マンダラって何?
下の写真にある大きな野菜をご覧ください。
マンダラでなくても、目にして美しいと感じたり思わず目を奪われてしまう形状や色彩というものが、皆さんそれぞれにあるでしょう。
私はとりわけ魚・昆虫・植物等々、自然物の造形に心奪われる少年時代を経て、星の軌跡やら肉眼で確認できない雪(水)や鉱物の結晶などにも魅せられたものです。
人工物のデザインも好みは人によっていろいろですが、やはり「イイ!」と感じる物の外観には、自然物と同様の法則性のようなものが巧みに取り込まれていると思うのです。
乗物のボディデザインを生き物の形状として捉えている人も多いのでは?
さて、ではどうして初めて見るものであっても、特定の色や形に対して「美しい」とか「バランスが悪い」などの好き嫌いが出てくるのでしょう。
私がそんな考えをあれこれ巡らせていた頃に気付いたことがありました。それは例えば魚であれば、全身フォルムだけではなくて部分的なヒレやウロコ、全体でも部分でもバンド・ライン・スポットなどの模様に、その種その個体独特のパターンが認められ、ある意味数学的なその法則性に美を感じているようなのです。
しかし生半可に数学的な見方をすると、釣りに出かけて釣れたカレイを眺めて「両目とも常に片側を向いてるとは、なんてふざけたデザインなんだ!」と創造主にケチをつけたくもなるのです(笑)。
しかし自分が成長するとわかってくるのですが、数ある魚種の中にはカレイもいればヒラメもエイもいますし、ここでは割愛しますがフィボナッチ数列やら黄金比やらの数学的見地からしてもマクロで見れば何らおかしくはないのです。
理屈は抜きにして、傑作とされる庭や盆栽などは入門者にはアンバランスに見えますし、池の鯉も上面から眺めて左右非対称な模様が通好みとされるのです。
私が何を言いたいのか・・・・
常に限られた小さな視野でモノを見ていながら、相手のことを「そりゃおかしい」「そんなんじゃダメだ」「けしからん!」などと決め付けているのが並の人間という生き物なのです。対象のそれがそうなっている意味や理由は自分の非物質的成長に伴ってわかってくるものなのです。
それはつまり、歳だけ重ねてわかっているつもりでも、残念ながら一生わからないままでいる事が誰にでも呆れるほど沢山あるということです。
そんな実情を知ることが「謙虚」という態度を自然に生むのではないでしょうか。
そして宇宙の真理探究には、万人がもっと「形状」や「色彩」などに興味を向けることが、かなり有効な手段ではないか?ということです。
言語には制約が多すぎます。
言葉が通じなくても、色や形で直感的に伝えるという手法は時やエリアを限定しませんし、マンダラに限らず、とりわけ幾何学形状は、時空を越えることのできる優れた情報伝達手段なのですね。
皆さんご存知のように、これら色や形と並んで「音」も優れた情報伝達手段ですよね。
音については、語ると長くなるのでまたの機会に譲ろうと思いますが、音量は控え目でも私の企画イベントでは「音」も積極活用しています。
通常の人の声とは異なる周波数も用いたいからです。
「文字を読むだけ」という情報受信行為は、情報伝達が未熟な種に特有の手段だと思うのです。
それらを補おうと発達してきた「テクノロジー」が皮肉にも、種の未熟さを助長してきたのですよね(笑)。
私は科学技術よりも、地球人という種の非物質的変貌に興味があります。