天国と地獄
宗教などで定義する天国や地獄はあの世の話です。
ところが生きている人間でも、辛くて苦しい状況を「○○地獄」「地獄の○○」などと普通に言います。
逆に、まだ生きているのに「○○天国」なんて表現もありますね。
さすが、今日でも「お盆」等、死者の霊をもてなすという風習が続いているだけのことはあります。
欧米の唯物主義医療・製薬・保険などの業界が浸透した結果、表面的には多くの人が闇雲に肉体死を避けて長生きしたがっている現代日本でも、生まれてくる人と同様に故人を尊ぶ、「あの世」と「この世」を分離させずに重ねたような価値観が根底にあるということでしょう。
子供の頃から何でも捕獲して飼育したがっていた私は早くから生物の生死には興味がありましたが、人間社会での死生観を意識しだしたのは中学の頃からでしょうか。
そのきっかけは、田舎でも高校受験というものがあったため、そこに価値を認めている人間や社会というものを不自然に感じ、色々と調べるようになったのです。
すると、宗教的概念で「死者はすぐに裁かれて天国行きか地獄行きかを決められる」的なものが多くあったのです。これでは、生きているだけで既に容疑者扱い(笑)。
それを象徴するかのように「懺悔」などという言葉があるのです。
これは…
そこに意義や価値を見出せるかどうかなんて全く関係なく、自分がどんなにくだらないと思う基準でも、相手に合格・不合格を決められる受験システムそのものではないか!
おまけに社会に出る際にも「就職」などと言って、同じように人間が品定めされるのが常識となっているようではありませんか!!
高校生の頃には、天国地獄について私なりの定義ができはじめました。それは、地上で物質肉体に縛られている状態が「地獄」、肉体から自由になった非物質の状態が「天国」です(笑)。そうして探求を進めるうちにわかってきた重大事。
それは、地獄ゲーム(人生)は有志参加制なので、脱獄(自殺)したらルール違反です。
自ら望んで参加したゲームなのにもかかわらず、自分の参加経緯など、ゲームを上手く進めるための情報はゲーム終了まで原則隠されている…というのがこのゲームの究極の醍醐味。だから地獄たり得るのですね。
どおりで「憎まれっこ世にはばかる」だし「いい人ほど早く死ぬ」わけだ!なんて妙に納得できるじゃありませんか(笑)。
実際には「憎まれて早死にする人」も「長寿の人徳者」もいるでしょうが、「生き地獄」とはよく言ったものです。
ゲームを満喫できるようヤル気満々であるほど、人生は地獄絵図さながらにプログラミングされているのです!(笑)
そんな地獄ゲームに没頭している最中には思いもよらないのですが、ゲーム途中でも天国の情報にアクセスすることは反則ではないのですね。
しかも、実は回数無制限でヒントを常にもらっているのですが、それに気付けない人が多いだけなのです。
なぜなら、非物質の自分が物質肉体の自分をサポートしているから・・・・
人生のヒントをくれるのは誰でもなく、他ならぬ非物質の自分自身なのです。