身体と心
二年前に私が意識不明の重体から目覚た時、寝たきりですが多少手足が動いたり飲食はできませんが奇声を発したりするようになって、自分の肉眼視力のデタラメさに驚きました。
直前の意識体での活動中は、今の地上には滅多にないような眺望を不自由なく体験していたため、そのギャップが大きかったから余計に不便を感じました。
状況によって見え方のムラが大きいのですが、今では「健康だけれど視力に問題がある」という人と同じ程度には肉眼で見えています。それに対して聴力は割とすぐに戻りました。病院の個室から出た後は、周りのベッドで苦しそうに呻いてる患者の声もしっかり聴こえました(笑)。
数メートルくらいなら車椅子なしで歩けるようになってリハビリ病院も退院したのですが、私はその頃に面白い体験をしました。長年愛好していたはずのインスト(ボーカルなし)曲にまったく興味が持てなくなっていたのです。
その頃には私も飲食が少しできて下手な歌ぐらいなら口ずさめるようになっていました。そうです、そこで体験したのは「人間は自分に無理な事には一切興味を抱かない」という大発見です。
他人の楽曲を聴いては自分の長年手にしてきた鍵盤やギター等の楽器への興味から「自分なら、こうプレイする」「私ならこのようにアレンジする」などと想像を膨らまして楽しんでいた部分がほとんどだったことが図らずも発覚したのです。
ギターを持ち上げて抱えることさえできない身体となっては、もうそれら楽器による他人の演奏を聴く事にも面白さを感じられない、というわかりやすい話です。
ところが最近では、手すりにしがみつかなくてもシャワーが出来たり、ギターの弦と輪ゴムとの区別がつくほどに指の感覚も戻ってきています。本日は台風の影響で突風が吹いていたため、今の私では道中に倒れそうなので朝の散歩を見送りましたが、コンディションさえ良ければ健康な人のフリをしてゆっくり歩くこともできます。
「私がまだしばらく生きるのであれば、もしかしてギターや鍵盤を再び手にする日がくるのかもしれない…」無意識にそう判断しているのしょう。2年前に一度はすっかり興味を失ったジャンルの音楽が、今日聴いてみたら魅力的に感じられたのです。
総じて、これは結構重要な人間に関する傾向だと思います。
興味が持てない、やろうともしない事ならば、それは自分で「ムリ」だと決めつけている証拠なのであり、逆に興味があってやってしまう事ならば、リスク要因をあげつらったりしなければ人前でそれをやったり金銭的価値を生むことができる!という証拠でもあるのです。
ですから下手な考えは不要ですが、ハチャメチャでなく常識的な人ほど勇気や工夫は必要となるでしょう。
「身体は正直」とはこんな事を言っているのだろう、と本日の私は思いました。