キーパーソンとの出逢いは、今回の肉体人生での偶然ではありません。
男女の出逢いの話とも限りません。
今回は仮に男女の出逢いであったとしても、無数の人生の中でその相手とは家族であったり仕事仲間であったり師弟関係だったり…
仮に地球では初めての関係発生だったとしても、他の星で関わっていたからこそ地球でも関わることになっているのです。
スピリットとは、精子と卵子の確率論的な結合結果ではありません。
肉体だけなら確率論。
他の生き物ならそれだけかもしれませんが、人間の場合は胎児である時期のどこかで肉体にスピリットが宿ります。
クローン技術にはそこの視点が欠落しているため、テクノロジーでの人間増殖には大きな問題が伴うのです。
初めて会ったはずなのに親しみを感じる人、それほど関わってはいないのに嫌悪を感じる人などが存在するのは、時空を超えた特定の関係性をスピリットが感じているからです。
これくらいは宗教でもなく、もう科学的な話とする時期に地球も入っています。
非物質の科学、それも初級です(笑)
決定的なのは、肉体は繋がっていないから別物として扱ってしまうのです。
ところが意識体は非物質ですから実はすべてが自分です。
集合意識とは、肉体は個別のようでも実は誰もが繋がっているという意味です。
地球の悲鳴を感じ取っている人は実際にいるのです。
物にも愛着が湧くのは、物の意識と共鳴しているからです。
とにかく、すべてが非物質の意識であり繋がっているということを皆が認識すれば、人に対しても自然に対しても物に対しても、一切の害する行為は自然と消滅するのです。
だから私は、「宇宙も人も非物質である」と重ね重ね説いているのです。
そして、その繋がっている感覚を「愛」とも呼ぶのです。
私は小学生まで、誤魔化したり嘘をついたり全くできない不器用な子供でした。
それで当然のことながら中学ではイジメに遭いました。
家庭環境による影響も多いでしょう。
10歳頃までには多くの子供が、相手への発言を控えたり自分には興味がなくても相手に同調したりするいわゆる協調性が養われるのですが、それは一朝一夕で身に付くことではありません。
よって中高生時の自分は人間嫌いのほぼ自閉症で、音楽に逃避するようになりました。
それだけでは賃金を得ることができない、かといって就職をすれば苦手な人間関係に疲弊して心が病んでしまい、若いうちは何をやっても長くは続けられませんでした。
世の中にはこのような人が必ず一定数はいるはずです。
誰もが小さな嘘さえつかなくても皆が楽しく暮らせる人間社会の実現を夢見たわけですが、それにはスピリチュアルな価値観が不可欠です。
人には本当にそれぞれの個性があります。
それなのに近年は画一的な基準で人を評価する社会のしくみだったから、今の地球は無理な生き方を強いられている人々で溢れかえっているのです。
皆がもっと自由に幸せや喜びを感じる社会。
他の星ではもちろん、実はかつての地球でもそうだったのだという確信が私にはあります。
肉体での生存だけに執着しないことが重要です。
怖れとは人間を制御するためだけに植え付けられている感情なのであって、そもそも人とは非物質のスピリットなのですから。
私はこれまで何年もfacebookに投稿をしてきましたが、若い世代からは「私はfacebookをやりません」と実際に言われたりもしました。
そこで投稿記事の一部をホームページのブログに移してみたところ、本当に「いつもブログを楽しみに読んでいます」との声をいただくようになりました。
自分が高校生頃、ベータかVHSかの二択の時代があったことを思い出しました。
時代と共に流行は変わるのですから、自分のスタイルもそれに適宜順応させないといけないのは何歳になっても同じことですね。
飲食店とかでも私はタブレットでオーダーすることには違和感があるのですが、便利さと効率ばかりを重視していたのでは人間味がなくて殺伐とした社会が広がって行く怖さのようなものを感じてしまうからでしょうか。
私もネット番組に出演してはいますが、こんな風潮だからこそ殺伐とした社会に潤いを与えられるようなトークを展開するよう心がけます。
「スピリチュアルTV」をご覧くださっている皆さん、いつもありがとうございます。
次回の生放送は8/2(火)の10:00です。
後からユーチューブで検索して観ていただくことも大歓迎です。
『どこに意識をフォーカスするのか』
全てに特徴があります。
どの部分に意識をフォーカスするのかによって、その特徴は長所にも欠点にもなります。
自分が誰かに指摘された特徴を、それが欠点だとみなしてコンプレックスとなっている場合があります。
誰かに褒められた特徴を、それが長所であるとみなして伸ばす人もいます。
自分の同じ特徴であっても、それが長所であると捉える誰かと欠点だと捉える誰かがいます。
誰かの自分に対する指摘を重要視するも軽視するも、その相手やその時々で異なるでしょう。
物事の価値は常に中立です。
そこにどんな意味付けをするのかも自分次第です。
幸せも不幸も、豊かさも乏しさも、楽しみも悲しみも、定義しているのはいつでも自分自身です。
自分に価値があるかないかも、自分が決めています。
人生とは、誰にとってもそこに気付くゲームなのです。
何百回でも何千回でも言います。
「パワレルワールド・夢の世界」とは、自分がたまに認識しているくらいなら「この世界」との区別がつけられます。
ところが、近頃の夢での私は親しい仲間と何かと充実しています。
夢から覚めてみると、その仲間はこの世界に存在していなかったことに気付かされます。
すると、この世界こそが不自由さを体験する貴重な夢の中の一つだという感覚が自然と芽生えてきます。
誰もが自分の軸をどこに置くかによって夢か現実かを定義しているのですが、選択する世界の数は常に呆れるほどあるのです。
夢見る人であり続けるのか、夢のような現実を実際に生きる人となるのか、夢すら見ない人になるのか…
とにかく、それは自分の発する波動で決まってくるのです。
実は自分以外の誰にも決められないのですが、誰かが決めてくれると考えている人がこの世ゲームを複雑にしているだけ。
宇宙のしくみはいたってシンプルなのですが、思考がそれを複雑にする…
特定の人物や組織が大衆を操作するため、そのように洗脳するのがマスコミの役割だったのです。
自ら情報を取捨選択し、テレビ新聞や大勢から影響されない若い世代がこの調子で増え続ければ、地球人の暮らしぶりも周りの星と同じく愛に溢れたシンプルなものとなるでしょう。