生きる楽しみ
あなたが生きている楽しみは何ですか?
どちらが良いわけでもありませんが、この質問には即答できる人と考え込んで答えが出ないタイプがいると思います。心の中には答えがあっても「他人に説明することではない」と感じていたりで本心ではない事を口にする人も多いことでしょう。
すぐに叶う願いはあまり「生きる楽しみ」とまではならないでしょうから、やはり「長期スパンで叶えたい、簡単には叶わない何かがあった方が生きて行く楽しみになりやすい」という傾向は総じてあるのです。
この世のあまりの生きにくさから、若い頃から私は「肉体死を迎えること」を最大の楽しみにしていたところがありました。何時なのかを別にすれば、誰でも人生最後には必ず叶う望みです。しかしそれだけに「自殺は反則だ」とも、強く自戒していました。
購入したい物の資金がなかなか調達できないからといって「だったら盗めばよい」というのが反則扱いなのと同じです。非物質的には「死が存在しない」のですから、重罪や自殺は自己に新たな歪みを生じさせるだけだと私は考えています。
50年近く生きていて肉体死のチャンスは何度か訪れましたが、今のところ最大の機会は一昨年前の脳幹出血でした。視聴覚をはじめあらゆる感覚を徐々に失って行く過程で「ああ、ついに私にもその瞬間が訪れた」と感慨深かった記憶は明確にあります。全く痛くも苦しくも辛くもなかったです。
肉体意識を失っていた間は、この世界だとしたらいろんな時代や地域かと憶測されるあらゆる状況下で忙しく活動していました。しかし後日、全身がしびれて激痛が走る特定の肉体に閉じ込められてしまいました。この肉体意識が回復したのです。
ゲットして当然のチャンスを逃しただけでなく、皮肉にも断トツ不便になった身体で余生を過ごすことが決まってしまったのです!笑 せめて歩けて話せる身体になるためのリハビリに専念しているうち、あっという間に二年弱が経過。
私は「肉体死のタイミングは地上の人間では理解できない何らかによって定められているのだ。望んでも避けたくても叶うことではない」そう開き直って受け止めました。だから自分が不便な身体に宿っていることにも憂鬱は感じません。
私がこれまでに得た体験や知識などを日々発信することができる身体には既になりました。
奇しくも私が倒れた日に誕生した一人息子と肉体で接しているだけで、今の私には充分な楽しみです。