お知らせ

2017年08月21日

毎日が初体験

普段の生活の中で「人生初の○○!」なんて言葉を聞くと、よほど特別な事でもあったのかと思ってしまうものです。「でもそれは違う」と私は思います。見逃していて気付けないだけで、誰にとっても毎日が人生初の物事で溢れ返っているのです。

仮にあなたという人間の容器(肉体)の中身(霊魂)が入れ替わったとしたら「毎日が同じ事の繰り返しでウンザリだ…」と思って気にも留めていなかった事柄が「なんて変化の可能性に富んでいて刺激的なんだ!」と感じることでしょう。

「新鮮」とは「慣れ・飽き」があるからこそ感じられるものだと多くの人が考えがちですが、慣れや飽きとは、自らが改善や発見を放棄することから芽生える現象なのです。他人からは全く同じことの繰り返しに見えても、本人は毎回とても新鮮な気づきを得ているのかもしれないのです。

そんな中でも象徴的な変化を迎える時というものが確かにあって、その部分だけを切り取って大きな変化が生まれたように認識してしまうのが人の常なのです。もちろん好奇心も向上心もなく惰性で暮らしているだけの人には、そんな節目が訪れようもありません。許されているのならそのようにして生きるのも個人の自由ですから、それをとやかく言うのも大きなお世話でしょう。ただ、日々を新鮮な気持ちで送り、定期的に達成感を伴うような変化を人生で味わいたければ、今している事を常に楽しめるような創意工夫を心がければよいのです。

息子が誕生した同日に倒れ、後日に意識が戻った初期の頃に私が思ったこと、それは「脳幹損傷までしても死ねなかったのか… 以後もしばらくこの肉体で生きるとするならば、全身が痛くてしびれて尿意便意も全く感じず、眼もほとんど見えず、まともに喋ることも起き上がって立つこともできないこの身体を、息子が歩く頃までには普通に話したり歩いたりできるところまでは機能回復させよう!」と決めました。

何とか歩けるようになってからは、室内での単独リハビリとは別に、糞尿漏らしリスクを考慮しながら独り毎日1~2時間はノソノソ歩き続けてきました。そして倒れて約一年後の今日、ついに息子と二人きりでの公園散歩が実現したのです。

ここまでには「パンツを汚さずに帰ってこれた。一度も倒れずに歩けた。片足で5秒も立っていられた。階段を少し昇れた。少し降りれた。転ばずに振り向くことができた」…等々の些細な達成の喜びがずっと積み重なっていたわけで、それらは見ている人には判らないことなのです。自分が崩れたり倒れたりのリスクが一定以下になったから、今日初めて子連れ外出にトライしたというだけのことです。

この経験から私が皆さんに伝えられることは「どんなに些細な事でも大切に積み重ねて行けば、達成の喜びはずっと続く」ということ。そこには他人の視線や思惑など、全く関係がありません。