眠りの探究
人間は目を閉じることで無限に広くて深い世界に移行できます。眠ってしまうことも含めて(笑)
子供の頃の私にとって、眠りにつくという行為は神聖な日課でした。夜の9時頃には目を開けているだけで辛いほどに眠気が襲ってきました。畳の和室で寝かされていた私は、少しでも神聖な環境を実現しようと押入れの上段に布団を敷いてもらって寝ていた記憶があります。目を閉じるとすぐに異次元に誘われるシンボルがパターン化されて数種類表れていました。
しかし幼稚園や小学校に行っても睡眠という行為が話題に上ることはあまりありませんでした。皆が多くの睡眠時間を確保しているにもかかわらずです。「真っ暗だ・何も憶えてない」などと興味なさそうに語る周りの様子に始めは驚愕していましたが「きっととても個人差のある秘密の時間なので公に語ってはいけないことなんだ」そんな風に自分に言い聞かせて自分も睡眠について語ることはしなくなりました。
大人の親や先生ですら睡眠の意味について語ったことがなかったのです。体を休めると言ったって、原則呼吸も心臓も止まったりはしないのです。毎日欠かさず、皆いったい何をしているのでしょう?
大人になってから「瞑想」というものの存在を知りました。「眠気に襲われて仕方なく」ではなく、眼を閉じて異次元を積極的に堪能する行為です。音楽鑑賞をしていたり、大自然の例えば水面や上空などをぼんやり眺めていると、眼を開けたままでも異次元を堪能できることに気付きました。
「どうやら食事や排泄を継続させるために働いてカネを得ることだけが人生の全てではない」…二十歳頃にはそれが確信に至っていました。
人間とは面白いものです。よく「食って行く」という表現がされます。確かに住む場所がなかったり飢えが原因でポロポロ死人が出ている国や地域が現存します。その反面、日本のように食い過ぎによる肥満や病気と闘っている人だって大勢存在します。
しかし目を閉じた先の無限世界はどちらの環境下の人にも等しく存在しています。
肉体死のことを「永遠の眠りにつく」という表現をします。今は生きていてもあと何十年以内には肉体死を迎える人が使う言葉であるというところに滑稽さがあるのですが、その「眠り」について皆が深く探究することがない事実は、「肉体死の意味」について皆があまり探究しないことと強い関連があると私は考えています。
ですから瞑想ワークショップでは、自ずと死生観や人生観が主体のお話となるのです。