愛想の良し悪し
若いうちはもちろん、歳をとってからも「カッコ悪い」と考える物事を避けて通ろうとする人が多くいます。何がカッコ良くて何がカッコ悪いのかのセンスが人によってまちまちなため、別の人に言わせれば「カッコ悪い」ことをいつも堂々としていながら、たまに訪れた多くの人にとって「カッコ良い」と映るチャンスをわざわざ逃している、という構図も見かけます。
美意識とは実に多様ですから、何にしてみてもそれぞれの欲求や各々の不服があるわけです。ただ、子供にとってのカッコ良い悪いは主に見てくれの問題なのに対し、大人になってからのカッコ良し悪しは圧倒的に考え方や行為に比重が移る傾向はあるようです。
自分の人生経験を振り返ってみてもまさにそうです。皆が見ている時に自分が言ったり行ったりする事へと意識を向けがちな子供時代から、成人すると明らかに「皆が見ていない知らないところで何を考えて何をするのか?」に美意識がはたらくようになってきたのです。
かといって上京して初めてのバイトが「飲食店の閉店後から開店時まで独りでお掃除」という私は、一気にシフトし過ぎた感もありますが(笑)。
そのバイトで私は多くを感じ取って学びました。若いスタッフ男女の皆が閉店後によく食事や飲み会に行っていたのですが、いつも一人で汚い店内、厨房や便所なんかを掃除している十代の私を不憫に思うのか、責任者ほど私に良くしてくれたのです。
若いスタッフの場合は両極端でした。全く関心を示さないか、酔っぱらっていても声をかけに来てくれたりするのか…笑 何がカッコ良いのかの感覚シフトがまだない人から大きくシフトしている人まで、幅が大きかったのです。
そこで私は実感しました。「地味な事でも手を抜かずにやっていれば見ている人は見ているものだ」と。とても重労働だったので、身体を壊すことを避けるために一年以内でやめてしまったような記憶がありますが、良い経験になりました。
愛想の良い人に出会った時、根っから明るくて爽やかなら大いに結構なのですが、上司やお客の手前で愛想よく振る舞っているだけの人も少なくはありません。そんな方は日常的に無理をしているので、ストレスのはけ口を求めています。すると気を遣わなくてもよい親しい人に歪の部分をぶちまけたりもするのです。
しかしそれも「心を開いてくれている証拠だ」と捉えて嬉しい人だっていますから、一概には良し悪しを語れません。ただ逆の見方をした場合、あまり愛想がない人は「無理に笑顔を作ったりはしていない」ともとれるので「ストレスをぶちまけられる事なく安心して親しくなれる」と私なんかは解釈するわけです。
話の根幹は、好印象を与えようとして大勢に愛想良くしてるが裏表があって親しい人には悪印象を与えてしまう人と、割と無愛想だけど知れば知るほど奥深くて感情起伏で周りを振り回すことのない人、主に2タイプがいるように私は感じているということです。
あなたはどちら寄りですか?
もちろん「どちらでもない」という方もいるでしょう。
この分類的なものは「自分が広く評価されたい」のか、「わかる人にだけわかれば良い」と割り切っているのか、大ざっぱにはそんな考え方の違いなのだと私は思います。
それにしても「この人は評価されたい人だ」とはわかりますが、それがその人への高評価に繋がるかどうかはまた別の話だと私は考えています。