お知らせ

2019年 10月
2019年10月31日

この世の立ち位置

何が現実なのかについて確証のある説明ができる人は、存在するようでいて存在していない・・・面白い事実だと感じませんか?

 

私が「あの世」という言葉を頻繁に使うのは意図的です。なぜなら「この世」とは、沢山ある世界の一つでしかないからです。「あの世」とは「この世」と対照的な世界という意味ではなくて「これが世界の全てである」と多くの人が認識している「この世」とは、沢山ある世界の一つだけであると私は認識しているのです。

 

同じこの世にも複数のパラレルワールドがあります。「あの世」とは、この世を去った後に「この世の続き」的な世界があるのかと勘違いしている人が多いので「あの世がある・ない」といった話になってしまうのですが、実はこの世の誰もが元はあの世の住人。この世にいながらもあの世は並行存在していて関わり続けていますし、肉体を去れば元に戻るというのは当然のこと。別世界にアクセスできなければこの世にも居続けられないので、この世で生きている誰もが毎日睡眠を確保しているのです。

 

それなのに何故「この世だけが全て」だと捉えてしまうのかというと、恋愛を経験したことのある人なら多くは解ることでしょう。異性も同性もこの世に十億人単位で存在しているのに、特定の人だけしかこの世に存在していないかのごとき錯覚に陥ってしまうわけです。だからこそ結婚したり妊娠出産したりとかもあり得るわけで、私はそれを悪く言っているわけではありません。つまりは他に親しくなる人がいないから起き得ることなのです。

 

しかし誰もが睡眠中には夢を見て、覚醒中でも当たり前に異世界を体験しているのに「この世が世界の全てである」と誤認している人がこれだけ多いということは、明らかに皆がそのような洗脳を受けてしまっているのです。

 

その洗脳から抜け出せない限り「人生における生死とは何か? 宇宙とは何か? 重力とは何か? 時空とは何か?」等、人類にとって重要であるはずのあらゆる事項があやふやなままでしょう。

しかし「あやふやなままで済ます時代はもう終わった」と私は感じているのです。

2019年10月28日

復活の予兆

昨夜は「非物質ガイドとの探索」3部作の出版で共に仕事をした「まるの日圭」さんの「東京夜会」に参加してきました。
私が倒れてからは初となり、数年ぶりに懐かしい顔も見かけて「私はまだこの世にいたんだ!」と再認識できました(笑)。

その時共に出版のお仕事をした編集の江口さんも偶然来られて(多分彼は初参加)よくも凄いタイミングだと感じました。

 

倒れる前から決まっていた圭さんとの名古屋の出版記念講演に、倒れてから数ヶ月後のヨレヨレの私が妻の介添えで出演した時のことを思い出しました。まだ眼も見えていなく、手足もあまり動かなくて「サインください」に応じるのに難儀(笑)した記憶があります。その頃に比べれば今はノソノソ歩いているくらいで痛さも辛さもなく、昨日もバスやタクシーを使わずに電車と徒歩で累計数時間は歩きました。

 

より健康体に近付いている確認ができた一日となりました。今後は更に積極的に活動します!

2019年10月26日

誕生も死亡も皆が孤独

孤独とはどんな時に感じるものでしょう。

 

私も十代頃までは常に孤独を感じていました。ところが、自分以外の誰かと一緒にいたり共に過ごしたりする機会があると、益々孤独感が深まるということに気付いたのです。遅かれ早かれ誰もが気付くことでしょうが、自分と全く同じような感性や価値観を有する人なんてこの世には原則いないのです。でもそんな幻想を抱く時期がきっと皆さんにあるのでしょう。だから「恋愛」などという幻想ゲームが成立する!(笑)。

 

人とは必ず別の個性を有するものである。そんな割りきりができてしまえば、孤独という当たり前の感情に虚しさを覚えることも無くなるのです。むしろ少し感性が近い人に出会えただけでラッキーだと思えてしまう(笑)。

 

自分の好みを表明して行動することで、結果的に仲間だと思える人は増えるのですね。

2019年10月25日

他人の存在は自分の意識

誰にとっても、存在感の大きな人とその一方で普段は存在自体を忘れているような人もいることでしょう。人の存在のあるなしとは、自分がその人のことに意識を向けているかどうかで決まります。

 

テレビや雑誌である人の存在を知って、会ったことも話したこともないその人の、豆粒のような姿を遠くから見るためにカネや時間を喜んで使っている人もいます。他人の意識の中で存在感を大きく育てることができれば、そのような商売も可能だということ。仮にその豆粒みたいに見えていた人が全くの別人だったとしても何の問題もないでしょう(笑)。はじめからその人は見に来た人の心の中に存在しているのだから!

 

もうおわかりでしょう。
嫌だとか苦手だとか思う人がいるのなら、自分自身の意識がその存在を大きくしているのです。好きな人も嫌いな人も「自分の中では大きな存在」という意味では同じです。どうでもいい人は自分の中で小さな存在なのですから、好きとも嫌いとも何とも思わない(笑)。

 

だから他人をどうこうする必要は全くありません。自分の意識のあり方を自分で変えればよいだけなのです

2019年10月24日

学びは自由

皆さん、職場等で年上を相手に腹を立てたりウンザリしたりしていませんか?

 

肉体年齢はせいぜい数十年の違いであっても、魂の年齢は千年万年単位の違いがあったりするものです。しかし、古い魂が偉いわけでも若い魂がダメなわけでもありません。同時期の肉体人生でも、保育園児が高齢者よりも劣っている人間であるわけではありませんよね。それと同じで誰もがそれぞれの魂の段階に適切な学びを体験するため、この世にやってくるのです。

 

ただし、若者ほど暴力的だったり言葉が乱暴だったりはしますよね。高齢な賢者ほどおとなしくて控えめ、そんなものなのです。ですから中年以降になっても大声で騒いでガミガミ言うような人に対しては寛大に接することも知恵なのです。他人の幼稚園児に凄い剣幕で怒ったりウンザリするような人はいませんよね。厄介な事を言ったりやったりする人に対しては、修行だと思って(笑)微笑ましく接する事も時には必要です。

 

幼い魂ほど、この世で自分の人生を切り拓くことを苦手としているので、高学歴で大きな組織に属して一生そこで過ごす傾向にあります。何度も言いますが、それがダメなことでは全くありません。むしろ躊躇せずに人生のあれこれに手を出して、傍から見たらだらしのない人生をこの世で送っている古い魂もいます。つまり人の生き方とは良し悪しの問題ではないのですね。

 

何が言いたいのかというと、人それぞれのこの世での学びがあるということ。
ですから何に価値を見出すのかも実に人それぞれ。学びのペースも人それぞれ。
アナタが数千年前に学んだ経験を今の人生経験から学んでいる人が、アナタの教師や親や上司の立場である可能性も充分にあり得ます。その逆もあるでしょう。自分では立派なことをしているつもりでも「いい歳して幼稚なことしているなぁ」と黙って観られているのかもしれません。

 

表向きは同調して似たような事を口にする人が多いのですが(それが社会性だと考えるため)その実、人の数だけ異なる思いがあるのです。誰のことをどう思うのかはアナタの自由。人をどうこうしようとの思いがアナタにあるから腹が立つのです。どんな人であろうとも、それもその人の自由。

2019年10月23日

災難を受け容れる

今日の天候は台風でもなく暑くもなく寒くもなく風も穏やかで、外に出るだけでありがたく感じられるような陽気ですね。

 

いつもそのような陽気ならば特に何も感じないでしょう。強風に煽られたり雨に打たれたり暑かったり寒かったりという経験があるからこそ、平穏な気候だというだけで嬉しく感じられるのではないでしょうか。

 

これは何事にも当てはまります。病気や怪我をするからこそ、痛みも痺れも痒みも辛さも苦しさもない健康な状態がありがたいのです。支払いに苦悩する経験があるからこそ、寝泊りする場所や食事にありつけることに喜びを感じられるのです。

 

総じて人生の中で一旦は厳しい経験をすることは、人生に幸せや喜びをもたらす要素となるのです。これは気休めではなくて事実です。

 

ですから一時はどんな災難に遭ったとしても自暴自棄になったりヤケクソにはならないで「幸せや喜びへの切符を手に入れた」と思って淡々と受け容れそれを乗り越える姿勢、そんな考え方が人生には重要です。

2019年10月22日

異なる生命体を受け容れる

今日は天皇即位の儀式をどの局でも放映していました。

第二次大戦後、それまで国家統治者として扱われていた天皇が憲法で単なる国の象徴とされたことは誰もが知っているでしょう。では、平安時代等それ以前の天皇が何故特別視されていたのかを考えたことがありますでしょうか。

 

小学生頃から謎に思っていた私は思春期以降あれこれ調べてみたのですが、学者が発表している説は昔の文献に基づいているだけだったり、低知性な現代の学者が理解できない事は排除するような意図がはたらいて「実在したのかは不明」とか「記述の誤りかと思われる」みたいな情報で溢れかえっています(笑)。

 

そんな玉石混交な中ではありますが、天皇の起源となる人は身長3メートルくらいで尾があって全身が鱗で覆われていたとの情報を昔どこかで目にしたことがあるので、おそらく平均的な地球人に比べて身体能力なり精神性なりに秀でていた存在や、その末裔を特別視することから始まった風習なのだと私は考えます。

 

他の星との交流が原則無かったここ数万年の地球人は、他の星の生命体を見ると神様と勘違いして崇拝したり、悪魔だと思って攻撃を仕掛ける傾向があるため、それらが他の星の生命体からしても地球には介入し辛い要素となっているのです。それを象徴する現象ですね。

 

今の天皇は一般庶民との混血ですから、もうそのような特別視は不要です。相手が地球人とは大きく異なる部分のある知的生命体であってもそれを平常心で受け容れられる意識を、地球人も養う必要がある時期に入っているのです。

2019年10月21日

地球人を盲目から解放させる!

数日前から、倒れる前に穿いていた厚手のスボンを穿いて、歩いたりバスや電車を乗り継いだりして移動しながら長時間を外で過ごしました。

 

脳幹出血で歩けなくなってからは、良くてもスウェットパンツとかの緩いズボンしか穿けなかったので、自分一人で達成感を味わっています。
理由は、摩擦が大きいと脱ぎ穿きができないことと歩けないこと、それから下の粗相をした場合にあまりにも大変だから!笑 それがここ数ヶ月は糞尿を漏らす事もなくトイレで用を済ますことが出来ていて、思い切って健常者デビュー!みたいなものです(笑)。

まだベッドに腰掛けながらでないと着替えはできないし、相変わらずのヨチヨチ歩きしかできませんが、この日をイメージしながらリハビリを3年間続けてきた甲斐がありました。

 

先週末、私も講演を2度行わせてもらった「サトルエネルギー学会」理事からの強い勧めもあって、秋の講演大会に聴衆として参加しました。その中に「松尾みどり」さんという先輩女性の講演者がいて、地球外の星やあの世のことについて自分の言葉で講演されていたので私は興味を持ち、懇親会で色々とお話しさせてもらいました。

 

他人の著作やブログを引用して宇宙やあの世について語っている人は多くいますが、自分の体験や記憶から自分の言葉でそれらを語っている日本人には初めてお会いしたので(他国でそういう人がいることは知っています)私は今生、地球の日本に生まれてきた長年の孤独感が癒されたようで嬉しくなりました。

 

普遍的な、宇宙や知的生命体の在り方を、地球という星とこの世だけしか知らずに生きている盲目な今の地球人を啓蒙すべく、地球人のフリをしてこの世で活動している人は日本にもいらっしゃったのです。

 

今という時代が、地球の宇宙時代の幕開けであることを確信しました!

2019年10月18日

人の多様性

今日の昼頃に用事があって渋谷の街を徒歩で移動しました。何年ぶりでしょうか、少なくとも脳幹出血で倒れてからは初めてでした。すると、街の歩道の石のモザイク模様が激しい凹凸に見えてしまい、恥ずかしながらアトラクションに乗った高齢者みたいな疲労を覚えてしまった(笑)。

 

やはり一度壊れた脳は、再生したかに思えても元とは異なる構造で再構築されているのです。人の外見からでは全く判らない事ですが、同じものを視ていても人によってそれぞれ見え方が異なっているのだということを改めて感じさせられました。

 

 

若い頃「この魚の美しさがどうして解らないのだろう」とか「この曲の素晴らしさをなぜ感じないのだろう」等々疑問に感じる事は多々ありましたが、自分が視えたり聴こえたりするものとは異なるものを他人は視て聴いているのです。
視覚や聴覚ですらそうなんですから、味覚や嗅覚や触覚、更には霊感ともなればどれだけの個人差があるのかということです。

 

「それらを他の誰かと共有したい」なんて幻想ですし、共有を求めること自体がナンセンスなことであると誰もが認識すれば、多種多様な個人差というものを互いに尊重する人間社会が成立するものだと考えます。

2019年10月18日

失敗を笑う

失敗を笑えることはかなり重要です。その理由を説明しましょう。

 

これは、自分に対してでも他人に対してでも重要なのです。失敗と成功の定義についてがここでの主旨ではないので脇に置くとして、何事も一度目で成功する事ってあまりないですよね。失敗を繰り返すからこそ何とかしたくなるのです。そんな人間の心理を上手く突いて存在しているのが宝くじを含めたギャンブル(笑)。

 

他人の失敗に腹を立てたり自分の失敗に落ち込んだり、それらが日常では成功できる事はほとんど無くなり、単なる気の毒な人になってしまうのです。何でも一発で成功させる人が仮にいたとしても他人にそうさせることはできませんから、結局は不快だらけの人生が待っていることとなるのです。

 

他人の失敗をあからさまに笑う事は難しい場合が多いでしょうし、他人に対して無礼に振舞う事を推奨しているわけではありませんよ~。
卑近な例ですと先月、新品のインスタントコーヒーを持ち上げようとしたらフタが閉まっていなくて中身をブチまけたことがありました。その際に「誰だ、きちんとフタを閉めていない奴は!」とか怒ったところで何も良い事はありません。他ならぬ自分がやったことなのかもしれませんしね(笑)。そこで私は、自分のしたことのマヌケさに立っていられないほど腹を抱えて大声で笑ってしまいました。そうする事で楽しい思い出が一つ増えただけで済むわけです。

 

私は脳幹出血で死にそびれて一度はほとんどの肉体機能を失ったのですから、その事実をウジウジ考えたところで自殺以外にすることはありません。ですから、その事実を笑って受け容れることができて初めて次のステップを踏めるのです。

結論、自分の失敗をウジウジ悩んでいられる人や他人の失敗に腹を立てていられる人は、ヒマすぎるのですね!笑

2019年10月17日

身体ではなく心

私は3年前に脳幹出血で一度失明をしました。

厳密には真っ暗な失明ではなくて右目と左目の視覚情報を脳が処理できなくなって、常に壊れた万華鏡を覗いているような錯乱した視覚で過ごしていたのです。敢えて言うなら「3D映画を裸眼で観ている」のもっと酷いヴァージョン(笑)片目ならまだマシなので、眼帯を左右交互にして生活していました。

 

歩けるようになりそうな時期となっても、向こうからやってくる人の数や車の台数が全く認識できませんでした。それで、自ずと車も入ってこなくて人通りもまばらな公園道路でヨレヨレしながら歩く猛練習を一人重ねてきたのです。

 

眼に限らず、生まれつき肉体に障害のある人は少なくありません。それでも幼少時から人間社会に適応できるような訓練を出来得る限りの時間をかけて養うでしょう。一定以上の年齢に達してから突如失ってしまう肉体機能というものはダメージが大きいのです。私は視力だけではなく、多くの肉体機能を数時間で失いました。ものを飲み込むことも糞尿を体内に留めておくことも一時期はできなかった。私が倒れた同日に出てきた生後数日の息子と全く同じ!笑

 

もう肉体以上にメンタルの問題です。起き上がりも出来ないのに歩こうと思うのか?眼が視えないのに読み書きをしようと考えるのか?私は「する」と決めたから出来るようになっているのです。

 

今日、バス停でバスが一台近付いてくるのが裸眼で視覚認識できました。リハビリ病院で文庫本を顔から数センチの位置に構えて片目で読んでいた3年前の心情が蘇ってきました。

あれから3年… 肉体機能の修復には時間がかかります。
前向きな気持ちを維持できるかどうか、それこそが最大の課題なのです。

2019年10月16日

生きる楽しみ

今日、昼前にファミレスに入ったところ、隣の客席に荷物を置きっぱなしでトイレに一時間以上立て籠もっている客がいるとかで店員が困っていて、身体が悪い私もその障害者用トイレが使えないのでは困ってしまうと思っていたら警察が来て、やっとその泥酔した人は出てきました。

 

そのスーツを着た初老の人は何を要求するでもなく、その後一人でブツブツ独り言を語り続けて色んなところに電話をかけていました。つまりは寂しい人なのでしょう。徹夜で飲み明かして閉店になったからファミレスで過ごしていたっぽいです。中高生の非行少年少女と同じで、自分に注意を引かせたくてもその要素が何もないから問題行為をすることでかまってもらおうとするのです。

 

トイレに居続けるだけで店員が「大丈夫ですか?」とか何度も気に掛けて来てくれたり、終いには警察官が来てくれたりして犯罪者でもないから逮捕もされない。いい歳して何の楽しみもないということは、余程の寂しさなのでしょう。

 

帰りがけ、店員が「本当にスミマセンでした」とか申し訳なさそうに言ってきたので「動物園に来たみたいで面白かったよ!」と返したら周りでドッと笑いが起き、気持ちを和ませてあげることができました。すぐにどうこうなる事は誰にだってありませんが「これが自分の人生だ」と思える何かを築き続けて生きて行くことは、自分にとってとても大切なことです。

2019年10月09日

時の経過

時を超越するとはどういうことでしょう。この世に滞在しながらそれを理解する事は確かに難しいのですが、その理由を説明しましょう。

 

手元にDVDソフトがあったとします。収録時間は3時間だったとして、30分経過の箇所を観るのも、1時間先でも2時間先でもエンディングでも今観ている所よりも15分戻った箇所を観ることも簡単にできますよね。それはDVDソフトを操作できる立場にあるからできること。

 

自分が、普通に上映されている映画に出てくる主人公だったとしたらどうでしょう。
30分先の展開も読めなかったり50分前の経験をもう一度とかもできません。

 

もうわかりましたよね。

この世に出てきたということは自分主演の映画が上映スタートしているようなもの。あれこれ操作できるのは普通なら監督や制作関係者のみ。
その立場の人のことを、この世の人は「神」とか「あの世」とか呼んでいる。

 

映画は様々な作品を観に行って楽しんでいる人が多い。
だから多くの人が「この世」へも何度も出てくるのです!
時と場を変えて・・・
それは、この世での今現在からしたら過去・未来です。

2019年10月08日

夢とは一体なんでしょう。すぐには実現しそうも無い物事を「夢」見るとか「夢」みたいとか言いますが、ここでは睡眠中に瞼を閉じて見る夢の話。

 

夢にも立体空間があったり時間経過があったりしますよね。そして毎回皆さんにとってのこの世の時空と同じ感覚ではないと思います。私は3~4歳頃には夢を見ていた自覚や記憶がありますが、瞼を閉じていても空間を認識できるということは覚醒時に認識しているこの世の現実とされている世界も夢で、夢から覚めて初めて「ああ、夢だった」となるものだと幼い頃から思えてなりませんでした。それで肉体死というものに積極的に興味があったのです。

 

3年前に私が脳幹出血によって植物人間になっていた間に体験したことは、まさに「夢を見ていた」に近いものがあります。ただ、この世での睡眠中に見る夢に比べて時空間が複数重なって同時進行していたような感じなので、文字や言葉で表すことが難しいのです。

 

幼少期の瞼を閉じて睡眠に入る前、幾何学模様や球体の運動が私にはよく見えていたので、そこに非物質宇宙の本質的な何かが現れていたのだと大人になってから気付きました。

 

そのヒントとなる情報が、近年この世にもいろいろと出始めているのです。

2019年10月07日

知的文化遺産

昨日、カタカムナの勉強会に誘われて参加してきました。ついでに元々感じていた事を少し書いてみようと思います

 

現代人は、幾何学のような文字の意味を分析することだけが重要であると勘違いしがちですが、発音する(唱える)ことに本義があるのです。祝詞(のりと)や念仏等にも同じことが言えますでしょうが、読んだり聞いたり発したりする言葉の意味が重要なのではなく、発する「音」に意味があるのです。

 

厳密には「音」というよりは「波動・振動」ですから、発声の訓練に熟達していない人が文字を声に出して読んだところであまり効果はないでしょう。かつてはこの地球上でも「音」を駆使することによって巨大で重量のある石等を移動させていたのです。

 

ピラミッドやモアイ像等建設の憶測は、低知性な現代人の発想でしかありません。

再び地球人が知的生命体へと戻る時期が近付いているのです。だからこそカタカムナのようなかつての知的文化遺産が脚光を浴びはじめているのです。

2019年10月05日

何故地球は変わるのか

宇宙には大きさがないとはどういう意味でしょう。今日は補足説明をします。

 

人とは非物質であることを私は繰り返し説いていますが、宇宙も実は非物質。

非物質とは物質ではありませんから本質的にサイズはありません。その人が想定・イメージしているそれがサイズなのです。

 

「人間とは死ぬ事を怖れて生きるだけのちっぽけな存在」だとイメージしている人が多いから、実際そのような人で溢れています。「とある星までは光の速さで何百年の距離だ」とか教えられているから、自由に宇宙を移動する地球人は出てこないのです。

 

「人間は可能性に満ちているし、宇宙とはそんな人間の手中にあるのだから自由になる」では、これまで通り庶民を家畜として制御できなくなってしまいますから、地球人から搾取している存在側からは決して明かされなかったこと。ところがその搾取支配層が、今世紀に入って地球から失脚し始めたのです。

 

数十年もしないうちに、地球人は本来の知的生命体としてのパワーを取り戻すでしょう。

2019年10月04日

宇宙に大きさはない

小宇宙との言葉があります。主に人間や芸術品から宇宙を感じたりした場合に使われる言葉ですね。

 

何度も言いますが宇宙には大きさがありません。子供の頃から「人間は小さな存在だが、それに対して宇宙はとても大きい」みたいな教育を受けて洗脳されているだけです。私も7歳の頃、家に「宇宙のひみつ」という子供図鑑があってボロボロになるまで読み込んだのですが、「宇宙空間は無限である」とか「拡大を続けている」とかの記述がどうにも腑に落ちなくて、更に読み込んで行くうちにページが次々と剥がれて本の形態を保てなくなって(笑)諦めた記憶があります。

 

思春期になってから「実は宇宙には大きさがないのでは?」との考えに達したのですが、その頃の地球人には「大きさが無い」という概念を受け容れる余地がなさそうだったので、理解させようともしませんでした。
それが21世紀に入ってから理解できそうな人が出てきていると感じています。

 

星を見ていても水槽を見ていても人体を見ていても昆虫を見ていても本を読んでいても音楽を聴いていても、大きさとは関係なく宇宙は感じられます。
そのことにもっと多くの人が気付いても良い段階に地球は突入しているのです!

2019年10月02日

文字記録に依存する現文明だから…

かつての歴史の中でも、文字による記録を行っていた時代はほとんどありません。

現文明でさえも、ユーチューブやデジタルレコーダー等の普及によって文字記録文化は廃れ始めています。

 

テレパシーが使えない、尚且つそれを補う代替手段もない。
文字とは、そんな文明に特有の情報伝達手段。

 

現文明においては歴史の解明にも形あるものを優先して捜してしまうため、大した手がかりも掴めないのです。
情報とは、非物質手段で伝達するものです。文字ではなくて数や幾何学模様ならば、まともな文明でも使われていたので少し記録があったりもするのです。今でも未開とされる地域では口語伝承が重要視されているのはそれでなのです。

 

これも「現地球人が自分達のレベルを理解していない」が故に見落としている致命的な要素ですね。

 

こんなに傲慢で謙虚さに欠けている愚かな生物が「唯一の知的生命体」なんて扱いをされているのだから、若い頃の私は苦笑するしかなかったのです。
ところがそれなりに歳を重ねてくる中で「地球文明がこのままの状態というのではあまりにも酷い。真剣に何とかせねば…」となってきたわけです(笑)。

2019年10月01日

地球の歴史

地球も生き物ですから、大陸や島が水没したり隆起したりを繰り返しながら変動していることは、地震大国の日本に住む皆さんならご存知でしょう。たかだか百年そこらしか生きない今の人間にはあまりピンとこない話ですが、地殻変動のペースは皆さんが考えるよりもずっと早くてダイナミック。

 

現代人も遺跡の分析とかをしていますが、地球という星に遺されてきたランドマーク的なもののほとんどが今は海底や地底や山岳やジャングル等になってしまっていて、今の地球の文明レベルではほとんど何も解明できないのです。

それだから教科書などには、恣意的でなくとも正しい歴史の記述がないのです。霊能者やチャネラーが得る情報にはいい線を突いてるものもあるのですが、教科書等のデタラメ情報との隔たりが大きすぎて、自称賢いバカな学者(笑)にはとても受け容れられないものだったりするので普及しないのです。

 

歴史観ひとつ採っても、現代の地球人は皆が虚偽の情報に踊らされているのです。幼児や老人の方がまだ虚偽に踊らされずに済んでいるのかもしれません。

 

賢くなりたいのであれば、まずは謙虚に自分が愚かであることを認識する必要があるのです。