お知らせ

2018年10月10日

豊かに生きたいのか?

「遠慮」という言葉を聞いて皆さんはどんなイメージを持つでしょう。

何気に便利な言葉だと多くの人は思っています。ビシッと断ったりするよりもやわらかに避けたい場合とか(笑)興味のない事に「私は関心ありません」とかハッキリ言うよりも角が立たない言葉ですよね。

 

でも味をしめて頻繁に使うと「自分の好みや考え方・生き方を曖昧にする言葉だ」という側面もあります。私の考察では「敵をつくらないようでいて、それ以上に仲間をつくらない不思議な言葉」というイメージです。

 

思うには「私はかかわりたくない」と「私は自信がない」とをダブルで発しているような効用のある言葉でもあるのです!笑

 

言葉だけの問題ではなくて、常に遠慮気味な態度の人は全般的に「チャンスを全て逃す」「チャンスそのものが滅多に来ない」「誰も相手にしてくれない」等の傾向があるように思います。

 

謙遜は別ですし、配慮や気遣いががあるのもまた別の話です。語源は異なるのでしょうが「排除」とか「否定」を意味するような言葉が「遠慮」だと私は思っています。

 

小さな子供はあまり遠慮をしません。人見知りは別ですが、他人からの印象を気にして何かをしている時点で、もう子供じゃありませんよね(笑)。

息子は0歳の頃から、私が朝は歩くことも難しい身体であることを察していて、どんなに遊んで欲しくても朝は私を放置していてくれます。そのぶん晩は容赦がなくて、毎日「ねぇ、一緒に遊ぼう~」モードです。

 

ところが常に息子が私に遠慮していたとしたらどうでしょう。私が息子を心配しなくてはならなくなります。

 

つまり、遠慮がちに生きるという行為から生まれる事は何かと言うと「大きな問題を抱えているのではないか?」とか「ばれたら困る何か隠し事があるんじゃないか?」とかの疑惑がほとんどであって、他に得るものは何もないかと私は思うのです。

 

しかし実際に大人の多くが遠慮がちに生きているように私には見えます。

 

それが私にとっては、人間社会の不思議さを子供の頃から今でも感じ続ける大きな要因であります!

 

つまるところ「豊かさ」なんて、世間で言われているほど求めている人が少ないのが実態ではないでしょうか。求める事が正解ってわけでもないですしね。

 

言い方を変えると、今は「あらゆる事との関わりを最小限にするのが豊かな人生だ」と定義している人が多い、ということなのでしょう。