年近く経った今では、必死にがんばらなくても自然と息子を抱えてテレビが見れるくらいにリハビリが進んだわけです。

 

何でも比較の問題なのです。リッチそうな暮らしをしている人と比べて自分を蔑む、辺りが飢え死にしている地域の人と比べて自分が恵まれていることに感謝する、どちらにしてもその人の自由です。

 

私は歩けるようにはなりましたが自転車には乗れません。でも自転車に乗って楽しそうに遊ぶ小学生を羨んでいても何も良い事はありません。

ただ車椅子を見かけた時に「自分もベットから車椅子に移してもらうことが大変だった時期に比べると、随分と進歩しているなぁ」と感じることで私は喜びや達成感を味わっています。

 

下を見て自分を慰めろ!ということではありません。何を比較対象とするのかで自分のポジションを皆が自分で決めている、という意味です。僅かな違いを理由に一喜一憂することも、その人の自由ですしね。

 

それらを飛び抜けた領域を経験すれば、似たり寄ったりの人々が勝敗や優劣を問題にしていることがバカらしくなったりもするのです。いずれにしても、比較できているうちは似た者同志だということです。

 

似た者同士が集まることで安心する傾向が地球人全般にあるようですから、受験戦争でも出世競争でも国家間の戦争でも、残念ながらなるべくしてなっているのですね。

 

「それはおかしい」と感じている似た者同士が、私の発信をきっかけに仲間となることも面白いなぁ、そんな風にも思っています。