お知らせ

2016年12月10日

夢と現実

みなさん、「夢」という言葉、とても興味深いと感じませんか? 

睡眠中に見るのも夢ですし、とても叶いそうもない物事などにも夢という言葉が使われたりしますね。後者の場合、どの程度までを夢とするのかは人によって随分と幅があるのだと思います。現代日本人でありながら「一回の人生で5千人の異性と交わって1万人の子を設けたい」というならば誰にとっても夢で終わるでしょうが、「いつか深く解り合える一人の異性と親密になった結果、子宝に恵まれるのかも」という想いならば、それは「既成事実」「当然」「目標」「期待」「予感」「幻想」等々、いろんな捉え方をする人がいますし、それこそ夢見ている人もいますよね。夢は夢でも悪夢と感じている人だっているでしょう(笑)。

 今回、私がこの話題から入ったのは、みなさんが日常的に使っている「夢」という言葉には「現実味がない」「実感がない」というようなニュアンスが多分に含まれているのではないかと思うからです。しかし、今から私が説明を試みる「夢」の話は上述の多数派からすると【夢=現実】もしくは【夢>現実】みたいな、少数派とされてしまうお話です。

 私は幼児の頃からほぼ毎夜、夢を見ていました。当時の私は今のような語彙や表現力を有していませんから、その異世界のことを親にも説明できませんでした。
内容的に説明しづらかったのもあります。例えばそのひとつが、夢の世界の入り際には数パターンの現象が伴っていたことです。瞼を閉じると球体をベースにした幾何学模様のサイズと形状が変化して行く映像が見えてくることや、瞼を開けていた場合には自分が地下深くに沈んで行くみたいに天井の照明器具が徐々に遠ざかって小さくなり、音も遠ざかって行くこと。
そして何よりも夢の内容です。今でも憶えているのですが、仮の家族である肉親ではなく、真の家族が迎えに来てくれ、「バレてしまったのなら仕方がない」とでもいう雰囲気で、まだ幼い自分を実の両親が見送ってくれていたシーンがありました。そのとき両親は、なぜか水の噴出し続けているホースを手にしていました。

何をもって肉親が「仮の家族」で、迎えに来たのが「真の家族」だと感じたのか? その真の家族の風貌はどうしても思い出せないにもかかわらず「夢の世界の人達こそが本当の自分の仲間だ」と確信してしまったのです。小さな子供なので睡眠時間が長い上に内容に連日継続性があったということも大きな要因でしょう。両親を偽者だと考えるくらいですから、幼稚園や小学校の先生や生徒は基本、自分とは別の種類の生命体だと考えていました。

そう考える決定的な材料もありました。私にとって現実世界より真実味のある夢の世界…その夢を、睡眠中に「見ない」「全く憶えていない」「ただ真っ暗」などと語る人が多かったのです。大人になるにつれて唯物主義の刷り込みが進みますから、徐々にそういう人が増えてくるのは致しかたないにしても、そういった人達は、幼児が半日眠っている間、いったい何をしているのかを不思議に思わないのでしょうか。心臓の鼓動も呼吸も休まず続けていて、眠っている間に怪我や病気が回復したり肉体が成長したりするのは、本当に物質的な栄養だけで出来得ることでしょうか。

 人は肉体生物でもありますが、本質は非物質の情報生命体である!というのが私の見解です。「肉体」に対して「霊魂」という位置づけはなんとなくわかる…という方ならば、「夢」の世界との関連性にも注意を向けることの大切さに気付くはずです。今でも肉体死のことを「永眠」と言うではありませんか。

今年の夏、私は今人生で最も深遠な夢を見たのです。一時は危篤だったため連続100時間単位の眠りです。肉体死に至るかどうかなんて、本人にとっては瑣末な事に感じるほどの壮大でリアルな異次元の意識世界…

私は長年「夢」というものについて、敢えて学術的なアプローチは採らず自分なりに探求してきましたが、この経験を機に大きな進展をみたと感じています。
長くなってしまったので、続きはまた後日に試みます。
最後までお読みくださってありがとうございます。