お知らせ

2017年02月07日

見えている通りには実在しない?

何度か触れましたが、ここ半年近く私が抱えている身体の後遺症あれこれの中で最も辛いのが肉眼視界の錯乱です。

左右の眼球が捉える映像を脳がリンクして処理できないため、常に対象が複数重なっているように視えるのです。

 

真っ暗闇に灯りが一点だけという状況でしたら二点に見えるだけですが、日常では背景を必ず伴った状態で右の捉える映像に左の映像が重なり、当然左右逆の現象も同時に起きていて対象物も自分も移動するため、常時まるで万華鏡を覗いているような視界なのです。

 

意識が戻って症状を自覚した初期には、車椅子での移動から立ったり歩いたりする練習の著しい障害になりますし、両目を開けているだけで気持ちが悪いので常に眼帯で片目を塞いでいました。

 

この先もずっと続く症状だとすると、かなり陰鬱になりかねないそんな状況下でも私はそれほど深刻にならず、毎日が不思議アトラクションで冒険しているように楽しんでいるところもあります。

 

「転倒せずにできた!」「ぶつからずに通り抜けられた!」「どれが本物か見当がつくようになった!」といったささやかな楽しみ方ではありますが(笑)眼前の数十センチならなんとか普通に見ることができるようになっただけでも大きな進展です。

そんな気軽な感覚で済ませられている大きな理由に、私は幼少期から元々視覚に関する独自の考え方を持っていたことがあげられます。

 

それは、「肉眼で視えているからといってそれが実在するとは限らない」…反対の言い方をしますと、「視えない」からといって「実在しない」ということにはならない、という持論です。

私はほぼ毎夜夢を見て、結構それらを憶えている子供でした。暗い部屋で肉眼の瞼を閉じていても充分にカラフルで現実的な映像をキャッチできているのだから、肉眼は補助的なものだとしか思えなかったのです。

 

これは聴覚や触覚に当てはめて考えても同様に言えることです。
もうひとつは、魚をはじめとして甲殻類・昆虫・両生類・爬虫類・小型哺乳類など様々な生物を捕獲しては観察するのが大好きな少年であった私にも憶測がついたこと。

それは、あらゆる生物が、同じ対象物を全く別のものとして捉えているであろうということです。

 

それは、外見がほぼ同じ人間同士においても該当する事だと思うのです。

 

自分の視界を他人に説明することも、誰かの視界を自分が真に理解することも、できているようで実はできていない。

 

「見る」という行為をしている「自分」というものの実態はいったい何なのだろう…?子供の頃から常にそう感じていたのです。
錯乱状態だと感じている今の視界が、突然の脳出血からではなく生まれつきの視界だったとしたら、それが私にとっての視覚から自然と認識される世界の在り様なわけで、「視界が変だ!」などとは思わないはずです。

瞳を閉じても映像や画像が浮かぶ事実を、現代の医学や科学では脳機能の産物だとしたがるでしょう。

 

私はその事をとやかく言いたいわけではありません。

「科学的」という言葉を使うのであれば、人や宇宙に関する大切な真理は現代社会で「非科学的」とされていることの中に埋没してしまっているのです。

 

人や時期によって必ず異なっていて当たり前の内容を、第三者が検証するなんてこと自体、ナンセンスの極みですよね(笑)。