誕生して死亡すること自体が人生の意味
「人間の生死にどんな意味があるのか」ということについて、いくら熱く語ったところで正解はないでしょう。存在する人間の様々な生き方のあらゆる視点から「だからこそ意味がある」と力説することもできますし、「はじめから意味なんてない。気付いたら生きてるんだから、無駄な事をつべこべ言うな!」という人も少なくありません。
私の見解は、この空間と時間という制約だらけの物質次元に肉体として登場して去って逝くわけですから、人間を肉の側面から見るのなら、この世界独特の縛りである「場所と時代」にはどうしても大きな意味を感じてしまうわけです。それは現代日本で言うならば「何年何月何日に何県何市で誕生して、同じく何時どこで肉体死を迎えたのか」ということになりますね。
昨年の今日、出産予定日の妻と一緒に救急搬送された脳幹出血中の私は、集中治療室で五感を順次喪失しながらも近くの病棟で産声を上げるであろう息子のことを想い、そのことの妙にしみじみ感じ入りながら意識を失って行きました。心肺停止を予測されながら、そこから1~2週間は植物状態でこの世とあの世の間をウロウロしていたわけですが、皆が仕事まで休んで霊を迎えるお盆と呼ばれる時期だけに、世界の境目が薄くなる時期でもあるのでしょう。
何はともあれ、息子は今日無事1歳を迎えました。その間私も同じく寝たきりからのリスタート。口以外からチューブで物質的栄養を摂取し、糞尿垂れ流しで奇声を発するだけの状態から、起き上がり・立ち・歩き・手指の使い方・口と舌の動かし方を訓練をするといった、同じプロセスを並行して成長した同志と過ごし、はや1年たったのです!
「この世に物質で出てきた屈辱とその克服のための模索は、肉体死まで続く上限のない課題である」そう以前から覚悟はしていましたが、まさか一つの肉体でこのレベルの学習をリピート体験するとは思いもよりませんでした(笑)。
肩車などはできないでしょうが、公園で軽いボール投げみたいなことはできるような身体を取り戻すように地味な訓練を継続します。
この話をここまで読んだ方なら、もうおわかりでしょう。
人間はどんな境遇であろうと、考え方と取り組み方次第で、全てが達成の喜びと学びの感謝へとすりかわってしまうのです。